肩に触れる温もりが、少し重さを増したような気がした。
ふとその方向を見やれば、赤みのかったふわふわ髪がゆらゆらと船を漕いでいる。ダリウスは、隣に座る少女の腰に回していた腕を上げて、傾いだその身体を抱えるように支えた。
「梓……梓? もう眠い?」
「ん」
常の凛と低い声とは少し違う。喉の奥から絞り出したようなその音といい、目を擦る緩慢な動作といい、今の彼女はひどく幼げだ。
時計の針が示す時刻はとうに深夜を回っている。規則正しい生活を信条とする梓は、怨霊退治などの特別な用がない限りは日付が変わる前に寝室に戻るのが当たり前だった。会えなかった一年の間もその習慣は変わっていなかったと見える。
一年。
ダリウスがようやく目を覚ました時、すでに季節は一巡りした後だった。茫洋とした意識をかき集め現世に引き戻したのは、愛しい少女の涙をこらえる震え声。ああこれは寝ている場合ではないと、早く抱きしめてやらねばと、急に全身に力がみなぎった。
どうだったのだろう、あれ以上待たせていたらさすがに愛想を尽かされるのではないかとか、そういった不安はあまりなかったような気はするけれど。とにかく、寝ている場合ではないと。強烈な欲求が彼を突き動かしたが故に、邪神の残滓も振り落としてしまえたわけで、つまりは自分も単純で現金なひとりの男に過ぎないのだと自覚してしまえば妙におかしく嬉しい気分にもなれたのだ。
ひとしきり再会を喜び合った後、館に戻れば、まずコハクに飛びつかれた。ぎゅうぎゅうと二人いっぺんに抱きしめようとするものだから間に入った梓は苦しげに呻いていた。さすがに見かねたルードハーネが、潤んだ目を隠す素振りも見せず引き剥がしにかかり、政虎は相変わらず皮肉げな素っ気ない態度で、でも決して姿を消そうとはせずそのままそこにいた。
知らせを受けた知己がとるものもとりあえず顔だけを見に来てくれたり。でも負担をかけるのも忍びないからとすぐに帰って行ったり。
病気で寝込んでいたわけではないので、食事は普通にできた。眠気は時折襲ってきたが、さすがに急に意識を失うような事態にはならなかった。昼寝をして、どれだけ寝れば気が済むんだと政虎に呆れられて、それから夕食を摂って。夕食の後も多分寝ていた。目が覚めたらそこは居間のソファで、隣にいたのは梓一人だった。
それからずっと、ふたり寄り添って話をしていた。触れ合えなかったその隙間を埋めるように、梓はよく喋った。この一年、何を考え、何をしていたか。他の皆がどうしていたか。夢うつつに聞いていた話と合致することもあれば、初めて知る話もあった。ダリウスは相槌を打つか感想を述べるくらいで、後は彼女の髪をふわふわと指で梳いて楽しんでいたくらいだ。しかも半日ほどの短い間に少なくとも二刻は寝ているので、疲労はほとんど感じていない。
だが、梓のほうはそうもいかなかったようだ。
「梓、さすがにもう休んだほうがいいよ。部屋まで連れて行ってあげるから、ほら」
「んん……」
いやいやと言うように梓は首を振る。額を擦りつけてくるのを抱きとめてやりながら、軽く背中を叩いた。
「ほら、あまり遅くなると明日寝坊してしまう。ルードの朝ご飯を食べ損ねてしまうよ」
自堕落を嫌う従者は、刻限までに食卓に現れないのであれば食事する権利などないのだと宣言してはばからない。まあ、今回に限っては何も言われないどころか食事を温めなおして差し出してくれる可能性のほうが高い。しかし敢えてそれは言わず、就寝を促す口実に使う。
朝ご飯、の単語に梓はぴくりと反応した。年頃の女性なのに食い気に素直なあたりも可愛らしい。あまりの眠さに羞恥を感じるほどの余裕が残っていないのか、それとも地か。かつてはもちろん地だったが、一年の間にそこのところはどう変化したものか、それも明日になればわかるだろう。
ともあれ差し出された腕を自身の首に回させて、横抱きに抱き上げる。姿勢を安定させて、さて、と精神を集中させようとしたところで存外強い瞳にぶつかった。
「梓?」
「空間移動は、だめ」
「……え、と? だめなのかい? 廊下までだけれど」
不躾に寝台のそばまで行くつもりはない。扉の前で下ろして、入口のところで布団に入ったのを確かめてから自室に戻ろうと思っていたのだが。
意図がどうにもすれ違っていたらしい。彼女はもどかしげにもそもそと動く。もう一度ソファに下ろした。揺らぐ身体に最低限手を添えて支えてやる。眠気のせいか少し熱い指が、そっとダリウスの前髪をかきあげた。
「転移は、たいりょくを使うってルードくんが言ってた。から、だめ」
「…………。いや。この程度の距離ならたいしたことは……」
意表を突かれて若干反応が遅れた。なんとか反論するが、梓は頑なに唇を引き結んだままだ。
実際、ずっと眠っていたとはいえ、館の中を転移する程度、ダリウスには造作もないことだった。鬼の能力は鍛錬も必要だが、何よりも適性や素質に大きく左右される。一族随一の力を持つ彼にとっては、もちろん体調に不安があるときは別としても、歩いたり走ったりするのと感覚的にはそう大差ない。
とはいえ、梓に余計な心配をかけることも躊躇われた。逡巡したのは一瞬のこと、わかったよと頷いて再度立ち上がる。
「お姫様、お手をどうぞ」
「はい」
最初に差し伸べられたのは右手。けれど結局ふらふらしている。半分眠りかけている彼女を運ぶでなく歩かせるのは骨が折れそうだが、くっついてくる体温は心地よい。
苦笑の気配を隠しながら進む廊下は、従者の気遣いか未だ控えめな灯りが点されたままだった。
歩く間に、少し眠気が覚めたと見える。
扉の前、ちいさなつむじを見下ろしながら、さてどうしたものかとダリウスは思案に暮れていた。
梓の手は彼の服をつかんだまま放さない。足元はだいぶしっかりしてきているので、寝ぼけているわけでもなさそうだ。なのに無言のまま、離れない、微動だにしない。
「梓?」
「うん」
声をかければ即座に反応は返ってきた。危なげない雰囲気だ。寝台に向かう途中で足を引っ掛けて転ぶ心配もないだろう。
「梓」
「……うん」
会話にならない。
これはいわゆるあれだろうか、「今夜は離れたくないの」というやつだろうか。いや、「だろうか」ではなく確実にそうだ。だが自分たちは世間的には言わばまだ“婚約中”とでも表現すべき間柄であって(ちなみに結婚の申し込みに対する承諾の返事は昼間目覚めた直後にもらった)、ことの有無はともかくとしても同じ寝台にまで入るわけにはいかない。同居人たちはべつに何も言いはしないだろうが、こればかりはけじめだ。
そういえばルードハーネは一週間で挙式の準備をすべて済ませてみせます、などと息巻いていた。どうやら婚礼衣装から場の設定から立会人、少数の招待客まですでに目星をつけてあるらしい、恐れ入る。はっきり口にしたからには彼は根性でやり遂げるだろう。一週間くらいなら、まあ我慢できるかなと思わないこともない。長……いや、長くない。大丈夫。大丈夫。だいいち自分の意思で動いて彼女に触れられなかった期間を振り返れば、今は幸福に満ち満ちているのだから。
ではなくて。
だんだんずれてくる思考を軌道修正するために、彼は改めて少女の顔をのぞきこんだ。
離れがたい気持ちはわかる。だができれば説得してしまいたい。くっついているならそれこそ居間のソファが最適だけれど――自室のソファは却下――日中も貪るように寝たダリウスとは違って、梓の疲れは完全に取れはしないだろう。それは望ましくない。
「梓? きちんと布団で寝ないと疲れが取れないよ。離れがたいのは俺も同じだけれど、まさか一緒に寝るわけにはいかないからね」
我慢できなくなってしまう。悪戯っぽく囁くと、梓は頬を真っ赤に染めた。
「わ、わかってるよ! わかってるの……わかってる、ん、だけど」
何も三回も言わなくても。そもそも何に対しての“わかっている”だというのか。語尾が徐々に萎む。指先にきゅっと力がこもり、未だ赤みのひかない顔で彼女は縋るように見上げてくる。
「……夢じゃ、ないよね? 寝て、起きたら、またダリウスは……そんなこと、ないよね? 絶対にないよね? 明日もまた」
「大丈夫だよ」
最後まで言わせる気はなかった。引き寄せて、抱きしめる。
布地をつかんでいた手はおずおずと離され、ダリウスの背に回った。華奢な身体だ。すっぽり覆える、包み込める。折れそうなほど力を込めても文句も出ない。
「…………あったかい」
実際息苦しいのだろう、若干細い吐息のその中に、けれど明らかに恍惚の色が見え隠れする。彼は喉の奥で笑って、ふわふわ髪に頬を寄せた。
「うん、あたたかいね。夢だとこうはいかないだろう。それとももしかして、梓の夢の中の俺は体温もあったの?」
「ううん、なかった」
返答に満足して力を緩めれば、腕の中、少女は花のように笑う。ああ本当に、離れがたい。でも我慢だ。溺れきるのはもう少し後。
「眠れそうかな」
「うん。大丈夫。……たぶんね?」
「たぶんなのかい?」
額を突き合わせ、くすくすと笑みを零して。頼りなげなことを言っておきながら、彼女の笑顔にもう影はない。先ほど自分がされたように、ダリウスはやわらかな手つきで梓の前髪を掬い上げた。
「君の眠りが安らかなものであるように。……悪い夢に、捕まりませんように」
ちゅ、と。
音をたてるつもりはなかったのに、存外大きく響いたように思えた。肌に触れた感触に、唖然と見開く大きな瞳。細い指先が白い額に恐る恐るといった風情で触れて、離れた。
「〜っ、ダリウス!」
咎めるような叫びとは裏腹に、彼の胸にちいさな頭が押しつけられた。表情はもちろんわからないけれど、髪の隙間から見える耳も首筋も赤い。しがみつく手は羞恥に微かに震えている。
あるときから、梓はいつもこうだった。人目があるときは別だが、そうでないなら動転しても何をしても、とにかく離れるのでなくくっついてこようとする。おそらくは無意識なのだろう。拒絶への恐れや、実は寂しがりであることを見抜かれてしまって以来、ずっとそう。あなたを受け入れると強く言いきった、あのときの言葉を真実たらしめんとする姿勢と心は、一年前も今も変わらずダリウスの胸をぽかぽかとあたためる。
「びっくりさせてしまったね。でも、君がこうして欲しそうに見えたから」
「……何か、はして欲しかったよ、確かに。でも、こう来るとは……あんまり思ってなかったかな……」
今度は抱きしめることはせず、宥めるように肩だけ軽く叩いた。そのうち落ち着いたか、ひとつ息をついて梓のほうから身体を離す。つぶらな瞳が、まっすぐにダリウスを見上げた。
「本当によく眠れそう。ありがとう、ダリウス」
「どういたしまして。それじゃ……」
おやすみ、と言いかけた時だった。肩にぐいと力をかけられてたたらを踏む。転ぶほどの強さではなく、それでいて体勢は崩れた。一瞬何が起こったのかわからないまま足に力を入れて、そうして、頬に当たったやわらかな感触に頭が真っ白になった。
「え」
「お、おやすみ!」
扉が開き、閉まった。咄嗟に梓のほうを見たかもしれない。のに、視界に残ったのは残念ながら見慣れた屋敷の風景だけだった。
この扉一枚の向こうに、仔猫のように素早く身を隠してしまった、愛しい少女の存在がある。
「…………参ったな……」
ダリウスは独りごちて片手で口許を覆った。
認めよう、おそらく今自分は緩みきった顔をしているに違いない。およそあの忠実な少年や居候たちや、共闘した者たちには見せられないような。
なんとなくわかる。梓はまだ、寝台まで行っていない。すぐそこで、息を詰めている。こちらの気配をうかがっているのだろう。
一歩進んで扉に触れた。目を閉じると自然に笑みが浮かぶ。
「梓」
返事はない。が、ぴくりと身じろぎしたのが伝わってくるようだった。
「梓、おやすみ。……愛しているよ、俺の運命」
唇から滑り出た声は、我ながらひどく甘ったるかった。途端駆けだす足音が聞こえる。絨毯に吸収されて密やかに、だから夜中でも階下にすら聞こえないほどの。でも、ダリウスには聞こえた。
きっとこの後は寝台にまっしぐらに突っ込んで、大急ぎで潜り込んで、頭を抱えているのだろう。ぐるぐるいろいろ考え込んで、羞恥に悶えてみたりして、そのうちそのまま寝入るのだろう。それは実に幸せな想像だった。
明日。
彼はもう眠り続けることはない。朝日が昇ればまた目覚める。彼女も目覚めて、おはようと挨拶をかわせば、きっととびきり愛らしい笑顔を見せてくれるのだろう。
いやほらなんていうかダメダメなんだけど、それだけじゃなく強さも弱さもね! 両方あってこその愛しさっていうかね!
梓もぐるぐるしてて強いばかりじゃなかったのがまた萌えました。いや強かったけど全体的には。ヒーローヒロイン逆転やったけど。
EDの私の心境→「よーしわかった。わかった(梓を)持って行け!」私は父親か。
とにかくそっと「幸せになれよ…」と呟きたい二人です。