歌が聞こえる。
階段を軽やかに駆け下りていたエステルは、そのことに気づいて一度足を止めた。
それから歩調を緩めてまた歩き始める。足音をたてないように、それからなんとなく気配を殺して。
高台からそうっと覗き込んだその下では、青年と娘が楽しげに歌っていた。
影の国、ファンタズマ。当初はその成り立ちも引き込まれた理由すらわからず、ただ<ルール>に従い戦い続けていた。
誰に指摘されるまでもなく、エステルは細かいことを考えるのが苦手だ。オーブメントの仕組み程度ならともかく、世界の成り立ちなど考えも及ばない。しかし理論と分析の得意な仲間たちが揃い踏みになったことに加え、もともとこの世界の住人だったという女性がくれた手がかりやその他いろいろな事実も判明し、彼女が頭を悩ませるまでもなく真相は見えてきた。そして以前世話になった神父が、皆を巻き込んですまなかったと言い出したのが一刻ほど前。べつに謝られる筋合いはないと思ったのでそのまま伝えたら、神父もシスターも、呆気に取られたように何度も瞬きしていたっけ。その後泣き笑いのような顔をしたのを、湿っぽくならないように皆で一生懸命茶化した。
とにかく、影の国を支配する王を排除すればもとの世界に戻れる。ただし、そのためには安全な庭園を出る必要があり、下手を打てば手詰まりになってしまうのだという。
そんなわけで、気は逸ったけれど、準備は入念にしておくべきだろうという結論に達した。十六人いる人員の半分(とおまけ一人)は現在ここに残っている。そして残りの八人は、リベール王国の始祖セレストの影がみつけたという、深淵の探索に向かっている。
彼らが消耗して戻ってくるのは必至で、それなら食事の準備をと言い出したのは、清楚な見かけによらず常にお腹をすかせている大食いシスターだった。エステルやヨシュアも手伝いを申し出たのだが、大人数の食事の支度なら慣れていると一蹴されてしまい結局食糧供給をしてくれる大樹の下に向かったのは神父とシスターの二人だけだ。
その二人、ケビンとリースは、どちらも七曜教会の福音施設で育ったのだという。再現された施設、紫苑の家の厨房で、ここは自分たちの縄張りだったと懐かしそうに話していたからには本当に慣れているのだろう。贅沢はできないとはいえ最低限の食料は確保されていたに違いない施設で、育ち盛りの子どもたちの食事をすべて用意していたというのなら、手も早いに違いない。
――でも、なにしろ十六人分だ。
しかも煉獄から生還したばかりで、二人が一番疲れているのではないか。セレストに導かれ少しだけ踏み込んだ煉獄はすさまじい場所だった。肺の中すら焼かれてしまいそうな空気の中、姿も力も恐ろしい悪魔たちの手を掻い潜りながらたった二人きりで生き延びたのだ。いくら本人たちが大丈夫だと言い張っても、やはり手伝ったほうがいいのではないか。
そう思ったエステルは、まずは様子見とばかりにここまで駆けてきたのだが。
予想は見事に外れていた。
疲れているどころか、二人は至極楽しそうだった。歌詞と節回しからして賛美歌なのだろうが、エステルの知らない歌だ。手際よく包丁と火を操りながら、ケビンとリースは声を合わせて歌っている。男声と女声、旋律が絡み合って惚れ惚れするほどで、こんな特技があったのかと今更感心してしまった。
「……驚いた。ちゃんと覚えてるなんて」
聞いている間に歌は終わったらしい。相変わらず手は止めず、視線も食材に固定したままリースがつぶやく。
ケビンはおたまで鍋をかき混ぜながら応じた。
「そんなん当たり前やろ。どんだけ叩き込まれたと思うてんねん。むしろ癖になってしもうたわ」
「だってケビン、お祈りの言葉もなかなか覚えなかったから。それに騎士になったらどうしても歌う機会は減るもの。忘れてるかもって思ってた」
ジョゼット評するところの“エセ神父”なるケビンは、確かにエステルの目から見てもあまり神父らしくない。だがやはり身に染みついているもの、というのはあるのだ。きっとリースと二人、練習がてら厨房で歌っていたに違いない。厳しかったという院長先生の差し金だろうか。なかなか馴染まなかった子どもを、厳しく、けれどあたたかく見守る目は詳しく聞かずとも容易に想像することができた。
「なら今度はオレの番や。これは覚えとるか? あま露くだり 野を潤せば……」
「もちろん。……こがねの垂穂 波うちよせぬ……」
また途中から、声が混じる。穏やかな笑みを浮かべて、二人はそのまま歌い続けた。ときどき視線を合わせて、互いの呼吸を確認する。それから目の前の作業に戻り、でも声は止まらない。
エステルはそろそろと後ずさり、階に足をかけた。これは、邪魔できない。そう、誰かが割り込んだら邪魔だ。
成り行き上同行した紫苑の家で聞かせてもらったケビンの過去は、悲しいものだった。もちろん自分にだって悲しい思い出はある。ヨシュアだって、レンだって、そして尋ねたことはないけれど、今一緒にいるほかの人たちだって。生きている限り、誰だってきっとなにがしかの傷は抱えている。ただエステルは、大切なものを他ならぬ自分の手で傷つけ失ってしまう痛みは知らない。怒りのやり場が自分にしかない、悪いのはすべて自分。そうとしか考えられなくなるような事態は想像できず、だからただ聞いて受け入れるしかなかった。かける言葉など思いつかない。彼の嘆きを思って拳を握りしめるしかなかった。
だが家族であり、ケビンを誰よりよく知るリースは怯んだりしなかった。どころかどやしつけ、堕ちそうになっていた彼をかつての姉と同様こちら側に引き戻すことまでやってのけた。
そしてやっぱり。やっぱり、ケビンの中にもちゃんと幸せな記憶は存在していたのだ。今まで目を背けていたそれらを振り返り、愛おしむことができるようになったのは、きっとリースのおかげなのだろう。思い出すことは切ないけれど、あえて向き合うことで、自覚なく癒されてゆく。その過程を、エステルは今まさに目にしたということなのだ。
少し離れると、賛美歌はかすかにしか聞こえなくなった。さらに離れて泉まで行けば、大声で叫んでも届かないくらいになる。距離はそれほどでもないが、庭園を包む星空に音は吸い込まれるばかり。他の場所で思い思いに時間を過ごしている仲間たちも、やはりあの二人が歌っているなどとは気づいてもいないだろう。
「……あたしも……」
楽しそうな二人を見たら、無性に“星の在り処”が聞きたくなった。そういえばヨシュアはケビンとリースの様子を見てくると言ったエステルをやんわり引きとめたけれど、もしかしてこういうことになっているのを予測済みだったのだろうか。
言いふらしたりはしない。特にオリビエや姉貴分のシェラザードにでも、エステルが今見た光景をしゃべってしまおうものなら申し訳ないことになってしまうだろう。
だからヨシュアにだけ、こっそりとハーモニカを吹いてと頼んでみよう。どうしたのと聞かれたら、ちょっとだけ話せばいいのだ。なにも聞かずにいてくれたら、何も言わずに寄り添っていよう。
その隣に。
いや何がって、ケビンの作り出した煉獄が地獄そのもので、かつ出没する悪魔がことごとく聖典に載っている悪魔だということに…! あんたちゃんと隅々まで聖典読んでたんかっつーかそれどころか無意識で再現・コピーできるほど染みついてたのんか暗記レベルか! なめててごめん! そうだよね第五位だもんねそう見えないけど!(超失礼)(いやでもなんか聖典とか全然読んでなさそなイメージがゲフゴフ)
まあそんなわけで賛美歌。ケビンとリースが歌ってるのは収穫感謝の歌のはず…。たぶん二人ともエステルには気づいてません。その気になれば気配だけで人数まで探れるらしいけど、庭園にいるから超油断中ってことで。あとエステルの気配の消し方がうま…い…かどうかは知りませんが(笑)
蛇は基本執行者は抜けたいなら抜ければいいよ的方針らしいので、ヨシュアがこの先影の道に引きずりこまれる心配はあまりしなくてすみそうですが、ケビンとリースは…闇に身を沈めつつ光を見失わないようにして生きていかないといけないわけですね。難しそう。
この二人はいちゃつきながらもずっと家族のノリで行けばいいよ。唯一姉様は例外として互いに互いが一番でそれを疑いもせず確信しつつ、んで焼けつくほどの情熱もなくやきもちはもちろん焼くけどどこかのんびり、そんで五年十年後くらいに「お互い恋人もいないしもうくっついとくか俺らー」みたいなノリで夫婦になればいいよ。…ていうか七曜教会て婚姻ありなんだろうか。