闇の底で
 身体が重い。
 閉じた視界には黒と赤が明滅し、ときおりどろりと何かが流れる。
 寝返りを打とうとしても力が入らず、ケビンはちいさくうめいた。







 身体が重い。
 聖痕に宿る力を使うと程度の差こそあれ、いつもこのような状態になる。聖痕自体は自然発生したもので、だから持ち主に負担をかけるなどということはないはずだ。実際他の守護騎士たちが聖痕の力を行使するのに、いちいち体調を悪くするなどと聞いたことはなかった。おそらく直接に苦痛をもたらしているのは、取り込んだ魔槍ロアの力の質とその際に受けた精神的な傷なのだろう。
 目を開けようとしてもまぶたが動かない。声を出そうとしても喉を震わせる力すらない。状況を把握したくても、そのための行動すらまともにできなかった。
 自分の中に閉じ込められる。
 名を呼ぶ複数の声は聞いた。一番近くにあったのは、久しく聞く機会のなかった、けれど一番聞きなれた声。直前まで口もききたくないとばかりにつんととりすましていたくせに、やけに焦った風で呼びかけてくるのに応える余裕はなかった。
 血と闇の匂いを濃くまとわりつかせた自分を、彼女はどう思っただろうか。
 第四星層の探索が終わりに近づいていることはわかっていた。そろそろ大物が出てくるかもしれないという心構えもしていた。だから戦闘が本職のメンバーを選んで同行を頼み、準備はそれなりにしていたはずだったのだ。捕らわれたときはしまったと思ったが、なんとかできる自信はあった。都合のいいことにリースはいない。彼女にさえ見られないのなら、あの禍々しい魔槍を発動させることにもそれほどのためらいはなかった。心の底から信頼しているとは言いがたいけれども善良な仲間たちを、こんな場所で死なせるには忍びない。だから。
 そう思った矢先、妹分は勇ましく飛び込んできたのだった。やけに男前なことを叫んで悪魔に立ち向かう姿は、遊撃士たちをして感嘆せしめるものだったらしい。一人で調伏できるほど生易しい相手ではないことはわかっている。でも、状況は打破できるかもしれない。彼らだけでなくケビンもまた希望的観測を持った。
 けれど、ことはそう簡単に運ばなかった。
 あの悪魔の一撃でリースが吹っ飛ばされた瞬間。ケビンは、自身の周囲の時が凍ったような錯覚を覚えた。さすがに従騎士としての訓練を潜り抜けてきただけはある、リースはたくみに衝撃を殺して地面に転がったが、悪魔はそれでケビンたちに注意を戻しはしなかった。追い討ちをかけるかのように腕を振り上げて――
 一瞬一瞬を切り取ったかのようによく覚えている。
 まず背中が熱くなった。そしてすぐに、拘束されていた身体は自由になった。
 魔槍からにじみ出る血と闇の匂いは、最早ケビンの身に染みついたものだ。禍々しい赤い光が背中で花開くのを感じながら、彼は笑った。酷薄に。冷たい目をして悪魔を断罪する自分は、仲間たちの目に、彼女の目に、いったいどのように映ったことだろう。
 見開かれた碧色の双眸にあったのが驚愕だけで、嫌悪や恐怖の類でなかったことはただ救いだった。
 そこから先は一方的な殺戮。
 あんな光景を見てもなお、変わらず接してくる皆は強い。影の王と自分の間に迷わず立ちはだかったリースの背中は、ちいさいのに大きかった。同調して自分をかばうように周囲を囲んだ仲間たちは、いったいどこまでお人よしなんだと――みっともなくすがってしまいそうに、なった。すぐさま鉄の意志で押さえ込んだのだが。
 リースの前で魔槍を発動させたくはなかった。赤い光と無数の棘は、否応なしにあの日の光景を思い出させる。
 他ならぬ自分が放った棘に貫かれ、優しい笑顔で事切れていた大切なひと。大好きだったひと。
 あのときケビンは、ルフィナだけでなくリースをも失った。
 いくら家族同然に過ごしてきたとはいえ、おまえの姉を殺したなどとどんな顔で伝えろというのか。いつか真実は明らかになる。そして彼女を失う日が来る。それはわかっていたけれど、その瞬間を少しでも引き伸ばしたくて、色々と理由をつけては避け続けた。
 会いたくなかった。いや、会いたかった。会いたかった。
 ケビンにとっての最優先はルフィナだ。でも、リースのことだって大事だった。ルフィナを失った今、彼にはリースしか残されていない。リースは怒っているだろう。心配しているだろう。傷ついているだろう。そう思いながらも連絡すら取らず放っておいたのは、そうするより他に彼女との絆を保つすべが考えつかなかったからだ。
 もっとも、もう隠し通すことはできなくなってしまった。こうなってはすべてを打ち明けるしかない。リース一人ではなく、皆に明かさなければ終わらない。影の国はおそらくそのために作られた。未来永劫苦しみ続ける。罪人にはそれがお似合いだ。

 赤と黒に彩られ、苦痛のみに支配されていた感覚にふと涼が差した。

 一瞬遅れて触覚が追いついてくる。誰かが額に触れたのだ。しなやかで細く、冷たい指。導かれるように、ほんの少しだけまぶたが動いた。
「…………ぁ…………」
「……ン? ケビン」
 ぶんぶんと虫の羽音のような雑音がする。それらを切り裂いて、涼やかな声がまっすぐ耳に届いた。
「…………リー……ス?」
「うん」
 目はちゃんと開かない。しかし聴覚は存外鋭く、間違えずに彼女の声を拾った。気配でわかる。吐息すらかかりそうなほどに近く、おそらく自分はどこかに寝かされているのだろう。汗を拭っているのか冷たい布が額や頬、耳元に触れては離れてゆく。
 布よりももう一度指で触れて欲しい。リースが生きて動いていると確信できる指で。そう言いたかったが、代わりにケビンは別のことを口にした。
「……ぶじ、やな。ケガは」
「ない。…………ケビン? 混乱してるの? みんな無事だった。庭園に戻ってきた。覚えてないの?」
「そ……」
 そうだったっけ。
 ああ、そういえばさっきまでそんなことを考えていたような気もする。声を聞いて、何かいろいろなものがすっ飛んでいってしまったようだ。
 無事。生きている。
 ――失わなかった、とりあえずは。
 手を動かそうとしたが、動いたのかどうか自分ではわからなかった。しかしさすがに目ざとい。リースはケビンの意思を正確に読み取ったらしく、熱の行き場がないほどに熱く苦痛だった手のひらが、やわらかく冷たい感触に包まれた。ああ、彼女の手が冷たいのは水を触っているからか。今更思い至る。
「言いたいことがたくさんある。だからさっさと元気になって。そうじゃなきゃ困る」
「……ん……」
 返事代わりにうなるのが精一杯だ。わかっている。こちらにも伝えなければならないことがある。
 その瞬間を思うと、胸の中が黒く塗りつぶされていくような錯覚に襲われるけれど。リースの命が失われるかもしれなかったあの瞬間に比べれば、なんて些細な苦痛なのだろう。
 大切だ。大切だ。大切だ。
 だけどもう、そばにはいられない。
 別れのときが間近に迫っていた。
 せめてつながりは保っていたかった。“外法狩り”などと呼ばれ恐れられても、それでも朗らかに振舞っていられたのは、彼女だけはなんだかんだ皮肉を言いながら味方でいてくれると信じていたからだ。
 でも、真実はいつまでも隠しとおせるものではない。こうなると、慈悲深い女神が与えてくれた猶予は存外長かった気もする。
 リースは無事だった。もう他に何も望むことはないのだと、ようやく気づいた。そばにいられなくてもいいのだ。つながりを捨てきれなかったのはあくまで自分の弱さとわがまま。
 自分はこの影の国で罰を受けるだろう。妹分との絆を失い、慕わしい人たちの面影と優しい思い出だけを抱えてここに残る。ケビンさえ取り込めば、この世界はきっと他の人たちは解放してくれる。彼らは強い。現実に戻って、優しくもたくましく生きていくことだろう。
「リー……ス」
 未練はある。だから名を呼んだ。でもどうしようもない。
 せめてそのときまでは、昔どおりにじゃれあって過ごせるように。
 わかったとでも言いたげに軽く髪をなでる手は、妹というよりは姉のような所作だけれど。
 最後に向けられるまなざしが憎しみにあふれたものになるであろうことは、最早確信だった。それでもいい。それでいい。こんな最低男のことなどさっさと忘れて、できるなら騎士もやめて、静かに平穏に暮らしていってくれますように。
「――……」
 耳元で何かささやかれたが、聞き取れなかった。意識が急速に闇に堕ちてゆく。
 まぶただけでなく心の目も閉ざして、ケビンは深い眠りへといざなわれていった。
--END.
ネガティブマゾケビ(略)
このあと五話冒頭の「容態も落ち着いたので」に続きます。
六話はじめの開き直ったよーな清々しい笑顔の裏でこんなこと考えてたんじゃないかなあという。
最初は四話ラストのこともあったし「お、ふっきれたか?」とか思いましたが、六話七話にかけてあーなんだヤバい方向にふっきれただけだったんじゃないかと。どんだけマゾなの。いや真性マゾではないと思いますが。でもでも。
ケビンはリースがどれだけ自分のことを大切に思っているかとかは考えてなかったんじゃないでしょか。なんかそんな感じ。懐かれてるのはわかってたけどそれだけ、みたいな。
仲間たち相手にしても、たとえばヨシュアとかにはっきり言われるまではちゃんと好かれてるとか気づいてもいなかったっぽい。究極的に自信がないってことなんだろうか。
覚悟というよりはやけくそで紫苑の家に突入し、いざ打ち明けてみれば思ったのとは違う反応でさぞびびったことでしょう。そんでもって煉獄での180度方向転換した開き直りっぷりに笑った。どんだけリース支えにしてたんだよ。
しかし疑問なのですが、守護騎士には従騎士がつくけど、もちろん守護騎士付きじゃない従騎士もいるわけですよね。彼らは正騎士につくのか、それとも単独で仕事をしているのか。ケビンが従騎士時代誰についていたかとか一人で仕事をしてたのかどうかとか明示されてなかったので気になります。
守護騎士の従騎士→正騎士になった場合の身の振り方もよくわからん…そのまま守護騎士付きなのかなあ。それとも独立? もしそうだとしたらリースが将来正騎士になったときどうなるんだろう。ずっと一緒に仕事してそうなイメージがあるにはあるんだけどー。
(2008.09.07)