遠くの稜線は濃い緑色にかすんで見える。
 頬をなでて過ぎる風はあくまで優しく、涼やかな香りを含んでいる。
 ファレナ女王国王兄――今でもごく近しい立場のものは何かのおりに口を滑らせて王子と呼んでしまうこともあるのだけれど――レイリエートは、青い空を見上げて人知れずにっこり微笑んだ。
 彼がたたずむ場所は茶色く乾いている。未だ木漏れ日と呼ぶには強すぎる光。陽射しを遮るものはないに等しく、まばらに残る木々は一見枯れているかのようだ。
 注意深く観察すれば枝先のそこここに新芽をみつけることができるけれど、それらが育ちこの大地を覆うやわらかな天蓋となるには、まだまだ気の遠くなるほどの時間がかかることだろう。
 でも。
 鏡のようになめらかな湖面が、ときおり風を受けてさざめく。運河も小川もちいさな湧き水でさえ、豊かな碧色をたたえて空に負けじと輝いている。
 目の前の景色の中には未来を信じるに充分な希望があふれていて、あの頃の優しい記憶を穏やかに思い返すことができて、だから、唇に浮かぶのは笑みだった。



翠の陽射し、碧の湖面





 太陽宮は広い。
 ほんの子どもの自分の言うことではあっても、誰も否定したりはしないだろう。
 ソルファレナは水の都でもある。渇きを知らない木々や花はいつも瑞々しく茂り咲き誇り、あちらこちらに涼しい影を作り出す。真っ白な石造りの建物は入り組んでいて、慣れていないと簡単に迷ってしまうのだそうだ。もっとも、生まれ落ちたその瞬間からこの宮に住んでいる彼にあてはまることではないのだけれど。
 周りは堀ばかり。でも、泳げる。木から落ちたって、受身くらいは取れる。ついでに程よく茂った下生えが受け止めてくれたりなんかして。
 最低限身を守るための知識と術を教えられ、近づくべきでない場所も察している、そんな子どもにとって、太陽宮は絶好の遊び場だった。
 ただ、思いきりはめを外したことはまだない。加減もわからないし――なにより、自身に向けられるある種異質な視線が怖かった。
 わかるのだ。大人が、それも最高級の教育を受けたひとたちしか使わないような難しいことばの意味を、理解はできなくても。嘲るようなその声が、笑っているのにどこか冷えてゆがんだ表情が、あれは良いものではないと教えてくれるのだ。
 それらがない場所に来たのは初めてだった。裏表のない笑顔しか、あたたかな気遣いしか存在しない場所に来たのは初めてだった。
 広い湖を見て、高い空をあおいで、それから向けられる視線に笑ってみせて。
 感じたとおりに言ったのだ。
「ここは、太陽宮よりひろいんだね」
 と。






 そんなわけで、八つになったばかりのレイリエートは、ちいさな胸をわくわくと躍らせていた。
 もちろん完璧じゃない、とは思う。執務から手が離せなかった母と、未だ幼く旅のできない妹と。兄姉代わりに可愛がってくれる叔母と女王騎士見習いたちもいない。
 だけど、父がいる。やっぱり優しいガレオンがいて、なによりたったひとつしか年の違わないリオンが一緒にいた。
 リオンは一年ほど前、父がどこからか連れてきた子どもだ。最初は必要なこと以外はなかなかしゃべってくれなかったし、いつも静かにそばにいるか不思議そうに首をかしげているだけで、笑顔なんか見せてくれなかった。
 それが今では、一番の仲良しだと言ってしまってもいいくらいに打ち解けている。まだ知らない人の前に出るとうまく表情が出なくなることもあるらしい。が、たった一年とはいえ日常生活のほぼすべてをともにする少年に対する笑顔には、最早一点の曇りもない。
 桟橋のはしっこでひとしきり湖面を眺めたあと、彼は隣の少女を振り返った。
「すごいねリオン、ひろいね! きれいだね!」
「はい!」
 年に不似合いなほど大人びていても、リオンもやはり子どもだ。興奮を隠しきれず、ふくふくと愛らしいほっぺたが薄桃色に染まっていた。
 どこまでも透き通る水が風の加減で寄せては返す。季節がら新しい緑が芽生え始めた頃で、離れた森まできらきらと輝いて見える。
 木々の根の間から湧く水は、どれほど甘いのだろう。地面に寝転んだら、どんなにふかふかしているんだろう。
 太陽宮よりも、きっとずっとずっとすばらしいに違いない。
 想像したら止まらなくなった。さっと手を伸ばすと、ためらいなく握り返される。先に後になりながら走る。
 きれいな花をみつけたら、色と形をよく覚えておいて、母上とリムにお話してあげよう。あんなに広い森だから、珍しい鳥もいるかもしれない。羽根が落ちていないかな。ちょうど動物の子どもたちが親と一緒に巣から出てくる季節でもある。近くに行くのは危ないかもしれないけど、遠くから見るだけでもきっと楽しい。
 息が弾んで、額がすうすうしてきた。浮いた汗を袖でぬぐって、走り続ける。門が見える。
「森であそんでくるね!」
 直立不動の人影に、すれ違いざまレイリエートは叫んだ。そのまま森の中に走りこんでしまってもよかったのかもしれないけれど――
「お、お待ちください王子、リオンちゃん!」
 呼び止められれば、従うしかない。
 基本的に素直な二人は、おとなしくその場に立ち止まった。慌てた様子で駆け寄ってくる顔には見覚えがある。名前までは覚えていないが、太陽宮から護衛のためにやってきた衛兵の一人だった。
「お二人だけですか? フェリド様かガレオン様は……」
「父上はロヴェレきょうとお話してるよ。ガレオンもいっしょ。てきとうにどこぞであそんでこいって言われた」
「いわれました」
 ねー、と無邪気に顔を見合わせる少年少女に、しかし彼は容赦ない。
「なりません! なりません、森は危ないんですから! しかもお二人だけでなんてもってのほかです、どうか街の中にお戻りください」
 この人は、太陽宮にいる“にやにやしたきぞく”とは少し違う。レイリエートの顔をまっすぐに見るし、嫌な感じもしない。
 だけど、父や母、叔母やそれから女王騎士見習いたちとも違う。とにかく言うことが窮屈で仕方がないのだ。間違ったことは言っていないとわかるのだけれど、押さえつけられているような気になってしまう。
 彼は、自分の周辺の人間が世間一般の基準から大きく外れておおらかで豪快だということをまだ知らなかった。なにせ子どもだ。世界は狭い。
「……どうしても、だめ?」
 小首をかしげて見上げても、いかめしい顔は崩れなかった。
「駄目です。お戻りください。……王子殿下のことが憎くて申し上げているのではないのですから。わかってくださるでしょう?」
 そう言われれば引き下がるしかなかった。
「はあい……」
「……わかりました……」
 不承不承、くるりと向きを変えて歩き出す。
 森の土とは違う、硬い煉瓦を意識しながら、二人の足は再び湖に向かっていた。
 こっそり抜け出すなんて考えもつかなかった、はじめての冒険は出発前にお開き。






 あれからこの土地には何度も足を運んだ。鮮烈な記憶がいくつも浮かんでは消える。
 同じ場所なのに、いろんな姿をしているのを見た。今は再生の途中。次に見る姿は、かつてのように豊かで美しいのだろうか。そうならいい。
 ざり、と土を踏む音がする。小さく笑う。
 決して長くはなかった戦いの日々の中、否応なしに磨かれた武人の性は、慣れ親しんだ気配が近づくのを的確にとらえた。
 彼女は足音を殺して歩くことができるのだ。もちろんその逆も。今まで生きてきた年月の半分以上を一緒にすごしておいて、それでも気づかなかったのが不思議だった。彼に近づくときは、いつも軽快な足音を響かせてくれていたから。今なら、彼女がどんなふうに歩こうともすぐに振り向いてみせるけれど。
「おうじ……じゃない、レイリエートさま」
 呼びかけられて、彼はやわらかく目を細めた。
「レイでいいよ、リオン。長くて呼びにくいでしょ、ぼくの名前」
「え……でも、そういうわけには」
「いいから」
「はあ……そうですか? それじゃ、レイ……さま」
「うん。なに?」
 ちょうど“リエート”の部分が発音できるくらいに間が空いたのには気づかないふりをして聞き返す。
「シルヴァ先生の手が空いたそうです。一休みしてお茶を入れるから、王子を呼んでこいと言われました」
「そう、わかった」
 リオンはあの女医の言葉をそのまま繰り返しているだけなのだろう。かつてのくせで、未だレイリエートのことを王子と呼んでしまうものは少なくない。もっとも、正式な場であれば不敬を叫ばれるかもしれないが、そんなことに目くじらをたてる人間もここにはいないからかまわない。
「そういえばシルヴァ先生とお茶なんて初めてかもしれないなあ」
「そうですね。お話ならたくさんしましたけど……先生はいつもお忙しそうでしたから」
 彼が手を差し伸べる。ごく自然な動作で細い指先が絡み、ゆったりと同じ速さで大地を踏みしめる。
 そういえば、リオンと手を繋ぐ回数も増えた。歩きながら、レイリエートはそんなことを思った。
 昔はあたりまえだったのだ。手を繋いで、朝な夕な駆けずり回った。追いかけ疲れた女王騎士見習いには、それでよく転びませんねとのお褒めの言葉まで――もちろん呆れ半分だ――いただいた。長じてからも触れることに躊躇が生まれたというほどでもなかったけれど、ただ、機会は減っていたように思う。
 二人で太陽の紋章を封じたときからだ。あのとき、互いに確認しあうまでもなく気づいたら指先を結んでいた。流れこみ流れ出る力の奔流をそうやってやわらげて、支えあって立っていた。
 すでに疑問を差し挟む余地すらないほどに習慣化しているこの行為に、リオンも何も言わない。
 だって、あたりまえのことだから。
 レイリエートは繋いだ手を軽く揺らした。黒い睫の下から、大きな瞳が瞬いて彼を見上げる。
「どうか、しました?」
「次に来るときは、もっときれいになってるよね」
 かつて木々の間から降り注いだ翠の陽射しがやわらかく地面を照らし。さざ波のたつ湖面は、森の緑と空の青を映してきらめくのだろう。
 あの頃のように。いつか。
「はい。きっと」
 うなずいた少女が指先に力を込める。
 レイリエートは肩越しに枯れた森を振り返った。命が生きてゆくには未だ厳しい環境にある森。だけど大地は確実に再生を始めている。歩けばわかる。
 また来るよ。リオンと一緒に。
 口の中だけでつぶやいて、彼は前を見据えた。
 次に訪れたときには、この森はきっと、あの日のような碧色の光をたたえて彼らを迎えてくれるだろう。







--END.




|| INDEX ||


あとがき。
108星ED、旅だちより少し前。な感じで。ロードレイク。
本拠地沈めた直後、くらいかな。
何が書きたかったというほどのものでもないんですが、なんかこうのほほーんとしてる王子とリオンが書きたかったんだよう。
回想を入れたのは私の趣味です。いいなあ幼なじみ最高だ!(笑)
この後ゲオルグと一緒に諸国見聞の旅に出て、数年後帰ってくるわけですな。
んで空位のままの女王騎士長に臨時で就任して、リオンも正規の騎士になるわけですな。
つまり旅だちED→補佐EDに続く、なイメージ。
リムに結婚してほしいなんて声が出てくるのもさすがに数年後でしょうしね(せいぜい十四、十五くらい)
ああ、本編前も本編後もいい感じに妄想できる種がたくさんたくさん。

(2006.05.05)

2ヶ月遅れで再びおめでとうとかつぶやいてみる