たまの我儘
 聞き慣れたチャイムの音とともに、試験会場にざわめきが戻ってくる。
 どこに居てもこの音は同じなのだ。重くなってきた頭をわずかに振って、七緒は肩からずり落ちかけていた鞄を引き上げた。
 窓の外を見れば、日はすでに山並みの向こうに隠れている。家に帰りつくころには八時を回っているだろう。同じ模試を受けに来ていた友人たちがいくらか文句を並べていた。
 彼女らがうんざりするのも無理はない。ここは街の中心部とは程遠い、郊外にある私立大学の校舎だ。こういうところも、模試やセンター試験では協力を要請されて校舎を貸し出すことがあるのだとは、聞いた事はあったけれど。
 バス停自体は校門の目の前にあったが、試験前に確認した時刻表は街中のそれに比べて数字がすかすかだった。しかも駅は遠い。たださすがに人が集まることは考慮してか臨時便の張り紙がしてあったので、満員のバスを見送らなければならない事態は避けられそうではあった。
 スマホを取り出してロックを解除する。連絡はまだない。
 友人たちとはすでに手を振りあって別れた。一方の家族が車で迎えに来てくれるとのことで、もういっぽうもそれに便乗させてもらうことにしたのだ。
 七緒の自宅も、遠い。ふたりの自宅よりさらに遠い。そのうえトンネルやら登山道やら、夜ひとりで歩くには少々物騒かと目されるところを通らねばならないので、ひどく心配された。一緒に帰るかと親切な申し出までもらったが、それは断った。
 同じ会場で同じ模試を、家族が受けているからだ。今日も例によって両親は留守にしているので、もう面倒だし互いに好きなものを買って帰ってのんびり夕食にしようと約束してある。
 それにしても、人波はなかなか引かなかった。
 会場となった教室にはもうあまり人が残っていないのだけれど、廊下はかなりのもの。やっぱり暗くなっているから、みんなどうしても焦ってしまうのだろうか。でも相当な数の生徒が試験を受けに来ていたようだし、校門のあたりなど今頃すし詰め状態なのでは。
 電子画面は沈黙したままだ。見ていたら、なんだか眩暈がしてきた。これは本格的にまずい。明らかに頭痛の前兆だ。
 試験の最中は集中していたからか特に何も思わなかったが、自覚してしまえばとにかく一刻も早く家族――五月と合流したくなった。彼なら、七緒が多少ふらついたところでいいようにしてくれる。
 ざわめきの移動は早い。屋外は騒がしくなってきたけれど、反面校舎の中は徐々に静けさが勝って来ていた。友人とだべっているもの、家族からの連絡を待つもの。
 こちらからメッセージを送るのもなんだか億劫に感じてしまう。ならばいっそと七緒は立ち上がった。くらくらするが、スマホを見るよりは身体を動かしているほうがましだ。バス停に向かいがてら探して、電話は最後の手段にしよう。
 まばらになった人の間を縫いながら、彼女は見知った姿を探して歩き始めた。




「なあ五月、一緒にメシ食って帰らないか?」
 目より先に、耳が探していた人物の名を呼ぶ声を拾った。
 助かった、すぐ会えそうだ。五月の身長は同年代の中では平均的だから、人口密度の高い状態だとみつけるに苦労する。聞こえた方向を振り向くと、馴染み深いふわふわの後ろ髪が揺れていた。視界に入ってしまえば間違えるはずもない。
「兄さ……」
「ほら、会ったの久々だろ? お前、予備校には来ないしさ。神社もちょっと気楽に行ける距離じゃないし」
「あー……いや」
 五月は男女の一組と立ち話をしていた。内容から察するに、同じように浪人した高校の友人なのだろう。知らない顔だから、家までは来たことがないはず。
 こめかみがずきりと痛んで、七緒は奥歯を噛みしめた。
「あのさ、妹も模試受けに来てるんだ。一緒に帰る約束をしてるから、聞いてみないことには」
「妹さん! そうそう、話してみたかったの」
 女性のほうが、両手のひらを打ち合わせて笑顔になる。やさしそうな印象のひとだった。
「遠目からしか見たことないけど、かわいいなーって思ってたんだよね。実は興味ある」
「あーうん、あの子は確かに可愛いけどね?」
「うわ、始まったよこのシスコン」
 お決まりのやり取りなのかもしれない。あははは、と朗らかな笑い声があがった。
 あたたかくて明るい。五月のいるところはだいたいいつもこういう雰囲気だ。彼自身がそういう空気を作り出すのか、そういう空気を持つ人間を引き寄せるのか。どちらにせよ和やかな空間になる。人嫌いを公言する幼馴染だって、五月の前ではやわらかい顔をしていた。
 三人はまだ七緒に気づいていない。好奇心も刺激されたのだろう、瞳を輝かせて友人たちは無邪気に続ける。
「もちろん妹さん次第だけど……せっかくだもん。みんなで一緒に行こうよ」
「そうだよ、せっかくだろ」
 頭が痛い。
 べつに何かしら含むような意図は感じられない。ふたりは単純に、久しぶりに友人に会えて嬉しいだけだ。そしてその家族にも興味を持ってくれている。もう少し一緒にいたいと言ってくれているのだ。
 普段の七緒なら申し出を受けていただろう。同学年の友人の目から見た五月の姿だって教えてもらえるかもしれない。それはきっと、楽しい。
 なのに、今このときばかりはそうならなかった。
 顎に変な力がかかる。そうするとさらに痛みが増すのに、制御できない。緊張をほどけない。
 男性の親しみに満ちた気安い口調が。小首をかしげる女性の上目遣いが。
 無性に癇に障って仕方がなかった。

 いやだ。

 真っ先に浮かんだ言葉はそれだった。
 このひとは、兄さんは、私と一緒に家に帰るのだ。約束していたんだから割り込んでこないでほしい。
 それに頭が痛いのに。歩くどころかしゃべるのも面倒なくらいなのに。知らない人と一緒に晩ごはんを食べようなんて、そんなの嫌だ。
 自分勝手な思惑がどんどんあふれてきて抑えきれなくなる。何も取り繕えないまま、そのまま出てきそうになって唇が震える。
 七緒は、どふん、と五月の背中に頭突きした。
「うっ? え、なに?」
「……兄さん」
「あ、七緒?」
 彼が予期せぬ方向からの攻撃に怯んだのは一瞬だった。振り向こうとしたところをわき腹から腕を突き出して阻止する。そのまま額を擦りつけると、五月はちいさく笑って飛び出た七緒の両手首をつかんだ。そして、ぐいーん、と前に引っ張った。
「なあに? どうしたの七緒」
 これは七緒を甘やかそうとするときの兄の声だ。妙な安心感が襲い来て、かすかに喉が鳴る。泣きたいわけじゃない。そうだ、頭いたい。いたい、しんどい。労わって甘やかしてもらわないことにはやりきれない。
 私だけに集中してくれなくちゃ、いやだ。
「兄さん、頭が痛い」
「えっ」
 五月はぱっと手首を放した。慌てたように顔を覗き込んでくる。指先がふんわり生え際に触れ、錯覚だろうけれどわずかに痛みがやわらいだ。
 自覚のないまま汗ばんでもいたらしい。いつの間に取り出したやら、そっとハンカチで汗を吸い取られて息をつく。
「わ……ちょっと熱があるじゃないか。いつから? ずっと我慢してたのか?」
「最後の科目が終わる直前くらいから、だから……試験はちゃんとできてるはず……」
 鞄を奪い取られて、少し楽になった。背を支える腕に寄りかかりながら呟くと、下がり眉がさらに下がる。
「いや、模試だからね? 今日たまたまできなかったからって気にする必要はないだろ。……どうする、タクシー呼んで帰るか? 冷凍ご飯は残ってたはずだし、雑炊くらいならすぐ作れるよ」
「やだ」
 七緒は勢いよく首を振った。振ってからくらくらしてふらつく。でも言葉だけでは足りなかった。仕種でも示さなければ伝わらないような気がした。
 今すぐ帰りたい。横になりたい。眠りさえすれば楽になれる。でも、このまままっすぐ家路につくのは嫌だ。
 矛盾している。そんなのはちゃんとわかっている。わからないのは、矛盾と理解していながら欲求を並べたてる自分の思考回路のほうだ。
「デパ地下でおこわ買うの……栗が入ったのがいいの」
「え、ええっ?」
 わずかにのけぞったところで肘を捕まえて、上腕にぐりぐり前髪を押しつける。
「羊羹も食べる」
「あ、羊羹なら家に……」
「柿のやつ」
「限定品要求するの!? いや、この時間だと売り切れてるんじゃ……」
 不調に任せ、単に我儘が言いたいだけなのかもしれなかった。自分でも支離滅裂だ。周囲からは子どもが駄々をこねているだけに見えるに違いない。
 でももう、理屈だの常識だのは考えられなかった。こんな些細なことだけど、デート気分で楽しみにしていたのは事実なのだ。二人とも受験生だし、そうそう頻繁に遊びには行けない。だから久しぶりに近所のスーパーだとかコンビニだとか、そういうところ以外で一緒に買い物ができると思って嬉しかったのに。
 腕に抱きついたまま動かなくなった妹に、兄はため息をつく。その中には恐れていた呆れの色はない。繊細な手つきで髪を撫でられて、ぎゅっと腕に力を込めた。
「ううーん、食欲があるなら……それに越したことはない、のかな……ごめん二人とも、悪いけど今日は」
「や、こっちは気にしないでくれって。相当しんどそうだし……本当に大丈夫か?」
「明らかにふらふらしてるしね……とにかく早く休んだほうがいいよ」
 お大事にね、とそれぞれからかけられた言葉には疑いようもないほど気遣いがあふれていた。顔をまともに見られない。謝意がわかりやすいように頭だけを下げて、去っていくふたりの足元を眺めて見送る。
「さて」
 わりあい力を込めていたはずが、するりと腕を引き抜かれた。一抹の寂しさを覚えたのも束の間、しっかり肩を抱かれて眉間の皺がわずかに緩む。
 人目はまだあったが、恥ずかしさはなかった。だいいちそれどころじゃない。自力でバランスが取れなくて全体的にぐらぐらしているし、足取りも危うい自覚はある。目を閉じたまま誘導されながら浅く息を吐いた。
「七緒……もう少しだけ頑張って。こっち」
「ん……」
 この人混みが良くないのか。試験が終わって気を抜いたからか。ここまで急激に具合が悪くなるなんて思いもしなかった。友人と別れたときは、少なくとも笑顔を浮かべるくらいの余裕はあったのに。
 まぶた越しに感じる光がだんだん弱くなる。明るいより暗いほうが楽だ。守るように影が落ちてきて薄く目を開ける。
 いつのまにか外まで来ていたようだった。ざわめきは少し遠い。そばには壁と、それから鉄の武骨な階段が見える。五月は下から二段目の階にハンカチを敷いた。七緒を座らせてその正面に膝をつく。
「七緒。痛いの、どのあたり?」
「……あたまの、よこ……こめ、かみ? えと、右」
 言葉を継ぐにも時間がかかる。つっかえつっかえ舌足らずの発音に、兄は辛抱強く耳を傾けている。
「こっちだね。上、下? 前、後ろ?」
 問われるままに答えた。一番気になるのはこめかみのあたりだが、そこからてっぺんに向かって痛みがずきずきと走る。どちらかといえば後ろ寄り。脈打つようにやかましい。眼球も圧迫されている気がする。視界がちかちかせずに済むので、明るいよりは暗いほうがいい。
「とりあえず……特に痛いのは、このへん一帯。で、いい?」
「ん」
 不思議なもので、ふわふわ触れられるとやっぱり楽になる。状況さえ許せば抱えてもらったまま寝てしまえたのに、と埒もないことを考えた。
「七緒、呼吸が浅くなってる。みっつずつ数えるから、合わせて吸って、吐いて。いち、に、さん。いち、に、さん……」
「……ふ……」
 どうしても上ずる息遣いを、落ち着かせようと苦心する。額をさすられるのが気持ちいい。指先がするりと前髪を梳いて離れた瞬間、見覚えのある光がおぼろに浮かんで消えた。
 …………。
「…………あれ?」
 光は五芒星を象っていた。そのことに気づくと同時、七緒はぱちぱちと忙しく瞬きする。
 左右を見ても頭がぐらぐらしない。あの不快なずきずきと吐き気がなくなっている。痛みの気配は彼方に遠ざかって、走るのは不安でも歩くくらいは問題なくできそうだ。
「七緒? 大丈夫?」
「……あ、うん……?」
 明確な応えがなくとも反応でわかったのだろう、五月はほっとしたように破顔した。
「良かった、効いたみたいだな」
「あ、うん。痛くない……けど、え? どうやって? 兄さん、怪我だけじゃなくて頭痛まで治せるの?」
「ん、治せたわけじゃないよ? 気と血と水に働きかけて、滞ってたのを正常な流れに……あー、いや」
 ついぺらぺらと解説してしまいそうになるのは癖だ。べつにそのまま聞き続けても良かったのだけれど、彼はそうは思わなかったらしい。理屈はどうでもいいよね、とひとりうなずいて膝を払って立ち上がる。
 手を差し伸べられた。
「言っておくけど、あくまで応急処置です。ちゃんと肝に銘じておいてね。そのうえで聞くけど、すぐに帰る? それとも寄り道する?」
「……寄り道する!」
 現金なものだ。痛みがなければ身体はすんなり動いた。
 差し伸べられた手を取るどころか思いきり抱きついた七緒を受け止めて、頭上にやさしい笑い声が降った。




 さて、最後の気合の入れどころだ。
 登山道の入り口を前に、七緒は表情を引き締めた。
 それこそ毎日通っている道だ。いちいち気合など入れるまでもないのだが、勾配のある道はやはり平坦なところよりは体力を奪う。
 ほかほかと未だ温かい湯気を放っているおこわの包みを抱えて、等間隔に淡く光る街灯の先を透かし見た。
「七緒、ほら」
 自分のリュックを背負って、七緒の鞄も片手に下げて。唯一空いた左手まで彼女に差し出してくる。七緒はむにゃむにゃと唇を動かしたが、結局何も言わず手を繋いだ。
 転ばないようにとは言わなかったが。どこまでも、ひたすら気遣われている。くすぐったい。
 あのくさくさした気分は今では嘘のように遠くに飛んでしまっていた。骨ばった指に指を絡めてきゅっと握る。あ、ちょっと照れた。わずかな明かりでも見える、耳の端っこが赤い。
「……ごめんね、兄さん」
「ん? どうして謝るの」
 その声色は本当に疑問しか宿していなくて、歩きながら眉を八の字にするしかなかった。
「お友達と会えたの、久しぶりだったんでしょう? 私が具合悪くならなかったら……というか、治してくれたんだからそのあと一緒に行っても良かったのに」
 人目のあるところで術を行使するわけにはいかなかった。その理屈はわかるが、それならそれで薬を飲んだという体であのまま同行してもよかったはずだ。
 それをわざわざ断って、八つ当たりじみた七緒の我儘を最大限にかなえようとして。事前に約束していたからといっても、そもそも七緒と五月は毎日同じ家に帰るのだ。たまにしか会えない友人のためにそれが反故になったからといって、仕方ないと思えるくらいの度量は持ち合わせているつもりだ。……実際は、思いきり妨害したけれども。いやあれは体調が悪かったからであって。
「もー、言ったでしょ。あれはあくまで応急処置です」
 形ばかり唇を尖らせて、五月が繋いだ手を揺らす。
「対症療法であって、原因を取り除いたわけじゃないんだよ? 七緒に必要なのは術じゃなくて、とにかく休養。あのまま騒がしいとこに何時間もいてごらん、絶対また具合悪くなるからね」
「そうかな……」
「そうなの」
 いまいち納得がいかない。
 あんなに苦しくてつらかったのに、今はすっかりけろりとしている。よほど試験会場の空気が合わなかったのか。でも、それこそ試験が終わるまでは何ともなかったのだし。単に疲れが溜まっていたのだろうか。
 七緒は五月の肩に頭を摺り寄せた。
「ほんとはね、ちょっとだけやきもちやいたの」
「へ?」
「だって、仲が良さそうだったから。女の子もいた。そういうのじゃないってわかってたんだよ。なのに兄さんを取らないでって、私の兄さんなのにって、ちいさい子じゃあるまいし…………せっかく話してみたいって言ってくれたのに、ろくに挨拶もしなかった。がっかりさせちゃったかもしれない」
 一気に言いきって嘆息する。
 最後に付け加えたのは、いつもなら忘れるはずのないことだった。
 きちんと挨拶をして、お互い自己紹介すれば良かった。兄と親しそうにしていた、彼だって誘われて満更でもなさそうだった。別れる時も、子どもじみた七緒の振る舞いを笑うでもなく純粋に心配してくれていた。初対面で食事したってそれなりに楽しい時間が過ごせたはずだ。
 でもあのときは無性に意地悪がしたかったのだ。このひとが最優先にするのは私なのだと、見せつけてやりたかった。
 本当、子どもみたいだ。友達を蔑ろにさせていいわけはないのに。
「あの二人なら、そんなの気にしないよ。むしろまだお前のことを心配してると思うから、後でメッセージ送っておく」
「そうだろうけど……」
「あー、もう」
 五月は立ち止まった。つられて七緒も止まる。
 窺うように見上げた途端、唇にやわらかい感触が落ちてきた。
 ふわっと全身が熱くなる。
「兄さん、私は真面目に」
 触れ合い自体は嬉しいが、今はそういう雰囲気ではなかったはずだ。
 抗議しても彼はいつものように怯んだりしなかった。七緒の手を握る力を少し強くして、顔がもう一度近づいてくる。きつく目を閉じると、今度は頬でちゅっと音が鳴った。
「だから……」
「あの二人のことは、今はいいから」
 至近距離にある瞳が濡れたように光った。大きくひとつ鼓動が跳ねる。
「今お前の目の前にいるのは俺でしょ。俺のことだけ考えてなさい」
 いきなりの口説き文句が来て――いや、本人にそのつもりはあまりなさそうだ。口づけまでしておいて、全然照れていない。七緒ばかりが動揺していてなんだか悔しかった。そもそもが五月のことを考えていて、そこに常ならぬ精神状態も相まってああいう行動になってしまったのだ。なのに“俺のことを考えて”とはこれいかに。
 どうもそのあたり、うまく伝わっていないのではないだろうか。
「か……考えてるよ。だからこそあんまり甘えすぎるのは、」
「あ、いや。……言い間違えた、ごめんね。俺じゃなくて、自分のことだけ考えてなさい。特に今は」
 続きを言うことはできなかった。
 何が起こったわけでもない。そっと促されてまた歩き出しただけだ。歩いていたらお互いばかり見つめているわけにもいかない。ふたりのうち、少なくともどちらかは前を見ていなければ。――実際問題、転ぶ。
 色めいた気配を感じたのはほんの一瞬のことで、横顔はあくまで穏やかだった。その顔がこちらを向いたので、七緒は慌てて前を向く。
「友達はもちろん好きだし大事だよ。でも、俺は七緒が一番に大切で特別で優先したい」
「うん……」
 私も、とぽつり返す。
「だいいち、しんどい時に人に気を遣って我慢してどうするの。なんでも言っていいんだよ。いま七緒が優先すべきなのはあの二人でも俺でもない。お前自身の心と身体です」
 それに、いつもはそんなに甘えてくれないんだから。こういう時くらいいいでしょ?
 五月は不満げにぼやくが、七緒が普段いちいち甘えないのは、必要とする前にそれが与えられるからだ。愛されているのだと、揺るぎない確信を持てるほどの時間と経験を重ねてきたからだ。
 そして、だからこそ自分と相手の周囲にも目を向ける余裕が出る。そう、五月の友人関係を心配したりその内心にまで考えが至ったのは、大前提としてあの場面で彼が七緒を選んでくれたからだ。もしかしてこれは本末転倒というやつなのでは。
 七緒は少々後ろめたい心地で足元を見つめた。
「だって兄さん、私が本当に甘えたいときはちゃんと甘やかしてくれるから」
「いやあ、兄さんとしてはいついかなるときでも甘やかしたいと思っているよ?」
「そういうところ」
 ごく自然に笑いが込みあげる。
 しかも多少の無理難題を要求しても、なんだかんだでかなえてくれるものだから。何かがあったとき誰に頼るかと問われたら、結局いつも彼に行きついてしまう。
「七緒さんは時々難易度の高い要求をしてきますから、お兄ちゃん意外に慣れてるんです。柿羊羹、まだあって良かったね。……ちなみに食欲はあるの?」
「うん、ある。わりと」
「わりとあるんだね……」
 押し殺したようなふたりの笑い声が重なって、夜空に吸い込まれていった。曇っているから、星は見えない。
 木立ばかりで人気のない暗い道、でも手を繋いでおしゃべりしながら歩いていたら、不安に思うようなことなんて何もない。
「帰ったら食べて、お風呂入って。今日はすぐ寝ないと駄目だからね」
「ちょっと気になる問題が……」
「だーめ。寝なさい」
 試験の常で、問題は持って帰れない。でも確か、手持ちの参考書の中に同じ公式を使って解くものが記載されていた記憶があるのだ。数学は最初のほうだったからいつもどおりの出来だろうけれど、気になるものは気になる。
「目星をつけるだけだよ、解かないから」
「だめ。明日はお休みでしょ、ちゃんと寝て。そういうこと気にするのは元気になってからでいいの」
「……うん」
 七緒は不承不承うなずいた。
 ここまで言い出すと五月は頑として譲らない。他はともかく、健康に関することになると強情だ。被せるように次々理屈だの説得の言葉だの並べ始めるので、押し負けてしまう。
 逆らっても仕方ない。体調の回復とともに気が晴れてきているのは事実だが、今日の七緒がとことん甘えたい気分になっているのは間違いないのだから。
 それなら逆手にとって我儘放題と行かせてもらおう。
「じゃあ兄さん、ちゃんと寝るから」
「うん」
「私が寝つくまで、頭撫でていて。ずっと」
「えっ」
 五月は思わずという風に立ち止まった。
 見上げて、見下ろされる。注がれる眼差しの中に、面倒だなあという感情は見当たらない。何を言っているのかしらこの子、というのは多少含まれているような気もするけれど。それこそ普段の七緒はあまりそういうおねだりをすることがなくて、五月が自発的にしてくれるのを受け入れるばかりなのだ。
 七緒は首をかたむけて、いかにも当然と言わんばかりの調子で続けた。
「だって、あれは応急処置なんでしょう。ならまた痛くなるかもしれない。つまりこれは義務です」
「義務」
 繰り返して、五月はへにゃっと眉尻を下げた。口許が締まりなくなっている。これは悪い気はしていないときの顔だ。
「……そっかー、義務かー。じゃあ仕方ないね」
「そう、仕方ない」
「そっかそっか、仕方ない」
 また歩き始める。ふたり声をそろえて、仕方ないと繰り返す。何をやっているのだか、そうちらりと思っても、他に聞くものがいるわけでなし。
 途中から妙な節回しまで付き始めた。つないだ手をリズムに合わせて揺らして、ときどき引っ張ってみたりしながら。そうこうしていれば我が家はすぐだ。
 ひっそりと明りの消えた家、玄関の常夜灯だけが煌々と辺りを照らしている。
 戸を開けるそのときまで、指先はずっと絡んだままだった。
--END.
我儘、というほどのことでもない気はするけども。具合悪いときはそれでいいのだ。

七緒ちゃんは普段は凛として礼儀正しく他人への気遣いも忘れない子ですが。
たまに具合が悪いときは、周囲とか知らんわ! って、わーっと八つ当たりすることもある。たぶん。
そういう意味でいっそ理不尽なことも言える相手はやっぱりつきあいの長い五月兄さんと大和なのではないかなあ。
本編中も五月に対しては威圧(ヲイ)することはあっても見栄を張ったり強がったりする様子はなかったよねー。ねー。
現代組ルートの七緒ちゃんは等身大感が見えるので特に好きです〜凛とした姫様も好きだけども〜〜
(2020.08.16)