ぎしり、とかすかに床板が鳴いた。
あまり予想していなかった方向から現れた気配に、三鶴は本に落としていた視線を上げてそちらを見やった。
「五月」
「……おはよう、兄さん」
時刻は正午前。おはようと挨拶を交わすにはもう遅い時間だ。だがその点に関して特に突っ込むような真似はせず、彼は持っていた本を閉じて双子の弟に向き直った。
「おはよう。お前、もう起きてきて大丈夫なのか?」
「……」
すぐさま返事しないのは、意図的だったわけではないだろう。単純にあまり余裕がないのだ。五月は三鶴の問いに答えないまま、呻きながらゆっくり居間に入ってくる。
手を貸すべきか、貸さざるべきか。一応のことふらついてまではいないので、長椅子――ソファに座るのを見守ってから、自分も彼の斜め前に腰を下ろす。
背もたれにもたれてため息ひとつ。億劫そうに腕を上げて前髪をぐしゃぐしゃかき混ぜて、ようやく垂れ気味の瞳がこちらを向いた。
「だいぶマシになってきた……そもそも、病人じゃないんだからさ……パジャマでずっと、部屋に籠ってなんかいたら、カビが、生えちゃうだろ……」
「病人のようなものだろう。体調不良に違いはないんだからな」
すっぱりと切って捨てて、けれどそれだけでは効果が薄いと気づく。目の動きだけで台所のほうを示してみせながら、三鶴は肩をそびやかした。
「みこ……七緒くんが、心配するぞ。お前が倒れたとき、あんなに取り乱していたのに」
この弟を黙らせるのならば、かの少女を引き合いに出すのが最も手っ取り早い。案の定五月は唇をへの字に曲げてぐっと押し黙ったが、かといって部屋に戻るつもりはさらさらなさそうだ。しっかり着替えているあたり、強固な意志がうかがえる。
「だから……もうマシに、なってきたんだってば……」
乱世で諸々の事態を解決してこの家に戻ってきた直後。五月は玄関の上がり框を踏んだ途端、その場に倒れた。
二人が帰ってきたとき三鶴は庭に居たので、倒れる直前の五月がどういう状態だったのかはわからない。だが七緒の悲鳴交じりの声を聞きつけて駆けつけ、覗きこんだ片割れの顔はこのうえもないほど真っ白だった。
涙目で弟に取りすがる少女をなだめながら視てみれば、原因はすぐに判じることができた。
極端な気の不足だ。
何でもないことのように話されたせいで、その瞬間まで可能性を失念していた。要は五月がやり抜けたその術は、龍神召喚だったのだから。定められた人間以外が行うのであれば、本来複雑な手順を踏んだ儀式と供物が必要になるはずだ。
ほかの星の一族やそのときそばにいた八葉も力を貸してくれたのだとはいえ、肝心の儀式そのものに他者の手をどこまで入れられたのか。正直なところ、疑わしいと思っている。
相手は神。しかも神子は不在ときている。たとえ力や手順が足りていたとしても、応じてくれるかどうかなどその意思ひとつで、成功するのかもわからない。どんな反動が来るのか定かでない術式に仲間を巻き込むことが、果たして彼にできたのかどうか。
――どちらだったにしても、結局のところ五月は倒れた。
人としての七緒を取り戻したのちも戦場をあちこち奔走し術を用い、混乱の元凶と対峙したというのだからある意味当然だ。その前だって、三鶴を救い出すために無茶をした。その方法を提案してくれたのは他ならぬ七緒だったとはいえ、おのれの望みのためにふたたび神を動かしたことになる。意識していなくても相当な消耗だったはずだ。命に別状がないところが、また龍神の慈悲を感じて微笑ましくもありがたい気持ちになるけれども。
ともあれ根性だけで動いていた彼は、慣れ親しんだ自宅に辿りついて気が抜けてしまったのだろう。
病を得たわけではない。外傷も特にない。幸い意識はすぐに戻り、肩を貸してとるものもとりあえず自室まで連れて行った。五月はそのまま丸一日昏々と眠り続け、目を覚ましたのは昨日の午後だ。
汗が気持ち悪いとかなんとか駄々をこねるから、清拭は手伝ってやって――少し風呂に入れなかったくらいで今更何をと思うが、体調の悪い人間は得てしてぐずるものなので仕方がない、労わってやらなければ。七緒の話では、そのままずっと部屋に居たものの夕食だけはなんとか摂れたそうだった。
先刻様子を見に行った彼女が、そろそろまた目覚めそうだから食事の用意をすると言いおいて台所に消えてどれくらい経つか。
呼んでやったほうがいいかもしれない。首を巡らせたところで、ちょうど思い描いていた人物が盆をもって現れる。
「兄さ……」
七緒は身体を揺らしたが、自分の持っている物の存在を忘れはしなかった。神妙な顔でそのままそろそろと歩いてきて卓――テーブルに盆を置く。
それから急に勢いづき大股になって、五月に近づきソファの肘掛けに両手をついた。
「兄さん、寝てなきゃ駄目じゃない。ほら、まだほっぺたが冷たい。顔色も悪いよ」
「いや、大丈夫だから……」
三鶴に対してはいっそ頑なささえ見せていたくせに。五月は細い指先に額やら頬やらをさぐられて一気に語気を弱め、おとなしくなった。
こうなれば彼の出る幕はない。任せていれば万事良いようにしてくれるだろう。たぶん。読みかけの本をまた開いて、文章に目を落とす。
――ふりをして、落ちかかる前髪の隙間から二人を窺った。
押し問答の末、部屋には戻らないということで話がついたらしい。微妙に納得がいっていなさそうな表情で、七緒が鼻から息を出す。唇を尖らせる彼女には申し訳ないことだが、三鶴には五月の気持ちも少しはわかった。具合が悪いといっても、もう回復期に入っているのだ。ずっと寝ているのもまた気が滅入ってくる。
ひとまず食べなければ体調は戻らない。そちらに意識を向けることにしたのだろう。今しがた運んできた盆に載っていたのは急須と湯呑だったが、彼女はすぐさま取って返して五月の食事も用意してくれる。
器に盛られているのは白粥だった。ぽつんとひとつ梅干しが入っていて、その赤さが妙に目に鮮やかだ。不機嫌からではなく眉間に皺を寄せながら、五月は緩慢な動作で匙を口に運んでいる。そのまま流し込んでもいいくらいとろとろに煮込んであるが、飲み込むにもやはり最低限の筋力は要る。もぐもぐとゆっくり、本当にゆっくり。
食欲はある、話もできる。昨日や一昨日に比べればきちんと回復してきているのは明らかで、それでももどかしいものはあるのかもしれない。頬杖をついて食べる様子を眺めていた少女が、こてんとその杖を倒して頬をテーブルに落とした。そして、囁いた。
「……食べさせてあげようか?」
幸いにして五月はちょうど匙を器の中に突っ込んだところだった。口に入れた瞬間だったら誤嚥していたかもしれない。
彼は一瞬動きを止め――くるりとひとまわり、粥をかき混ぜてから曖昧な笑みを浮かべた。
「あー……いや、うん。遠慮します。お手間を、とらせるのも、悪いですし……」
「遠慮なんかしなくていいのに。昨日はそうやって食べたでしょう、たいして手間でもないよ?」
「っちょ、七緒……」
我関せずを貫くつもりが、ついついぶふっと口から吐息が漏れた。吐息というか、言ってしまえば笑いが漏れた。
なるほど任せてほしいというから任せたが、昨日は部屋で二人してよろしくやっていたというわけだ。昨晩廊下で行きあった七緒はやっと食べてくれたと上機嫌だったが、安心したと同時にまた別の理由もあったということか。
肩が震えるのを抑えられない。五月は器用に目の際だけを赤くして、じっとりした目つきでねめつけてくる。
「何想像してるんだよ。……ろくに腕が、上がらなかったんだから……仕方ない、だろ。べつに、普通に食べさせてもらっただけだからね」
「俺は何も言っていないが? お前こそ、俺がいったい何を想像していると思ったんだ」
涼しい顔で返してやればぶすくれて口を噤んだ。まだろくに頭も働いていないのだろうに、言いあいで勝てると思ったら大間違いだ。本調子でもそうそう勝ちを譲ってやるつもりなどないけれども。
五月の内心などどこ吹く風で、七緒は口を挟んだ。
「兄さんだって、昔私が風邪ひいた時はよく食べさせてくれてたじゃない」
「待って、待って七緒、その辺にしとこう……」
「熱があると怖い夢を見やすいからって、手を繋いで一緒に寝てくれたり」
「……やっぱり言っちゃうんだー……」
五月はかくんと肩を落とした。その声に力がない。普段なら、高く裏返っていたのだろうが。元気な人間の速度に追いつけずあたふたしている。
「なるほど、五月は本当にあなたを可愛がっていたのだな。……過保護なくらいに」
三鶴は唇の端を上げた。
年が離れているならば、年長のものが年少のものの面倒を一生懸命見ることは別段珍しくもない。でも、ひとつ違いでそれは結構なべったり具合だ。病気のときに限った話ならもちろんうなずけるものの、どうにも――実際目にしていたわけではないから確信を持って判断はできないが、異性きょうだいの距離感として正直どうなんだと内心首をひねる。
ただ、それにしても父や母が口出ししていた風もない。両親としては、仲が良いならそれに越したことはないと気にしていなかったのか。それとも何かしら思惑があって黙っていたのだろうか。
うまいこと会えればこっそり尋ねてみたい気はするが、おそらくそんな猶予はない。
「そうですね。ものすごく、が付くくらいの過保護。でもべつに嫌じゃなかったですよ」
七緒は胸を張って自慢するように微笑んだ。
「ときどき困ったなーって思うくらいで。むしろかまわれるのは当たり前、くらいの感覚でいたような気がします」
「そうか、それは良かった」
幼い頃ならばともかく、ふたりの口ぶりでは成長してからもあまり雰囲気に変化がなかったのではないかと推察される。ただまあ、こうなっては些末なことだ。
数十年ぶりに結果オーライなどという言葉が脳裏に浮かんでしまった。
「……ええっと、七緒? もうそれくらいにしておこうか……」
苦りきった声音にまた笑う。その悪戯っぽい笑みに、ふと気づいた。彼女もまた五月をからかっていたのだ。
本人は当然もっと早く察しているだろう、三鶴などよりよほど付き合いが長いのだから。でも怒ったりはできないのだ。
本当に、この少女に弱い。
片割れと離れていた時間を思うより先に、ただただひどく微笑ましく思えるのが、胸が温まるようだった。
時間をかけて食事を終えたあと。
「できれば明日あたり、滝に行ってみようと思うんだ」
部屋に戻れという妹の再三の提案をやんわりと拒否して、五月はあくびをひとつした。
なんだかんだで腹が満たされたおかげか、口調だけは先ほどよりだいぶしっかりしてきている。
「要は気の不足なわけだから……自前の回復を待つだけよりも、水気を入れたほうが楽できるんじゃないかなって」
「なるほど、試してみる価値はあるな」
うなずきあう兄弟の間で、七緒だけは目を白黒させていた。
「水……気? そういうことで回復するものなの?」
「ん……ほら、七緒も見てただろ」
相変わらず動きは遅い。でも何も言わず待つ。くるくると指で宙に五芒星を何度か描いて、ぱたりとその手はソファに落ちた。
「俺と幸村は、いわゆる木属性だからさ。術を使うとき、阿国に水気を送ってもらうと威力が上がった」
「え……ああ。そういえば、武蔵くんを援護してたときもあった……ね? そのときは火に、木か」
「そうそう、よく覚えてるね」
考え考え言葉を継ぐ七緒に、五月が笑顔で合の手を入れる。
彼女は少しのあいだ首を傾けて何事か思案していたが、ふいと立ち上がるとテーブルを回り込んだ。五月の後ろにちょこんと座りこみ、背中に両手のひらを当てる。
「って、七緒? 何やってるの?」
三鶴からは死角になるが、さすっている、というふうでもなさそうだ。意図が読めずに今度は弟が目をぱちくりさせる番だった。首を回そうとしても肩越しでは背後は見えない。
そこから移動する気はないと見たか、五月はあきらめて空の器をテーブルの中央まで移動させた。
「……ほら私、もともと龍神だったし。龍と水が通ずるものだっていうなら、私にも水気があったりするのかなって」
「あー……うん? どうなんだろう……確かにお前、五行になぞらえるなら水で間違いないんだろうけど……んんー?」
ひとの形をとっていた以上、そして現在ひとに成った以上は五行の理から逸脱することはない。確かに彼女は水気を帯びてはいる。ただ、五月の反応を見る限り、あまりうまいこといってはいないように思える。
「ふむ、俺もこれに関してはそれほど詳しく学べたわけではないが……七緒くん」
「あ、はい」
三鶴は顎に手を添えて、五月の首筋のあたりをじっと見た。
「己の中に在る力……いっそのこと、血でもいいか。まずはその流れを意識してみてくれ」
「……」
無意識にか七緒の呼吸が深くなった。
五月も、ゆるく目を伏せている。彼は彼で、背中にちゃんと神経を集中させている。送るほうが送るほうなら、受け取るほうも受け入れる体勢を整えたほうが、はるかに効率がいいからだ。それをごく自然に理解して、背筋も伸ばしている。
呑み込みが早い。
「それらがだんだん手先に集まってくる。手のひらから滲んで出てくる……少しずつだ。それがゆっくり、ゆっくり沁み込んでいく……広がっていく。五月も」
「……うん……」
口先では応じたものの、五月は上の空だった。
ただそれは、三鶴の言うことを聞いていないというわけではない。こういう息の合い方は理屈ではない、さすがに見事なものだ。途中からなんとなくわかってきたのだろう、いつしかふたりの呼吸は同じ速さになり、同調して、ちからが循環するさまが三鶴の目にもはっきり視えた。
「……どう、かな。兄さん」
「ん……あり……がと、ななお……にいさんも……」
成果を問うた声に返ったのはひどく緩慢な礼の言葉。律儀なものだ、語尾に三鶴のこともちゃんとつけ加えた。こういうところは素直に可愛らしい。
五月は袖でごしごしと乱暴に目を擦って、七緒に咎めるように腕を取られた。かすかに首を振って放させて、しかしぼんやりとそれ以後動かない。
拙い術であっても相応の効果はあったのだろう。どうやら体温が戻ってきている。もとから本調子でない五月は、上がったそれに誘われてゆらゆら舟をこぎ始めた。そっとゆすられても今度は拒まない。明らかに反応が薄い。
「えっ、ちょっと兄さん。ここで寝るの? 兄さんてば」
やっぱり返事はしなかった。
半ば本能だったのかもしれない。目をしょぼしょぼさせながら弟はえっちらおっちらソファによじ登り――ちゃんと手足が長いくせに、登り方がまるで幼児だった――身体を丸め、あっという間に寝息をたて始めた。
「も、もう……だから部屋にもどったほうがいいって……」
困惑した七緒をよそに、三鶴はひそやかに笑う。今回は明日まで目が覚めないということもあるまい。ちょっとした午睡なら、居間でしたってかまわないはずだ。
「毛布でも持ってくるとしよう」
「あ、場所わかりますか?」
腰を浮かせた七緒を手で制して立ち上がった。家具の配置などに変化はあろうとも間取り自体は同じだし、そもそも忘れかけていた光景だったはずが、我が家に帰ってくればおもしろいくらいに様々なことを楽に思い出せた。
「部屋ならわかる、すぐに見てくる。ついでに食器も俺が洗っておこう」
「何から何まですみません……」
「いいや、かまわない。お互い様だ」
五月が動けないここ数日間、食事の用意は七緒が一人で担っている。三鶴も給湯器や電子レンジの使い方くらいは覚えていたけれど、なにせ遠い昔の話だ。手を煩わせない程度に勘を取り戻せればいいと思って、こまごま働く七緒につい甘えてしまっている。だから、これくらいは。
それに。
「五月のそばに居てやってくれ」
彼女が急いでやらなければならないような事柄は、今はない。どうにも離れがたい空気を出している“妹”をこの場所から引きはがすのは忍びなかった。
「……はい。ありがとうございます」
七緒は頬を染めてふんわりと笑った。正座の上にぺこりと礼儀正しく頭まで下げて、そのくせすぐに三鶴から視線を外す。
一心に弟の寝顔を見つめるその横顔は曇りなく幸せそうだ。五月が胸のあたりでゆるく握りしめている手をちょいちょいとつついてみたり、さらには顔を寄せ始める。
さすがにそろそろ、と三鶴は音をたてずに廊下へ出た。もうそういったことで照れるような年でもないが、胸焼けするような光景を直視するのは五月が起きている時だけにしておきたい。
毛布を渡すにも機会を見計らってやらないと駄目そうだな、とため息をついて。
けれどちっとも悪い気分はしなかった。
滝つぼにはまったら困るとの七緒の主張によりおてて繋いで行った。
三鶴兄さんにはニヤニヤ見送られた。
メタネタ入りましたひゃっほう。
この七緒ちゃんは水属性神子ということでひとつ。
あと、ちょっと三鶴兄さん周りの口調とか呼び方とかうろ覚えなとこあるのでちょいちょい直すかもしれん。