微熱
 額に、ひんやりとした何かが乗った。
 夢と現の狭間を彷徨っていた意識が急激に浮上する。薄く幕を張ったようにぼんやりしてゆらゆらして、定まらない視界――霧は少しずつ晴れ、やがて自分を覗き込んできている青い瞳と目が合った。
「…………シャールヴィ?」
 起き抜けのせいか、声がかすれていた。途端離れていく冷たさを恋しく追いかけようとして、けれど身体が思うように動かない。苦しいというほどではない。ただ怠い。手が動かなかったのは、二重にかけられたシーツと毛布が重かったからだと今更気づいた。
「すまん、起こしたか」
 さらに離れていこうとする。かすかにかぶりを振って、エルナはぱくぱくと口を動かした。
「手……」
「ん?」
「手。つめたくて、きもちいい……」
「あァ」
 何を求められているのか察したらしい。再び額がひんやりとした感触に包まれて、ほっと息をつく。指先がさらさらと前髪をかき分けて、それもひどく心地よかった。分厚くて大きくて、いっそ武骨ともいえる手のひらなのに優しい。かさかさと乾き気味の皮膚が余分な熱を吸収してくれているようで、なんだかさっきよりも楽だ。
「熱はそんなに高くないはずなんだがな」
「熱……あるの? 私?」
「ほかに誰がいるってんだよ。まあ、寝てりゃ治る。ゆっくりしてろ」
 エルナは視線だけを巡らせて、周囲の景色を観察した。
 もうすっかり見慣れた天幕の天井だ。昼は移動し、日が暮れる前に適当な野営地を見つけて天幕を張る。夜が明けるころ起き出して朝食をとり、また移動。ここのところはその繰り返しだった。寝かされているのも普段使っている簡易寝台だ。いつもよりも身体の上にかけられている布の枚数は増えているけれども。
 天幕の入口は開いていて、真昼の白い光が差し込んでいた。
「今日は移動はなしだ」
 エルナの目の動きを追っていたシャールヴィが、問いかける前に答えてくれた。
「ごめ……」
「何が?」
「だって、足止めさせちゃって」
「謝るようなことじゃねえだろ? 急ぐ旅でもなし」
 身じろぎした拍子に毛布がずれる。意外に繊細な仕種で肩まで覆いなおしてくれてから、彼は額に乗せているのとは別の手でぽんぽんとエルナの腹のあたりを叩いた。
「そろそろ一日くらい、ゆっくりしようとは思ってたんだよ。女子どもにゃ移動だけでもキツイからなぁ。休みたかったのはおまえだけじゃないってこった」
 ゆっくりと記憶が戻ってきた。確か、今朝はいつもどおり目覚めたのだ。ちょっとおかしいような気はしたけれど、普通に着替えて、天幕の外に出て、ちょうどシャールヴィとラタトスクと出くわして挨拶して――そのあたりから曖昧になっている。
「医者が言うには気が緩んだとこに疲れが来たんだろう、だと。なんで今頃ってのはあるけど……まーこういうのは予測がつくもんでもないよな」
「……ああ……そっか。気の緩みね……」
「ん、心当たりあるの?」
 きょとんと見下ろしてくる瞳は無邪気だ。彼はたまに幼子に対するように優しげな表情や物言いをすることがある。普段は荒っぽくて乱暴なくせに違和感がないから、こういうところはやっぱりちゃんと王子様なんだなあと思わないでもない。
「昨日」
「昨日?」
「結婚してって……」
「…………。……え、アレ? な、え、なんで?」
 シャールヴィはあたふたと両手を振り回しかけ、思い直したのかまた額には手を当ててくれた。顔を赤くしてそっぽを向いている。ひどく恥ずかしそうにしているが、お互い様だ。エルナ自身の顔だって、おそらく真っ赤になっているに違いないのだから。あまり思考が働かない状態で思わず口走ってしまったけれど、さっきまでただただ怠かっただけなのに、全身どくどくと血が巡り始めたのがわかった。
「……ンな急な話だったかね……」
「うん。……少なくとも、私にとっては」
 いつのころからか、彼に心を寄せるようになっていた。自分でもはっきりとしない想いは少しずつ少しずつ育まれていっていたのだろうけれど、自覚したのはきっとアンサズの難民たちと合流してからだ。
 初めて嫉妬という感情を知り、同時に自分の抱いていたものが何だったのかを知った。なぜ争いが起こるのか、それを理屈ではなく感覚すべてで悟った瞬間でもあった。心を封じ込めなければならなくなって、苦しくて、だけどどこかそれが当然なのだと納得する自分もいたように思う。
 それ以来気を張って、気を張って。そばにいられる時間は変わらず安らぎに満ちていたけれど、いつかは終わらせなければならないもの。そう諦めていたところに求婚された。
 周囲の思惑はどうあれ、エルナにとっては青天の霹靂だった。
「いつかお別れしなくちゃいけないって……思ってて。でも、ずっと一緒にいていいんだって……なんか、すごく、気が抜けちゃって」
「俺ぁ腰が抜けたけどな」
「そうなの? 見とくんだった」
「いやいや、見なくていい見なくて。……つーか寝ろって。明日には出発すんだから」
「うーん……」
 怠いのに変わりはない。確かに寝たいといえば寝たい。でもこのままシャールヴィと話していたいというのも本当だった。寝転がってさえいればこれ以上具合も悪くなりようがないだろう。だったら。
「オラ、寝ろ。寝ろ」
「ちょっ、シャールヴィ」
 額の手が瞼の上に移動してきて、エルナは慌てた。強制的に目を閉じさせようというわけだ。抵抗しようにも毛布の端も押さえられていて、たいして身動きできない。
「明日になっても熱が下がってなかったら、おまえは馬車の中だからな」
「ええーっ」
「当たり前だろうが。空の上は冷えるんだぞ、具合悪いヤツなんか連れてけるわけがねえ」
「うー」
「唸ってもダメ」
 竜に乗って空を駆けるのは、彼女にとって密かな楽しみの一つだ。透けない風を感じながら、どこまでも遠くを見渡して。馬の疾走感も悪くはないが、見晴らしの点で竜がはるかに勝る。どこまでも、どこまでも。世界が本当に開けたのだと身体いっぱいに教えてくれる。
「わかった。……寝る」
「よし」
「寝るから、シャールヴィ」
 エルナは苦労して片手を掛布の外に出した。中に戻そうとしてくる手を握って、力を込める。首をかしげたシャールヴィの青い瞳を見上げた。
「寝つくまででいいの。手を握っててくれる?」
「……かまわねぇが……寝つくまでだぞ。寝たら俺は出てくからな」
「うん、それでいいから」
 優しげな苦笑が降ってきた。子どもみたいだと思っているだろうか。急に甘えん坊になったと思っているだろうか。
 両親を亡くして以来、具合の悪い時にこんなふうに会いに来てくれる人はいなかった。もちろん王城の女官は親身になって世話をしてくれたし、回復して後エイリークやヴァーリから気遣いの言葉をかけられたことはある。でも、それだけだ。
 アトリたちと親しくなるころにはすっかり身体も丈夫になって、寝込むようなことはなくなっていたから殊更忘れていたけれど。
 暖炉にどれだけ薪をくべても、寝台に湯たんぽを入れても、心の隙間は埋められない。人に勝るぬくもりはない。
「ありがと……」
 つぶやいたつもりが、ちゃんと声になっていたかどうか。
 ぼんやり熱に浮かされながらも満ち足りた気分で、エルナはゆっくり瞼を閉じた。
--END.
新装版おまけの次の日の話。
あのおまけは正直「ちょっ…今更?」とか思いましたが! ましたが!
なんていうか二人ともそういうことにはあまり積極的じゃないからしょうがないのかな。でもシャールヴィのほうはわりとわかりやすく言葉に出してるんですよね。まあ気づかないエルナの心情もなんとなく理解はできるけど。生い立ちとか体質的な意味で。
あ、そういや最終話にオーレイヴさんが出てこなくてちょっとがっくりしてたけど結婚式のときはそれっぽいシルエットいましたね。エルナにはアトリとか女官のおばちゃんとかいたんで、シャールヴィにもアンサズからの慣れ親しんだ人材もいてほしかったんで、うん、安心した。さすがに法王様とかは一時的に出席しただけだろけどオーレイヴさんはそのまま二人のそばに残ったと信じているぞー。ぞー。
(2013.03.10)