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 電話のコール音に紛れて、あくびが出る。
 慌ててそれを噛み殺し、彼女は周囲を見回した。幸い見られては――いや、一人だけ。うっかり目が合ってしまった上司は苦笑していて、縮こまって目礼を返す。
「星野。ちょうど昼だし、休憩してこい」
「う。は、はい。すみません、お言葉に甘えて……」
「ちゃんと休めよー」
 叱責は来なかった。ここ数日彼女が置かれていた状況を慮ってくれているのだろう、電話対応中の同僚たちも、行ってこいとばかりに言葉なく片手だけ振ってくれる。
 彼女は引き出しを開けて、中に入れていた弁当袋を持ち上げた。見計らっていたかのように携帯電話が振動し、なんらかの着信があったことを伝えてくる。
<要報告。10号会議室まで来られたし>
 差出人の名を確認して、彼女は口許をほころばせた。



 メールは鑑識課の桜川からだった。いつもと違う文面だったが、要は「お昼を一緒にどうですか」というお誘いだ。
 拒む理由など市香にはない。というより、向こうから声をかけられなければこちらから出向いていただろう。要報告もなにも、報告したくてしたくてたまらない。自宅に戻ったらもう夜明け前だったから、メールであってもさすがにどうなのかと思ってそのままにしていたのだけれど。
 指定された場所はいつもの屋上でも取調室でもなく、使っていない会議室だった。ご丁寧に扉には使用中の札がかけられている。もしかしたら使用許可までもぎ取ってあるのかもしれない。あの先輩たち二人は、いっそ潔いまでにそのあたりが抜かりない。
 ノックにはすぐさま返事があった。
「お邪魔しまーす……」
 覗きこんだ室内は、テーブルと椅子の形がすでに整えられていた。
 くっついた長机といい、向かい合わせに配置されたパイプ椅子といい、なんだか学校に通っていたころの昼休みを思い出す。
「来たね星野」
「星野さん、いらっしゃいませ」
 桜川がにやっと笑って手招きした。向井がにこやかに椅子を引いてくれる。先輩にそんなことをしてもらって、市香は恐縮しながら腰かけた。机の上にはやけに大きな紙袋がある。
「で。その後の首尾を聞きましょうか。うまくいったんだよね?」
「ですわよね?」
「は、はい」
 以前取調室に連行されたときほどの威圧感はなかった。何はともあれ、まずうなずく。
 そう、この二人にはできるだけ早いうちにお礼を言っておきたかったのだ。
 酔いの勢いや野次馬根性がまったくなかった、とは言わないだろう。でも彼女たちが背中を押してくれたおかげで、市香は想い人――愛時からの、告白の返事を聞くことができた。勢いとか、日付とか、時間とか。たぶん昨夜は、いろいろな条件がこのうえなくそろっていた最良のタイミングではあったのだ。市香一人ではそのチャンスをうまく活かせていたかどうかわからない。悶々としたまま尋ねそびれて、今もまだ悩んでいただけだったかもしれない。その状況を、打開してくれた。
「お二人とも、ありがとうございました。その……おかげで、うまく、いきました」
 宣言して深々と頭を下げる。
 少しだけ緊張していた雰囲気が和らぎ、ふたりは肩の力を抜いた。
「よかったですわ……おめでとうございます、星野さん」
「うんうん、良かった良かった。いやあ、一応知ってはいたんだけどさ。アンタの顔見るまでは安心できないかなーとも思ってたし。間違いなくうまくいったんだね、ホントよかった」
「はい、間違いなく……って、知ってたんですか?」
 顔を上げて尋ねる。すでに祝福モードに入っている彼女たちの表情は晴れ晴れと明るかったが、そういえば呼び出しのメールも断定的な言葉で恐る恐る伺うような気配ではなかった。茶目っ気すら感じたくらいだ。確かに結果を知らなかったなら、もう少し腫れ物に触るような文面で来るのが普通だろう。
「だって笹塚と榎本から同時にメール来たから」
「へっ……」
 言いながら桜川はちょちょいと指先で携帯を操作する。文字の並んだ画面を見せられて、市香は目を丸くした。
<柳さんとバカ猫がやっとくっついた>
<柳先輩と星野が知らねえ間にくっついてました!>
「…………ええと」
 送信時間は、そうだ、香月たちに詰め寄られて根掘り葉掘り聞かれていた、ちょうどあの時分だ。
 彼女をからかいながら(もちろん祝福もしてくれていたと感じているが)わあわあ騒いでいたあのときに、二人してこんなことをやってのけていたとは。というかほぼ同時なのが。“やっと”と“知らねえ間に”の違いに何かこみ上げるものがあるが、それは置いておいて。
(変なところで行動が同じだ……)
 桜川のほうから何かを催促したわけでは決してないだろう。なのにきっちり同時に同じ相手に報告するあたり、いつも互いを罵っているわりに仲の良さが見える。もちろん市香とて、彼らの間にはちゃんと友情と呼べるものが存在していることは知っているけれども。――たぶん。友情と呼んで、差し支えない。
「で、これアタシらからのご祝儀ね」
 机の上を滑るように差し出されたのは、何だろうと思っていた大きな紙袋だった。百貨店の地下に入っている、有名な弁当店の名が印字されている。中の箱の蓋には熨斗までついていて、まるでお歳暮のような様相を呈していた。
 え、これ、いいのかな。
 混乱しながらも言われるがまま受け取り、それからはっとする。
 一方的にお祝いされ、贈り物までもらっている場合ではない。なんだかんだで流されて、危うくここにやってきたもうひとつの目的を忘れてしまうところだった。
「あ、わ、私からも、お二人にお礼が! あるんですけども!」
「へへー、だよね。わかってたわかってた! ちょうどいいからアンタの弁当も頂戴」
 市香の荷物もまたそれなりに量があった。そのままさらわれて、並べられる。
 感謝の気持ちを表すのには何がいいかと考えて、市香の結論は結局食べ物に落ち着いたのだった。以前ごく普通の弁当を心底嬉しそうに食べてくれた二人の顔を思い返せば、それが一番だと思ったのだ。
 桜川にはハンバーグと豚カツと鶏肉のソテーをメインに詰めてきた。向井には筑前煮と白和え。そして両方に生野菜のサラダと肉じゃがも付け合わせている。どうにも偏っている気はする。だがそれぞれの好みを最優先に、何より喜んでもらうのを目的にした構成で、たぶん意図は正しく伝わるだろう。
 というか昨夜からあまり時間がなかったはずなのだが、これだけの種類の料理を作って全く苦ではなかったあたり、我ながら相当浮かれていたらしい。
 ちなみに市香自身が食べるつもりで作ってきた弁当にはもちろん前述のおかずを少しずつ入れてきたわけで、つまりは変わり映えしないメニューなのだが。言われたとおり、その弁当箱も折詰と引き換えで彼女の前ではなく先輩二人のちょうど真ん中に鎮座ましましている。
「まあ、とても美味しそうですわ。……ああ、匂いだけで幸せな気分になりますわね……」
「やった、肉だらけじゃん。わかってるねホント」
 顔を輝かせてくれてほっとすると同時に、市香は少しだけ苦笑した。
「普通の家庭料理ですよ。結局私のほうが得させてもらっちゃって、なんだか申し訳ないです」
「や、プライスレスっしょ家庭料理! 売ってる総菜も悪かないんだけどさ、やっぱ微妙に味違うし」
「そのとおりですわ。それに、その。お祝いもありますけれど、ほんの少し、お詫びの気持ちもあると申しますか」
「え?」
 何か謝られるようなことがあっただろうか。首をかしげて考えてみるが、思いつかない。市香の反応に安心したのか、向井がくいと眼鏡を押し上げて続けた。
「その、無責任にけしかけるような形になってしまいましたでしょう? 星野さんを袖にするような男性がいるとはそうそう思えませんし、そのうえ昨夜は酔っておりましたから。呼び出しを強制してしまいましたけれど」
「はあ」
 どうにも向井からの市香に対する評価は身に余るものがあるような気がする。ありがたいが面映ゆくて、彼女はもじもじと両手の指を組み合わせた。
 それにしても勢いで強制した自覚はあったのか。最終的に乗ったのは市香なのだし、そこまで責任を感じる必要はどこにもないと思うのだけれど。やっぱり心配してくれたのだろう。
 桜川がうなずく。
「ん、アタシも向井さんと似たような感じ。けどさー、酔い醒めたら心配になってきて。まさか柳さんだとは思ってなかったから」
「あ、そういえば驚いてましたね」
 捜査一課と鑑識課は連携する機会もかなり多いのだろうし、面識があること自体はなんら不思議はない。
「そう、驚いた。……言っちゃ何だけどあの人さ、いい人だしモテるのにずっと決まった相手作らなかったから」
「もしかしたら星野さんでも駄目かもしれないって、少しだけ思ってしまったんですのよね……ほんの少し、ですわよ?」
「ああ、そういうことですか」
 なるほど、それなら二人が申し訳なさそうにしているのもうなずける。酔いにまかせて後輩をけしかけた挙句、その結果が失恋となってはさすがに落ち込まずにはいられまい。
 彼女たちの懸念はごく自然なものだと思う。そんなに神妙な顔をしてくれなくてもいいのに、むしろ市香としては心底感謝しているのに。
 いや、ごめんとかありがとうとかはもう充分言い合った、きっと。それより気になることを聞きたくて、市香は身を乗り出した。
「柳さんの事情は教えてもらいましたし、私は気にしてません。それよりも」
 そういえばこんな豪華な折詰をもらったのにまだ蓋を開けてすらいない。両手を合わせていただきますと頭を下げる。市香が箸を持ったのにつられるように、ぱきぱきと割り箸の音も続く。真っ先に好物に手をつけたふたりを、少し下の目線から探るように見上げた。
「その、教えてほしいんですけど。……柳さんて、モテてたんですか?」
「え? ええ、それはまあ」
 戸惑ったように向井が瞬きする。彼女の視線が隣に向かい、桜川が箸の先を軽く揺らした。
「そりゃ当然っしょ? あの見た目と中身で捜査一課なんだし。狙ってた子はわりといたみたいだけどねー」
「うう……やっぱりそうですよね……」
 市香は若干肩を落とした。
 もてないわけがない。当然予想していた答えだ。いや、だからといって何がどうというわけでもないのだけれど。過去に嫉妬したって仕方がない。でもなんともいえない焦燥感のようなものもあるのは事実だ。
 彼に関することとなると、多少なりとも盲目的になっている自覚は市香にもある。あるが、あの人相手にそうならないほうがおかしいのではないかとも普通に、普通に考えてしまうので、やっぱり相当に参っている。
 今だって少しだけふわふわした気分は残っているのだ。そんな場合ではないと己を戒めてみるものの、この幸せがあるからこそ戦う意欲もわいてくるのだから、もうどうしようもない。
「昔つきあってた人とかは……いえその、こそこそ詮索する気はないんです。したいですけど、本当に気になったら柳さんに直接聞きます。ですけど、その」
 桜川たちと愛時は、知人の一言で片づけるには近く、友人と呼ぶには遠い。
 連絡自体は今でも取ることがあるようだし、それなら仕事中会えば軽く雑談くらいはしていたことだろう。踏み込まれることを厭う愛時が自分の恋愛事情など話すとは到底考えられないのだけれど、だからそこまで詳しいことを聞きたいわけではないのだけれど、噂として周囲が知っていた程度のことならば市香が第三者から聞いたとしても問題ないのではなかろうか。
「アタシも詳しいことはそんなに知らないんだよねえ。向井さんは?」
「わたくしも同じようなものですわ。ただ、主任に指摘されているのを漏れ聞いたことはありましてよ。逃げ回るのうまいよねとかなんとか」
「あ、やっぱり基本は逃げの姿勢だったんですね……」
「そのようですわね。具体的に誰かに追い回されてらしたのかどうかまでは存じませんけれど」
「ううーん」
 市香は唸った。
 世話焼きである反面、本当に嫌がる相手にはずかずか踏み込んでいくことはしない。踏み込まないのは異性だからということもあるのかもしれないが、こんなふうにある程度ドライな距離を保っていたからこそ、逆にこの二人は職を離れた愛時とも最低限のつながりを保っていられたのだろうか。そう思うとなんだか寂しい気もした。
 これからは、そうじゃない。人を避けようとしても人に囲まれていたひとだから、きっとこれからたくさんの楽しみが待っている。いろんな人と関わって、いろんなことをして、今までひとりでいようとした隙間を取り戻してもらわなくては。もちろんいちばんにそれらを埋める役目は市香のもので、誰にも譲る気はない。それこそ昔つきあっていたひとがいたのだとしても。
 しかしこの折詰、だし巻き玉子の甘さが絶妙だ。彼と一緒にこういうものを食べてまわるのもいい。味を覚えて――先に再現されてしまいそうだが、なんとか頑張るしか。ああ、やっぱり浮かれていることは間違いない。やりたいことは後から後からどんどん思いつく。
 締まりのない思考が外に漏れていたのかもしれない。にやにやした桜川の視線とかちあって、市香は慌てて口許を引き締めた。
「てか、あの後みんなでクリスマスパーティーしたんだって? 両想いになったってのにさ。アタシてっきりそのまま二人で夜の街にしけこん」
「まあ、桜川さんたら」
「む、無理ですよ!」
 たしなめる向井を遮って、市香は箸を置いた。両の拳をぎゅっと握りしめる。
「……それはまあ、私はべつに、いつでもかまわないんですけど……やっぱりその、順番とかあると思いますし。いろいろ飛ばしちゃっても、私はべつにかまわないんですけど……」
 取り繕おうとしても嘘はつけない。無理だの何だの言っておいて、続いてすらすら口をついて出てきたのは紛うかたなき本音だった。
「おー、据え膳発言出たよ。結局どこまでいったのさ」
「桜川さん……」
 口では宥めている風を装いながら、向井の瞳もなんだか好奇心にきらきら輝いている。
 そういえば昨日事務所でも同じように問い詰められたな、と思いながら、市香はそっと視線をそらした。そらしたが、頬は熱い。あのときはパニック気味になっていて、はっきり認識できなかったのだけれど。
 唇に触れた少しかさついた感触だとか、頬をかすめたやわらかなぬくもりだとか。
 改めて思い返してみるとリアルによみがえって来て、ぼふりと脳が沸騰する。
「……なるほど。キスまでか」
「な、なんでわかるんですか!?」
「お、当たったよ」
「……!!」
 誘導された。気付いてももう遅い。
 よく顔に出るだとかわかりやすいとか言われる傾向はあるが、それにしたってそこまでずばりと言い当てられるともう居たたまれない。食事などしている場合ではない、穴があったら入りたい。湯気が出ているのではなかろうか。
「星野さんのこの反応を見るに、仕掛けたのは柳さんですわね。あらあら、まあまあ」
「ううっ、もう勘弁してください……」
 こそばゆい。面映ゆい。恥ずかしい。
 幸せなのは間違いない。偽りなく祝福してくれているのも伝わってくる。
 だけど。だけど。
「感謝してます。お二人には、本当に感謝してます。……でも、うう。ちょっとその、ですね。頭がパンクしそうで……もうちょっと、その。お手柔らかにお願いします……」
 弟や事務所のメンバーにも洗いざらい吐かされた。のだが、そのときとはまた少し違う。同性だからだろうか、突っ込んだところまでぐいぐい白状させられそうで、思考が追いついていけないのだ。
 真っ赤になってうつむいた市香に、桜川はひらひらと手のひらを振ってみせた。
「あっは、ごめんごめん。いやホラ、それこそけしかけた責任もあるからさ。安心しちゃってつい」
「それに久しぶりの明るい話題なんですのよ。盛り上がるのは当然のことですわ」
 そこで収束するかと思ったのに、それで? と言わんばかりに二人はそろって身を乗り出してくる。これはしばらく解放してくれそうにない。
 というよりは、しばらくこの話題から逃れられそうもない。
 こうなったら恥を捨てるのもひとつの手段ではあるのかもしれない。市香は熱い頬を手のひらで擦りながらふと考えた。
 そうだ、思いが通じ合ったというだけで満足しているわけにもいかない。やっとこさ好きになってもらえたのだから、もっともっと、一生離れられないくらいに夢中になってほしい。そのためにできることなら何でもしたい。
 と、なれば。
「じゃあ……ものは相談なんですが」
 恐る恐るの市香の言葉に、二人は満面の笑みでうなずいてくれた。
--END.
市香with撲滅の会。
なんとなーくずっと書きたいなって思ってた話でした。ほんとなんとなく。
というか市香ちゃん愛時さんをさらにメロメロにするべくこの二人に相談してる的なこと言ってたし。
かなーり、いろいろ、赤裸々に知られちゃってるんじゃないかなっていう…そして愛時さんが頭を抱えるという。

もうちょっと突っ込みたいネタがあったんですが、だかだか打ってたらすごい長さになってきたのでこのあたりでやめときました。
会話だけで妄想するとまあ進む進む。女三人寄れば姦しいとは言いますがホンマ会話文だけで地の文入れなくても余裕で一万超えそうな勢い。
先輩二人は相手が誰であっても祝福してくれる感じだけど、柳榎本笹塚あたりだとノリッノリでサポートしにきそうで光景が目に浮かびます。
特に桜川さんなんて男性側にも発破かけそうで迷惑がりつつその気にさせられちゃう男衆が目に浮かびます。
楽しい…
(2016.12.25)