夢は繰り返す。
「リィン? 何ぼーっとしてるのさ」
耳慣れた少年の声に、リィンははっと物思いから立ち返った。
いつの間にかどことも知れぬ遠くへ定めていた焦点を戻せば、少し前を歩いていた友人二人が怪訝そうな顔でこちらを振り返っている。
「大丈夫か? 先に寮に戻っているか」
「あ、いや」
気遣わしげに訪ねてくる長身のガイウスに苦笑を返し、リィンは片手で軽く頭を掻いた。
「少しぼんやりしてただけだ。体調がどうこうってことはないよ。次で終わりだったか?」
「ああ、あとは雑貨屋に寄ればひととおり揃う。思っていたよりも遅くなってしまったな。早く休むに越したことはないのだし、急ぐとするか」
「だから大丈夫だって……」
「気になるんでしょ、明日から特別実習だもんね」
軽く笑ったエリオットが、身体ごとリィンに向きなおる。片手に荷物を抱えた状態で、なおかつ後ろを向いたまま歩いているのにその足取りに不安定なものは見られない。
ゆるやかな傾斜の石畳、しかも今は夜で視界の確保には街灯だけが頼みだ。だがぼんやりしていると指摘された手前、そんな歩き方では危ないのではなどと口にすることもできず、彼は喉まで出かかった言葉を飲み込んで素直にうなずいた。
「まあ……色々と。不安要素もないではないし」
「知らない土地で少人数で動かねばならないからな。チームワークに綻びがあるのは望ましくないのだが、それにしても班分けには意図的なものを感じすぎる」
「あっちもこっちもね……」
言う二人は、けれど、苦いものこそ含んでいても浮かべているのは笑顔だ。エリオットが戻ってきて、リィンの肩にぽんと手を置いた。
「早いうちにアリサと仲直りしちゃわなきゃ、ね?」
「う……気が重い……」
自然に眉が八の字になった。微妙にうずいたような気がする胃のあたりを押さえる。
入学式当日に行われたオリエンテーションで起こった事件――いや、事故か――は、人によって災難であったか幸運であったか受け止め方が異なるだろう。学院生活それすなわち青春である、と断言している一部の男子生徒からは羨ましがられることこのうえない体験だったのだろうが、彼にしてみれば嬉しいような悲しいような。いや、嬉しくはなかったはずだ。たぶん。べつに嫌でもなかったが。ただ気まずい。なかったことにしてしまいたい程度には気まずい。
ガイウスがかすかにかぶりを振って息をついた。
「そちらはまだいいだろう。面と向かって話さえすれば解決するのは早そうだ」
「だといいんだが」
「そっちの班はちょっと長引きそうだよね」
ああ、と返すガイウスの表情は、しかしそれほど深刻そうではない。できる限りのことをしてみよう、と呟く彼は初対面のときの印象と変わらず泰然としている。
「大丈夫だ、いがみあってはいたが、二人からはそれぞれいい風を感じた。悪い人間ではない、そのうちわかりあえるだろう。……早いほうが望ましいがな」
「うんわかるよ、二人ともいい人だよね。それは僕もわかる。わかるんだけどねえ」
「気は重いよな」
そろって吐き出した三人の溜息は、夜の帳が降りてなおどこか活気のある街並みに、呆気なく吸い込まれて消えた。
覚えている。学院の外で行われる初めての実習の前に、三人で交わした会話だ。
結局は翌朝にすんなり事は運んで、少なくとも人間関係で悩みはしなかった。実直で誇り高いラウラを少し失望させてしまったりはしたけれど、トラブルというほどのこともなく。やっぱりちゃんと仲直りして、帝国の現状に色々と考えさせられながらも平和な日常に戻った。
覚えている。もう何回目だろう、これは夢だ。
正規軍と領邦軍の衝突に何度も遭遇した。巻き込まれたり自ら首を突っ込んだり、ときには逮捕までされそうになった。助けてくれた人はそのときによってさまざまで、放り出されているようでいて自分たちは手厚く守られているのだと心強かった。
否応なく見せつけられる火種があった。おおきいもの、ちいさいもの、いったいいくつあっただろう。数えるのも億劫になるくらいだったのは間違いない。戦場を見たことはない、けれど将来その只中に飛び込んでいかなくてはならないかもしれない。戦ともなれば大切な人たちだってどうなるのかはわからない。
想像していたよりも遙かに近しい現実に、怯えながらも屈するわけにはいかないと、日々決意を新たにしていた。
一口に学院生活というには大変だった、不安だった。正直死ぬかもしれないと思わされたことだって一度や二度ではない。でもかけがえのない日常だった。そう、あれはあくまで日常だった。
前から後ろへ透けていく、緑薫る風。
見上げた満天の星。
寮への道すがら、ふと目に飛び込んできた夕焼け。
さわさわと耳に届く、好奇心いっぱいの無邪気な囁き。
宮殿の威容、人の歴史。
月夜に蒼い光をまとってそびえたつ城。
馬の合わない相手と競い合うことさえ心地よくて、初めに感じた気後れも隔意もいつのまにか流れて。
極めつけは、皆でひとつのことをやり遂げた、あの一体感。
すべては日常を守るためだった。目の前に開けた無数の未来を続けていくためだった。
血と硝煙の匂い。この腕に伝わる斬撃の重さ。魂消ゆる悲鳴に耳を塞がず、足を止めず、ひたすら駆ける。この背中の後ろに守りたいものがある。ただそれだけを支えにしてきたはずだった。
「やめてくれ……」
弱々しい呻きが聞こえる。何にも邪魔されることはない。当たり前だ、ちいさくても弱くても、自分の声なのだから一番よく聞こえる。頭の中にわんわん響いて、やまびこみたいに、繰り返す、何度も。
身体中が軋んで痛い。関節が固まって動かない。傍らでは猫の姿をしたものがしきりに何か叫んでいるようだが、耳鳴りがするだけで内容はわからなかった。わかりたくもなかった。
「みんなで決めたの! 貴方を逃がすって!」
やめてくれ。
聞きたくないのに、まっすぐ脳髄にまで切り込んでくる。必死に語りかけてくる若い娘の声が、この夢から逃げ出すことを許してくれない。
いや、逃げたいなんて思っていない。いなかった。最後まであの場に居たかった。たとえどうなるのだとしても、肩を並べて、声を掛けあって。
皆と一緒に、いたかったのに。
敵となったらしい彼からさえも、ぶつかることはあれど逃げだすことは考えていなかったのに。
仕組みもよくわかっていないモニターには、いっぱいに彼女の顔が映っている。
いつも綺麗に梳られている髪は戦いの余波で乱れ、リボンの端は千切れてしまったのか不自然に短い。白い頬に煤がついていて、画面の端に赤い筋が走った。目をやる前に袖で拭き取るが、見えてしまったものは忘れない。
華奢な肩越しには、各々得物を手に立ち上がる仲間たちの姿。距離があってもわかる、ぼろぼろで、なのにどうして皆笑っているのだろう。
彼女は、笑っているのだろう。
「……また会えたら」
また、じゃない。離れるつもりなんてない。だから“また”はない。ないはず。
「伝えさせてね。貴方に、私の本当の気持ちを……」
嫌だ、いやだ。聞くなら今だ。今じゃなきゃ聞かない。
駄々っ子のようにわめき散らして暴れたら呆れるだろうか。呆れられたっていい、とにかく嫌なものは嫌だ。
けれど、つい先ほどまでまるで自分の手足のように動いていた巨人はリィンの意思に従いはしなかった。猫が叫ぶ、うるさい。キンキン高い音の中にノイズ混じりの重低音も加わって、事態が彼の望みとは正反対の結果に向かって動き出していることを強調する。
今や自由に動くのは首と口だけだった。必死にかぶりを振っても、身体は拘束されているみたいに自由にならない。
黒猫が離脱を指示する、呼応して駆動音が高まっていく。
「やめろ……やめてくれ! 勝手なことをするな!」
金髪が陽に透けて、きらきらと輝いた。ともすればきつい印象を与えがちな赤みのかった瞳がやわらかく細められる。花の色をした唇が動いて、彼女は、今まで見た中で一番に綺麗な微笑を浮かべた。
「アリサ……!」
手を伸ばした。と思ったのは錯覚だった。騎神は彼女から、仲間たちから距離を取り、溜めの動作すらなく空へと飛び立った。一気に視界が持ち上がる。何も見えない、あるのは空の青さだけ。
彼の慟哭は、誰にも受け止められることなくただ空気を震わせただけだった。
「……!」
声にならない叫びをあげて、リィンは飛び起きた。
暗闇の中、緑色がちらちら瞬いている。計器の数字に異常はないらしい。
弱い光に照らされて、伸ばした自分の手が見える。おそらく自分で自分の寝言に起こされたのだろう。それだけ聞くと間抜けなようにも思えるが、笑うだけの余裕は今の彼にはなかった。
「何度目かな……」
独りごちて、両手のひらで顔を覆う。身体は相変わらず痛い。クロウとの戦いで負った傷は最低限の処置しかできていないし、何よりろくに休息も取れていなかった。
人里に近づいていないことに加え、発見されることを恐れる同行者の意向でラジオや無線の傍受も行えていないから、日付はわからない。そんなには経っていないはずだ。一応日の出と日の入りを数えて目安にはしているが、正確である自信はなかった。
計器の上では、黒猫――セリーヌが穏やかな寝息をたてている。初めの頃こそ彼がうなされるたびに声をかけてきたものだが、親切心を起こしたところで邪険にされるだけと悟り、もう放っておくことにしたのだろう。なんの反応も見せない。そもそも必要以上に気遣われるなどごめんだ、いっそこのままどこぞへ姿を消してしまえばいいものを。八つ当たりじみた凶暴な衝動を苦労して抑え込み、リィンは全身の力を抜いた。
理解している。あの状況で、一人も欠けずに生き残りたいと願うのなら、リィンが離脱するのが最善だった。だから皆、黒猫も、目覚めたばかりの騎神さえそのために動いて、実現させたのだ。
今の自分がトリスタへ向かったところで、蜂の巣にされて力尽きるのが落ち。誰もそんなことは望んでいない。わかっている。わかっているけれど。
笑っていた。
仲間たちの笑顔が、彼女の笑顔が、瞼裏に焼きついて離れない。それは昼も夜も関係なくリィンを苛む。いや、あの笑顔を薄れさせたくなどないのだ。だからいつでも面影が蘇るのは歓迎なのだ。
だけど。だからこそ。
「アリサ……」
震える声には力がなかった。
今独りであることが殊更に骨身にこたえる。息をするのすら苦しく感じる。幼子のように身体を丸めて。情けないと嘲うものは今は誰もいない。自分以外は。
会いたい。
そしてまた、夢を繰り返す。
もうとにかくあのEDの衝撃とアリサ可愛いの一心で書き上げた話。