勝敗のない勝負
 四角く切り取られた窓から、四角い月明かりが差し込んでくる。
 月は下弦、高さから見て夜半過ぎといったところか。埃っぽく狭い空間では身体の収まりが悪い。ケビンは膝をもぞもぞさせて、具合のいい姿勢を探した。重心が安定する。
「……あと少しやったんやけどなあ」
 ぼやく声は存外強く空気を震わせて、隣に座っていた娘が首だけ動かして彼を見上げた。
「ケビン。もう少し声を落として」
「大丈夫や、見てみいこの埃。何年も人が入ってへん証拠や。植木も伸び放題やったし、誰も寄りつかんのやろ。まあ言い換えればターゲットからは遠いんやけど」
 ターゲットとは、古代遺物、いわゆるアーティファクトとその持ち主のことである。アーティファクトは失われた技術をもって作成された道具であり、恐ろしいほどの力を秘めたものが大半だ。遺跡から発掘されることの多いそれらは、たいていの場合は力を失っていて人々の脅威とはなり得ない。だが、ときどき駆動しているものがみつかることもある。未だ力をもつアーティファクトは七曜教会預かりになるというのが各国共通の規則だ。しかし過ぎた力を欲する輩というのはどこにでもいるもので、今回の任務はありがちといえばありがち、闇市場から流れたアーティファクトの回収とその不正所持者の捕縛だった。
「セサルがその人はアーティファクトを肌身離さず持ってるって言ってた。なら寝こみを襲う?」
「それがええやろ。しかしなあ、錬度もたいしたことない警備しか雇えんちゅうのになんでまたアーティファクトなんか……猟兵崩れ以下やで、あれ。それとも闇市で金使いすぎて節約中なんやろか」
「さあ。そこまでは私もわからない。でも本当にそうなら、ずいぶん計画性がない人」
「はは、違いないわ」
 そのたいしたことない警備を潜り抜けきれず、こんな埃っぽい場所に身を潜めているのはあまり納得がいかないのだが。しかし高度に訓練された兵士よりも逆に素人っぽさを残している相手のほうが実はやりづらい。効率だの計画だの、それらを無視して気まぐれで展開される作戦は、まぐれではあってもときに他を凌駕することがあるのだ。その可能性が捨てきれない以上、行動は慎重に運ぶべきだった。
 屋敷の敷地は広い。広さだけならリベールの王城くらいある。庭園の中に建物が点在している形で、庭木は鬱蒼と茂っているものが多く、中央部はともかく端のほうは視界がきかない。今いるのは庭の隅の倉庫だった。屋敷の主が暮らす母屋と対角線上にあり、どうも半ば存在を忘れられているらしく、扉の鍵は錆びついて窓のガラスは割れていた。野放図な警備から身を隠すため、埃っぽいのを我慢して一時かくれんぼ中である。騒ぎになっても切り抜ける自信はあるが、極力静かに終わらせてしまいたい。
「今は一時くらいか。夜通し警備言うても人員そう多くないみたいやし……そうやな、明け方がええ。ゼロヨンマルマル、行動開始で行こか」
「…………」
 返事はなかった。
 時刻は夜中、普通ならとっくに寝台に入って夢を見ている頃である。もしかして寝ているのかと見下ろした瞬間、きゅるるると切なげな音が響いた。
「…………リースさん?」
「お腹すいた」
「お前なあ……」
 ケビンはがっくりと肩を落とした。リースは悪びれる様子もなく、平然と自身の腹をさすっている。
「お腹がすくのは仕方がない。人は生きている限りお腹をすかせる。自然の摂理」
「何偉そうに言うとんねん。お前今日の晩飯もオレらの三倍食っとったやんか、覚えとるで」
「人によって食事の適正量が違うのも当たり前」
「……へいへい。すいませんでした。……しかし困ったなあ……」
 お腹すいた、と主張しつつも何も食べ始めないところを見るに、食料など持ってきてはいないのだろう。ケビン自身、今回の仕事はさっさと終わらせるつもりでメルカバを降りた。
 ただ、自分は多少の空腹でも問題なく動けるが、リースは空腹だと戦闘能力が著しく落ちる。というか食べ物しか視界に入らなくなってくる。それは非常にまずい。
「あ、そうや」
 ふと思い出して、ケビンはポケットを探った。期待したとおり、何かのときのためにとつっこんでいた未開封の板チョコが一枚。体温で多少やわらかくなってしまっているものの、食べるに問題はなさそうだ。リースの鼻先にずいと突き出して、軽く上下に振った。
「これで我慢しとき」
「…………あ。チョコレート」
 さも今気づいたとばかりにリースがつぶやく。すぐに手を伸ばすかと思ったが、意外にも彼女はぐりんと首を回してケビンを気遣わしげに見やった。
「……ケビンは?」
「んあ?」
「ケビンはお腹すいてないの?」
「…………お前も成長したんやなあ……」
 昔なら一も二もなく独り占めしたかもしれないのに。多少方向性が間違っているような気がしないでもないが、というか至極悲しいような気もしないでもないのだが、それでもほろりと来てケビンはそっと涙を拭うふりをした。
「オレはええんや、それほど腹減ってないし。全部食べ」
「でも、最後に食事してから六時間はたってる」
 任務で時間が前後することはあるものの、自分たちはなんだかんだで規律を重んじる教会の人間だ。急ぎの用事がない限り、食事も睡眠も適正量を規則正しくとっている。その場合そろそろ空腹を感じる時間であるということは否定しようがなかった。六時間前、大の男の三倍の量を平らげたリースは別としても。
「ええて。オレはお前と違って腹減っても動けんいうことはないし」
「……べつに私だって、お腹すいてても動ける」
 嘘をつけ、と口に出す代わりに、彼はちいさく息をついた。
 確かにまったく動けないということはないだろう。だが注意力が散漫になるのは否めない。彼女の実力は重々承知しているが、万が一ということもある。下手に空腹で放り出して怪我でもされたらことではないか。
 強情なのは昔からだが、少なくとも食べ物を譲られて固辞するなどということはなかった。いいと言っているのだから、それにこちらは建前でなく本当にそう思っているのだから、素直にもらっておけばいいのに。
 リースは黙ったままのケビンにちいさく首をかしげ――やがてなんとか納得してくれたのか、チョコレートの包み紙を破き始めた。ぱきりと小気味いい音は聞こえない。くにゃりと曲がった茶色い塊を、手を汚さないように気をつけながら口の中に放り込む。
 なんとなくその光景を眺めていると、リースが突然こちらを向いた。
 細い指が頬にかかり、唇にやわらかいものがぶつかる。
「んんっ?」
 ケビンは目を白黒させてうめいた。口から鼻へ、ふんわりと甘い香りが通り抜ける。びっくりして開いた唇の隙間から生ぬるい何かが押し込まれてきて、本能的に飲み下す。
 視界いっぱいに広がったリースの顔は、すぐに離れていった。
 きっと今自分は呆然としているのだろう。対照的にいつもおとなしげで無表情に近い彼女の顔には、してやったりという色がありありと見て取れる。
「飲みこんだ。私の勝ち」
 その声を聞いて、彼方に吹っ飛んでいた諸々がようやく戻ってきてくれた。
「……いやいやいや、勝負ちゃうやろ。ていうかホンマお前ら姉妹そろっていたいけな少年を」
「あのときは確かに少年だったけど、今は違う。ついでに今も昔もべつにいたいけじゃない。ただのヘタレ」
「ひ、ひどいですリースさん……」
 今は何を言っても負けるような気がする。要するに、リースはなんとかしてケビンにもチョコレートを食べさせたかったのだろう。口で言ってもうなずかなかったから、姉の真似をして実力行使に出たわけだ。ただあのときの自分は正真正銘子どもだった。対して今は立派に成人した――というかぶっちゃけた話イロイロと知っている大人の男である。それでいいのかシスター。
 頼むから他の男にはやらかしてくれるなよとか、いや自分相手でも問題はあるんじゃないかとか、言いたいことは山積みだ。
 ただここで、負けん気がむくむくと頭をもたげてきた。いくらヘタレだマゾだと言われようと、リースは年下で妹分なのである。兄貴分としてやられっぱなしで終わらせるわけにはいかない。残りのチョコレートはすべて彼女の腹の中に収めてやらなくては。
 思いついたら即実行、ケビンはリースの持っていたチョコレートの包みを奪い取った。「あ」と抗議の声があがるが無視、一気に頬張る。素早く腕を引いて、リースの唇に自分のそれを押しつけた。
 慣れていないせいで、ちいさな口は空気を求めてすぐに開く。すかさず舌で溶けたかたまりを押し込んで、遠慮なく内側をかき回した。本能的に逃げようとする身体は体術の技をかける要領でがっちり固定し、引き寄せて腕の中に閉じ込める。
 しかしそこまでしてもリースは強情だった。すでに完全に溶けてしまった甘い液体を飲み込まず、ケビンの服を引っ張って抵抗を試みる。最低限息が続くように押し込むだけでなく吸い上げれば、その隙を狙って逆流させようとしてくる。
 甘い。
 狙いがなのか、チョコレートがか、リースの唇か。どれがなのかははっきりとわからなかったが、その一言だけが脳裏に閃いた。
 そもそも経験の差は明らかだ。勝負はいつかつく。徐々に細い肢体から力が抜け、体重が預けられる。たいした体力だとぼんやり思いながらも、ケビンはやわらかな感触を思うさま貪った。歯列の裏まで甘ったるくて苦い。リースの喉が何度か鳴る。
 最後に唇の隙間からこぼれた雫を舐めとってご丁寧に戻してやって、それからようやくケビンはリースを解放した。
 呼吸を整えようとしてか、額を彼の胸に押しつけたまま肩を上下させる。吐く息こそ湿っていて今しがたまでの行為を彷彿とさせるものの、眉の形は不機嫌そうだ。碧色の瞳は多少潤んで頬も上気しているが、次に彼女の口から出てきたのは色っぽさとは程遠い淡々としたつぶやきだった。
「……甘い」
「まあチョコレートやし」
 応じる。
「それはともかく。最終的にはオレの勝ちや」
 チョコレートは三分の一がケビンの腹に、三分の二がリースの腹に収まった。論じるまでもないと思ったのに、リースは不満げに唇を尖らせる。
「勝ちじゃない。口の周りべたべたする……ケビンのヘタレ。へたくそ」
「っがーん」
 下手といわれたのは初めてだ。確かにはみ出したチョコレートまで数えれば完全に腹に収まったとは言いがたいから、無駄になってしまったと責められれば反論は弱くなるのだけれど。リースが抵抗しなければもっとうまいことできていたはずで、だから責任はお互いにある。……って、そういうことを話したいんだっただろうか。
 ケビンはずるる、と壁に背をつけたまま姿勢を崩した。土ぼこりだのなんだので汚れた床をこすり、服も汚れるがこの際どうでもいい。
「…………なんか力抜けたわ」
「食べたのに」
「いや食べたけどな。空腹の問題でなしに」
 リースが真っ白なハンカチを取り出して口の周りを拭く。そのまま差し出してきたので、ありがたく受け取ってまだ白い部分で自分の唇も拭った。二人して口の周りにチョコレートをくっつけて犯人確保、なんていくらなんでも間抜けだ。
 しかしこんなことをしておいてなお、あっけらかんと会話できる自分たちも奇妙なものだと思う。変に艶っぽい空気になっても困るし、ぎくしゃくしても困る。ある意味望むとおりの“事後”ではあるものの。
 まあいいか、とケビンは早々に考えることを放棄した。ハンカチを返して頭を任務に切り替える。
「さっき言ったとおり、ゼロヨンマルマルでええな?」
「うん。あと約二時間半……寝るには少し中途半端」
「寝たいなら寝てもええよ。起こしたるさかいに」
「いい。しりとりでもする?」
「しりとりかい!」
 突っ込んだが、だからといって他にいい暇つぶしの方法も思いつかない。床に手をついて身を起こす。手のひらに伝わる感触はざらついていて、やっぱりこの建物は相当汚いなあとげんなりした。いくら準備期間が短かったとはいえ、もう少し隠れ場所の見当をつけておくのだった。
「食べ物の名前は禁止やで。あと地名も」
「食べ物はわかる。けど、どうして地名?」
「お前の場合地名からその土地の名物に頭が行くから。さっきのチョコレートが最後や、もう何もないで」
 ケビンは私のことなめてる。リースはつぶやいたが、それ以上混ぜっ返しはしなかった。むっとしながらもうなずいて、ごそごそ座りなおす。
「じゃあ魔獣」
「魔獣も食えるのおるしなあ」
「じゃあ聖典に出てくる言葉」
「食べ物抜きで?」
「それじゃあ……」
 結局いつまでたってもしりとりは始まらず、決行時刻まで二人はただ延々としりとりの題材について提案と駄目出しを繰り返していたのだった。
--END.
すいません。
…いやでも楽しかった! 書いててすごく楽しかった!(超笑顔)
二人の初めてはきっとこんなノリ。平然と。
普段はべたべたせず、で二人きりのときたまーに濃ゆくいちゃついてたりするといいと思います。平然と。
ケビンの青い情熱はたぶん姉様に持っていかれちゃってるんで、基本はリース→ケビンだろうなあとは思うものの。
でもケビン、リース大切だよね…めっちゃ大切だよね。3rdはもう最初から最後までニヤニヤし通しでした。
(2008.08.17)