彼は負けたと言うけれど
 まず最初に認識したのは、まぶしい、という感覚だった。
 闇の中に割り入ってくる白。点のようだったそれは線となりそれから太くなり、徐々に広がって瞼の裏いっぱいを埋め尽くす。
 朝だ。
 夜が明けてしまった。これ以上意識を失っているわけにもいくまいと、どこか人ごとのような気持ちになりながらゆっくりと目を開く。
 案の定というべきか、部屋の中には街灯とは明らかに違う色の光が差し込んでいた。いつもならその強さで時間をなんとなく察するのだが、今朝はなんだか少し暗いような気がする。雨でも降っているのだろうか。
 習いで窓の外を確認しようとして――ふと、市香は自分が誰かの陰になっていることに気づいた。
「あ……」
 声をあげかけて、慌てて口を噤む。網膜を焼く光量が少ないのも納得だった。窓と彼女の間を隔てる壁となって、男が一人、静かな寝息をたてている。
(ああ、そういえば)
 だんだん思い出してきた。そういえば昨日は、職場の女性同僚たちと居酒屋に飲みに行ったのだった。そこに偶然、彼、柳愛時が居合わせていたのだ。
 市香は今、愛時と恋人としてつきあっている。彼のことが好きで好きで大好きでたまらない。
 だが彼は市香の周囲も手放しで認める“かっこいい”男であり、市香より七つも年上であり。不安というには少し違うのだけれど、ともかく隣に居続けるためには現状に甘んじるなどもってのほか、努力はもちろんなりふりもかまっていられないというのが目下の認識である。
 そんなわけで先輩たちに教えを乞うべく酒の力も借りて恥を捨て、あれやこれやを赤裸々にぶちまけて作戦会議を行っていた。そんなところによりによって標的そのひとが居合わせた。
 慌てなかったと言えば嘘になる。相手によっては幻滅されてしまうこともありえる状況だった。けれど愛時はいつも、市香の必死な想いを真正面からこぼさず受け止めてくれる。昨夜ももちろん例外ではなかった。
 これじゃただの送り狼だ。
 困ったような呟きは、いつ聞いたのだったか。
 嬉しいとか、可愛いとか。落ちてくることばは全部まっすぐだ。だから彼女は余計に彼に惚れこんで、どうしようもなくなってしまうのだ。伝えるたびに抱きしめてくれるその幸せを一度知ってしまったら、尻込みするほうがもったいないように思える。
 市香は改めて、至近距離にある顔を惚れ惚れと見つめた。
(……かっこいいなあ……)
 客観的に見て、愛時の容貌は年相応だと思う。ただ冷静な物腰のせいで、普段は実年齢よりも落ち着いて見えてしまうのだ。そんなにおっさんぽいかと拗ねる姿も可愛いけれど、寝顔はもっと格別。いつもつり上がり気味の眉が、笑うときや寝ているときは緩んでやさしい印象になる。伏せたまつげは当たり前だが髪と同じ黒。寝息でかすかに揺れているのが手に取るようにわかる、この近さが愛しい。男性らしくかたい線を描く頬、引き結んだ口許。
「……はあ」
 やっぱりかっこいい。市香は知らずため息を漏らした。
 触れたい。でも抱きしめられているせいでろくに身動きができない。嬉しいやらもどかしいやら、仕方ないのでさらに距離を縮めるべくくっつきに行ってみる。
「ん、んん」
 裸の胸元に髪をこすりつけられてくすぐったかったのかもしれない。かすれたうめき声がして、背中に回っていた手がするりと腕の中の存在を確かめるように動いた。
「いちか……?」
「愛時さん、おはようございます」
 起きて最初に見てもらうなら、とびきりの笑顔を。幸せ気分のまま笑った市香に、愛時はふんわりと微笑み返してくれた。と、思ったらそのまま唇を重ねてきた。
「あ、いじさっ」
 名を呼んだのは反射だった。その際開いた口の中に、すかさず熱いものが滑り込んでくる。激しさはない。愛しさを分け合うような、やわらかいものをすり合わせるような、穏やかで、それでいて深いキスは長く続いた。
 こうなってしまうと拒むことすら思いつかない。肩にすがりついて、ぎゅっと抱き合えば隙間はなくなる。長い指はただただやさしく髪を梳いてくれて、市香はうっとりと目を細めた。
 ――やがて酸素不足でどうにもならなくなったころ。
 熱はゆっくりと離れていき、愛時はそのまま市香の肩口に鼻先を埋めた。
 何かに耐えている風でもある。微動だにしない。
 数度瞬きした後、市香は覆いかぶさる広い背中をぽんぽんとたたいた。
「柳さん」
「……何だ?」
「寝ぼけてましたね?」
「…………」
 返事はなかった。だがその事実こそが、彼女の言葉を肯定しているようなものだった。やがてようやく目を合わせてくれた彼はなんだか途方に暮れたような顔をしていて、市香は耐えきれず吹きだした。
「ふ、ふふっ」
「笑うな」
「だって、柳さん、かわいい……あははっ」
「可愛いって……」
 ある程度言われることに予想はついていたのだろうに、それでも絶句するのが可愛い。
「男に可愛いとか言うなって、何度言ったらわかるんだっ」
 このこの、とあくまでやわらかな力で締め上げられて、はしゃいだ声をあげながらじたばた抵抗する。枕がぼすんと音をたてて床に転げ落ちた。ケットがもみくちゃになる。
 シーツに押さえつけて、動きを封じようとしてくる。それに逆らうには勢いをつけるのが一番だ。遊び気分のまま上体を起こそうとしたところで、鈍い痛みが走って市香は顔をしかめた。
「っ」
「市香? 悪い、加減を間違えたか?」
「あ、いえ……そうではなく」
 いたずらっ子のような表情から一転、愛時が心配そうに覗きこんでくる。乱れた前髪を整えて、そっとかきあげて。額に触れる指の温度をいつもより低く感じるのは、自分の顔が熱くなっているからなのだろう。どんな状況であれ触れられる瞬間に平常心でいられた試しなどないのだけれど。今は余計にまずい。
 まるで閉じ込めるかのように覆いかぶさられているこの体勢だとか。……お互いに、一糸まとわぬ姿であることを今更思い出したりだとか。
 真剣な瞳から逃れるように視線を明後日の方向へそらし、市香は一度口をつぐんだ。けれど、心配されているのにだんまりというわけにもいかない。どれくらいの声量なら届くだろう。喉から少しだけ、空気が漏れた。
「その。痛いというか、だるいというか。筋肉痛的なものがですね……」
 みなまで言わずとも察したらしい。視界の端にかろうじて見えていた耳が一瞬で赤く染まり、愛時はマットレスに突っ伏した。
「…………ああ、うん、悪い。どうにも我慢できなくてだな……」
「う、嬉しかったですよ? 大歓迎ですよ? ただその、単に、」
「わかってる、わかってるから言わないでくれ。本当に止まらなくなる」
 止まらなくてもいいですけど。
 つい口走りそうになった言葉は、重ねた唇に吸い込まれた。今度のキスは、触れ合うだけの他愛無いもの。でもこういうキスも好きだ。市香の唇を何度か軽く啄んだ後、愛時は彼女にシーツを被せて自分だけ起き上がった。
「もとからそのつもりだったならいいが、昨夜泊まったのは予定外だったからな。いつまでもこうしてるわけにもいかないだろ。お前今日、仕事は」
「あ、大丈夫、非番です」
 時計を見やる横顔も最高にかっこいい。とか考えてしまうあたり、どうもだいぶ馬鹿になっている。アルコールがまだ多少残っているのかもしれない。まあ次の日が休みだと思っていたからこそ、酒量が増えて自制心がきかなくなっていたというのもある。
 香月にも晩御飯は作れないからよろしくと伝えてあった……って。
 ざっと血の気が引いた。
「や、柳さん! 香月帰ってきました!?」
 自分たちが昨日いつここに帰ってきたのか、時間は正確には覚えていない。ただ、帰途彼女を抱きかかえるようにして歩いた愛時の腕が力強かったことは覚えていて、ドアをくぐるなり口づけされたことは覚えていて、夢うつつで彼の首に腕を回した瞬間に鍵がかかる音を聞いたことも覚えている。
 そのままベッドまで運ばれてなし崩しにことに及び――正直、他のことは何も考えられなかった。互いの名を呼ぶ声と、触れ合う肌の熱さと、目もくらむような幸福感と。箍が外れたように何度も求められて貪られて、目の前にいる彼以外の存在を忘れていた。
 が。
(もし帰ってきてたら……いえ、帰ってきていなくても問題だけど!)
 もし気づかれていたら、教育に悪いどころの話ではない。香月とてもう何も知らない子どもではないのだから、目と耳を塞ぐくらいのことはしてくれるのだろうけれど。もちろんそういう問題ではない。家族には色恋沙汰の気配は匂わせたくなかった。
 逆に、帰ってきていないとしたらそれはそれで心配だ。想像していたより重い身体をごそごそ動かしてなんとか起き上がろうとしていると、軽い力で肩を押された。あっけなくひっくり返る。
「柳さん」
「落ち着け。香月なら榎本と一緒だ、たぶん事務所にいる」
「じむしょ」
 シャツを羽織りながら、目線だけこちらに向けて説明してくれる愛時の背中には、赤い筋がいくつか走っていた。腕を動かすに従って肩甲骨が浮き上がり、否応なしにその体躯と力強さを思い出させる。頬が熱い。視界からの情報と耳からの情報が混ざってぐるぐるして、寝転がっているのに頭がくらくらしてくる。
「榎本さんと……ってことは、香月もあの店にいたんですか」
「ああ、そうだが。そうか、仕切りの陰にいたからお前からは見えなかったんだな」
「〜っ!」
 耐えきれず市香は頭までシーツを引き上げた。決定的な場面は見られていないとはいえ、あの後何があったのかなど誰が見ても明白だ。実際ことは起こった。
 酔っぱらっていた。存在するのかどうかさえわからない恋敵を牽制するためならば、多少恥ずかしい思いをしてもかまわない。事件をともに追っていたメンバーにからかわれるのも面映ゆいが嫌ではない。羞恥心より大事なものが確かにあるから、その点では市香は開き直ることにしている。
 だがよりにもよって兄弟にあれこれ知られてしまうというのは、さすがにばつが悪すぎる。
「……どうしましょう」
「どうもこうも、普通にしておけ」
「やっぱりそれしかないんでしょうか……」
「お前が動揺したら、それは香月に伝わる。あいつだって困るだろ。何もなかったような顔してればいい」
「そう、ですよね。はい、そうします。そうしておきます……」
 漏れ出た声は予想以上に情けなかった。押し殺した笑い声とともに、シーツ越しに頭を撫でられる。ひょいとめくられて明るくなった視界の中では、愛時が思った通りの苦笑を浮かべていた。
「もう少しごろごろしてろ。冷蔵庫の中身勝手に使ってもいいか?」
「あ、手伝います」
「いいから寝てろ」
 頬にやわらかな感触が落ちた。途端治まりかけていた熱が再びふんわりと全身に巡って、ああもうほんとうにどうしたらいいのかわからない。
「さすがに無理させすぎたからな。たまにはかっこつけさせてくれ」
 よく見れば、すでにエプロンまで身に着けている。以前ふたりで出かけた際に選んだシンプルな紺色のそれは、彼によく似合っていた。
 市香の家には、愛時用のエプロンとマグカップが。探偵事務所には、市香用のエプロンとマグカップがそれぞれ常備されている。調理器具の位置だとか、水回りの使い勝手の癖だとか。互いに把握しているものがどんどん増えて、今では自宅と変わりない感覚で家事をしてしまえるのだから。
 しあわせだ。
「愛時さんは、かっこつけてなくてもいつもかっこいいです」
 紛うことなき本音だった。すでにキッチンに向かいかけていた愛時が何もないところで躓きかけ、なんとか体勢をたて直す。
 振り返って睨んでくるその顔は、ななつも年上だとは思えないほど可愛くて、市香は今朝だけで何度味わったか知れないとびきり幸せな気分を胸に笑み崩れた。
--END.
正しく続きです。抜け落ちた場面? HAHAHA知らんなあ。
最初はね、年齢制限もの書くぞ! と思って始めたんですけど。
うんまあ雰囲気は多少いかがわしいですが、カラマリCERO的に大丈夫やろ…ということで特に隠しとかにはしませんでした。まあ後でちょっと…と思ったら隠すよ。
ED後の愛市はほっとくと延々際限なくいちゃついてそうで大変妄想がはかどります。
ほんとマジかわいい…かわいい…
二人でさりげにお揃いな感じのシンプルエプロンつけて事務所で料理してたらいいと思うの。かわいい…かわいい…
(2016.09.14)