戸を開けた瞬間流れ出てきたのは、場にふさわしい喧騒と店員の声と、それから鼻につくアルコールの匂いだった。
「あっ、柳せんぱーい! こっちですこっち!」
入り口を入ったばかりだというのに目ざとく自分を見つけたらしい後輩が、ざわめきに負けじと声を張りあげる。無言で片手をあげると、席の案内のため寄ってきていた店員はそれで察したらしく、ちいさく会釈だけして離れていった。
もうすっかり見慣れてしまった居酒屋の店内。最低限の隙間だけ開けて配置された椅子、座る人の間を縫いながら奥へ進む。個室、というほどでもないが奥は座敷席で一応間仕切りはある。身を乗り出さなければ中までは見えないその席にたどり着くと、そこに予想外の顔をみつけて愛時は思わず瞬きした。
「香月?」
「……うす」
あごをしゃくるような動きは頭を下げたつもりなのだろう。軽くうなずき返してその両隣に座る男二人へと目を向ける。
「わあい、柳さんだー」
「ほら先輩、奥へどうぞ奥へ! 席開けといたんで!」
激しく尻尾を振っている犬。まさしくそう形容するのがふさわしい。全開の笑顔を向けてくる榎本と岡崎二人の間で、少年が微妙に所在なさげに座っていた。
星野香月。自分――柳愛時の最愛の恋人、星野市香の、大切な弟だ。いまいち懐かれていない気はするが、かといって拒絶も感じられない。戸惑いつつも姉の恋人の存在を受け入れようとしているのはなんとなく見てとれるから、急がず少しずつ打ち解けていこうと思っている。
いや、今はそういうことではない。
「お前ら……未成年を居酒屋に連れてくるな」
香月もそろそろ十九になることだし、音楽活動のこともある。アルコールを摂取する大人に混じって打ち上げ、という状況にもそれなりの慣れはあるのだろうが、周囲すべてが社会人で未成年が他にいないとなれば勝手もまた違ってくるだろう。
叱らなければならないほどの構図でもない。香月の目の前に置かれているグラスはどう見てもコーラだ。ただ、釘は刺しておかなければ調子に乗りやすい大人も若干名いることなのだし。
本気の叱責ではないとわかっているからだろう、榎本は愛時の脱いだ靴を甲斐甲斐しくそろえなおしてからへらりと笑みを浮かべた。
「今日、星野が留守だって話だったんで。ならどうせだから晩メシ一緒しようって俺が誘ったんスよ」
「ああ……女子会だとか言ってたか」
かつて事件をともに追っていた名残で、つきあっている愛時と市香のみならず他のメンバーも頻繁にメールを送りあう仲である。どこを経由した情報かは知らないが、市香のスケジュールをここにいる面々が把握しているのはそう珍しいことではない。
「なら、まあいいか。姉さんは知ってるんだな?」
「ん。大丈夫」
「よし」
うなずいて視線だけで挨拶してきた笹塚の横に座る。無心でプリンをほおばり続ける彼に、榎本が眉を吊り上げた。
「あ、お前いつの間に一番奥に! 常識的に考えてそこは柳先輩の場所だろうが!」
「……うぜえ。どうでもいいだろ、席順なんざ」
まあ確かに、一般に入り口から一番遠い席が上座だとはされているが。吉成がそそくさと立ち上がり愛時が通りやすいよう広く進路を開けたのは、岡崎のしつ……いや、指導の賜物なのだろう。そのままでも通れないことはなかったのだが、体育会系の彼らはそういうことには割合こだわる。自分で自分のことをかなりのマイペースだと称してはばからない彼らなのに、だ。
対して笹塚は頭脳労働担当で、なおかつこういう性格だからして、そこの部分で相いれないものがあっても不思議ではない。ただ彼の場合他意などなく、本当にたまたまそこに腰を落ち着けただけなのだろう。愛時本人としても、今日この場に関してはそれこそ席次などどうでもいい。
「落ち着け、榎本。俺は気にしない」
「ええー」
「柳さんがいいってんだからいいだろうが。まあそこら辺が懐の深さの違いってやつだな、見習えバカ」
「にゃにおう!?」
「ん、聞こえなかったか? バカバカバカ」
「連呼すんじゃねーよ!」
「落ち着け、榎本。……笹塚も無暗に挑発するな」
「はい」
「その! 態度の! 差が! わかってるけど腹立つ!」
「だから落ち着け……」
ぎゃいぎゃい騒ぐ榎本を尻目に、岡崎が隣に座る少年に「香月君これ美味しいよー」などと言いながら皿をぐいぐい押しつけようとしている。その後ろでは吉成が「ちょ、先輩……お酒飲まない子に砂肝とかいきなりハードル高いッス……!」と止める意思があるんだかないんだかはっきりしない態度で右往左往している。
この面々がこうしている光景も、すっかり見慣れてしまった。白石だけがいないが、……それが少しだけ寂しくも癪でもあるが、顔には出さない。
榎本は相変わらず毛を逆立てた猫のように笹塚を威嚇している。でもまあ、間にグラスやら皿やらが乗ったテーブルがあるので、そこまで深刻な喧嘩には発展しないだろう。そのあたりの信用はある。
仲裁するのもいい加減面倒だ。放っておくことにして、愛時は店員が持ってきたグラスを一息にあおった。
――数十分後。
榎本と吉成は見事に酔っ払い、何かよくわからない蘊蓄と後輩としての愚痴的なものを回らない舌で垂れ流している。たぶんお互いに会話しているつもりだろうが、それぞれ相手の言うことはちゃんと聞いていない。そんな吉成の首を絶妙な力加減で締めつけている岡崎は笑顔、顔色にも変化なし。彼はザルなので飲ませるだけ無駄だ。楽しそうなので放っておく。笹塚は酒よりもスイーツ制覇に主眼を置くことにしたらしく、ウーロン茶片手にやはり変わらずもくもくと……今度は杏仁豆腐か。デザートカップが積み上がっている。数えると胸やけしそうなので視線をそっと外した。
「あー……、と」
愛時は軽く頭を掻いて斜め前を見た。
最初こそ榎本らと盛り上がっていた香月だったが、酒が回ってグダグダになってきたあたりでさりげなく隅に移動したのは知っていた。機嫌は悪くなさそうだ。おそらく「大人って……」などと少年期特有の悟ったようなそうでないような思考で年上の友人たちを眺めているのだろう。衝立にもたれてちびちび舐めるようにコーラを飲んでいる。膝にフライドポテトの皿を確保しているあたり、慣れも垣間見えて苦笑を誘った。
「ん、なに」
愛時の視線に気づいたか、香月がわずかに首を傾げた。その仕種は市香にどことなく似ていて、やっぱり姉弟なのだなと妙な感慨を抱かせる。
「いや……もう遅いだろう。さすがにそろそろ帰ったほうがいいんじゃないか。こいつらもこんなだし、もし良ければ送るが」
「や、いい。てか、子ども扱いすんな。昔はともかく、今の新宿でんな扱いされる筋合いはねえよ」
「それはまあ……確かにな」
未成年ではあっても、香月ももう大人と変わりない体格の持ち主だ。自分から危ない場所に入り込むような愚を犯すでもなし。あっさり引き下がった愛時を横目で見やり、彼はべろんべろんに酔っぱらったメンバーを指してにやっとした。
「おもしろいからもうちょっと観察して帰る」
「ほどほどにしておけよ」
「わかってるよ、つかマジ親父っぽいな……」
「うっ」
それは老けているという意味だろうか。見た目はそうでもないと思うのだが。迷子の少女におじちゃん呼ばわりされた衝撃は未だ記憶に新しい。しかし友人や後輩のみならず嫁(予定)や義弟(予定)にまで言われてしまうと、なかなかに胸に来るものがある。
「だって仕方がないじゃないですか、ほんとにほんとに好きなんです」
慣れた声が耳に飛び込んできたのは、そのときだった。
市香だ。
愛時は一瞬固まり、見えるはずのない衝立の向こうを透かし見た。酒の入っていない香月のみならず、岡崎や笹塚も気づいたらしい。急にこのあたりだけ静かになる。雰囲気に敏感に反応して、グダグダしていた榎本と吉成も微妙におとなしくなった。
今の今まで気づかなかった。きっと互いに話し声が喧騒に紛れていたからだろう。ついでに言うと、どうも声色からして市香はだいぶ酔っぱらっている。単純に声が大きくなったから聞こえるようになっただけのようだ。
「だって、ななつですよ? 柳さんは大人でなんでもできてやさしくてかっこよくて、なのに私はまだこんな小娘なんです」
「やーでも柳さんそういうの嘘つかないっしょ? そんな熱烈に好きだって言ってくれてるんだからその程度の年の差なんてどうでもよくない?」
同席する女性の声量までつられてあがっている。あれは桜川か。彼女は彼女で、酔っていてもまともに会話はできるのだが。どうにも判断力の低下は否めない。
「そうですわー、こむすめなんておっしゃいますけれど星野さんは成人してますしとてもかわいらしいかたですし何のもんだいもありませんことよー」
ちなみに向井は論外。あまり知りたくない事実ではあった。ああ、どうでもいいけれども。
「年の差を気にしてるのはむしろ柳さんのほうですけど! って、そうじゃないんです気持ちは一ミリも疑ってないんです。でも他の人はどうでもいいんですけど、あんなに素敵な人の彼女が私だなんて、もっとふさわしい人が他にいるんじゃないかって他の人に思われるのもいやなんです、他の人なんかどうでもいいんですけど、でも、私に隙があって他の女の人が柳さんにちかづいてくるのは、いやです、相手にされてなくてもいやです、だからつかえる手はつねにぜんぶつかいます、さくりゃくもけんせいもじょうとうです」
「えー星野、既成事実順調に積み上げてるって言ったじゃん」
「じゅんちょうです! ついでに色じかけもたびたびこころみてます、せいこうりつだんだんあがってます」
「おおーやるじゃんやるじゃん」
「うふふふふふほしのさんさすがですわー」
もう桜川以外口調も発音もだいぶあやしい。いやそもそも彼女は、何を基準に成功と失敗を判断しているのだろうか。というかいくら女子会とはいえ酒が入っているとはいえ、赤裸々すぎやしないか。内心ツッコミを入れつつ、恐る恐るメンバーの顔色を窺う。
笹塚は無反応。と見せかけて全力で聞き耳をたてているのがわかる。微妙に口の端があがっているのはなんだろう、愛時をからかうネタでも練っているのか。直接的にからかわれたことはないが、彼の冷静な洞察力からくる指摘のせいで恥ずかしい思いをしたことは一度や二度ではない。危険すぎる。
榎本と吉成は男泣きしていた。
「柳せんぱい……っめでたいッス! 俺幸せです……!」
「あああいいなあ俺も彼女欲しいです誰か紹介してください幸せになりたい……っ」
「…………」
酒のせいではない頭痛がしてきた。二人とも、泣き上戸ではなかったはずだが。
冷房はちゃんと効いているのに、何か汗まで出てくる。もしかして冷や汗か。一番反応が怖いのは弟だ。顔は動かさず視線だけで確認すると、香月もやっぱり固まっていて、愛時は心底居たたまれなくなった。
「それでですね、いちおう思いつくかぎりのさくせんはためしてみたんですけど、ほかに何かあればおしえていただきたくて」
「んー、そうだなあ……」
「そんなの簡単だよ市香ちゃん、くっついて好きですって言えば一発KOだよー」
「! 岡崎……!」
「それはもうなんかいもやってます! だからそろそろしんせんみを……」
止める間もなかった。愛時が腰を浮かせたところで、衝立からひょいと顔をのぞかせて岡崎が能天気な声とともに人差し指をぴっと立てる。それに対して呂律の回らない舌ながら至極まじめに受け答えしかけ――市香は、ぽかんと口を開けた。
「…………やなぎ、さん?」
「あ」
岡崎を止めることはかなわなかった。しかも勢いで立ち上がったせいで、衝立の高さを越えて愛時も顔を出してしまっている。
「な、んでここに……っ!」
市香も立ち上がる。ふらり、と華奢な身体が傾いだ瞬間、愛時は靴を履くのも忘れて畳の縁を蹴った。間一髪、抱きとめる。倒れた椅子がガタガタと派手な音をたてて転がった。
「……馬鹿。急に立つな」
「……ごめんなさい……」
この事態を引き起こした一因にもなった岡崎が、音もなく靴を足元に置いた。軽く睨んでから足を突っ込む。腕の中で市香はおとなしく縮こまっていた。はあ、と長いため息が出て、それに反応したのかちいさな手がきゅっと愛時のシャツの胸元をつかんだ。
壁に貼られたメニューの短冊が、空調の風でひらひらたなびいている。片手で恋人を支えつつ、空いた手で椅子をもとに戻し。さてどうしたものかと見下ろせば、不安げな瞳とぶつかった。
「…………あの。おこってますか?」
「……べつに怒る理由はないけどな。一応言い訳しておくと、俺たちがここにいたのは偶然だし、お前たちがいるとも思ってなかった」
「そうですか。……どきどきしました?」
「は?」
何の脈絡もなく話が飛んだ。
聞き間違いだろうか。そう思って市香の表情を今一度確認してみるが、一転何かを期待するかのようなきらきらした目で見上げてきている。
先ほどの反応を鑑みるに、ここに二組の飲み仲間が勢ぞろいしたのは純然たる偶然だろう。あの会話だって、聞かせようと思ってしたものではなかったに違いない。
使える手は常に全部使う。
そこで彼女の発言を思い返して、愛時は額に軽く手を当てて天井を仰いだ。
「お前、まだ酔ってるだろう」
「ちょっとだけ」
「……どこがちょっと……」
えへ、と照れ笑いする市香は最高に可愛かった。酔っぱらっているのは間違いない。羞恥心は大半をどこかに置き忘れているようだが、完全に消え去っているわけでもなさそうだ。酔いのせいだけではない頬の赤みがそれを物語っている。
それにしても、偶然の産物であろうと故意であろうととにかくすべてを攻め手に変換してしまえと言わんばかりの猪突猛進ぶりには恐れ入る。恋人のことがどれだけ好きか、という話題だけならともかくとして。さらに虜にするための作戦を練っている姿など、本人に知られたくない最たるものであるはずなのに。
聞いていたならわかるでしょうと、ほらもっと愛してと、全身全霊で好意をぶつけてくるさまは、それはもう。
――駄目だ。もう耐えられない。
「市香、お前酔いすぎだ。帰るぞ。送る」
「えー」
不満げに唇を尖らせる表情は少々幼い。しかし可愛い。くらくらする頭を気合でまっすぐ保ちながら、愛時は勘弁してくれと呟いた。
「えー、じゃない。……気が済むまで、一緒にいてやるから」
「それならいいです!」
だから、そんな可愛い顔をするんじゃない。ここがどこであるのかも忘れて貪りたくなってしまうじゃないか。また負けた。ここのところ連戦連敗だ。しかしそういえばなにを判断基準に勝敗を決めているのだろう、自分も。
そもそも彼だって今酔っぱらっているのだった。もう色々とどうでもよくなってきて、財布から適当に何枚か札を出して岡崎に手渡した。後は頼んだ、と短く告げれば任せて、とやっぱり能天気な声が返事をする。
きゃー、と華やかな桜川と向井の歓声とか。笹塚の正しくバカップルだな……という淡々とした呟きとか。いいなあいいなあと繰り返す吉成と、それをなだめる岡崎だとか。
峰雄さん今日泊めて、という香月の声まで背に届いて、愛時は市香の腰を抱く腕に力を込めた。
彼の箍を外すどころか叩き壊してくれたのは彼女だ。その責任は、きっちりとってもらうことにしよう。
あ、そういえば地の文の呼称ですが。
最初はみんな名のほうで書いてたんだけど、なんか違和感あって。
柳さん視点だから本人と星野姉弟だけ名であとは氏でいいかと考え直してそうしました。
うんこっちのがすんなりくるな。
まあ柳さんは愛時さんというより柳さんなんですけどそこはほら、ね?