勝手知ったる他人の家――というほどまでには、なっていないけれども。
すでに見慣れた内装の中を、主に案内されて進む足取りは少しだけ覚束なかったかもしれない。
もっともそれは、ここが地上から何アージュも離れた高所であるとか、床も調度もぴかぴかに磨かれているからだとか、そういった理由からでもなく。随分久しぶりな気がしたから、なんとなく、単になんとなく遠慮がちになってしまっただけの話なのだ。
「どうぞ」
部屋の住人は、なんのてらいもなく客を差し招いた。開けたまま押さえてくれている扉に自らも手を触れて、リィンは久々にそこへと足を踏み入れた。
「お邪魔します」
「はいはい、お邪魔されます。えーと……とりあえずひととおり出してしまうわね。適当にその辺で待っていてくれる?」
「ああ」
出すというのはアルバムのことだ。話の流れで昔の写真が見たいと口走ったら、案外あっさり了承してくれた。
母様もおじい様も留守だからたいしておもてなしはできないけれど、うちに来ればいいわ。
そんな文句に誘われて、のこのこ私室にまであがりこんだのだ。図々しいような気はするが主が許したのだからいいだろうと言い訳しておく。誰にともなく。
本棚の前で金髪がふわふわと揺れている。ああアリサだなあと思いながら、彼はその動きを目で追った。
正直なところ後ろ姿を眺めているだけで退屈しない。ちょっとやそっとの時間などゆうに過ぎ去るが、無言で女の子の背後から視線を注ぎ続けるという構図は、傍から見ればあまり良いものではないのかもしれなかった。
そんなわけで、ぐるりと首を巡らせる。部屋は記憶にあるころと、特段変わってはいない。いや、調度や雰囲気自体は変わっていないけれど、本の数は明らかに増えている。棚に納まりきらずに机に積み上げられている本、ノートの山、書きつけの束。かつて彼女の寮の部屋は綺麗に整理整頓されていたから、少し新鮮だ。一段落つけば本もノートもあるべき場所へちゃんと戻すのだろうが、いかにも中断したような室内の様子に、ほんの少しだけ罪悪感も芽生えた。
「悪いな、アリサ。こんな急に」
要請の都合でルーレを経由することになる。それがわかったとき、一日滞在することを決めたのはリィンだ。ルーレで列車に積み込むものがある――そう前置きしたうえで、人の悪い笑みを浮かべたレクターの軽口に、嫌そうな顔をしてみせながら乗ったのは自分。
ギリギリまでトリスタにいてもいいんだがな、どうせなら乗ってけよ。積み込みの間はルーレで暇つぶしすりゃいいだろ? オッサンには黙っててやるからよ――
黙っていてやるもなにも、あの何もかも見透かすような目をした男にはリィンの交友関係も、とるであろう行動も筒抜けなのだろう。ユミルの両親にならともかく、あの人になら何を言われる筋合いもない。口出しだってさせない。してくるわけも、ないだろうけれど。
急な連絡にアリサは驚いたようだったが、会いたいと言えば快諾してくれた。今日はたまたま外出の予定もなく、自習の日だったそうだ。次の日は休み。入れ替えればいいだけなのだから何の不都合もないと、はっきり言いきった通信の声は弾んでいた。
周囲の思惑がどうであれ、抑えつけていた欲求がかなうとあれば浮き足立つのがやはり人間というものだ。久しぶりに会って、たくさん話をして、人並みのまともなデートを楽しんだ。アリサも終始笑顔だったが、予定を組み替えさせたという点は変わらない。
「あら、べつにいいのよ。言ったでしょう?」
抜き出したアルバムを机の上に重ねて、上目遣いで見上げられる。
「私も貴方に逢いたかったの。今日は長いこと一緒にいられたし……だから、すごく嬉しい」
ふわっと頬を染めるさまはひどく愛らしく、リィンは眦を下げた。想いを通じ合わせてからのアリサは割合わかりやすい。いや、わかるようになったというべきか。多少態度も変わっているのだろうが、それよりなにより前提として「好かれている」ということが頭にあれば、かつては謎だった彼女のあれやこれやも説明がつきやすくなる。少なくともこの点で、不安や焦燥に駆られることは随分減ったように思う。
「アリサ……」
何かいい雰囲気になりかけたところで、彼女はくるっと本棚に向きなおってしまった。
「とにかく! もうあまり時間がないんだから、早いところ全部出してしまわないと。ほらリィン、それをリビングに運んでちょうだい。あとでお茶も入れてあげるわ!」
「あ、ああ」
微妙に間の取り方が不自然だと思ったら、どうも照れているらしい。髪の隙間から見える耳が赤い。残念なような、くすぐったいような。ふわふわと地に足のつかない気持ちのままで、彼は大きめの机の上に改めて意識を戻した。写真は嵩の割に重いのだ。アリサも腕力がないではないが、ここはやはり男性であるリィンが多くを運ぶのが筋というものだろう。
そんなことを考えながらアルバムに伸ばした指が、予想外に震えた。
写真が飾ってある。
何の変哲もない写真だった。学生たちが親しげに、肩を組んだり手をつないだり、ポーズを決めていたり。こういう写真は世にあふれている。そもそも、これとまったく同じものが自分の部屋にだってある。毎日見ている。それなのに。
場所が違うからだろうか。それだけで、切り取られた時間の中の楽しげな彼らに目が吸い寄せられた。
少女たちの頭に手を載せて笑う青年。からかっているようにも、慈しんでいるようにも見える――少なくとも、影は見当たらない。
何度も考える。考えても答えは出ない。あの頃の彼は、いったいどれだけのものを隠して抱え込んでからりと明るく振る舞っていたのだろう。
「リィン? どうしたの、止まってるけど……」
次の数冊を抜き出してきたアリサが不思議そうな声を出した。気づかないうちに写真立てをつかんでいたらしい。本来向かっていたはずの場所とは違うところにリィンの指先をみつけ、ふとちいさく息をついたのが聞こえた。
「! アリサ、その……」
「不思議よね」
ちいさな頭がこてんと肩にぶつかる。寄りかかられたような体勢で、けれど抱き寄せることもこちらからすり寄ることもできない。彼は与えられる温もりを享受しながら、ぼんやりと彼女のつむじを見下ろした。
「その写真を見ていると、とても悲しい気持ちになるのは事実よ。ううん、切ないって言ったほうがより正確なのかもしれないわね」
花色の唇が控えめに弧を描く。でもね、とアリサは続けた。
「だからって手放すこともできない。隠したいとか、捨ててしまいたいとも思えないんだわ。切ないのに、やっぱりとても幸せな気分にもなるから……なのかしら。それで結局、いつでも目につくようなところに置いてしまっているのだけど」
「……俺も同じだ」
この写真が一番強く意識させるのは、何もかもが欠けることなくそろっていた、輝かしいあの頃。
あのころとは色々なものが変わった。皆がそれぞれ、自分に課した役割を果たすために散り散りになった。ちょくちょく見ている顔がある。随分見ていない顔がある。そして、二度と会えない顔もある。
痛みは鈍らない。今でも鋭く胸を刺し、ときに呼吸さえ支配しようとしてくることもある。それでもこの“瞬間”を忘れることはできなくて、なかったことにはしたくなくて、傷は塞がないまま敢えて血を流し続けるだけだ。たぶん自分だけではなくて、皆。
「貴方の痛みは貴方だけのもので」
すり、と金髪がこすりつけられた。少女らしい甘やかな香りが微かに漂ってくる。
「どれだけ貴方に近づいたところで、私たちはそれを共有できない。置かれた立場も違う、能力も違う、性格も違う。痛みの大きさも違うでしょう、形もきっと少しずつは違うわよね。想像することはできても、決して肩代わりすることはできない。貴方も私も、立ち続けるには自分自身の足を使うしかない」
「……ああ」
リィンはゆるく目を閉じた。手探りでアリサの腕を手繰る。華奢な指先を探り当てて絡めると、握り返された。
「でもこの痛みが生まれる場所は同じだわ。完全に同調することはできないかもしれないけれど、それでもあのときあの場所に居た私たちは確かに同じものを抱えている」
「わかっている。そう思えるからこそ、きっと俺も今立っていられるんだと思う。……捨てたくはないんだ。どんなに苦しくても、これを捨ててしまったとしたら、そのとき俺は俺じゃなくなる」
悲しみだけではない、幸せすら感じられなくなってしまうのだろう。
苦痛から逃れる代わりに、安らぎをも手放す。
この傷から目をそらすということは、忘れるということは、すなわち感情を失うということだ。
楽にはなるのかもしれない。けれど心を殺した人形のような生に何の意味があるだろう。踏みとどまっているのは、何も立ち止まるなという今際の際の言葉のせいだけではない。諦めたくないものはまだたくさんあって、道はまだまだ途上なのだ。
「リィン」
「俺は大丈夫だよ、アリサ」
囁いて、彼はそっと身をかがめた。一瞬だけ唇をかすめる。ぽっと上気する頬に満足感を覚えて笑った。
「幸せだって思える瞬間がちゃんとある。アリサや皆が与えてくれる。だから」
真面目な話をしていたはずなのよ、という抗議は聞き流した。至極真面目なつもりでいるのだが、彼女にはそう見えなかったのだろうか。
強く抱きしめて唇を塞いでも、アリサはもう逃げようとはしなかった。
「……しかし、すごい量だな」
リビングに運ばれたアルバムは、冊数自体はそれほどでもなかった。ただ一冊一冊の密度が濃い。赤ん坊のころから始まって、よちよち歩きの幼少期から今に至るまで。イベントごとは絶対に外さず、家族のそろった写真も多い。ある時期から枚数が減りアリサ一人の写真が目につくようにはなったが、それには触れずに感嘆の溜息をついた。
昔も今もとにかくかわいい。惚れた欲目を差し引いてもかわいい。写真もいいが、正面に座った本物が微妙に恥ずかしがってこちらをちらちら窺うさまもかわいい。どちらに集中するべきか判断に迷うあたり、少し自分の頭はおかしくなっているのかと疑わないでもない。
「まあ、ちょっとこの量は異常じゃないかと自分でも思うわ……私は一人っ子だし、どうもおじい様も父様もオーバルカメラの動作実験を兼ねてたみたいだから、それで余計ね。で、シャロンはああでしょ」
「ああ。…………シャロンさん、秘蔵のアリサコレクションとか持ってそうだよな」
「や、やめて! ありそうだけど想像したくないから口にしないでちょうだい!」
赤くなればいいのか青くなればいいのか、本人もわからないのだろう。ものすごーく、複雑な表情でアリサは身悶える。
こちらは苦笑するしかない。想像は十中八九、いや十割当たっているだろう。姉バカとでも評すればいいくらいにアリサに愛情を注ぎまくっているシャロンだ、このアルバムの中にはない写真もきっと持っているに違いない。というか自分が彼女の立場なら間違いなくそうする。頼めば見せてくれないかな、などと考えていることを知られれば不埒だなんだと顔を真っ赤にして罵られるに決まっているから、口はつぐんでおくけれども。
「あ、これは学院に入ってからのをまとめてあるのか」
一冊薄いのがあると思ったら、赤い制服から始まっていた。
「ええ、枚数はそんなにないけど。ほとんどは学院の皆と撮った写真よ。VII組と、部活と……写真部の子たちが撮ってくれたのも入ってたかしら」
「ほんとだ、色々あるな」
直前まで一人の写真が多かった分、そのアルバムは余計賑やかで楽しそうに見えた。時間を追うにつれてアリサだけでなく一緒に映っているメンバーの表情もやわらかくなっていっている。VII組の女子皆でぎゅうぎゅうおしくらまんじゅうのようなことになっているものまであって、口許がほころんだ。二枚並んだ写真の左側はラクロスのユニフォームを着てしかめっ面のフェリスと居心地の悪そうなアリサ。周囲に宥められてようやく同じ画面におさまっているという不協和音っぷりだ。反対に右側は二人とも仲良く寄り添って笑顔。わざと並べているのだろう、親密さの対比が面白い。
ページを進めていく。そのうちに背景が急に飾り立てられたものに変わって、ああ学院祭のあたりに入ったんだなと気づいた。ところで、ふと手が止まった。
一枚の写真に目が釘付けになる。
「…………これ」
「え? あ、えと……あああ、忘れてたそこに入れてたんだったわ、ちょっ、待ってリィン!」
リィンは慌てたように伸ばしてきた手からひょいと身をかわした。空を切った手を胸元に引き寄せ、アリサはうう、だの、ああ、だの不明瞭なうめき声をあげている。
構図的には何の変哲もない写真だ。談笑する男女。つまりは画面の真ん中に、リィンとアリサ、二人だけが向かい合って映っている。だが目を引いたのは状況よりも何よりも二人の表情だった。
ひどく、幸せそうだ。
人通りもたくさんあった廊下だ。話題はきっと他愛無いものだっただろう。はっきり覚えていないけれど、確かそうだった。せいぜい一緒にどこを回ろうかとか、さっきどんな出し物を見たかとか、その程度だったはず。だというのになんだ、二人してこの幸せ全開な顔は。
傍からは二人の世界に入っているようにしか見えない。頬を上気させてとびきり愛らしくはにかむアリサに、くすぐったいような慈しむような視線をひたむきに据えている自分。
相手の顔はいい。こんなふうに笑いかけてくれていたのだと思い出せば、ただただ嬉しいだけだ。問題は自身の顔。崩れているというのではないが、何もかもが駄々漏れている。そういえば色々と自覚しかけの頃だった。
「というか、いつ撮られたんだこんなの……」
さっぱり気づかなかった。写真に残っているのはこの一枚だけのようだが、もしかしてアリサといるときの自分はいつもこんなでれでれの顔をしているのか。それはまずくないか。いやまずくはないが気恥ずかしい。穴があったら埋まりたい。だが不思議に目をそらすこともできず、凝視し続ける。少し乾いてきたので瞬きした。
「……ええと。学院祭の後、写真部の子たちが写真売ってたんだけど……リィン、知らなかった?」
「知らなかった。部室の中か? 学生会館にはしょっちゅう行ってたし、廊下なら気づかないはずはないんだが」
「ええ、そういえば部室の中だったわね。毎年恒例なんですって、部室に部員の撮った写真がずらっと並んでね、実費だけ出したら焼き増ししてくれるのよ。私も先輩に教えてもらって、ラウラたちと見に行って、…………そのときに」
つい。
蚊の鳴くような声でつぶやき、アリサは縮こまってしまった。彼女が恥ずかしがるのも無理はない。手元に置いておきたい気持ちになるのはわかる、わかるがだが、恥ずかしい。恥ずかしすぎる。いろいろと。
「って! 待ってくれアリサ、じゃあこの写真ってしばらく写真部の部室に並んでたんだよな!?」
「……しっかり見られてるわよ。そもそも最初に気づいたのがミリアムで、あの子が騒いだものだから余計注目を浴びてそれはもう……」
語る彼女の遠い目は、思い出を懐かしんでいるというよりは悟りを開いた賢者のようだった。まあ、そんな心地にでもならなければやっていられなかったのだろう、その場は。容易に想像できる。
「…………」
「……ついでに卒業アルバムにも載ってるわ、その写真」
「え」
さすがに聞き捨てならなかった。
信じられない思いでアリサを振り仰ぐと、彼女はものすごい勢いで両手をぶんぶん振った。
「わ、私ももらって初めて気づいたのよ! ほら、卒業アルバムに載せる写真って、行事とかで撮りためた中から生徒会と写真部が中心になって選ぶでしょう? アンゼリカさんが面白がって色々口出ししたみたいで、いつの間にかこんなことに……!」
「……ああ、なるほど」
アンゼリカは厳密には生徒会のメンバーではないが、常日頃からトワあるところに私あり、と嘯いて行動をともにしていた。そんな彼女がこんなおいしい機会を逃すはずがない。強制的に休学させられたのがなんとか復帰できて、うきうきしていたのもあるだろう。単に女生徒の写真を見てにやにやするだけで終わるはずがないのだ。
「私は自分だけで持っていたかったの。時々こっそり眺めるだけのつもりだったの……それで満足だったのに。嫌だってことはないわよ、ないけど、恥ずかしすぎるじゃない、こんなの」
「眺める」
反射的に繰り返して、リィンは頭をひねった。
一般に自分の写真というのは、持ってはいても、そう眺めることもないものだ。たとえば幼いころの保護者渾身の一枚だとか、めいっぱいに着飾った記念写真だとか、そういう場合をのぞいては。たいていが思い出を振り返るよすがにするためか、一緒に映っている人を眺めるためか。だがこの写真は言ってしまえば日常の、ほんの些細なワンシーンを切り取っただけのもの。
もしもリィン自身がこの写真をほしいと思う動機があるとすれば、それは。わかりきっている。おそらくアリサにもあてはまるだろうそれは。
一気に頭に血が上った。
「ちょ、アリサ!?」
「仕方ないじゃない嬉しかったんだもの!」
彼が気づいたことに彼女も気づいたのだろう。耳まで真っ赤に染めて涙目になっている。
「そうよ、嬉しかったの! そのときは話すほうが大事で全然気づかなかったんだもの! あ、貴方が、あんな優しい顔で私を見てたなんて、気づいてもいなかったんだもの! 気づいたら、そしたら、もう」
…………無理よ。
最後は細く呟いて、アリサは後ろを向いてしまった。何が無理なのかは具体的にわからないものの、じんわり伝わってくるものはある。
「アリサ」
だらしなく頬が緩むのを止められない。絶対恰好いい顔にはなっていないだろう。自嘲しつつ、それでもこちらを見てほしくて名前を呼ぶ。
「……気持ちはわかる。俺もあのときこの写真を見ていたら、絶対買ったと思うし」
さすがに教頭のように手帳に挟むまではできなかったかもしれないが。だって落とした時が恐ろしいではないか。自分と女子生徒の幸せそうなツーショット写真だなんて、単に見られるだけならまだしも持ち歩いていると知られたらどれだけ遊ばれるかわからない。怖すぎる。
ちらりと視線だけが振り向いた。
「リィンも欲しいと思うの? この写真」
「当たり前だろ」
「…………あげましょうか?」
え、と問い返すと今度こそちゃんと向きなおる。聞こえていなかったと思ったのかもしれない。はっきり口を動かして、それから小首をかしげて(その仕種もかわいい)。
「だから、欲しいならあげましょうかって。私は卒業アルバムがあるし、そっちを見ればいいから」
「いや」
即答して、自分で驚いた。
欲しいとは思う。思うのだが、同じくらい、べつに要らないと囁いてくる声も聞こえる。深く考えるまでもなく理由は簡単に出てきて、リィンはちいさく笑った。不思議そうな瞳はわずかに羞恥を含んではいるが、単純に純粋に彼を見つめている。
ああそうだ、あの頃ならともかく、今はいちいち写真になんか頼らなくたって。
「要らない。アリサに会いたくなったら直接来るからさ。写真なんかより本物がいいだろ? 表情も動くし、声も聴ける。何よりちゃんと触れるんだから」
「そ、れは」
何かを感じたのかもしれない。逃げだそうとしたところを間一髪身を乗り出して捕まえた。
二人の間にテーブルはあるが、たいした障害ではない。ごく普通に歩いて回り込んで近くに行く。細い手首だ、鬱血しない程度に、けれど抜きとれない程度に力を込めるのも容易い。
「そうだけど。……リィン、貴方、目の色変わってるわ」
「そうか? そんな感覚はないんだが。髪の色は?」
「………………貴方、わかってて言っているでしょう」
「ははは」
「はははじゃなくて……!」
アリサが悪い。いや、悪くはないか。
ふてくされて目を逸らす彼女の、けれど手は熱い。唇を尖らせるのは拒絶ではなく照れ隠しなのだと、今では知っている。
目を覚まして最初に探したのは、時計だった。
次に自室のベッドでないことに気づいて、顔はあげないまま手だけ動かしてARCUSを探す。表示されていた数字は目覚ましを設定した時刻からちょうど五分前で、体内時計の正確さに我ながら呆れた。
部屋はまだ暗い。夜明け前だ、妥当だろう。工業都市ルーレといえど、明け方に活動する人間はさすがにほとんどいないと見える。カーテンの隙間から差し込む人工的な光は、かろうじて視界を確保できる程度の弱さだった。
極力音をたてないように、ベッドを揺らさないように慎重に身体をずらす。やわらかな温もりからは離れがたいが仕方ない。本来なら持てなかったかもしれない時間だ、それを享受できただけでも幸運だったと思わなければ。
床に降りれば、裸足の指先がひやりとした冷たさを感じた。旅装は暗い色なので少々探しづらい。目を凝らしながら拾い集めて、手早く身支度を整える。
「……ん、んん」
人肌が離れたからか、衣擦れの音に反応したか。すやすやと寝息をたてていたアリサがうめいてごそごそ身じろぎした。剣帯を留めながら振り返る。
「すまない、起こしたかアリサ」
「ん、もう……いくの? みおくり……」
寝ぼけ眼で、口調も多少舌足らずになっている。苦笑して前髪を梳くと、気持ちよさそうにふにゃりとすり寄ってくる。
「寝ていてくれ、まだ陽も出てないんだ。このフロアはオートロックだったよな?」
「ん、そう……だけど」
始発列車が出る前に駅に行って、特別車両に乗り込まなければならない。このことは昨夜のうちに説明してあった。起こさずに行くとも言ってあって、了承は得ていたのだけれど、ふにゃふにゃ骨が抜けてしまったかのような動きをしつつも起き上がろうとするところを見るに、最初から見送ってくれるつもりだったのかもしれない。
「みおくり……」
「だから寝てていいって!」
リィンは慌ててブランケットを華奢な肩にかけなおした。あまり動くと見える。それは大変都合がよろしくない。特に今回は要請自体はあまり気の進まないものなのだから余計だ。誘惑を振り切っていくのがどれだけつらいか、まあ、彼女に男の事情など想像できるはずもないので、何も考えていないのだろうとは推測できるのだけれども。
「そこから見送ってくれ。……行ってくるよ、アリサ」
「いってらっしゃい……ねえリィン、はやくかえってきてね」
「ああ」
胸が詰まって、絞り出すような声になった。彼女は気づいていない。ふわふわほわほわと、夢と現の狭間を漂っているかのような表情で、だけど溢れんばかりの思慕を隠そうともせずただ彼を見つめている。
リィンはたまらず身をかがめた。金髪がさらさらと音をたてる。こめかみに唇を落とし、そのままの距離で囁いた。
「なるべく早く帰ってくる」
「まってるわ」
そのやりとりを最後に、今度こそ離れた。
今回に限らず要請を終えてリィンが帰るのは、アリサの許ではなくトリスタの街だ。次に会えるのは、それこそ触れ合える機会となれば、いつになるのか見当もつかない。そんなこと二人ともわかっている。忘れているわけでもない。でもこんな他愛もない約束が確かに力になるのだ。
シーツの中から手だけ出して振っている。手を振りかえして、静かに扉を閉めて。リビングを横切り、玄関を出て、ロックのかかる音に耳を澄ませて。
「……よし」
独特の浮遊感が全身を包む。降りるエレベーターの中で、リィンは拳を握りしめた。
大丈夫。つらいことや苦しいことと同じくらい、楽しいことや幸せなことがある。前に進むための力はいささかも衰えていない。走れるうちは、走るだけ。
そうして切り開いたその軌跡こそ、道と呼ばれるものなのだと思うから。
リィン以外の7組の面々は飛び級卒業扱いだと勝手に思ってます。
よってに卒業アルバムもトワ達とアリサ達が同じ年に卒業生として載る、って前提で書いてみた。
士官学院に卒アルがあるのかって、学祭があるんならあるだろうねってことで。
そしてあの7組+先輩の写真は2年にわたって卒アルに載るんだねきっと、と。
実際こういう状況ありそうだと思うんですよ。
だって二人とも目立つらしいし、「学生時代の思い出」コーナーにイケメンと美少女のカップル写真とか青春て感じで定番じゃないですかー。
ものっそい公開プレイになるけどね!
どうせ駄々漏れだろうしいいよね! そもそも集合写真の時点で公開プレイだよね!
集合写真の撮影時期は、クロウとアンゼリカの服の矛盾に目を瞑れば学院祭のライブ後くらいが妥当かなと勝手に思っています。
センターのエリオット先生の存在感と、ノリとはいえ女の子の手を引っ掴んで超笑顔なリィンさんさすがやで…と思った。