花咲く丘で
 ぽかぽかとうららかな春の陽気の中、丘の上は鮮やかな色彩に満ちている。
 咲き乱れるクローネの花は風を甘く香らせて、この街で生まれ育ったものとしての郷愁を殊更に思い出させた。
 志を抱いて故郷を出て、半年。早かったのか遅かったのか、今となってはよくわからない。周囲の顔ぶれどころか習慣も言葉すら異なる環境に身を置いて、がむしゃらに駆け抜けてきたはずだった。反面会いたい人たちの顔を思い浮かべて物思いに沈む程度の余裕もなかったのかと問われれば、そんなことはないと答えられる。
 まあ、一般的に考えればたいした時間ではないだろう。べつに一生帰らないとか、そんなつもりはさらさらなかったので、降って湧いた長期休暇に帰省しようと思いたったのはごく自然なことだ。
 彼は周囲の景色に向けていた視線を、ごく近くに落とした。半年ぶりに会えた恋人――と形容するのはまだ多少気恥ずかしい気もするが――メリエーラは、彼、ラルフが緩く組んだ腕の中で俯いている。二人して春告鳥を見送った後、ひどくしあわせそうにもう少しだけラルフを独り占めさせてねと微笑んだ。街に戻れば友人や家族に容赦なくもみくちゃにされるだろう。何しろ半年ぶりなのだ、その前に二人きりの時間を持ちたいと願うのは至極当然で、彼女と同じように自分もまた満面の笑みを浮かべていただろうことは想像に難くないのだけれど。
「メリー?」
 メリエーラは黙り込んでいる。いい加減付き合いも長いのだ、沈黙が落ちていても、その空気が気まずいものかそうでないかくらいは読める。しかし黙っているのももったいない気がして、ラルフはそっと彼女の愛称をささやいてみた。
 反応して、彼の胸もとに当てられていたちいさなこぶしがぎゅうっとシャツを握りしめる。
「…………困ったなあ」
 内心で五つほど数えてみた後に聞こえたつぶやきは、内容に反してそれほど困ってはいないようだった。何か面映い。さらさらと、涼やかな風が記憶にあるより少し伸びた灰茶色の髪をもてあそんで過ぎる。
「何が?」
 深刻でないのはもちろんわかっていたが、メリエーラが何に“困っている”のかはわからない。笑みさえ含んだ自分の問いかけが妙に甘ったるいのは久しぶりだからだ。きっとそうだ。苦笑しながら応えを待っていると、やがて彼女は意を決したように顔を上げた。視線がぶつかる。青と緑が溶け合ったような湖水の色。じっと見つめ返せば、徐々にぽうっと頬が上気してくる。飽かず眺めていたかったが、緊張に耐えきれなくなったのか、結局もう一度貌を伏せてしまった。
「話したいことがいっぱいあるの。ほんと、いっぱいあるのよ」
「ん。そりゃ俺だって」
「でもね、話したいんだけど、その……」
 ここできゅっと身体をちいさく縮ませる。髪の間から真っ赤に染まった耳がのぞいた。
「その…………キス、も、したい」
 言われた言葉が頭の芯まで到達するのに少し時間がかかった。
 よっぽど面食らった顔をしていたのだろう。もしかしたら、ぽかんと口を開けたままだったかもしれない。恐る恐るといった体で見上げてくるその表情をみとめた瞬間、ラルフは何故かぶはっと噴き出した。
「は、あはははっ!」
「ちょっ、ラルフ! なんでそこで笑うのよ!?」
 なってないわよ、普通そういうとき男の人は優しく笑ってお願い聞いてくれるものなんじゃないの!?
 傷つけてしまったかもしれないとの危惧がひそかに生まれたが、すぐに心配ないようだと思い直した。メリエーラは基本礼儀正しく控えめで優等生的な性格をしているけれど、根っこの部分では割合気が強く、ラルフに対しては辛辣な口もきく。目を吊り上げて詰ってくる、とにかくひたすら怒っているらしい。小作りな顔に並んだ瞳がきらきら光って、頬を林檎のように赤くさせて、怒っているのに愛らしい。何か台詞の中に不本意な罵り言葉がちらほら混じったようだが、腹をたてる気にもなれない。懐かしさが胸の中をくすぐり、彼はさらに遠慮なく笑い声を上げた。
「ひー、は、腹痛ぇ……いやそりゃそうだよな、どっちも口使うもんな、同時にはできないわな!」
「注目するところがそこなの!?」
 ちょっとそこになおりなさい、とメリエーラは右手で地面を指差した。お説教をしようというのだろうか。正座すればいいのだろうか。というか、説教するとしたって何をどうやって。
 ぺしぺしと力任せに肩を叩いてくる左手首をつかみ取り、薬指の根元に口づける。
 精霊祭、二人で出かけた日に交換した指輪がそこにはめられている。調合をするには指輪は邪魔だ。指輪どころか装飾品全般が邪魔だ。なにしろうっかり練金釜の中に落としてしまいかねない。ラルフも、普段は鎖に通して首にかけたり、ハンカチを結びつけてポケットに突っ込んでいたり。なくさないようあれこれ工夫をしつつ肌身離さず持つようにはしているのだが、実際指に着ける機会は少ない。それは彼女とて同じはず。
 でもあのとき、選んだものはお互いそれだった。
 そして今、彼の左手の薬指にはやはり銀色の光がある。
 ときどき妙に思考がかぶることがあるのだ。楽しいような、嬉しいような、恥ずかしいような。ラルフの仕種に気を取られたのだろう、文句を喚きたてていた口がぴたりと閉じて静かになった。
 先手必勝。――かどうかは知らないが、すかさず腕を引っ張る。倒れ込んできた華奢な身体を抱きとめて、顎を捕らえ、噛みつくように唇を重ねた。勢いを殺しきれず背中から花の中に倒れ込むが、土も葉っぱもふかふかしていてちっとも痛くない。むしろ少し強めにぶつかってしまった唇から鉄錆の味がする。けれど痛みに顔をしかめたのはメリエーラだけで、それも一瞬のことだった。
 先ほど交わした、触れるだけの優しいものとは違う。ちいさな傷を労わるように、舌先で赤いものを拭おうとすれば、同じことを考えていたらしい彼女のそれとぶつかる。驚いて同時に引っ込めて、互いの反応が面白くてくすくす笑った。悪戯っぽい表情で覆いかぶさってくるのを迎えて深く吐息を交し合う。決して無音ではない、風にさやさやと草が揺れる、空を飛ぶ鳥は囀っている、糧を集める蜜蜂は一生懸命飛び回っている。なのに耳が拾うのは自分と彼女の息遣いだけで、二人のいるところだけ空間を切り取られているような、そんな奇妙な錯覚を覚えてみたりもする。
「ラルフ……ラルフ」
「メリー」
 額に頬に、こめかみに。名前を呼びながら隙を見て唇を押しつけるのは、子どものじゃれあいにも似ていた。違うのは、腹の底に徐々に熱がたまっていくところだ。
 いつの間にか体勢は反転していた。仰向けに寝転がって、メリエーラはくすぐったそうに首をすくめている。声もなく、その唇が「もう一回」とねだるのを目にしてすぐ願いに応じてやる。
 甘いのか苦いのか、血の味か。もうなんだかよくわからない。ただ、溺れすぎるとまずいというのはなんとなく悟っていた。地の底でぐずぐずと燃える何かが出口を求めて暴れまわり始める直前、ふと熱を手放す。
 ラルフはメリエーラを抱きしめた腕はそのままに、すぐ脇の草の中に顔を突っ込んだ。火照った頬に、瑞々しい緑の冷たさが心地よい。
「はあー……」
「ちょっとラルフ、重い」
「あー我慢しろ我慢しろ。べつに潰れるほどじゃねーだろ」
「それはそうだけど……」
 見えなくても唇を尖らせているさまがありありと想像できて、彼は笑った。さすがにこの陽気の中で密着していれば少々暑い。なのにちいさな手のひらはラルフを突き放すでなく、背中をゆっくりなでている。
 ん、とひとつうなずいて、彼は身を起こした。メリエーラのことも引っ張って座らせてやる。気恥ずかしさはあったが、それ以上に満足感があった。
「よっし。メリー成分補給完了っと」
「何それ? ラルフってば、なんだかクレメンス先生みたいな言い方」
「おい待てアレと一緒にするな」
 本気で顔色を変えると、彼女はころころと楽しげに笑った。
「一緒にはしてないわよーだ。なあに、もしかして自分で思ってるの? ちょっとは似てるかもしれないって」
「俺はあんな頻繁に爆発しねえ! Sじゃねえし、メガネでもねえ!」
「うん、そうね。そうなんだけど……ふふふ」
「……なんだよ」
「べつにー? ただ、やっぱり落ち着くなあって思って」
 すまし顔で言い放ち、メリエーラは身軽に立ち上がった。服のあちこちについた葉っぱを払い落とし、いつの間にか落っこちていた帽子を拾ってかぶりなおし。最後にちょっと唇を触ったのは傷の具合を確かめたのか、キスの感触を思い出していたのか。どうにも判断できないまま、ラルフも放りっぱなしだった荷物を持ち上げながら身体を伸ばす。視界が急に高くなって、遠くまでよく見えた。
「さて、もうちょっと話してたいとこだけど。あまり遅くなるとまずいよな。そろそろ帰還といきますか」
「みんな喜ぶね。今日は宴会になるかしら?」
「……ひょっとしなくても、また俺厨房に入るんかな」
「さあ? でも今日じゃなくてもいいから、ラルフのごはん食べたいな。ほんとに久しぶりだもん」
「へいへーい。お姫様の仰せのままに。で、もちろんジャムタルトは作ってくれるんだろ?」
「うん、もちろん」
 どちらからともなく指を絡め、手を繋いだ。門が見えるまで、門が見えるまでだ。それ以上くっついていたら、それはもう筆舌に尽くしがたい手荒い歓迎を受けるに違いないから。いや、あまり変わらない気もするが。
 手を軽く揺らして、歩き出す。背中を押す風は、やっぱり懐かしい甘い香りに満ちていた。
--END.
ラルフ×メリーいいよね!!
もうイベントのひとつひとつに悶え転がりました。同期でライバルで恋人。それぞれ違う道を歩みながら抱えている本質は同じで、ときに支えあい時に競い合い、どこまでも一緒に高みを目指して昇りつめていける。
……ふおおおお!(興奮)
「仕事」を持っている人間、しかも同時に「学ぶもの」である以上(まあどんな仕事でも学ばないなんてことはありえないけれども、研究職だから余計)、これ以上の関係があるか? いやない!
と、燃えたぎって萌えたぎってなんか色々頭の中おかしくなって生み出された話でした。
いや、内容はいちゃついてるだけだけども! だけども!(笑)
エルクローネは全員それぞれおもしろかったんですが、私自身の好みも相まってラルフルート最高でした。
FDは出ないのかい? その後が見たくて見たくてたまらないんですが。教育実習生で母校で教鞭をとるラルフ先生を早う…!
そして講義の合間にアトリエにお茶しに来たり学生に目撃されていじられたりする二人が…見たい…!
(初出:2012.04.20 / 改稿:2012.09.22)