混沌の欠片
 美しい湖岸にたたずむ壮麗な邸宅。内装には贅が尽くされ、着飾った紳士淑女が扇で口許を隠しながら談笑する。客人の間をすいすいと泳ぐように抜ける使用人すら計算され尽くした優美な挙措で、まるで別世界に迷い込んでしまったような心地さえ覚える。
 しかし今彼を圧倒しているのは、それらではなかった。
 非日常を感じさせる眺めの中で、罵りあう男女だけはやけに人間くさく見えた。





「信じられませんわ、このような……怪しいと思っていたのです!」
「な、何を言う……君こそそんないかがわしい恰好の少年と一緒ではないか!」
 まだ三十路にも届いていないだろう、多分に可憐さを残した妻に涙目で罵られ、夫らしき紳士は怒りと決まり悪さに顔を真っ赤にして怒鳴る。
 客観的にどちらがより悪いか判断しろと言われれば、大抵の人間は夫が悪いと答えるだろう。夫は冷や汗をかきながらしどろもどろ、対する妻の声音には嘘もごまかしの色もない。指摘されるとおり連れの少年は礼装とはいえいかにも軟派そうな恰好をしているけれど、飄々と笑っているだけだから、疚しいところなど何もないように見える。
 ロイドは内心胸をなでおろした。ホストなどやっているというから、どんないかがわしい世界に足を突っ込んでいるかと心配していたら。連れはやけに世間知らずそうな女性で、実際二人の間には何もなさそうだ。いやいや、もちろんいかがわしくないのは今回のケースだけで、いつもはもっと、なんというか、過激なのかもしれないが。
 ともかく、今回は良かった。思わぬところで会った知己の少年――ワジは、旧市街で不良たちを率いてはいるけれど、根本的に悪人ではない。目の前で始まった痴話喧嘩にまったく動じていないところを見ても、こういった事態に慣れているだろうことは予想できた。
 口もうまい彼のことだ、きっとちゃんとこの場を収めてくれるだろう。
 そう期待を込めて見つめたロイドの視線の先、ワジは柔らかな緑の髪を揺らして涼やかに微笑んだ。
「僕としては、それ以上の関係になってもいいんだけどね」
「ちょ、ワジ!?」
 隣ではらはらと夫婦を見守っていたエリィがぎょっと目を瞠る。声も出せない彼女を一瞥もせず、もちろん反射的に制止の言葉を叫んだロイドのことも軽く無視し、彼はいかにも楽しそうに続ける。
「こうなったら僕らも火遊びしてみない? 奥さんみたいな健気な女性、嫌いじゃないしさ」
「そ、そんな、ワジ君……」
 予想もしていなかったのだろう。奥方は戸惑って頬を染めた。その気があるというよりは、口説かれ慣れていないからこそ出る、初心な反応だ。確かに可愛らしい……というか、後ろで自分を棚に上げて額に青筋を浮かべている男性にはもったいない伴侶ではあるかもしれない、とロイドでさえ考える。
 ちっ、と舌打ちの音が聞こえたような気がした。見れば、今まで黙っていた夫の同伴者の女性――確かニキータと呼ばれていた――が、呆れ返った顔で夫婦を見ている。彼女は咄嗟に身を引いた男性を冷たく見やり、肩をすくめた。火遊びするならもうちょっとうまくやってよね、とかなんとか、そんな趣旨のことを言ってさっさと踵を返して部屋を出て行く。口ぶりから彼が既婚者であることは端から知っていたようだし、あまり人のことをとやかく言えた立場ではないだろうけれど。
 うろたえたのは一瞬だけ、夫はすぐに高慢さを取り戻して妻を罵倒し始めた。妻のほうも負けてはいない。興奮のためか両者の声は高くキンキンと響き、頭痛を誘発しそうな不協和音を奏でている。
 そして二人を煽った張本人はといえば、いかにも楽しそうに興味深そうに、事の成り行きを眺めているだけだ。
「はあ……」
 ロイドはため息をついて肩を落とした。こうなってしまっては、そうそうすぐには終わらない。下手にとばっちりを喰う前に、さっさと退散するに限る。
 もう行こう、エリィ――口に出しかけて、ロイドはパートナーの様子にふと気づいた。
 いつも凛とした横顔は、どこか憂いを含んで一心に彼らを見つめている。どちらかといえば感情の伺えない瞳をして、けれど軽く唇を噛んでいた。そっと肩に手をかける。
「エリィ」
「…………」
「エリィ、もう行こう。こんなところでじっとしている場合じゃない」
「……え? あ、え、ええ、そうね。そうよね」
「うん、もう行きなよ」
 腰掛けた椅子を音もなく揺らしながらワジが片手をひらひら振った。
「君たちがいたって事態は変わらないしね。僕はもう少しつきあうけど」
「つきあうも何も、余計なことを言って引っ掻き回したのは貴方でしょうに……」
 しょうがない人、とでも言いたげにエリィが眉尻を下げる。その声だけ聞けば、もうすっかりいつもの彼女だった。少し垣間見えた何かなどまるで存在しなかったかのような顔をして、ロイドの腕に手を添える。
「行きましょう」
「……ああ」
 二人は後ずさってから向きを変え、足音を殺しそそくさと部屋の出口へ向かった。
 分厚い扉が閉まれば、中の喧騒は遠くなる。何か騒いでいるなとは思われても、その内容まで聞き取ることはできないだろう。廊下の静けさに、知らず緊張していた神経が緩んだ。
「なあ、エリィ」
「何?」
「えーと、その。……元気出してくれよ?」
「なあに、それ」
 ころころと鈴を転がすような声が響いた。エリィは曇りのない笑顔で、さもわけがわからないといった風に肩を震わせている――けれど、声はだんだんと小さくなり、やがて高い天井に吸い込まれるかのように消えていった。
「……ありがとう、大丈夫よ。ちょっと思い出しただけなの。それにあの人たちなら心配いらないと思うわ」
「わかるのか?」
「ええ、まあね。……だってあの二人、思いきり喧嘩していたもの」
 何かを振り切るように一度きゅっと唇を結び、両手を組んで伸ばす。扉のほうを気にしてか振り返れば、さらさらと上質の絹がこすれあう音がする。
「あれだけ感情をさらけ出せるなら、大丈夫。お互い嫉妬していたようだし……言いたいことを言い合った後は、きっとすっきり仲直りしているわ」
「なんだか手も出そうだったけどな」
「ふふ、それもいいんじゃない? 怪我をしない程度にがんばってくれるといいわね。執着しているって証拠でもあるもの」
 エリィは扉から視線を逸らし、自身の足元を見つめた。
「……本当に修復不可能になったら、言い争いすらしない」
「エリィ」
「何を言っても何をしても、何の手ごたえも感じられない。腫れ物を扱うような態度になって、感情をぶつけられなくなって、知ってるはずのことも減っていくの。そのうち諦めて関心がなくなって、そもそも会話すらなくなって、しまいには……目の前にいることにすら、気づけなくなってしまう。何もかもどうでもよくなる。仕方がないことだけど」
「エリィ」
「……あ、ごめんなさい」
 何度か名を呼ぶと、彼女は弾かれたように顔を上げた。シャンデリアの光に緑の瞳が一瞬きらめいたように見えたが、それには気づかないふりをしてそっと髪を撫でた。髪飾りに触れないよう、整えられた毛筋を乱さないようにただ表面をすべるロイドの手に、エリィは無防備に身をゆだねている。
 やがて彼女は不自然に強ばっていた身体から力を抜いた。
「ごめんなさい、こんな話するつもりじゃなかったの。行きましょう」
「エリィ、聞いてくれ」
 大丈夫だというなら、それを信じるべきなのだろう。それこそ今彼女の瞳がいつもより湿り気を増していることにも目を瞑って、何事もなかったかのように接することを望まれているだろう。
 けれど、知らないふりをするのは嫌だった。おせっかいだと恨まれても、性なのだから仕方がない。
 エリィはロイドを睨むことはせず、ただぼんやりと見上げている。強く見つめると、だんだん表情が戻ってきた。目を離さないまま、彼は口を開いた。
「その、起こってしまったことは仕方がないんだと俺も思う」
「……」
「でもそんな顔しないでくれ。過去は確かに変えられないけど、これからは違うだろ? あの人たちはきっと大丈夫だし、エリィだって。……エリィは、あきらめる気なんかこれっぽっちもないだろう?」
「……ええ。ええ」
 夢から覚めたように、エリィは急に背筋を伸ばした。
 かつて彼女の父は、クロスベル政界で立ちはだかる諸々を越えることができず、絶望したまますべてを捨てて逃げ出した。母は父を追うこともできず、かといって残された娘を恋のよすがとして慈しむこともできず、やはり同じようにすべてを捨てて逃げ出した。
 両親の絆が壊れてゆく過程を、一番近くでつぶさに眺めていたのは娘だ。祖父はたった一人の孫娘を愛情深く育ててくれたに違いないけれど、それでも捨てられたという思いは忘れられない。
 愛された、でも捨てられた。捨てられた、でも愛された。
 相反するふたつの感情を忘れろとは言わない。言えない。それらも彼女を形作るものだ。普段、忙しさにかまけて心の片隅にしまいこんでいる記憶は、けれどこのクロスベルに巣食う闇と密接に結びついてしまっている。ふとした拍子に何度でも蘇ってしまっても不思議はない。
 あの日、夜景を前に、もう疲れたと弱音を吐いた。それは紛うかたなき本心だったに違いない――でも同時に、どうしてもあきらめたくないのだと叫ぶ彼女の声も聞こえたような気がした。だから一生懸命励まして、彼女もそれを受け入れて、元気になってくれたのだ。本当に心底からあきらめきっていたのなら、きっとロイドの言葉など届きもしなかった。
 あれ以来、エリィは泣き言めいたことは言わない。今のやり取りだって、少し思い出したから出てきた愚痴のようなものだろう。
 自分たちは同じものを見ている同志なのだから。それなら、一緒に元気に先を目指して歩いていきたい。
 願いは届き、同僚の顔から不安の影は消え去った。今にもなにを弱気になっていたのかしら、と笑い出しそうな。安堵してにっこりすれば、エリィも微笑んだ。
「私はあきらめないわ。今は手が届かない場所でも、いつかはきっとたどり着いてみせる。何より、一人じゃないんだもの。……貴方も私のこと、あきらめずにいてくれるでしょう? ガイ」
「へ……」
 よく意味のわからない台詞に続き、いきなり潜入時に名乗った兄の名を呼ばれ、ロイドは面食らった。思わず声を出して聞き返しそうになるのを、すんでのところで飲み込む。
 視線を感じる。とにかくあの修羅場から逃げ出せたことで油断して、今までこの場には彼ら二人しかいないものと思って話していたのだ。
 だが、そうではなかったらしい。殺気はない――けれどやけに鋭さのある視線。どう考えてもこちらに注目している。息こそ潜めていないものの、続く言葉をうかがっている気配はする。何故なのかは知らないが、見られていることに気づいていることは、できれば悟られたくない。と、なると。
「……もちろん。俺はあきらめないよ」
 低く呟いて、ロイドは細い肩を軽く引き寄せた。聞いている側には睦言としか捉えられないやり取り、けれど彼女が本当に言いたいことはわかっていた。あきらめるわけがない。そもそも、そのためにここに来たのだから。いつか自分たちは、四人で、そして課長や皆と一緒に、あの壁を越えるのだ。
 自然な所作で寄り添ってくるエリィの背中をぽんぽん叩き、言うことは決まっていなかったがとりあえず内緒話をしている風を装って耳元に口を寄せる。
 覚えのある舌打ちの音が聞こえた。
「ちょっと、貴方たち。仲がいいのは結構だけど、人前でいちゃついてるんじゃないわ。場所を考えなさい、場所を」
「え、あ? すみません!」
 二人はさも今気づいたかのようにぱっと離れた。振り返った拍子に正面から声の主を見る。予測はついていたが、先ほど大喧嘩を繰り広げていた片割れ、紳士のほうの連れだった女性だ。むしゃくしゃしているのかわざとらしくたっぷりと間を取って煙草を吸い、ふーっと煙を吐き出す。
「広いお屋敷なんだから場所はいくらでもあるでしょ? ほらほら、行った行った」
「はい、そうします。ご迷惑おかけしました」
「失礼します……」
 そろってしおらしく頭を下げ、足早にその場を去る。後ろからかすかに「これだからガキは……ところかまわず盛ってんじゃないわよ、ったく」などと聞こえたということは、傍目には恥じらって退散したように見えているはずだ。他に目撃者がいたとしても大丈夫だろう。
 月明かりに青く照らされた通路を抜け、水音ばかりが大きな室内庭園にたどり着く。一度圧倒された景色は二度見ても同じことだった。感嘆しつつ奥まで進み、やがて彼らはどちらからともなく足を止めた。
 視線を交わす。エリィはまるで悪戯が成功したときのような楽しげな顔をしている。たぶん、自分もおなじような表情をしているのだろう。
 念のため周囲を見回してみても、人っこ一人いなかった。これなら多少込み入った話をしても大丈夫だ。流れ落ちる滝の音に声も紛れて、よほど近くまで寄らなければ聞こえないに違いない。
 今度こそ緊張を解いて、ロイドは大きく伸びをした。
「なんとかごまかせたみたいだな。よかった」
「ええ。まあ、あの人に不審に思われたところでたいした危険はなかったでしょうけど。でも、何が足を引っ張ることになるのかわからないものね。気をつけておくに越したことはないわ」
「ほんとに油断できないよなあ……」
「あら、そう? ……そうね、お兄さんの名前を呼んだ時の貴方の顔。一瞬だけど、ぽかんとしてたもの。角度的に向こうからはよく見えなかったのが幸いしたわね」
「はは、そりゃあの時は思いっきり素に戻ってたから」
 軽口を叩きあいながら、各々凝り固まった筋を伸ばしてみたり、首を回してみたり。それなりに自然体で振舞えていたつもりだったが、いざ人目のない場所に来ればやはり緊張していたのだと自覚できる。書類仕事もしていないのに肩まで凝った。指先で軽く揉み解し――図らずも同じ動作をしてしまったことに同時に気づいて、顔を見合わせて苦笑する。
 背中に払われた銀髪が宙に踊ってから背に収まるのを、一部始終何とはなしに眺めていた。
「さて、そろそろ行きましょうか」
「ああ」
 屋敷中を、ルバーチェ商会の人間がうろついている。がたいのいい男たちが、さらに全身真っ黒のスーツを着こんでおまけにサングラスまでしているのだから、威圧感は半端ではない。招待客は皆平然としているが、慣れているのかそれとも取り繕っているのか、見ただけではわからなかった。まあ、ロイドたちにしても、気にしていないように見えるからこそ誰も胡乱な目を向けてこないのだと言えるけれど。
 神経をすり減らしながら、それ以上に内から湧き上がる何かに突き動かされて二人は豪奢な屋敷を歩く。
 千里の道も一歩から。今回潜入したことで変わる事態など何もないのだろうけれど、必要な一歩だと信じて歩く。
--END.
混沌の欠片=黒の競売会ってことで。

エリィ→ちょっと愚痴っちゃった、ええもちろんあきらめませんとも。って、あら見られてる? 意味不明とか思われても困るし適当にごまかさなきゃ、そうだせっかく恋人同士の設定なんだしついでに口説き文句っぽいこと言ってもらいましょ
ロイド→あきらめちゃ駄目だ、ってそうだよなあきらめないよな。えっ急にどうしたのエリィ、ああ、他に人いたんだ? なるほどうまい手だな乗った、ふうやれやれごまかせたみたいだ良かったー
…みたいな。
咄嗟に芝居してそれっぽいこと言ってもらって、一人相撲なのわかってるけどそれなりに満足なエリィさんと、意図を察してうまいなと感心しながらためらいなく乗る、しかしエリィの裏の思惑までは読めてないロイドさん。
あの場面、エリィも呆れてるだけで、べつに夫婦喧嘩にショック受けてる雰囲気はなかったですけどね。まあこういう展開もありかなと思って書いてみた。

エリィって、「あきらめない人」が好きなんだろうと思います。だから引き取ってくれただけでなく七十歳超えても政界であきらめず戦い続ける祖父を敬愛し、祖父に習って中立派を貫こうとしていた(表の顔だったわけだけど)アーネストさんを尊敬し、ロイドに恋心を抱いたんだろうと。
屋上でのくさい台詞に落とされたのももちろんでしょうが、その一連のやり取りの中でロイドの前向きさとかひたむきさとか根性とか、そういうのも読み取って好きになったんじゃないかと。その後も何度もあきらめそうになりながらも「負けるもんか!」って自身を奮い立たせているロイドを見て嬉しそうにしている場面もあったし、それでどんどんますますハマっていった、と。…あったよね? 嬉しそうな場面。確か。
根底にあるのが幼い頃の両親との別離であることは間違いないでしょうなあ。要するに両親はあきらめて逃げ出したわけだから。壁の高さも分厚さもエリィにはよくわかっていて、だから責めようという気まではないんでしょう。でも悲しく思うのは当たり前のことだしね。
ロイドだけじゃなく、ティオもランディも支援課は全員基本的には前向きかつ大人なので、誰かが落ち込んでも誰かが意識して引っ張り役を務めてなんとかする、いいチームだと思います。うんまあロイドの牽引力はずば抜けて恐ろしいほどだけど。

本編、ロイド×エリィを前提に考えて、二人に絞って観察していると、エリィ→ロイドはとても読み取りやすい印象です。ロイド→エリィは終章IBC時点でやっとこさ始まったかもしれないね、くらいなので、読み取れないのは当たり前っちゃ当たり前。出てくるキャラ出てくるキャラ誰に好かれてもうなずける要素はちゃんとあるので、誰かと誰かがもしもくっつくとしたらここを好きになったんだろう、っていうところはあるんだけど、それはあくまで妄想の域を出ない想像でもあります。いや二次創作な時点ですべて妄想ではあるんだが。なんていうか心情的に?
もしも続編が出てくれたら、そんでくっついてくれたら、ロイド→エリィももっと読み取りやすい(というか確信できる)何かが見えてきてニヤニヤできるかなあと、自分に都合のいい願望を抱きつつ待ってます。
(2010.12.05)