酷く身勝手な真似をしたのだとは、重々承知している。
だけど、それでも。
記憶にうっすら残るその場所は、記憶とは違って、あたたかな光と喧騒にあふれていた。
卓に次から次へと並べられるご馳走は尽きることを知らない。さすがに苦しくなってきて、彼はゆっくり立ち上がった。
食事を始めるときは一緒だった知人や仲間たちも、母を除いて姿が見えなくなっている。
宮廷の宴は、想像していたよりは遥かに馴染みのある雰囲気だった。もちろんメニューの贅沢さやその種類、量は比べるべくもないけれど。各々好きなものを好きなだけ腹に収められる、そして立っていても座っていてもかまわない、こういう形式は村の祭で慣れているから、たいして戸惑うこともない。
偉い人でも庶民でも、なんだかんだで人間考えることはみんな一緒なんだねと、漏らしたら姉のような姫君は耳ざとく聞きつけてくすくす笑っていたっけ。
「おやアゼル、もう食べないのかい」
差し向かいに座っていた母ぺルラが、村のご婦人とのおしゃべりを中断してこちらを向いた。うなずいて、椅子を最初からあった位置に戻す。
「うん、お腹が苦しいや。ちょっと腹ごなしに歩いてこようと思って」
「そうかい? ……まあ、ちらほらお開きにしてる人もいるみたいだからねえ。もう夜も遅いし、そろそろ休ませてもらってもいいんじゃないのかい」
「ううーん」
雰囲気にか久々に摂取した酒精のせいか、頭の中はなんだかふわふわしている。すぐに寝てしまうのはもったいないような気もして首をひねるけれど、ぺルラは呵々と笑って手をひらひらさせた。
「そんなこと言って、顔はわりと眠たそうだよ。お腹いっぱいになると眠くなるのは子どもの頃と変わらないねえ」
「いや、さすがにもう食べてすぐ寝たりはしないよ……いくつの頃の話してるのさ」
「いくつも何も、こないだ」
「行ってくるね!」
長くなりそうな話を遮って、アゼルは声を張りあげた。制止されないようにそのまま踵を返して一目散に逃げだす。走ったわけではない、ちょっと早歩きになっただけだ。ちょっとだけ。
歩き出すと、急にお腹のあたりの重みがずしんと増したような錯覚がする。彼は独りで苦笑した。
調子に乗って食べ過ぎたかもしれない。何しろ美味しかったから、あれもこれもと試していたらいつの間にかけっこうな量になってしまったのだ。旅の間はずっと、いついかなるときでも迅速に動けるようにと腹八分目で抑えるようにしていたものだから、その差異もあって余計そう感じるのかもしれない。
ただ言い訳すると、一応お酒は舐める程度にしておいた。浮ついた空気の中に混じる、少しの違和感。ちりちりとうなじを焦がすそれは、決して気のせいではないはずだ。気を張りすぎてはいけない、でも心底安心しきってもいけない。この心の中に抱えてきた時間が、油断するなと絶えず囁いてきている。
これほど自由にデルカダール城の中を歩き回るのは、もちろん初めてだった。
いや、本当に正確には初めてではないか。国王に会うために訪れたときは先触れに導かれてまっすぐ歩いた記憶しかないのだけれど、肌が身体が、この場所を覚えている。うっすらでも、確かに覚えている。
重たく凝る暗い闇。光るのは魔物の目や牙ばかりで、もとは絢爛としていたのだろう装飾は引き裂かれ、壁は崩れ落ち、見るも無残な有様だった。グレイグと二人だけ、息をひそめて駆け抜けた回廊は、広間は、あのとき確かに在ったのだ。
あのときは目的の場所にたどりつくまで回り道をせざるを得なかった。それが却って城の構造を把握することにつながり、だから、この足は迷いもせずに歩いていく。ここをまっすぐ行けば広間に出る。途中重臣のものらしい部屋もあった。外に誰それの部屋と表示があるわけでもなく、中にも入らなかったから、それこそ前を通り抜けただけだった。
今回も同じ――そのつもりで歩いていたのに足を止めたのは、慣れた声が聞こえてきたからだ。薄く開いた扉から、そっと様子を窺う。
「――ですが、陛下のご命令なのです。わたくしだって……」
控えめな声音はいかにも弱りきっているという体だ。対して覚えのあるそれは、相手が従うことを微塵も疑っていない、きっぱりとした口調だった。
「今夜くらいはいいでしょう。急ぐようなことでもないわ。もしお父さまに叱責されるようなら、かまわないから私の名前を出しなさい」
少し間をおいてはい、と返された声は、納得いかないというよりは安堵の響きを伴っているように聞こえた。
扉が大きく開き、侍女のお仕着せを着た女性が出てくる。
すぐそばに人が居るとは思っていなかったのか、彼女は目を瞠って肩を強張らせた。しかしアゼルの姿を見て、聞かれても問題のない相手だったと判断したらしい。かすかに笑って一礼し、その背中はすぐに角を曲がって消えていった。
扉は開いたままだ。
「マルティナ……? 中にいるの?」
恐る恐る覗いたその中には果たして、この国の姫君が旅装も解かぬまま立ち尽くしていた。
「あらアゼル。どうかしたの?」
振り返った彼女は、少々険しい顔をしていた。けれどすぐに表情を柔らかくして小首をかしげる。拒絶の意は見えない。ほっとして彼も口許を緩めた。
「どうもしないよ。ただ、声が聞こえたから」
「ああ……」
そこで気づく。部屋の半分ほど、大量の書物をまとめて積み上げてまるで筍が生えたみたいになっている中、もうひとりの背中。少し丸まっていて、わかっているはずなのに一瞬それが誰なのか判断を迷ってしまった。
「じいちゃんもいたの」
「うむ……」
ふたりとも、アゼルに向ける視線も声もやさしくやわらかかった。けれどなんだろう、なんだかしょんぼりしているように見える。
ふたりして同じことに落ち込んでいるのだろうか。なんだろうか。ふたりとも偽りなく家族だと、アゼル自身は思っているけれど、相手からもそう思われていることを疑ったことなどないけれど。
ただ、どうしよう。この場に立ち入ってしまってもよかったのだろうか。
「ここはね、ホメロスの部屋なのよ」
尋ねるまでもなく答えが示されて、彼は改めて部屋の中を見渡した。
想像の及ぶ範囲で“大国の重臣”らしい部屋だ、と素直に思う。彼には調度が上等かどうかなどの目利きはできないが、居心地はとても良さそうだった。
掃除も行き届いて、もちろん窓なんかぴかぴかに磨かれている。入り口から遠い側、ちょうど祖父が立っているあたりが少し埃っぽい気がするのだが、とそこまで考えて思い至った。立派な本棚があるのに、それをわざわざ空にして本を床に積み上げておく道理がない。壁際の不自然な空間は、よく見れば絨毯がへこんでいる。長いこと上に置いてあった何かをどかしたばかりなのだろう。
そこまで状況を把握してようやく、先ほど交わされていたやり取りが何についてのものであったのかがわかった。
ここに居た侍女はつまり、片づけをしていたのだ。主のいなくなった部屋を遊ばせておく必要がどこにある。国王に、そういうふうなことを言われたのかもしれない。
ホメロスが命を落として、まだ、丸一日も経っていないのに。
「十六年は長いわ」
ぽつりとつぶやいたマルティナに、アゼルは言葉もなくうなずいた。
「十六年もあれば、ちいさかった赤ちゃんだって大人になる。あなたみたいにね。お父さまはそれだけ長い時間を、国王としての重責を背負いながら独りで耐え抜いたんだもの。多少ご気性が変わることは、もしかしたらあるのかもしれないけど」
「じゃが、あやつはグレイグとホメロスを実の子のように慈しんでいた。わしはそれを知っとる」
「……私も、覚えています」
マルティナが苦しげに息を継いだ。
「やっと会えたのだもの、たくさんお話をして、離れていた時間を埋めようと思っていたの。でもあのとき……しかも、こんな」
侍女に見せた王女としての顔とは違う。気の置けない相手を前に揺れる心を隠そうともせず、高く結い上げた黒髪が力なく垂れ下がった。
「私だって、ホメロスをそう簡単に許したりなんかできない。でもだからって、長年仕えてくれた家臣をあんなふうに一息に斬り捨ててしまえるもの? お父さまは本当にそれでよかったのかしら。考え始めたら、顔を合わせるのもなんだかつらくて」
お父さまだっておつらいかもしれないのに、私はとんでもない親不孝者なのかもしれないわ。
弱々しく肩を落とす娘の背中を、祖父ロウが労りを込めて叩く。
苦渋に歪むふたりの顔を明るくしてやることはできなかった。
アゼルの中に滲むおぼろげな記憶が、ふたりの抱える違和感を肯定している。
ふたりは正しい。その直感は正しい。
いっそ叫びだしてしまいたかった。でもさすがにそれは憚られた。
なにしろ証拠がないのだ。根拠は思い出だけ。記憶だけ。記憶なんて至極曖昧なものだ。自分の都合で書き換えてしまうことだってあるのかもしれない。いくら確信があったとて、今ここではっきりと伝えてしまうのはあまり良くないような気もしてしまう。
「マルティナは悪くないと思う。国王様だって、ちゃんとわかってくれてるよ」
下がり気味になった視界に入るために正面に回り込んで、しゃがむ。
見上げる角度は、もしかしたら日常になっていたかもしれないものだった。幼友達として一緒に育っていたのなら、きっとある時期まで自分は彼女を見上げるばっかりで、早く背が伸びればいいのにと口をとがらせてはご機嫌を取られていたのかもしれない。実際の幼友達は同い年だったので、彼女との身長差を気にしたことはそれほどなかったのだけれど。それほどは。
「ただその」
うまい伝え方がわからない。曖昧なことしか言えないのがもどかしい。言い淀んではやめる、そんな繰り返しをふたりは辛抱強く待ってくれた。
「直感って、やっぱり大事だと思う。じいちゃんもマルティナも、何年もずっと危険な旅をしてきたんでしょう。野生の勘っていうのかな、咄嗟の判断に頼って生き延びてきたんでしょう」
一息に言いかけて、また止まる。ふたりぶんの視線が集中していることを急に意識した。
「……だから、その。妙だなと思ったことは、無理して否定しなくてもいいんじゃないかなって。後からこういうことだったのかって、わかるかもしれないし。だから」
これでは何を言いたいのかさっぱりだ。本音のところは、慰めに紛れさせてなんとはなしに警告も伝えたかった。でもそちらのほうはどうにもうまくいかない。多少すっきりした面持ちになったマルティナを見れば、実際受け取ってもらえたものはおそらく誠意だけで、まあそれだけでも収穫と言えないことはないのだろうが。
「そう、ね。まだお互い気が昂っているのもあるのかもしれないわ。それこそ時間が生み出したものなら時間が解決してくれるかもしれない。生きてさえいれば、その機会はいくらでもあるんだもの」
「そうじゃな。あやつも色々あって、まだ本調子ではないだけかもしれんしのう……」
しみじみ呟くロウは、遠い昔に思いを馳せているようだった。
その台詞に刺激されてまた違う映像が脳裏に浮かぶ。そうだ。確かにあのころのデルカダール王は、厳しくも慈愛にあふれて、懐の深い人物だった。
現実と過去が混沌として、なんだか頭の中がぐるぐるとかき混ぜられているかのようだ。アゼルは軽くかぶりを振った。どちらかだけに引きずられるわけにはいかない。少なくとも、今はまだ。
すべてが夢だったのではないかと思ってしまいたくなる瞬間もあるけれど、彼が世界の時を巻き戻して――感覚としては遡ってきたのは、紛れもない事実なのだ。無数に伸びているのだろう枝葉の、ひとつめの分岐点はとりあえず越えた。
ふたつめは、どこなのか。
絶対に見過ごすわけにはいかない。
「そういえば、ぼくも腹ごなし中だったんだ。そろそろ行くね」
「おお、引き止めてしもうたのう。すぐ休むのか?」
「少し歩いたらそうするつもり」
「あなたに用意された客間は二階の西側よ。違う部屋には他のお客様がいらっしゃるから、間違えないようにね」
「心得ました」
ふざけて敬礼の真似事をしてみせる。何かを刺激されたのか、祖父が手首の角度がとかなんとか言いだしたのは聞こえなかったふりをしておいた。
さわさわとおしゃべりの声ばかりだった食堂付近と違って、広間は軽妙な旋律で満ちていた。
ありもしない瓦礫をうっかり避けて、慌てて周囲を見回す。幸い誰にも見とがめられなかったようで、こっそり胸をなでおろした。
この広々とした空間では舞踏会が開かれたこともあるという。真ん中には楽器を手にした数人と、周囲に人だかり。姿もまとう空気もひときわ華やかな男、つまりシルビアが音楽と手拍子に乗って踊っている。ときおり口笛が飛ぶのに律儀にウインクで返して、盛り上がりは最高潮を迎えているようだった。近くには幼馴染を含む村の知己と、カミュとセーニャの姿も見える。
「あ、アゼル!」
目ざとく気づいたエマが、片手を高くあげた。手を振り返しながら歩いて行って、やけにテンションの高い幼馴染と勢いよくハイタッチを交わした。
どうも、触れ合った手のひらがいつもより熱い。眉をひそめる。
「エマ、酔ってるの?」
「果実酒を一杯だけお呼ばれしたのよ。あとはずっとお茶だから大丈夫。安心して」
「それならいいけど……」
アゼルは兄よろしく少しの渋面を作ってみせた。
これだけたくさんの目がある中で不埒なことを考える輩もそうそう居はしまいが、何しろ彼にとっては今この状況が到達点ではないのだ。
これは通過点のひとつにすぎない。その過程で再び皆に危機が訪れないとも限らない。
口うるさくなってしまうのは、だからだ。毎年の村の祭ならこんな小姑のようなことも言わないのだけれど、だってほら、なんだか足元も危うい。ふらふらしている。
「だいじょうぶですわ、アゼルさま。私がせきにんを持ってお部屋までお送りしますから、しんぱいなさらないでください」
そもそも飲んでいないのかそれともとんでもなく強いのか。いつもどおりの顔色のセーニャが拳で自らの胸をどんと叩いた。いやその仕種自体が普段しないもののように思えて、微妙に酔っぱらっているような気がしてきたのだけれど、その隣のカミュもしたり顔でうなずいているし、まあ何より村長もルキもこの場にいることだし、まあ、いいのか。たぶん。
「えっと、うん。お願いします」
何か妙な迫力というか説得力に押され気味になって一歩だけ後ろに下がる。
「おねがいされました。ご安心ください、わたしだけではありません、カミュさまもいらっしゃいますから。エマさまのことはなんとしてでもお守りいたします」
「いや、守るって、そもそもなんとしてでもって何。そういう深刻な話なの」
やっぱり酔っぱらっているのではないだろうか。エマのみならずセーニャのことも心配になってきた。
こんなときにベロニカはいったいどこに行っているのだろう。普段ならぷりぷり怒りながら酒杯をとりあげたり水を差しだしたりしているところだろうに。どうにもラムダの双子は一緒にいる場面ばかりを見慣れているせいか、ひとりの姿しか見えないと不安に――……
ちりちりと首の後ろが焦げた。
「……そういえば、セーニャ。ベロニカは?」
アゼルはさりげなさを装って低く問いかけた。セーニャがぱちぱちと瞬きして彼の質問を嚥下している間にも、カミュが旅の思い出と称してあることないことエマに吹き込んでいるのが漏れ聞こえてくる。けらけら笑う幼馴染は本気にしているのかいないのか、楽しそうなのは何よりだがって「ちょっと待ってそこ嘘教えないで」びしっと背中に手刀を撃った。釘だけ刺しておいて双子の妹の返事を待つ。
相棒は黙らなかった。手刀はたいしたダメージにならなかったらしい。手加減したので当然といえば当然だが、仕方ない、口が滑らかなカミュにその場で対抗しても勝てるわけがない。後で適当に訂正なりなんなりしておくしかないだろう。
「お姉さま……は、あら? そういえばおすがたが見えませんね」
「え、ちょっと」
「お前な、アイツだって見た目どおりのお子様じゃないんだから心配ないだろ。そういや他の面子はどうしたんだよ」
「じいちゃんとマルティナには会ったよ。腹ごなしに散歩して、みんなの顔見てから寝ようと思ってたから……あとはベロニカだけなんだけど」
「そうですか。すくなくともお城のなかにはいらっしゃるとおもいます。もしお見かけしたらなにかおつたえしましょうか?」
おっとりと肩を揺らすセーニャに彼はかぶりを振ってみせた。
「いや、いいよ。特別用事があるわけじゃないし、見つからなかったらそれはそれでかまわないんだ。……とりあえず、みんなおやすみ。シルビアも、おやすみ!」
最後だけ声を張り上げた挨拶は、ちゃんとシルビアに届いていたらしい。くるりと一回転したその動きがまた見事で、人垣がわっと沸いた。エマも口だけ動かして、ちいさくにこりとする。
少しだけ手を振ったのに笑って、首を上下させて答えた。
見つからなかったらそれはそれでいい、とセーニャに向けた言葉は半分本当で半分嘘だ。
本気で命の危機まで心配していたわけでもなし、けれど顔を見ておかなければなんとなく落ち着いて眠りにつけないだろうなとは思っていた。
だからほの暗い中庭で、月明かりに浮かびあがる横顔をみつけたときに声をかけないという選択肢はなかった。
この場所が思い浮かんだのはたぶん、本当に偶然だ。
なんとなく足が向いた。何もかもが大きくて、決して冷たいわけではないのだけれど。ただ、ただ大きくて少しだけ委縮してしまいそうな気分になるこの城の中、ほっと気を緩めることのできる場所はやはり限られている。そしてその基準はきっと、自分も双子も同じものだ。
「ベロニカ」
さして大きくもない木に巻きついた、さらにほかの木のものらしい太い根っこ。言葉もなくその表面を撫でていたちいさな手は、呼びかけにすぐ反応して動きを止めた。ついで青い瞳がこちらをみとめる。
「なあに、アンタもここに来たの」
「ベロニカを探してたんだよ、見当たらなかったから。この木を見ておきたい気持ちも、もちろんあったんだけどさ」
歩くにつれ、足の下で豊かな芝生がさくさくと音をたてた。
用があるのは正確には木ではなく、根っこのほう。
命の大樹の片鱗に触れられる、ここは数少ない力場だ。たとえば荒野であっても、たとえば街中、建物の中でさえあっても。大樹の気配を感じさせる枝葉や根はどの土地でも大切に守られ、そのままの姿で留め置かれていた。
デルカダールも例外ではない。巨大な石を組んで堅牢に作られた城、庭師に手入れされた優美な配色の花壇。それらに囲まれ、この中庭はむしろ不自然なくらいに手をつけずに保たれている。
「……ホメロスは、この根を切ってしまったりはしなかったのね」
ぽつりとつぶやいた彼女は何を考えているやら、その声音だけでは込められたなにがしかを読み取ることができなかった。
「そうみたいだね。切ろうとしたけどできなかったのか、やりたくなかったのか、単純に気にもしていなかったのか、んー……どれだろ」
そういえばかつて――いや、時間の流れでいえば未来のことになるのだろうが――荒廃していたデルカダールで、この中庭にだけは魔の気配がなかった。各地に点在している女神像と同じで、そういったものを寄せつけない性質もあるのかもしれない。おおもとの大樹が落ちてしまってなおそうなのだから、よほどだろう。
「簡単にどうにかできる代物じゃないのは確かよ。魔王だ神だって言ったって命には変わりないんだもの。一部とはいえ命をつかさどる大樹そのものに干渉するのは、それこそ勇者でもなきゃ無理だわ」
ベロニカは軽く息をついて、背中を木にもたれかけさせた。ずるずるとしゃがみ込み、折りたたんだ足がスカートの中に完全に隠れる。膝を抱えた状態で頬杖をつき、幼げな少女の顔は見合わない静けさで彼を見上げた。
「――で? なんでまた、そんなに泣きそうな顔してるの」
「……え、と?」
アゼルは戸惑って瞬きした。自分としては、おとなしげでも談笑しているつもりでいたのに。久しぶりに生きて動くベロニカを見たあのときはさすがに泣きそうだと素直に思ったが、今は単純にまだ油断できないと思うばかりで――それだけの、はずなのだけれど。
「泣きたいとかは思ってないよ?」
「そうかしら。ここんとこずっとおかしいわよ、アゼル。おかしいっていうか……そうね、大樹と直接つながることができるのはこの世にアンタ一人だから。何か見たの? 人には言えない悩みなんてもの、抱えたりしていないの」
「別に言えない、わけじゃ」
ない。
とは、言えなかった。
「……」
黙り込むしかない。
自分でもよく整理できていないのだ。そもそも残る記憶はおぼろげで、隅々まではっきりと見えていれば覚えていれば、もっとうまく立ち回ることもできるのだろうにと思うと本当にもどかしい。
たぶん、時を遡った影響もあるのだろう。ふとした瞬間に鮮明になる思い出は、普段は遠く霞の中でたゆたっているだけ。彼だけが抱いているそれは彼の中にしかなく、ほかの誰も共有してくれるひとなどなく、保証するひともなく、だから根拠は自身だけ。世界にもその爪痕は残っていない。
あれは本当にあったことなのかと疑いたくすらなってしまう。
「言えないのよね」
届いたため息は、ただの吐息だった。そこに失望や呆れの色はなかった。アゼルも腰を落として胡坐をかく。見上げた空は篝火の赤で縁取られていたが、星の配置は綺麗に見えた。
何を馬鹿なことを考えているのだろう。あの哀しみが、あの無力感が、存在しなかったわけなんかないのに。
一瞬の油断で力を奪われた。すべて奪われたと思い込んだ。
苦痛に喘いだあのわずかな隙間に大樹は落とされ、無数の命が散って消えて、なにも守れなかった。守れないどころではなかった。傷だらけでうつろな目をして、伸ばすちいさな手すら握ってあげられなかった。大半の苦しみは見過ごすばかりで、拾い上げることができたのは少し、本当に少しだけだった。
勇者なんて言ったって、万能の存在じゃない。できることは本当に少なくて、限られていた。願いより自分ははるかにちっぽけだった。それを容赦なく突きつけられて、呆然とするしかできなかった。
ベロニカひとりを盾にして生き延びた。それに気づかず走り続けた。気づいてからも走り続けるしかなかった。
そうして走って走って、辿りついた先で示された選択肢に飛びついた。
奪われたたくさんの命を取り戻したかった。
家族を友を失って曇る仲間たちの顔を見るのがつらかった。取り戻せるのならば取り戻してやりたかった。
彼女にもう一度、会いたかった。
「え、ちょっと、……ちょっと」
狼狽したような声が聞こえるが、そちらを振り向く気にはなれない。視界が滲んできて、奥歯を食いしばった。
悲しかった。悲しんでる人がたくさんいた。苦しかった。助けたかった。それは全部、本当のことだ。
だけど。
だけどそれでも、世界は続いていたのだ。
生き物が死に絶えたわけではなかった。皆各々身を引き裂かれるような哀しみにさいなまれながらも、それでも生き続けていたのだ。絶望していなかったのだ。
元凶は滅ぼした。命の大樹も空に還った。あのままでも世界はつつがなく続き、またやさしさを振りまきながら未来へと繋がっていったのだろう。
自分たちだけの力ではない。それぞれが持てる力を振り絞って希望をつなぎ、強くたくましく生きていたのに。
それらを振り捨てて、祖父やともに戦った仲間たちの心を置き去りにして、そうしてまで勝ち取らねばならないものだっただろうか、今のこの平穏は。
救えなかった命を今度こそ。
そう言ってしまえば聞こえはいいだろう。
だがそれこそ、酷い身勝手だ。
起こってしまったことは覆せない。それが世界の不文律。そのはずが、勇者であるというだけで世界に干渉する力を与えられていた。そして自分は身勝手にもそれを行使したのだ。
もう一度会いたい。失われたものを取り戻したい。
――あの日の失態を、取り戻したい。
救いたかったのは本心。でも並べたてたさまざまな理由の中に、その気持もまったくなかったと言えるのか。ただただ他人のためだったのか。突き詰めれば自分のためでしかなかったのではないのか。
一度考え始めると止まらなくなる。未だはっきり浮かび上がらない情報もあるのだけれど、時を越えるときに強く刻みつけられたこの感情だけは薄れてしまうことはなかった。
祖父も仲間たちも皆、彼のことを慰めこそすれ責めたてたりしないだろう。
容易に想像できるからこそ、言えない。世界の時を巻き戻すなんて荒唐無稽な話を、それでも信じてもらえないかもしれないなんて、疑うことすらできない。
涙は落ちなかった。瞬きもせずにいたおかげなのかなんなのか、うっすら目の表面を覆っていた湿気はだんだん乾いていって、それに伴って奥歯にかかっていた不自然な力も緩められた。
無意識に握りしめていた指を開く。手の中にあった草と土をその場に戻して、取り繕うように地面をぽんぽん叩いてならした。
「ちょっと、あたしが泣かしたみたいじゃないの……」
実際泣いてまではいないのだが、弱りきったふうのベロニカは新鮮な気がして少し首を傾ける。
「泣いてないけど」
「いっそ泣きなさいよ! そしたら胸だって貸してあげるし、頭でも肩でも撫でてあげられるじゃない!」
この見た目の年頃の少女の言う台詞ではなかった。面食らって少しのけぞるが勢いは収まらない。
そういえば彼女は“お姉ちゃん”だった。弱音を吐くところを、見たことがあっただろうか。いつも自信満々に胸を張っていて、そうでなければ理不尽な扱いにきいきい怒って。ぼんやりしがちな妹やアゼルを叱咤して、先頭に立つ、そんな役どころばかり引き受けていた。
「……ったく。話し相手はたくさんいるでしょうに、わざわざここに来ておいて、それでだんまりなんだもの。いい、アゼル? あたしのところに来たからにはね、アンタは多少なりとも立ち直る義務があるのよ」
「え、なにそれ」
べつに慰めてもらおうと思ってここに来たわけではないのだが。アゼルは困惑して眉尻を下げた。
ふんっ、と鼻から荒い息を吐きだしたベロニカが、びしびしと指を突きつけてくる。
「前も言ったでしょ、あたしが守ってあげるからアンタも守られる努力をしなさいって」
「ああ、言ったねえ。……努力……努力。具体的にどうやって?」
「これだから!」
彼女の言いたいことはなんとなくわかる。
最初こそ単純に“勇者と、彼を支える役目を負うもの”として出会って始まった関係は、けれど今では使命だけがその箍ではなくなっているのだ。それなりに長いこと一緒にいて、同じものを見て、色々なことを考えた。
要は甘えろと言いたいのだろう。べつに彼自身他人への甘え方は知っているつもりだし、そうすることをみっともないとは、それほど思ったことがない。抱えすぎて、結果押しつぶされた姿を見せるほうがよほど悲しませるのだろうし、実際生産性もないと思う。
「……あたしは結局、何もしないほうがいいの?」
静かな問いは、存外近くから響いた。
隣に居たはずが正面に来て、緑の芝に膝をついている。耳の横でさらさらと髪が滑るのは指先で梳かれているからで、つまりこれはなんだかんだで慰めているつもりなのかもしれない。
許可を得ずに触ってきているのなら、こちらもやり返してかまわないだろう。赤い頭巾越しにごしごし頭を撫でたが、お決まりの子ども扱いするなという罵倒はぶつけられなかった。
真剣に、心配そうな顔をして。彼の表情の変化をひとつでも見逃すまいと神経を張りめぐらせている。
「……はは」
なんだか笑いがこみ上げてきた。動かしていた手を引いて、後ろに向けて力をかける。勢いよく倒れ込んだせいで硬い幹が背中に当たったけれど、まあたいして痛くはなかった。
「ちょっと、大丈夫? 何やってんのよ」
予想だにしていなかった行動に対しては、胡乱気な視線しか来なかった。ただその中に混じってやっぱり心配は完全に流れて行っていないようなので、意識して口許を緩める。
全身の力を抜くと、どこか感じていた息苦しさは消え、ようやく隅々まで血流がいきわたったような気がした。
「何も、っていうのかな。ぼく、ベロニカはいつもどおりにしてくれてたらそれでいいと思うんだ」
「だってアンタ明らかに変よ」
「自覚がないとは言わないよ。……けど、いつもどおりが嬉しい」
「……」
返す言葉がすぐには思いつかなかったのかもしれない。彼女にしては珍しいことだが、口を動かそうとする気配すらなく黙り込んだ。
ベロニカを探していたのは、純粋にその姿を確認したかっただけだ。最初から何かを零す予定はなかったし、彼女に気を遣わせるつもりだってさらさらなかった。
……そう、ただ純粋に、顔を見たかったのだ。
ぐちゃぐちゃ考えたって結局最後はそこに行きつく。未練とか後悔とか、義務感とか。膿んだ傷のようにじくじくと胸を刺すいろいろなもの。消えない。なくならない。そもそも消してしまってはいけないもの。それらを押し流すほどの力を持つものも、あると思ったから動いたのだ。それだけだった。
この中庭に来るまでの間、そこここにあふれていたのは笑顔だった。最後の砦だなんて名前をつけられてしまった谷あいの村では見られなかった――おそらくあの異変の時に命を落としてしまった――たくさんたくさんの人たちもやっぱりここでちゃんと生きて動いて、楽しそうにしていた。
姉を失わなかった妹は、姉を失う可能性にすら考えが及ばずにのんきにしていたし、相棒の盗賊もそうだった。
酷く身勝手な真似をしたのだとは、重々承知している。
だけどどれだけ身勝手でも、目の前に広がる光景に癒されてしまう自分がいた。あの選択は決して間違いではなかったのだと、そう思わされてしまう自分もいた。
その最たる存在こそが、ベロニカだった。
きっとだから、顔を見たかったのだろう。彼女が生きて、無事でいる。元気で、ただ生きているだけでなく、まるで姉のような物言いでかまってくる。あの日失ったあたたかさは確かに今ここにある。
「許されてる気分になるんだ。だから」
卑怯でも、自分勝手でも。――弱くても。
「許すわ」
アゼルは、いつの間にか地面を見つめてしまった顔を、意識して上げた。
怒っているわけじゃない。思い詰めているふうにも見えない。ちゃんと何を許してほしいのか言え、と来るべきところなのだろうけれど、そういう要求もなかった。
「……うん。ありがとう」
目を瞑れば簡単に思い返すことができる。
焼け焦げた森。ぶすぶすと音をたてて燻っていた木々の中、そこだけ緑の匂いのする風が流れて涼しかった。
閉じた瞼の裏に残る静かな寝顔が、今ようやく、色づいて鮮やかに動き出したような気がした。
まだ終わっていない。これからも後悔することはたくさんあるだろう。彼らが歩く道に標などなく、だから人のため世界のため、絶対に正しい選択ができるとは限らない。
それでももう二度と、失わないために。そのためにこそ、戻ってきたのだから。
で、クリアするの待てなくて先に書きました。
敢えて選べと言われたら私は断然主ベロなのですが、恋愛かと問われると首を傾げる自分もいたりする。
いや恋愛でも全然かまわないんですけど、どっちかというといちゃつきたいとかそういうのよりただただひたすら互いに執着している感じ。
勇者にとって、ベロニカは姉のようであり妹のようであり先輩のようであり、一連の戦いの最中に喪ったものの中ではたぶん一番大切な相手であり(イシは村は焼かれたけど人は無事だったから)
取り戻したいものはたくさんあって、その誘惑と義務感と人類愛と罪悪感ととにかくごっちゃになった感情に翻弄されつつも決断はきっぱりとして、そしていち早く辿りつけた最たる結果…というか成果。
本文中でも書いてますが葛藤がありつつも「これで良かったのだ」と思わせてくれるベロニカの存在には相当執着しててもおかしくないと思います。
対してベロニカにとっては、勇者は弟のようでもあり守護する相手であり、何より自身の存在意義そのものなのかなあと。
ラムダの人々と姉妹の育ての両親は、血の繋がりがなくても何の利益がなくても目の前に突然現れた幼子を慈しみ育てあげるだけの器を持った人々で、ベロニカは自分がセーニャともどもちゃんと愛されていることも、たとえ使命がなくても追い出されたり誹られたりなどしなかっただろうことは重々わかっていて、だけど心のどこかで使命と力あらばこその自身なのだと考えていたのじゃないかなあと。
まあ、進んで自己犠牲したんだとは微塵も思ってませんが。
あのときはああするしか全員を確実に助ける方法がなかったんだろうし。ただそれだけの話ではある。
突き詰め始めると色々書けそうな気がするのだけどめちゃくちゃ頭絞れそうなので主ベロとはネタが浮かべばぼちぼーち、くらいの気分でつきあっていく所存です。
発酵させていったら恋愛にまで発展させることも不可能ではないよなー醸造醸造。とか思いながら。