迷い、戸惑うのは心あるものの常だ。
人であれ鬼であれ、その点では変わらない、同じ。
主がただ強いだけのひとであるならば、そば近くで支えようなどとはきっと思わなかった。
陽はまだ高いが、人通りはまばらだ。
無理もない、気持ちはわかる。ルードハーネは物陰に目を配りつつ、ちいさく嘆息した。
一般に、怨霊が活発に活動するのは夜とされている。けれど昼間でも発生しないわけではない。五行の乱れを探ればある程度は発生の予測がつくものの、そのような能力を持つものは限られている。怨霊に縁深いとされる黒龍の神子でさえ事前に察知することはあまり得意でないのだ、霊力を持たない民衆にはそれこそ“運”くらいしか頼るものはないだろう。
必然、帝都を歩く人間の数は減った。商業区に行けばさすがに賑やかなものの、地域によってはここがこの国の中心なのかと疑わしくなるくらいに閑散としている場所もある。
今はまだ、できる対策は限られている。主が期限と定めたその日までは、地道に怨霊を調伏しては陰の気を集めるだけ。神子も今のところは素直で協力的だから心配はない。目下の彼の仕事は彼女を快適に過ごさせることで、それに限っては順調に運んでいるはずと自負している。
「……特に、異常はないようですね」
神経を研ぎ澄ませて周囲の気を探っても、特に乱れは感じられなかった。うなずいたダリウスが傍らの少女を見下ろす。
「今日はもういいかな。そろそろ帰ろうか――」
言い差したところで神子の足元が少しふらついた。
倒れるほどではなかったらしい。咄嗟に背中を支えたダリウスに返した笑みは、礼のつもりか強がりか。けれどなんだか弱々しい。
「梓。顔色が悪い」
明るい日差しに照らされてなお優れない頬の色に、主の眉根が寄った。華奢な肩を青い外套で包み込む。その瞬間少しだけ梓の表情が緩んだから、盛夏が近づいているというのに寒気を感じていたのかもしれない。確かに今日の気温はあまり高くないけれど、それを差し引いても体調が優れないということなのだろう。
「先に戻っているよ、ルード」
「は――」
最後まで声を出しきる前に、ダリウスと梓の姿は景色に溶けて消えてしまった。
返事も待たずに行動するのは、いつも泰然としている彼にしては珍しい。それに、人目を気にせず力を使うのも――思い至って慌てて周囲を見回したが、どうやらその瞬間を目撃していたものはいないようだった。主のことだから皆までわかっていたのかもしれないが、それにしても心臓に悪い。ほっと胸をなでおろす。今はまだ、帝都の民に自分たちの素性を明らかにするわけにはいかないのだから。
「さて」
ルードハーネは少し首を傾けて、市場のある方向に視線を向けた。
次の買い出しまではまだ日にちがあるから、一度食材を補充してしまってもいいだろう。邸の住人達の栄養管理はもちろん彼の仕事だ。健康は主に食事と睡眠、適度な運動で保たれるもの。寝かしつけるほうはダリウスが抜かりなくやってくれるのだろうから、今夜の食事の献立を改めて考え直すことにしようか。
精のつくものがいいか、それとも食欲がなくとも口にできるようさっぱりしたもののほうがいいのか。
ルードハーネにとって、食事作りの一番の喜びは主の舌を楽しませることだが、居候達の気持ちいい食いっぷりも密かに嬉しく思っていたりする。目を輝かせて食卓を見つめられれば誇らしくなるし、綺麗に空になった皿を片づけるのは満足感がある。つい品数を増やしてしまうことがあるのは、だからだ。口には出さないが。
「どうせなら、どちらでも対応できるようにしてしまいましょうか」
腕の見せ所でもある。ひとりごちて、彼は商店の立ち並ぶ一角を目指して己の足で歩き始めた。
買い物を済ませて邸に戻ると、主みずからが出迎えてくれた。
荷物で両手がふさがっていたせいで、扉が開けづらかったのだ。恐縮して礼を言うと、ダリウスはルードハーネの手元を見て瞬きし、次に破顔した。
「随分たくさん買ってきたものだね、重かったんじゃないのかい。虎を迎えにやれば良かったかな」
「このくらい、たいしたことはありません」
「そう? そうだね、お前ももう十五なのだし」
笑いながら続ける主の顔に曇りはない。慈しむような瞳を向けられて、面映ゆい気分になった。ルードハーネはダリウスの従者として仕えているつもりだし、ダリウスも彼をそう扱ってはいるけれど、時々――どころか頻繁に弟に対するような物言いをされることがある。
悪い気はしない。子ども扱いはともかくとして、自身も兄であるルードハーネが思い描く有りたい“兄”像に、ダリウスが近いからなのかもしれない。ダリウスはダリウスで末っ子だから、弟役のほうが馴染みがありそうなものだけれども。
ルードハーネは緩みそうになる頬を引き締めて荷物を示した。
「献立はいつもどおり私にお任せいただいてかまいませんか? ただ、梓さんだけは体調のこともありますし、できれば本人の意向を聞いておきたいのですが……」
「ああ、そうだね。帰ってきてすぐ寝るように言い含めておいたからそろそろ」
「ダリウス!」
元気な声が降ってきて、二人は会話を中断しそろって上を見上げた。
梓が踊り場の手すりから身を乗り出すようにしている。声をかけて初めてルードハーネに気づいたのだろう、彼女はぱっと笑顔を浮かべて片手を振った。
「あ、ルードくんも。おかえりなさい」
「ただいま戻りました。体調は……大丈夫そうですね」
「少し眩暈がしただけだもの」
言葉どおり、階段を下る梓の足取りに危ういところは見られなかった。頬も薔薇色で、何より発する気配が帰宅前とは明らかに違う。下まで降りてきたところで改めて尋ねた。
「では、食事はいつもどおり皆と一緒でよろしいですか?」
「うん、もちろん」
「承知しました。そう、サクランボが手に入ったのですが、お好きでしたら」
「サクランボ! うん、好きだよ。食べるの久しぶりかも」
食べ物に関する食いつきは本当にいい。まあ、梓程度の食欲なら可愛いものだ。女性の慎みがなんだかんだと口うるさい輩も世にはいるが、何はともあれ健康が第一だとルードハーネは考えている。大人だろうが子どもだろうが、男性だろうが女性だろうが元気なのが一番だ。食べて保てるのならそれ以上のことはない。
くすくすと軽やかな笑い声が耳を打った。耐えきれなくなった、とでもいうようにダリウスが向こうを向いて肩を震わせている。途端に梓の頬が薔薇色を通り越して赤くなる。
そんなに笑わなくてもいいじゃない、とぼそぼそ続けるさまを見て、ああ一応そういう方面の羞恥心はあるのか、などと微妙に失礼なことを今更考えた。
「ああいや、すまないね。すっかり元気になったなと思って……ふふ、それでどうして梓は俺の外套を持っているのかな」
「あ、これ」
見れば、梓は主の青い外套を抱えていた。肩のところを持ってぱさぱさと振り、形を整える。端と端を合わせて畳んで、はい、と持ち主に差し出した。
何故か下を向いている。髪の隙間から見える耳が赤い。
「……その、ごめんなさい。起きてから気づいたんだけど、毛布代わりにしちゃってたみたいなの。あ、よだれとかはつけてないから大丈夫だよ! 皺にもなってないはずだから、だから、その、…………ごめんなさい。お返しします……」
「ああ、そういえば」
帰る際に着せかけて、そのまま忘れていたらしかった。ダリウスはなんでもないような素振りで外套を受け取ったが、口許が緩んでいる。かなり緩んでいる。ルードハーネはそっと視線を外した。なんとなく気恥ずかしくて見ていられない。
「ごめんね?」
「かまわないよ、君が元気になったのなら何よりだ。役に立った?」
「……うん。あたたかくて安心できて、よく眠れたの。それに、何かいい匂いがして」
「? 今日は別に香水は……」
すん、と鼻を寄せて嗅いだのだろう。梓の声にならない悲鳴が伝わってきて、ルードハーネはその必要もないのに耳を塞ぎたくなった。実際は両手に荷物を持っていて不可能だったので、感覚を意識して遮断できないものか試みてみる。ええ、見ていません、見ていませんとも。聞いてもいませんとも。聞こえてくるものは不可抗力として、だから、もう少し密やかにやってもらえれば助かるのですが。
「だ、だ、だ、ダリウス、何やってるの!?」
「え、何と言われても」
外套は主の持ち物なので、彼の行動自体は何ら責められる謂れはない。と、思う。けれど、少女の混乱の理由は朧げながら推測できた。ダリウスは人をからかって遊ぶようなところもあるので、正直ルードハーネにも故意か天然か判断がつかないことがある。
いよいよ耐えきれなくなってきて、彼は足音を忍ばせてその場を去ることにした。
漏れ聞こえるやり取りは甘ったるい。いつまで続けるつもりだろうか、しばらく終わりそうにはない。森の奥深く、ほかに来客のある邸でもなし、玄関先で騒いでいてもべつに支障はないのだけれど。
あれだけ互いに心を寄せておいて――それでいて本人たちはそのことに気づいてもいないようで。
ダリウスは知っている。ルードハーネも知っている。この甘やかな日々が、いつまでも続くものではないことを。
知らないのは梓だけだ。彼女は素直で、物事を自分で考えて判断するだけの聡明さもちゃんと持ち合わせている。だからすべて話してしまえばいいのではと思う頭はある。でもダリウスはなかなかうなずかない。迷ったまま、きっと最後まで何も言えずにその日は来てしまうのだろう。可能性に賭けることを放棄するつもりでいる主を、けれど責める気にもなれなかった。彼の畏れは痛いほど理解できる。梓は朗らかで気さくだが、人間だ。神子としての力はもっていても、人間だ。鬼とは違う。自分たちとは違ういきものだ。
ダリウスは強い。ただしその強さは、完璧なものでは決してない。利用するつもりで囲い込んだ少女を本気で懐に入れてしまって苦しむなどと、見るものが見れば嘲笑の対象だろう。それでもルードハーネは、その弱さがあるからこそ主にここまでの愛着を持つことができたのだ。
心があるならば迷うのは当然のこと。弱さを知らなければ、他人の弱さを許容することだってできない。ダリウスの寛容さはきっと、自身の強さも弱さも正しく把握しているからこそだ。そしてそれを呑み込んだうえで強くあろうと足掻き、努力する。その気持ちはルードハーネも兼ねてより、もちろん今も持ち続けているもので、それだけ共感も強い。
主の意向に逆らう気はない。だからルードハーネから梓には、何も話すことができない。
ただ願うだけだ。今はそれしかできない。互いに傷つけあって、腹を立てても、すれ違っても。どうか縁は切れずに続いて、いつかまた向かい合って笑うことができるように。
そんな都合の良いことがあるものかと囁いてくる声からは耳を塞いで、幸せな未来を思い描いて、ただ、祈るだけだ。
個人的には、ルードはダリウスの辣腕を心底崇拝しつつその弱さ脆さからも目をそらさずちゃんと愛しているんだと思います。ただまあ肝心のダリさんがね。弱いの見せたくないと思ってるからね。察してるルードも隠そうとしてあげちゃってああいう言動にね。(それでも森ファミリーに見抜かれてるあたりアレだが)という解釈。
ダリ梓成立後のルードは(ダリ梓恋愛的な意味での)傍観者を脱して心底イキイキ夫婦をサポートしてそうで…ウッ萌える…