罪悪の色彩
 それはいつも、赤から始まる。

 赤い。目の前が、真っ赤だ。
 ゆらゆらと揺れる視界、頭はがんがん痛んで、膝にもうまく力が入らない。
 なのに不思議と倒れる心配はしていなかった。両の足は床をしっかり踏みしめて全身を支え、棒を振り下ろす腕は何度も激しく同じ動きを繰り返す。
 いや、同じではない。右から左から、とにかくめちゃくちゃに力を叩きつける。隙間なんて作ったら駄目なんだ、だって油断したら反撃されるだろう。
 中途半端は良くない。手加減しようなんて考えたから、自分は、あの子にまで、余計に痛い思いをさせることになってしまった。
 何か言ってる。聞き取ることはできる。やめて、許して? どの口で、そんなことを。
 まだ喋れるのか。
 弱々しく動く腕は頭をかばっている。何の権利があって、そんなことを。さっき俺の腹を、あの子の頭を容赦なく蹴ったのはお前じゃないか。
 まだ動けるのか。
 動くな。声を出すな。許さない、そんなのゆるさない。
 だって声を出したらこいつはひどいことを言う。動いたらこいつは、俺とあの子を殴って蹴って、もっとぼろぼろにしようとする。殺される。
 だから。
 殺さなきゃ、殺さなきゃいけない。ころさなきゃ。
 その一心で赤にまみれ、赤を散らし、彼は無心に動き続けた。

 やがて目の前にいた生き物は、完全に沈黙して。
 ようやく満足して一息つく。
 そうだそもそもの目的は、単純にあの子を助けたいだけだった。
 あんなちいさな子が、自分さえ屈服しそうになった暴力に耐えられるわけがない。早く病院に連れて行ってあげないといけない。家族のもとに帰してあげないといけない。
 振り返って駆け寄って、かがみこんで。
 手を差し伸べた先にあったのは、化け物を見るかのような怯えた瞳だった。

 ゆるされないのは、俺だった。





「――ぎさん。柳さん。やーなーぎ、さん?」
 腕にぽふりと、あたたかくてやわらかいものが絡みついた。
 軽く引っ張られて、はっとその方向を見下ろす。何度か瞬きして焦点を調節すれば、無垢な瞳と視線が合った。
「…………あ?」
 我ながら抜けた声が出たと思う。腕に抱きついてきた恋人は、色素の薄い目を不思議そうにくりくりと動かした。首をかしげて、腕は放して、手のひらを額にあててこようとする。
 避ける理由は特にない。繊細な指先に触れられるままに任せていたら、その感触で少しだけ汗ばんでいたのを自覚した。ハンカチを押し当てられる。ふわっといい匂いがして、そのあと涼しい風を感じた。
「……市香」
「柳さん、どうかしたんですか? なんだか今日はぼーっとして……というか、うーん、体調が悪いわけではないんですよね?」
「あ、ああ。問題ない」
「顔色はあまりよくないですけど。寝不足かな……でも」
 問題ないとの返事はもらっても、納得はしていないのだろう。市香は思案気な顔でうんうんうなっている。
「本当に大丈夫だ。悪いな、ぼーっとして。せっかく時間が作れたのに」
 愛時は笑みを作って市香の頭を撫でた。指の間をさらさらと髪が通り抜けていく。
 物思いに沈んでいた間、足もつい止めてしまっていたらしい。二人は再び歩き出した。
 人波を器用に避け、横断歩道を渡り、アーケードの入り口のところで立ち止まった。少し端に寄る。雑貨屋の店先には色とりどりの小物が所狭しと並べられていて、ありふれた日常風景に揺れていた心が少しだけ落ち着いた。ああ、あの髪飾りなんて彼女に似合いそうだ。
 伸ばした手の先で、あしらわれたラインストーンがちかりと光る。つまみあげて見せようかと思ったが、市香はそちらに注意を向けてはいなかった。あくまで彼に視線を据えたままで立ち尽くしている。
「ぼんやりする時間も必要ですよ。私は一緒にいられれば幸せだから、そういうふうに過ごすのもいいと思います。ただ、なんだか」
 言い差して彼女は愛時のシャツに鼻先を寄せた。くっつかれるのは嫌いじゃない。人前で、とはいったところで、互いに節度はわきまえている。だが彼は反射的に身を引いた。決して嫌だったわけではなく、ただ反射だった。
 しまった、傷つけなかっただろうか。心中で舌打ちして今度は自分から距離を詰める。
「あのな市香」
「花の香りがします」
 何の前触れもなく放たれた言葉に一瞬思考が止まった。
「……ああ。うん。わかるのか」
「わかりますよ。そっか、ぼーっとしてたのはそのせいですね? ……お見舞い、行ってきたんですね」
「ん」
 常とは違う、幼げな仕種など似合わないと知ってはいたが、愛時はこくりとうなずいた。
 その記憶はいつも、どす黒い赤から始まる。そして、少女の怯えた瞳で終わる。
 本当はそれがすべてではない。発端も顛末もちゃんと覚えている。最初に助けてやると囁いたときは少女は多少なりともほっとした表情を見せてくれたし、彼女の両親からは頭を下げて礼を言われた。半泣きになりながら怒り狂う兄の形相だとか、同情と哀れみがないまぜになった警察官の声だとか。
 真っ白な病室で、あの狂気とはかけ離れて静かに、静かに眠る男の顔とか。
 あの日。たった半日の間に、あまりにもいろいろなものが彼の中を駆け抜けていった。
 あの男のもとには、ある程度の期間は空いても、定期的に訪れるとは決めている。けれどその他にも、あの夢を見た日は無理をしてでも時間を作って会いに行くと決めている。
 いや、決めているわけではない。そうせずにはいられないだけだ。
 今朝もそうだった。
 忘れるつもりはない。実際に忘れることも不可能だろう。それでも、もう立ち止まるのはやめた。市香に再会して愛し愛されて、そう決めた。
 ただ昔からの習いなのだ、多少ぼうっとしてしまうのは仕方ない、とは思うものの。彼女に心配をかけるのは本意ではない。
 気を取り直して市香の手を握る。うまく笑えているかどうかはわからなかったが、この胸の中にある愛しさは本物だ。その気持ちのまま頬を緩めて、愛時は恋人の耳に唇で触れた。
「心配しなくていい、もう大丈夫だ。それで、今日はどこへ行く? お前の行きたいところに行こう」
 耳と言わず、全身ぽっと赤くなるのが見ていて楽しい。そのままいつもどおりあれもいいこれもいいと列挙し始めるかと思ったのに、赤くなっていたのは一瞬だけで、市香は迷いのない瞳でまっすぐ彼を見上げてきた。その奥の光の強さに少しだけたじろぐ。
「決めました。ついてきてください」
「? わかった」
 即決するのは珍しい。愛時の戸惑いに気づいていないわけではないだろうに、手を取られて、いや、手を引かれている。歩調が速い。
 彼と彼女では歩幅が違う。だから、彼はいつも彼女といるときはゆったり歩いている。そのはずが、今は意識して足を動かさなければその速さについていけなかった。ほとんど走るようにして、でも息は乱れていない。こんなところに若さの違いが――などと自嘲しかけてかぶりを振る。俺だってまだ普通に現役だろうに。
 まあ、こんなふうに背中を追うのもたまには悪くない。ときおり振り返るのに、握った手に力を込めて応える。ほっとしたように笑って、また前に向き直る。
 景色はぐんぐんと後ろに流れていった。



 途中からなんとなく、行先の見当はついていた。
 独特の軋みをたてて扉が開く。灯りはないけれど、真昼の光がステンドグラスを透かして降り注ぎ、中は充分に明るかった。人気はない。鳥の囀りがどこか遠くに聞こえる。硬い木床を踏みしめる、ふたりぶんの足音がひそやかにこだました。
 新宿苑の教会。ここは彼らにとって、特別な意味を持つ場所だ。始まりと、終わりの象徴でもある。少なくとも穏やかな気分を以ってぼんやりしていられるところでないのは確かなはずなのだけれど。
 市香の足取りは確信に満ちていた。長椅子の間を縫って奥に向かう。説教台にほど近い、ステンドグラスを間近に見上げられる場所。この位置は――覚えている。彼女が捕らわれ、繋がれていたところ。痛みに喘ぎ、怯えて身を震わせていたまさにその場所。
「市香」
 呼びかけは、我ながら小憎たらしいぐらいに平坦だった。それでも愛時の懸念を正確に読み取ったのだろう、市香はにこりとしてから座り込んだ。つないだままの手を引っ張られて、彼も膝を落とす。
「私はここ、好きなんです」
 まるで秘密を打ち明けるかのような。ひそひそと、けれどどこか弾んだ声だった。
「確かに怖い思いはしました。誘拐はされるし、首輪は着けられるし、極めつけに冴木君を逮捕した場所でもあります。……いろいろ、本当にいろいろありましたけど。でも、ここであなたに会えた」
「市香」
「これから先何があっても、ここが大好きな場所であることは変わりません。辛くても悲しくても、それよりもっとずっと大きな幸せを柳さんが私に与えてくれるから」
 そんなこと知っていた。知っていた、と思っていた。
 だって愛時も同じだからだ。ここは彼にとって、苦い後悔と罪悪感で押しつぶされそうな、そんな思い出にあふれた場所だった。予告状を根拠に市香を探して走り回っていたときだって、実を言えばここには近づきたくなかった。でも自身の感傷を優先して可能性に目を瞑って、そうして助けられるはずの命を助けられなかったとしたら。そのほうがずっと辛くて苦しい。そう思ったからこそ恐怖を振り捨てて駆け込んでみれば、そこに倒れていたのは成長した彼女だった。警察手帳の氏名を確認した時の衝撃は忘れられない。既視感も道理だと、心底納得したものだった。
 複雑な思いは消えない。それでもここで刻まれた傷を慰撫してくれるのは、結局ここで出会った彼女だった。だから嫌いになれない。この場所がなければ、今の幸せだって存在しなかった。
 ああでも、理屈と感情は違う。理解していたはずの事柄でも、改めて何度も言葉にされればそれと同じだけ胸に沁みていく。
 無意識に指先で頬に触れる。最初は輪郭をなぞるように、それから手のひら全体で包み込む。陰になっているから、市香の瞳に映り込む自分の表情はわからない。たぶんひどく情けない顔をしているのだろう。少なくとも今この瞬間の愛時は頼りがいがあるとは言い難いのだろうに、触れられて気持ちよさそうに細めた目には、ただただ全幅の信頼と愛情が宿っている。
 愛時の手に自分の手を重ねて、市香は笑みを深めた。
「助けてくれてありがとう、お兄ちゃん」
「っ」

 刹那、あの日の少女と市香が重なった。
 痛めつけられた幼い少女の、怯えた瞳が徐々にやわらいで。差し伸べた手は握り返されて、蕾がほころぶように笑顔が咲いていく。

 幻だ。実際、あのときはこうではなかった。恐怖と痛みに慄くしかできなかった少女は、まるで彼から逃げ出すかのように目を閉じて意識を失った。
 でも。
 うまく息ができない。目の周りが熱くなって、なんだか涙がこぼれてきそうだ。心臓は不規則に暴れて、必要以上の血流を頭に送り込んでくる。どくどくと脈打つこめかみがいっそ痛かった。肝心の身体は熱いのか冷たいのかもわからない。
 絶句した愛時の反応をどう受け取ったものやら、市香は慌てたように両手で彼を引っ張り上げた。よろよろと、なんとか立ち上がる。
「あ、あのあの、すみません、この年でああいう物言いは痛……幼いかなって思ったんです! でも、あのときちゃんと言えなかったので! 今からでも、って、わわっ!」
 がたがたと木製の長椅子が大きな音をたてた。バランスを崩した市香がなんとか長椅子に腰を落ち着ける。その胸元にすがりつくようにして、細い身体をぎゅっと抱きしめた。
 この年で、母親に甘える子どもでもあるまいに。
 自嘲的な考えが浮かんですぐ消える。やわらかなまろみに頬を押しつけて、深く息を吸い込んだ。とくとくと聞こえる、生きている音。肩を頭を抱く指はやさしい。
「……私も、同じです。今でも時々、あの事件を夢に見ることがあります」
 市香はぽつりとつぶやいた。
「でも愛時さんに会って全部思い出したら、内容が少しだけ変わりました。怖くて痛くて苦しくて……でも最後の最後に、もう大丈夫だって。男の子がやさしく笑って手を差し出してくれるんです。すごく安心した気分で目が覚めるんです」
 実際は違った。そんなことはお互い知っている、わかっている。
 見上げる少女と見下ろす少年。わざわざあの日の位置関係を再現してまで聞かせてくれた台詞は、疑いようもなく市香の気遣いだ。夢の終わりにささやかでも救いをと。いっそ凄惨な記憶の一部だけでも、やさしいものに上書きしてしまえばいいのだと。
 自分が彼女に与えたものは決して恐怖ただひとつだけではなかったのだと、言葉を尽くすだけでは足りないと、伝えようと懸命に知恵を絞ってくれたのだろう。
「私はあくまで助けられた側です。しかも愛時さんのことが大好きですから。どうしても、あの状況じゃ仕方がなかったんだって言いたくなってしまうけど」
「だが、傷つけられた側にそんな理屈は通用しない」
 絞り出した声は予想よりもちゃんと力が戻っていた。
「そうですね。人の数だけ正義があるなら、罪悪も同じでしょう。立場が変われば感じ方も変わります。法に触れるとか触れないとか、そんなことは問題じゃない。決して消えない、消せない。私は愛時さんが大好きだから、苦しい思いも哀しい思いもしてほしくない。あなたを傷つけるすべてのものからあなたを守りたい。でも、昔のことを忘れられずにずっと苦しみ続けているような人だからこそ、支えたいんだって、好きなんだって、思う部分もあって」
 矛盾してますよね、と苦笑が降ってくる。愛時は市香の腰に回した腕を持ち上げて、背中をさすった。瞼を閉じる。
「矛盾してない、大丈夫だ。……俺だって、お前のことを守りたい。哀しい思いはさせたくないし、ひどいものは見せたくない。そう思うのに、惹かれたのは結局お前の強さだった。どんなに傷ついてもまっすぐ前を向いて進み続ける、戦おうとする姿に惚れたんだ」
 ひとはみな、愛や喜びといったきれいなものだけでできているわけではない。些細なことで傷ついて、他者を憎む。生きているだけで罪を犯すし、矛盾を抱え込む。逆にそうでなければ人間とは言えないのかもしれない。
 綺麗なものも、汚いものも。すべてを受け入れたい。ときに支え、ときに支えられる。大丈夫。ひとりではないのだから、無暗に恐れる必要だけはないのだ。
「ふふ。私を強くしたのは愛時さんですけどね?」
「そうだったか?」
 とぼけたように受け答えして、下から顔を覗き込む。
 あの日彼が傷つけた少女は、傷ついたまま倒れてしまうことはなかった。怯えるどころか追いかけてきて追いついてきて、いつの間にか隣に並んで強かに笑っていた。
 市香だけじゃない。傷つけたのは、彼女だけじゃなかった。真っ白な病室で、色だけは鮮やかな花に囲まれて、静かに横たわるあの男の顔だって。
 忘れない。忘れるつもりもない。
 だけど。
 かすめるように触れ合う唇は、あたたかかった。ぎゅっと深く抱き込まれて戸惑う。
「お、おい?」
「愛時さん、昨日よく眠れなかったんですよね? ちょうどいいですから、このまま少しお昼寝してしまいましょう」
「……この恰好でか?」
 ふたりの関係自体は誰にはばかるものでもないが、大の男が女性の胸に顔を埋めて寝ている光景、というのはいかがなものなのだろう。家や事務所ではともかく、ここは一応公共の場だ。普段からほとんど人の気配がないとはいえ、目撃される可能性は皆無ではない。
「いいんですよ、既成事実です」
「既成事実って……まあ、いいか」
「はい、まあいいんです」
 愛時は喉の奥だけで笑った。
 抱きしめた肢体は、華奢なのに弱々しさは感じられなかった。甘いにおいがする。どこまでもしなやかで強く、やわらかくあたたかく、包み込まれるような安心感がある。
 甘やかすつもりが甘やかされる頻度が増えているのは、もしかしなくても気のせいではないだろう。やられっぱなしは性に合わない。つまり、起きたら今度は自分の番だ。どんなふうに甘やかしてやったらいいだろうか。

 髪を撫でる指先を感じながら、彼は吸い込まれるように眠りに落ちていった。
--END.
本編できっちり語られていることなので、今更感はありますが。

個人的にですが、愛時の傷の根本的な原因・本質はやっぱり誘拐犯を再起不能にした事実にあると解釈しています。
で、市香の反応ももちろん傷の本質の一部ではあるんだけど、それよりは傷をえぐるほうの要素。
つまり市香が何をどう言おうとも、本当に傷が癒えることはない。
それでも市香の存在と笑顔は愛時が前に進めるようになった原動力に間違いはなく、二人ともちゃんとそれを理解しそれでいいと思っている。
まあ奇跡が起きてあの人が目覚めて、かつ赦してくれることがあったとしても、それでも愛時は自分自身を責めること…というか自戒は絶対にやめないでしょうし。
哀しくても苦しくても前を向いて生きていこう、が最終結論だったし、この部分において二人は最後まで変わらないんでしょうなあ。
(初出:2016.09.19/再掲:2016.09.24)