まったく、どれだけ人を馬鹿にしたら気がすむのだ。
憤懣やるかたない気持ちで走ってきたリースは、書庫の端、足元に星空を望む位置まで来てようやく足を止めた。
目を上げれば、今のこのむかむかの原因が遊撃士の少年と一緒に戻っていく後姿が見える。
自分は心の底から心配しているというのに、ちゃんとそれを伝えたと思ったのに、引き出せたのは強ばった笑顔だけだった。あれで笑っているつもりだなんて、こっちが笑いそうだ。
「……ケビンのバカ。ヘタレ。ワガママ。…………卑怯者」
誰にも聞こえないことはわかっているので、思いつく限りの罵詈雑言を並べたてる。
それとも、自分こそが甘えていたというのだろうか。五年間離れていたけれど、その前に過ごした年月は確かにあった。子どもの時間は、大人のそれに比べて短くとも濃密だ。弱いところも強いところもわかっている。もちろん出会う前ケビンが何を見て何を感じたのか、それを問いただしたことはない。聞く必要もないと思っていた。だって、厳しくも優しい教会の日々に彼が癒されていたことは間違いないのだ。はじめ絶望に染まっていた表情が、日に日に明るくなるのを、そばでつぶさに見ていたのだから。
笑いあったり、ときに罵りあったり。自分たちはいつだって互いにむき出しだった。よそよそしい口調をやめてくれ、むず痒くてたまらないと彼は言ったけれど。でも本当の意味で壁を作って、他人どころか家族であるリースまで近づけようとしないのは壁を作るなと言ったケビン自身だった。どの口で。――どれだけ馬鹿にしたら気がすむのだ。
今のケビンは空っぽだ。
リースは五年前、紫苑の家で何があったのか詳細を知らない。おそらくはあのときケビンの中に生まれたのだろう隙間は、五年かけて成長を続けてきた。どんどん大きくなって、普通なら人はその中に何かを満たして成長していくはずなのだけれど、何も注がずに来たのだろう。わざと。
空っぽだ。満たされているふりだけをして笑っている。楽しそうに、人の輪の中で、冷えた心で。本当は喉から手が出るほどぬくもりが欲しいくせに、意地を張らなければいいだけなのに。
頭が沸騰しそうで、同じく目元も熱を持つ。
あんなケビンを見ていたくなかった。そして、少しは助けになれるかと思ったのに、はっきりと拒絶されて悲しかった。リースが駄目なら、ヨシュアでも、他の人だっていいのに。支えになるのが自分でないというのは確かに寂しいけれど、それでもいいとまで思った。でも駄目だった。
自分ひとりがすねてみせたところで、あの傍若無人な男は考えを改めはしないだろう。放っておくか、宥めすかして根気良くリースの機嫌がなおるのを待つに違いない。変なところで我慢強いのがまた腹立たしくてならない。
「姉様…………姉様がいてくれたら」
つぶやきかけて、リースは首を振った。
姉ルフィナは五年前に殉職した。ケビンが一番心を開いていたのはルフィナだ。淡く好意をよせていたことも知っている。今ここに姉がいてくれたら、一喝するだけですべてを解決してくれたかもしれなかった。
顎に変な力がかかって、変なうめきが漏れた。ルフィナはリースのたった一人の血縁だった。姉の安らかな死に顔と対面してから、リースは涙が枯れるかと思うほど泣いて、そしてそれから一度も泣いていない。従騎士になるために受けた、身体を痛めつける厳しい訓練にだって、涙ひとつ流さずに耐えきった。教え子相手におべっかなど絶対に使わないだろう守護騎士筆頭がわざわざ言葉にして感嘆してみせたくらいで、それは自信と誇りにも繋がっているのだ。今、泣いてたまるものか。しかも経緯はどうあれあんなヘタレケビンがきっかけで、なんて。
意思に反して浮かんだ涙を、彼女は袖で乱暴に拭った。折りよく通路のほうから軽い足音が聞こえてきた。
一瞬身構えてしまったが、なんということはない。あの軽さは少女のものだ。それも複数。心配して様子を見に来たのだろうか。
話をする気にはなれないが、他に人がいれば泣かずにすむことは確実だった。じっと黙っていたって文句は言われないだろう。しばらく気まずい思いをさせてしまうかもしれないけれど。ああ、いっそこの機会に思う存分愚痴を聞いてもらおうか。
瞬きをして雫を散らす。明瞭になった視界におそらくはまがい物なのだろう星の輝きを映して、リースは背筋を伸ばした。
背中に人の気配を感じる。否、視線を感じる。
今リースの周囲にある人の気配は五つ。先ほどケビンと入れ違いにリースを追ってきたジョゼットとティータ。この二人には延々延々続く愚痴を聞いてもらっていたが、嫌な顔ひとつせずむしろ一生懸命慰めてくれた。それから新たに解放されたアネラス。可愛いものが大好きだと公言してはばからない彼女は、リースの気を紛らわせようとぬいぐるみの話を振ってくる。ぬいぐるみは持ってはいないが眺めるぶんには楽しいので、こだわりを思う存分聞かせてもらった。
そして少し離れたところでヨシュアに気遣われながら、ケビンがもの言いたげなまなざしを向けてきている。
たった今まで何かしらをしゃべっていた少女たちは、再び凍りついた空気を察して口を閉ざした。
話しかけないでください。
何かご用ですか。
もう知らない、好きにすればいいです。
声をかけられるたび突っぱねて、なのに懲りずにここまで降りてくるのはどうしてなのか。リースの手をいらないと言ったのは彼自身だ。いらないなら放っておいてくれればいい。どこへでも行ってしまえばいい。一人ですべてさばききれるというなら見事さばいてみせるがいい。
振り返ることすら億劫で、彼女は肩に落ちかかってきていたシスターのヴェールを軽く後ろに払った。びくっと背後で緊張する気配が伝わってきたが、無視を貫く。やがてちいさいけれど長々としたため息をついて、青年たちの足音が遠ざかっていった。
「……ったく。あんなに気にするんなら最初から変なこと言わなきゃいいのにさ」
ジョゼットが苛立たしげに唇を尖らせて、アネラスを挟んだリースの右隣に座った。喧嘩の原因について具体的に何も話してはいないが、彼女の中ではケビンが無神経なことを言ってリースを怒らせた、というのは揺るぎない真実になっているらしい。
間違ってはいない。ただし、ある意味無神経というのか、内面にまっすぐに切り込む話題を先に出したのはリースだった。でも言うには今しかないと思ったし、実際ケビンの表情に怒りはなかった。虚を突かれたように目を見開いて――そして、笑ったのだ。
思い出すだに腹立たしい。
「…………あのね」
隣のアネラスが、うつむきがちのリースの顔を下からのぞきこんだ。
「何ですか? アネラスさん」
応じる声には棘はない。確かに今自分の気分は最悪だが、その原因を作ったのは一緒にいてくれる少女たちではない。むしろ気遣いは嬉しいくらいなので、素直に返事をする。
アネラスはリースの注意が自分に向いたことを確認してから体勢を戻し、もじもじと両手の指をこすり合わせた。
「……もうちょっと時間がたったら許そうとか、謝ってきたら許そうとか、えーと、とにかく譲れる一線っていうのかな。リースさんはそういうことは考えてます?」
「考えています」
もっとも、そうなる確率はかなり低いのだろうが。あの馬鹿はそうそう認めはしないだろう。リースの機嫌を直したいからといって自身の意地を曲げることはないように思える。
聖杯騎士団に入団することだって、事前に何も言ってくれなかった。ある日突然、決定事項だけを告げて風のように紫苑の家を去っていってしまったのだ。五年前だってそうだった。姉の死の真相を妹であるリースは知る権利があるはずなのに、知っているケビンは何も言わずそのまま従騎士から一足飛びに守護騎士なんかになってしまって。
心配していたのに。自分だけではない、絶対彼も傷ついた。一緒に泣けば、少しは楽になれていたかもしれなかったのに。
ルフィナもケビンも、リースを置き去りにしてどんどん遠くへ行ってしまう。行ってしまった。紫苑の家の院長先生のことは大好きで尊敬もしていたけれど、大人と子どもの違いだなんて、そんなふうに諭そうとする言葉にだけはうなずけなかった。
リースがそのまま黙ってしまったためか、その場には息詰まるような沈黙が満ちた。さすがに幼いティータにまでつらそうな顔をさせているのは忍びない。ふっと肩の力を抜いて、かぶりを振る。
「……考えています。でも……しばらくは、心ゆくまで仕返しをさせていただこうかと」
「仕返しかあ。うん、まああのエセ神父にはいい薬かもね。ボクは気がすむまでつきあうよ」
「あのあの、ジョゼットさん。リースさんの前でケビンさんをエセ神父っていうのはどうかなあって……」
「いえ、気になさらないでくださいティータさん。ジョゼットさんの言うとおりです。あれはエセ神父です。そもそも傍若無人で自分勝手でワガママでヘタレでどうしようもないあんな人が七曜教会の神父というのが間違っている気がします。ええ間違っています」
「……根が深いなあ……」
アネラスが苦笑した。
この隠者の庭園は常に星空に包まれていて、時間の経過がよくわからない。オーブメントはちゃんと動くので、最初は時計を基準に食事や睡眠をとっていた。だがそのうち、この空間では現実世界での時の経過などさして意味はないのではと思い始め、それからは皆思い思いに休息をとったり訓練に励んだりしている。
もしかしたら、影の国の謎を解いて脱出を果たすまで、ケビンは抱えたものを隠し通すのかもしれない。アネラスや他のみんなが思っているようには運ばず、自分たちの亀裂は時間などでは修復できない。
だとしたら。
(もう、それでもいいのかもしれない)
顔だけは平静を装ったままで、リースはそっと胸をおさえた。
リュートの音色と男性の低い声が、優しく書庫に満ちている。
愛情と切なさにあふれた歌詞は、観劇などの経験のないリースにも容易に飲み込め、そして胸に染み入ってきた。
リース君を元気づけるためにここはひとつ、ボクが歌を。
本気なんだか冗談なんだかわからないことを口走っていたオリビエは、ちゃんと本気だったらしい。
あれからケビンは、同行を申し出たというヨシュアと他数人のメンバーとともに第四星層の探索を続けているようだった。最後に口をきいたのはいつだっただろう。途中から彼は話しかけてくることをあきらめ、ただ様子をうかがうだけになった。そしてリースの機嫌がなおっていないことを確認して、ため息をついて立ち去る。その繰り返し。
オリビエの演奏のおかげでこの場の雰囲気は随分やわらいでいる。先ほどまでリースと一緒になってぷりぷり怒っていたジョゼットは素直に歌に耳を傾け、ティータの表情もやわらかい。シスター相手に愛の歌を聞かせるなんてと呆れているシェラザードだって、本気で止めようとは思っていないだろう。
――かなうことなどない儚い望みなら せめてひとつ傷を残そう――
オリビエはこの曲がお気に入りらしく、繰り返し演奏している。真面目に聞いているのでもう歌詞も覚えかけだ。何度目かの同じフレーズを耳にして、リースはふと瞬きをした。
かなうことなどない儚い望みなら。
かなうことのない望み。それはなんだろう。今まさに目の前に横たわっている問題のことだろうか。でも、それが見えたのは少し前のことだった。少なくとも五年前にはその存在に気づいてはいなかった。いや、まだ存在していなかった。
望み。そもそも従騎士を目指したのは何故だったろうか。聖杯騎士団に女性は皆無とは言わないが、割合的には低い。性別による制限があるわけでもないのに少ないのは、騎士団が戦闘職だからであり、男性と女性は一般的に体力に差があるものだからだ。同じだけの素質を持っている男性と女性なら、ほぼ間違いなく男性が勝つ。必然的に女性に対する門戸は狭くなる。
それでもあきらめられなかった。訓練なのに死にそうな思いを味わった。次々音を上げて脱落してゆくほかのものたちを横目で見ながら、歯を食いしばって追いすがった。
それは、何のためだっただろうか。
ただ追いつきたかったのだ、姉とケビンに。姉は永遠に帰らぬ人となってしまったけれど、ケビンはまだ生きている。聖杯騎士団にいる。ならば自分もまた騎士になればいい。そうすれば、すぐそばとは言わぬまでも近くには行けるだろう。たぶん、そんなことを考えていたのだと思う。
何も告げずに出て行ったことといい、ルフィナのことを何も教えてくれなかったことといい、腹はたてていた。それはもう、これ以上ないというほどに怒っていた。だから会いたくなかった。いや、会いたかった。会いたかった。あの日守られたように、自分も守りたいと思った。教官として面倒を見てくれたアインがその思いを知っていたのかどうか、ともかく従騎士として配属されることになったのは他ならぬケビンのところで――
かなうことのない儚い望みなら、せめてひとつ傷を残そう。
そうだ。かなうことのない望みなのだとしても、本当に何も、ひとつのこともできないわけではない。
会いたかった。とりあえずそれは果たした。そして本心を見せて欲しい。それは果たされるかどうかわからない。
でも。
急に目の前が開けたような気分になった。思い悩む前に自分がすべきことはなんだ。目指していたものはなんだ。守りたかったのではないのか。追いつきたかったのではないのか。
影の王はケビンに執着している。異様なつながりを見出して動揺して、つい問い詰めてしまったけれど。もっと重大な問題が他にあった。彼が隠し事をしていたということに気を取られすぎて、彼が今までにない危険に飲み込まれようとしている状況を失念していた。思えばそろそろ本腰を入れると宣言してきたようなものだったのだ。
こんなところですねている場合ではなかった。
リースは顔を上げた。隣のアネラスに尋ねる。
「アネラスさん。ケビンは、これからどこへ向かうと言っていましたか」
「え?」
遊撃士は常に不測の事態に備えておくべし。普段は剣とぬいぐるみのことしか考えていないように見える少女は、しかしいっぱしの職業人の顔に戻ってすらすらと答える。
「あ、はい。ええとね、第四星層の中で行けるところはもう行きつくしたんだって。アガット先輩が解放されたから今までみたいに何か進展があるはずだって、まずは方石でル=ロックル訓練場の宿舎に……」
「つまり第四星層に入ってすぐの地点ですね」
へそを曲げて状況把握を怠っていた自分とはなんたる違いか。見習わなければならない。立ち上がってから頭を下げる。
「ありがとうございます。行ってまいります」
「行ってまいりますって……ええぇ!? ちょっと、待ってくださいよリースさん!」
引き止める声を無視して、リースは全力で駆け出した。演奏が中断され、何人かが叫んだ。でも止まらない。そのまま橋を渡り石碑の脇を抜け、走り続ける。嫌な予感がする。どんどん強くなってくる。
急がなければ。方石がなくとも、星層を順にたどれば第四星層まで行ける。でも転移と徒歩ではどうしても時間差が生じてしまうだろう。できる限り急いで駆け抜けて、彼らが無事でいるうちに追いつかなければならない。
言いたいことはたくさんある。でも後回しだ。
守る。そうだった。そのために近くまで来たのだから。
息を弾ませて、リースは淡く光る魔方陣へとその身を躍らせた。
あの場面って、走ってきたんですよねリース。たぶん。方石転移にこっそり便乗して物陰から様子をうかがう…ってのも可能かなあとは思いますが絵的に間抜けなので却下(笑)
最初はひたすら怒ってたのが、愚痴聞いてもらったりかまわれたりしてる間にちょっと収まって、でだんだん開き直りっぽい方向へシフトしていったのでしょう。でも一人じゃ開き直りは無理だったかもしれないので仲間万歳。
四話冒頭はぶっちゃけ「よくわかったなリース…!」と思いました。壁なのか遠慮なのかいまいち判別つかないもん、ケビンの態度。
そしてヨシュアの「それでもあなたに好意を持っています」宣言にああええ子や…と思った。以前の自分と同じような状況だから気持ちもよくわかるし、放っておけなかったんだろうなあ。しかしヨシュアに対してはあっさりワルい顔を見せるケビンもケビンだ。同類のにほいゆえですか。そういう意味ではリースよりも近い位置にいるのな。
まあ、執着している相手にこそ見せられないものってあると思います。ケビンはひどいけど、リースに明かせない内心とその理由はヨシュアでなくても想像できてしまうのがなんともたまりませんでした。
そういやここらへんからジョゼットのこともええ子やなあと思い始めました。SCまでは特に好きでも嫌いでもなかったんだけど、TTで好きになったんだぜ。なにせギルバートのことまでかまってあげるんだもんなあ。
アネラスのリースに対する口調はよくわからなかったんでタメ口と丁寧語混ぜてみたけど…実際どうでしたかね。まぜこぜであってたとは思うんだけどー、記憶が怪しい…