弱い姿は見せたくない。 わかっている。自分を愛してくれている人たちは、弱音を吐いても愚痴を言っても自分を見放したりはしない。 でも今、すべてをかなぐり捨ててすがれる相手はみんな遠いところにいるから。 だから一人になって、思う存分寂しい顔をして、それからまた元通り毅然と振舞おうと思っていたのに。 目論見を邪魔されたどころか、あまつさえ乱暴な言葉遣いで話しかけられたら、眉間に皺がよっても仕方がないと思うのだ。 空を見上げて 差し伸べられた手を、リムスレーアはわざとらしく無視した。 ぷいと顔を背けた少女を、目の前の少年は呆気に取られた表情で眺めている。 見知らぬ相手だ。べつに嫌われたっていい。怒ったっていい。とにかくこの場から立ち去ってくれれば。そう願っていたのに、彼はちいさく苦笑しただけだった。 その面影は、どこか彼女の兄に似ている。そう、まだ仲が悪かった頃のことだ。ただひたすら見下して侮辱的な言葉を吐くこの妹に対し、兄は決して怒ることはしなかった。怒れるはずがないと思っていた。男であっても女王騎士長という地位にある父に比して、兄にはなんの価値も肩書きもない。王女に対してへつらうことしかできない、どれほど腹が立っても逆らうことができない。だって王位継承権がないのだから。 もっとも、それは誤りであったことに後から気づいたのだけれど。リムスレーアはあまりにちいさく幼く、そして子どもだった。腹は立っても怒る気勢が殺がれていたのだろう。そして本来なら労わりあうべきであろう家族に拒絶され、傷ついていたというのもあっただろう。 兄より少しだけ色味の暗い、銀の髪。兄の青より少しだけ彩度の低い、青灰色の瞳。その中にあのときの兄と同じような光をみつけて息をつく。 べつに傷ついた様子はない。でもどこか駄々をこねる子どもを見つめるような目だった。見たところ年は同じくらいなのに、舐められたものだ。べつに嫌われるのはかまわないが、道理もわからず衝動だけで行動する人間なのだとは思われたくない。 リムスレーアは嫌々口を開いた。 「……なんじゃ。何ぞ、用でもあるのか」 「いや、そうじゃないけど」 少年は目を白黒させていた。同年代の子どもと接したことのない少女は気づかなかったが、彼女の物言いは特殊で古風なものだ。しかしもちろん指摘されなければわからない。少年はためらいがちに、けれど恐れることなくもう一度手を差し出した。 「ここ、暗いじゃんか。じめじめしてるし、風も吹かない。一人でいるにしてもさ、もっといいとこがあると思うけど」 連れてってやるから、ほら。 じっと指を見る。べつに普通の、子どもの手だ。擦り傷の数は多い。苦にしていないところを見るに、相当やんちゃな気質らしい。細やかな気配りとは程遠いように思えるのに。 当然といった顔で見知らぬ相手の世話を焼こうとする少年の手のひらを、リムスレーアは指先でぺちりと軽く叩いた。 「迷うたわけではない。わらわは自分の意思で、ここに来たのじゃ。暗いのも湿気が多いのも承知の上のことゆえ、気遣いは要らぬ」 兄も、ミアキスも、リオンも、カイルも、ガレオンも、ゲオルグも。家族と、家族同然に身近な女王騎士たちは、北の地へと向かっている。そこが最後の決戦の場となるだろうと、厳しい顔で話していた。 そしてリムスレーアは当然のように留守番。 そう、当然だ。わかっている。彼女には何の力もない。幼い頃に持っていた絶対の自信は、今ではまったく根拠のないものだったのだと知っている。 権威は、それに傅くものがいてこそ保たれる。敬意も何もない、ただ利用するだけの目的で近づいてくる人間に対しては、王家の威光などなんの役にも立たないのだ。先の動乱で嫌というほど思い知らされた。 兄たちが行使する、力。わかりやすい力。もちろんそれだけがすべてだなんて思わない。だからリムスレーアも、自分にできる限りのことをがんばっている。太陽宮を守る衛兵にねぎらいの言葉をかけ、不安がる女官を力づける。ファレナはまだ終わっていない。未来がある。その象徴としての自分を民に示し、安心させる。それが今一番求められている役目だとわかっているから、意識して背筋を伸ばし、常に微笑をたたえて。 でも、ずっとそればかりだと疲れる。だから少しだけ、暗い場所で背中を丸めてうずくまってみようと思ったのだ。 ……それに、ここは。 「…………そういやここって、太陽宮の庭の中じゃ一番北なんだっけ」 まるで見透かしたかのような言葉に、リムスレーアはばっと顔をあげた。 少年はこちらを見ていなかった。暗いとはいえ、周りを囲むのはあくまで木立だ。葉っぱの間から、空はちゃんとのぞいている。北の方向にはいつもどおりの白い雲が流れているだけで、別段変わったところは見受けられないけれど。 その横顔はひどく大人びていて、少しだけ興味が湧いた。 もしかして、彼も。自分とまったく同じとはいかないまでも、つらい経験をしたのかもしれない。そうだ。あくまで内乱だったとはいえ、れっきとした戦争があったのだ。親を失った子どもがリムスレーアだけであるはずがない。子どもを失った親だっているだろう。 みんなみんな、戦いが早く終わることを望んでいる。血を吐くような思いで、戦場に向かった人々の帰還を待っているのだ。 だからこそこんなにも遠い目をして、北の空を眺めるのだろう。 先ほどとは打って変わって落ち着いた気分で、彼女はぽつりとつぶやいた。 「早う戻ってこぬかと思うてな」 「うん」 少年が隣に座った。ごそごそと身じろぎすると、大きな上着の裾が当たる。けれど不快だとは思わなかった。 「北の地は、どれほど厳しいのじゃろうのう……」 「さあ。夏でもとけない万年雪におおわれてるとか、そういう話は散々聞いたけどな」 そもそもマルスカール・ゴドウィンが北にいることが発覚した発端が、その氷だった。放っておけばファレナが水没する。紋章を取り戻すためだけではなく、究極的な目的はそれを食い止めることだ。 前人未到の大地。そこで待ち構える、宿敵。 太陽の紋章は、水と緑あふれるロードレイクを一瞬で焼き尽くしたのだと聞いた。民は二年間苦しみ続けたのだと聞いた。同じように水と緑あふれる太陽宮をも、きっと難なく不毛の大地へと変えてしまえるのだろう。そんな強大な力を保持する相手と、これから、戦いに行くのだ。最愛の兄が。そして血縁に勝るとも劣らず慕う、騎士たちが。 急に何かがこみあげてきて、リムスレーアは肩を震わせた。 今、そばには誰もいない。皆戦いに出ている。誰もが声をそろえてその武勇を讃える、いずれも抜きん出た戦士たち。でも命の保障はない。あれだけ大きかった父も母も、そして黄昏の紋章を宿した叔母でさえも。この国を動かす大きな何かに飲み込まれ、あっけなくその命を終わらせてしまった。 「……あにう、え。ミアキス、リオン……みんな、みんな」 考え始めたら止まらない。愛しい人たちの顔が浮かんでは消える。ぼやけ始めた視界は必死に瞬きしても元通りにならない。 「お、おい? 泣くなよ……泣くなってば」 知らないふりをしてくれればいいのに、そういう気遣いはできないようだった。慌てたような声とともに、むき出しの肩に少年の手が触れる。どうせなら一緒に泣いてくれたらいいのに。そうしたら恥ずかしいのもお互いさまで、半分になる。しかしそうはいかなかった。表情からリムスレーアが何を考えているのかは読み取ったらしいが、彼の瞳はあくまで乾いたままだ。 「泣くなって!」 両肩をつかまれ、強くゆさぶられた。その拍子に、たまっていた涙が振り落とされる。目の前が少し明瞭になって、あらためて自分の状況を認識した。 今まで彼女に、これほど乱暴な振る舞いをしたものはいない。ギゼルの私兵に腕をつかまれ引きずられたことはあるけれど。従わせるためでなくただ対等な人間として、こんな風に扱われたのは家族以外ではもしかしたら初めてなのかもしれなかった。 びっくりしたせいなのか何なのか、ともかく涙は止まる。 「……はなせ」 「ん? あ、痛かったか。ごめん」 「悪気がないのはわかっておるがな……」 肩にはうっすらと跡がついていた。だが言うほどの痛みはない。腹を立てるようなことでもない。 いつの間にやら少年は、うずくまって下から覗き込むような姿勢になっていた。慌てて涙を拭いて、つんと横を向く。この少年はきっと貴族ではない。言葉遣いが乱暴だし、着ている服も麻か綿か、判別はつかないがとりあえず絹でないことはわかる。だからつけ込まれる心配はない。でも、損得云々は抜きにして、弱い姿を見せてしまったのは不覚だった。 一人でいても、泣くつもりなどなかったのに。涙は皆が帰ってきたとき、嬉しいときにだけ流すつもりでとっておいたのに。 泣いたのはリムスレーアの勝手だ。この少年が何かしたわけではない。それでも何か釈然としない気分でうつむく。それをどう受け取ったか、彼は裏返った声をあげた。 「あ、あのさ!」 「……なんじゃ」 一応のこと、返事はしておく。下手に無視してつむじを曲げていることを悟られては目も当てられない。 「大丈夫だって。みんなきっと無事に戻ってくる。だってさあ、王子様たちめちゃくちゃ強いんだぜ!」 反射的に見返した瞳は無邪気な憧憬に輝いていた。 ああ、自分はこの目を知っている。きっと父や兄を見上げる自分の目も、このようにきらきらしていたに違いないのだ。そう、確かに。どれほどの困難が襲ってこようとも、兄はすべてを跳ね除けて自分のもとに帰ってきてくれた。母そっくりの美貌と、どこか父にも似た気配をまとって。兄に飛びついたとき、悲しみやら怒りやら、その他色々理不尽な気持ちがごちゃ混ぜになってはいたけれど、それでも不安だけは感じていなかった。ただ深い安堵だけが変わらず存在していた。また同じ場面を繰り返せるのだと、少年はそう断じている。ひっくり返っていた声も、いつのまにか力強さを取り戻して。繰り出す言葉はリムスレーアの心に染み入るように広がった。 「だから大丈夫! きっとさ、おまえの家族も無事に戻ってくるよ。な?」 「おま……」 絶句する。おまえ呼ばわりされたのも、家族を抜きにすれば初めてだ。しかし少年には別段失礼なことをしたという自覚はないらしい。「え? なに?」などとつぶやいて、きょとんと首をかしげた。 ここまでくると、もう笑うしかない。 「ああ、なんでもないわ……よい、気にするな」 「ふうん? まあ元気になったんならいいけど……それにしてもおまえ、偉っそうなしゃべり方するよな」 「偉いからじゃ。当然なのじゃ」 ふふん、と肩をそびやかす。 そこでやっと気づいた。もしかしてこの少年、リムスレーアが誰なのか知らないのではないか。上等な服着てるなあと、それくらいは考えたかもしれないが、服装だけで相手がどれほどの位置にいるのか、推し量れるほど世慣れてもいないだろう。つまり彼は自分のことを、単純に同年代の子どもとして扱っているのだ。それならぞんざいな言葉遣いをするのも納得できる。 ふといたずら心が湧いた。 「……王子様はそんなにお強いのかのう」 「ん? うん、そりゃもう。強くて優しくてかっこいいんだぜ! 女王騎士様たちも……オレ、ほんと自分が恥ずかしくなったもんな」 そこで声の調子が落ちた。首をかしげる。子どもらしからぬ自嘲の表情を浮かべて、少年は微笑んでいた。ああ、やはり。彼にも色々あったのだろう。けれど兄や周りの大人たちの懸命な姿を見て、癒され立ち直って、そしてこれほどに力強く笑えるようになったのだろう。 なんだか誇らしかった。自然と笑みが浮かんでくる。大好きな人たちが愛されるのは嬉しい。 「そなた、それほどに王子たちが好きか」 「おうっ!」 少年は何の躊躇も見せずにうなずいた。 「心配だけど、好きだから信じてる。絶対帰ってくるんだ! おまえだってそうだろ? 家族のこと、大好きだろ? だったら信じてやらなきゃ。絶対帰ってくるって」 「……そうじゃな」 なればこそ、ここでじめじめ考え込んでいるわけにはいかない。留守を立派に守って、皆を守って。兄たちにお帰りなさいと言って、がんばったねと頭をなでてもらうのだ。 リムスレーアはきびきびと立ち上がった。そろそろ頃合だろう、誰かの呼ぶ声が聞こえる。はじめは自分を探しにきたのかと思ったが――どうやら、呼ばれている名は別の人物のものだ。 「いっけね!」 にこにこしながら彼女を見上げていた少年は、慌てた様子で服についた土を払った。 「呼んでる。ちょっとだけって約束で散歩させてもらってたんだ。オレ、もう行かなきゃ」 「そなた、トーマと申すのか」 呼ぶ声は近い。はっきりと聞こえる。中に混じる名に確信を持って見つめると、青灰色の瞳がやわらかく細められた。 「うん、そう。……おまえは?」 「……リム」 気づくかな、気づかないかな。なんとなく気づかれなければいいなと思いつつ、愛称をつぶやく。 「そっか、リム」 案の定気づかなかったらしい。少年は駆け出しながら半身をひねり、大きく手を振った。足元を見もせずに石造りの階をひょいひょい登っていくものだから、転びやしないかとこちらがはらはらしてしまう。 「そんじゃあな! またな!」 「……また……そう。またな!」 投げかけられた言葉に思いがけず心が躍って、リムスレーアも手を振り返す。 ちいさな後姿は角を曲がり、呼ぶ声を追って見えなくなった。振っていた手を下げ、両手を合わせてぎゅっと胸の前で握って。よし、と一人うなずいた。唇は自然と笑みの形を作る。 「さて、と。わらわも負けてはおれぬわ」 一瞬だけ北の空を見上げ、彼女は踵を返した。 --END. || INDEX || あとがき。 トマリムファーストコンタクト妄想捏造120% いえー(笑) いやあ、トーマの後日談がね。こういう妄想をしなさいとばかりにこう…うーふーふー(怖) 初対面はリムが誰かわからず思いっきりタメ口希望です。王子がリムリム言うてるのを聞いてるくせして思い至らない少年トーマ。そんで再会したとき真っ青。あっはっは。 時間軸は読めばわかると思いますが、始祖の地攻略中ですね。トーマは本拠地にいるはずですが、まあ、誰か大人の用事にくっついてソルファレナに来たんだろうってことで。 「またな」は本人深い意味ありません。トーマはリムのことをその辺の貴族の子どもかな、くらいに思っています。んで女王騎士目指してるから自分はまた太陽宮に来るつもりだから、会えるかもね。くらいで。 トーマもリムも可愛いよね…生意気な言動すらいとおしい。 妹はリム。弟はトーマ。王子は二人まとめてぎゅってしてうりうりして幸せに浸ってればいいよ。 んでリムは兄上にぎゅーとしがみついてトーマは苦しいともがいてればいいよ。ああ幸せ。 (2007.05.05) |