生きている
 思えばあの夜から、傷ついた姿ばかりを見ていたのだ。
 自身を顧みずただただひたすら守ってくれたあのひとに、いつか自由を。その前にこの手で、笑顔を。しあわせを。



 嵐のような日から一夜明けて、町は幾分落ち着きを取り戻したかのように見えた。
 水の部族の兵たちが事態の収拾のために走り回っている。一度公的権力が本腰を入れたのであればこれ以上何をすることもない。
 兵の目を避けて町外れに張った天幕を拠点に、緩やかな時間がそこにはあった。
 野宿では湯をたっぷり張った風呂など望めるべくもない。水に浸して絞った布で身体を拭くくらいだ。それだけでもするとしないとでは気分が随分違う。
 いつもであれば食事をとってそのまま就寝、といくところなのだが、今夜はその前にあとひとつやるべきことが残っていた。
 すでに陽は落ちかけている。真っ暗になってしまってはいくら火があっても手許が覚束ない。ひとり天幕の中で身を清めていたヨナは、手早く身支度を整えて入口の掛け布をめくった。
「ユン、交代するわ」
「え、ヨナ? 早かったね、もういいの?」
 ちょうど作業をひとつ終えたところだったらしい。赤々と燃える焚火がふたつ、そのうちの一方のすぐそばに陣取って、青年と少年がひとりずつ。青年の裸の上半身は、肌を覆うようにぐるぐると包帯が巻かれている。あまり慣れたくはないのだけれど、見慣れてしまった怪我の痕跡。包帯が真新しいせいか妙に白くまぶしく見えて、ヨナは気づかれないように少しだけ視線を逸らした。
 ユンが手際よく包帯の端を挟み込んで固定する。それを待ち構えていたかのように、表情を変えず、けれど怪我のせいでぎこちない手つきのハクが衣を羽織りなおした。
「ええ、ユンは食事のほうを手伝ってあげて。ハクの腕は私がやるから……消毒して、あとは薬と包帯だけでかまわないのよね?」
「うん、大丈夫なはずだよ。ああでも包帯巻く前によく観察してよね、雷獣ってばすーぐ強がるんだからさ。縫ったとこ、おかしいようだったらすぐ声かけて」
 誰が強がりだ誰が、と呟いた文句には二人とも一瞥すらくれなかった。うなずきあって、華奢な背中が離れていくのを見送る。走って行った先で早速煮込み具合だの味付けだのについて喧々諤々やりあい始めたのにくすりとひとつ笑みを零してから、彼女は少年がいた場所にそのまま座り込んだ。
「ほら、腕出しなさい。包帯外すわよ」
「へいへい」
 ハクの衣の袖は、常ならば邪魔にならないように紐で絞って固定してある。しかし今は一行の最高権力者の厳重な命令の許、ふわふわとその端を風に躍らせるのみだ。
 包帯ならともかく紐で切り傷圧迫するとか馬鹿だよね、とのたまった自称美少年に特に反論はなかったが、腕の形が布に覆い隠されているのはなんだか新鮮だ。ふわふわしている。ふわふわ。
 袖をまくりあげればそのまま、自身のものとは比べ物にならないほどの硬く太い腕が出てくる。滲んだ血はすでに黒ずんで固まっていた。かさぶたができているなら、剥がすのはいただけない。ぺりぺりと乾いた音をたてる包帯を慎重に巻き取って、露出した痕に知らずため息をついた。見るだけで痛い。でもたぶん、ちゃんと治ってきている。だから今のため息は痛いのと安堵と両方だ。
「……痛かったら言ってね」
 ヨナはきゅっと唇を引き結んだ。酒を浸した布で丁寧に傷の周りを拭っていく。こびりついた余分な血が取れて、徐々に縫合の糸が見えるようになってきた。専門に勉強したことはないと言いながら、ユンの腕はたいしたものだ。素人目にも綺麗に縫い合わされている。肉はぴったりくっついて、無茶さえしなければ順調に治癒していきそうに見えた。無茶さえしなければ。
「んなじっと見て楽しいもんかね」
 あんまりじっと見ていたからだろうか、からかうには少し口調が弱いが。彼女は唇を尖らせたが、視線を上げはしなかった。
「楽しくなんかないわ、見てるだけで痛いもの」
 でも、目を逸らしたいとは思わないのだ。彼の傷から。痛みから。すべてから。
 傷に負担をかけないようにそっと腕を持ち上げて、火にかざし角度を変えて観察する。膿んでいる場所はないか。新しい出血はないか。表面の皮が少し引き攣っている個所はあるが、これはまあ、大丈夫だろう。治ればある程度元に戻るはず……
「だけどユンに任せきりにするのは嫌。任せられたからって手抜かりが出るのも嫌。だからちゃんと見ているのよ、黙って見られなさい」
「まーべつにいいですけどね……」
 ふん、と鼻から息を出して力む。見る限り異常はない。酒が乾くのを待って薬を塗る。糸やら皮膚やらで指の腹に伝わる感触はでこぼこしている。痛くないかと横目で窺っても、ハクは平然とぼんやりと、鍋を囲んで賑やかな面々を眺めているだけだ。
 つまらなさそう、というわけでもないのだけれど。なんだか静かなので、ヨナはもう会話より手当に集中することにした。
 薬の上から当て布をして押さえる。包帯はきつくてはいけないが、緩すぎても良くない。包帯の巻き方は城を出てから覚えた。最初は要領が悪くてユンに随分けなされたけれど、今では任せてもらえるまでになっている。嬉しいような嬉しくないような。上達したのは、結局のところ練習の機会が多すぎたということなのだから。
「……終わったわよ」
 言葉は聞こえていたらしい。ありがとうございます、と囁いて手が離れていこうとする。それを指先を握ることで阻止した。
「姫さん?」
「ちょっとじっとしていなさい」
 腕まくりをしたままで、ヨナはハクの傷にふんわりと手を添えた。痛くないだろうという力加減はもうなんとなく心得ている。押さえるでもなく撫でるでもなく、ただ手のひらを当てた。
「何やってるんですか」
「だから、じっとしていなさい。人の手のひらを当てると早く治ると聞いたことがあるの。本当かどうかは知らないけれど、試してみる価値はあるでしょ」
 そもそも彼女は皆に守られてばかりで、怪我をすること自体ほとんどない。だから実際に比べる機会もそうそうないのだが、少なくともこの行動は悪い結果にはつながらないだろうと思っている。
 夢の中でゼノに背中の傷を撫でてもらった。夢なのに治っていくような気がした。林の中でうっかり泣いてしまった時も、ハクが背中を撫でてくれた。傷ついた左腕を使って、容体が重いのはむしろ自分のほうだったくせに。それでも背中はじんわりと温められて、癒したかったのに癒し返されてしまった。気分だけでなく実際痛みは少し軽くなったのだ。
 腹痛を起こしたとき、熱を出して寝込んだとき。父王や大好きな人たちにふわふわと撫でてもらうだけで苦痛が和らいだのもはっきりと覚えている。
 少しは足しになればいい。実質傷の治りを早めることはできなかったとしても、これだけの怪我が痛くないわけはないのだ。少しでも痛みを取り除いてあげられればいい。
「確かに痛くない気はしますね」
「そ、そう?」
「なんか麻痺してんのかな」
「麻痺!?」
 聞き捨てならない単語に食いつく。もしかして神経がどこかおかしくなっているのか。傷は相当深かったというし、万が一腱を切ってでもいたら指も動かせなくなってしまう。すぐにユンに話を聞いてもらわなければならないだろうか。しかしくわっと毛を逆立てたヨナにもかまわず、ハクはくつくつと肩を震わせて笑うだけだ。
 そこで気づいた。
「ちょっとハク……」
「すいません、冗談です。…………あー悪ふざけがすぎたか、涙目になってんぞ姫さん」
「なってないわよ! 本当に可愛くないんだから!」
「俺が可愛くてどうするよ」
 冷静な突っ込みは聞き流す。頬を膨らませるが、手のひらは離さない。焚火に照らされた青年の表情はやわらかかった。口では皮肉を言いながら、彼はときどき台詞にそぐわない顔をする。慈しむようなそれを眺めていると、安らぐと同時に落ち着かなくなるという酷く矛盾した気分を味わうことになるのだ。……気づいたのは、ごく最近だ。
「確かに痛くない気はしますよ。不思議だな、傷はまだ熱持ってんだけどな。姫さんの手、ちゃんとあったかい」
「……そうよね、熱いわ。どくどくいってる。心臓じゃなくて腕なのに」
 脈打つ命の証は指先に鮮烈な感覚を与えてくる。こんなに忙しなく血が巡っていては傷から溢れてしまうのではないかと心配になるが、巻きなおした包帯はもちろん白いままだ。
「怪我したとこに血が集まるんですよ。集まれば集まるほど早く治る。だから自然と熱も持つわけです。温めたり冷やしたりは時と場合によるが、基本的には冷やすよりは温めるほうがいいって言うでしょう。何も怪我に限った話じゃない、血と体温は身体全部の基本だからな」
「うん……」
 生きている。生きている。生きている。
 ジェハとキジャがハクを止めてくれてよかった。留めてくれてよかった。あのまま気圧されてハクの思うがままに振舞わせていたら、彼は心にも身体にも生涯消えない傷を負っていたことだろう。イクスはこの日のことを予見していたのだろうか。きっと神の声は関係ない。優しい神官には、あの時点で、何年も一緒にいたヨナよりもはるかにたくさんのものが見えていたに違いない。
 思えばあの夜から、傷ついた姿ばかりを見ていたのだ。
 見ていたのに気づいていなかった。
 口を開けば皮肉や軽口ばかり、飄々とした笑みを貼りつけて、内心など悟らせない。そういう人だからという面もあったかもしれない。でもそれこそ初めの頃の彼女は自分自身を立ち直らせることに一生懸命で、すぐそばにいる幼馴染の、目に見える怪我はともかく心の流している血など慮る余裕はなかった。なんと狭量だったのか。
 少しずつ見えるようになってきたのは、突然放り込まれた苦境で隠しきれなくなったからか、ヨナの目が開かれてきたからなのか。ほかに頼れる相手ができたからか。たぶん全部。
 この人のために何ができるだろう。下手に口や手を出してもかわされるだけ。あの頃も今もそうと悟らせずに受けていた数々の気遣いを、同じくらい、いやそれ以上に返せるようになるにはどうすればいいのだろう。
「……ハク。私、がんばるわ」
「? そうですか」
 きょとんと見開かれた目は明らかに理解していない。ヨナの悲しみや怒りには敏いくせに、逆は妙に鈍かったりすることがある。まあ、全部が全部悟られるようでは立つ瀬がないので、この場で文句を言うつもりはないのだけれども。
「包帯巻くのはだいぶ上達しましたからね。次は味付けか。いやむしろ料理の前に柴刈り練習しますか? そっちのほうが早くうまくなるんじゃねえの」
「やっぱり可愛くない!」
 他愛無い応酬はやっぱり揶揄で始まる。でも日常だ。失ったものがあり、新しく得たものがあり、ただこれだけは変わらない。子どもの頃からずっと。
 そうこうしているうちに食事の支度は終わったらしい。いつもなら配膳の順番は明確に決まっていない。ただし、怪我をしていたり弱っていたりする者がいた場合はそちらを優先するのが暗黙の了解となっている。
 つまり今回はハクだ。一番に椀を持ってやってきたジェハが、二人を見て一瞬動きを止めた。距離はそれほど離れていなかったのだが、焚火の向こう側に位置していたため二人の様子は見えていなかったらしい。徐々に唇の端があがっていって、やがてそれは楽しげなにやにや笑いになる。見慣れた形だ。
 首をかしげるヨナとは対照的に、ハクが「げ」と嫌そうな声をあげた。
「やあやあ、お邪魔だったかな?」
「ううん、べつに。たいしたことを話していたわけではないわ。食事できたのね」
 立ち上がろうとするのを身振りで制されて座りなおす。ふと気づくとハクの腕に添えた手のひらは外されていた。自分でだったか、彼が外させたのか、どちらなのかはわからなかった。
「残念でしたねお兄さん。重要な話はもう終わっちまったよ。ちょっと遅かったな」
「ほう、重要な。……お兄さんはとても興味があるな、教えてよヨナちゃん」
「え? 本当に大した話じゃ」
「教えませーん。つか早くよこせ、それ俺のだろ」
「あっ、ちょ、痛いよハク」
 迫ってくる緑龍を右肘でぐいぐい押しのけながら、ハクは器用に椀を奪い取る。尖った部分が見事に頬にめりこんでいるのだが、ジェハは微妙に嬉しそうだ。なるほどやっぱりへんたい、とヨナは脳内の辞書の単語に更なる認識を追加した。この単語に関しての知識量は日々順調に増えていっている。良いのだか悪いのだか。
「何を騒いでいるのだ、そなた達……」
 世間知らずの良識が来た。生真面目な白龍はせっせと配膳の手伝いをしていたらしい。ユンがおたまを掲げているのを指して、言い聞かせるような口調で続ける。
「ジェハも、早く来ぬか。そなた、まだ自分の分を持って行っておらぬであろうに……姫様、どうぞ」
「ありがとう」
 ヨナは礼を言って椀を受け取った。こんなにのんびりと食事を摂れるのは久しぶりなような気がしてしまう。実際はそうでもないのだが。湯につかって女同士の会話を楽しんでいたのはほんの数日前の話だ。
「大丈夫、白龍と緑龍のぶんはゼノが持ってきてあげたから〜」
 ぴょんぴょこと跳ねながら笑顔もやってくる。跳ねているのに椀の中身はこぼれない。何も考えていないような顔と仕種なのに無事だ。ヨナが同じことをやったらあっという間に空になってしまいそうなものなのに、不思議で仕方がない。
「ああゼノ、すまない。だがそなたの分は」
「青龍が持ってきてくれてるから!」
 確かに随分速度は違うが、そろそろとすり足でやってくるシンアの姿も見える。あちらはあちらでゼノとは反対に、中身を気にしすぎておっかなびっくり、殊更ゆっくりした動作になっている。隣り合ってふたつある火を回り込むだけなのにまだまだ到達しそうにない。ところで片方の椀にはアオが上半身を突っ込んで逆様になっているが大丈夫なのだろうか。いろんな意味で。
「おかわりありだけど早い者勝ちだからね。ていうかシンア食ってる! プッキューが食ってるよ!」
「だそうだぞ。誰か助けに行ってやれ」
「この場合、リスから奪い返すのがいいのかな。それともシンア君におかわりを確保するのがいいのかな。……おかわりのほうが確実かな」
「任せる。俺は怪我人ですからー」
「わ、私はどうすれば……」
「はいこっち緑龍な、こっちは白龍」
「……」
 キジャがうろうろと首を巡らせた挙句、だーっと結構な速さで戻っていった。すれ違いざまゼノから椀を受け取って、そのままの勢いで走っていく。中身は無事のようだ。ジェハは無駄に格好をつけながらやはり同じように。足さばきが舞踊のようだ。無駄に優雅に。繰り返すが距離はそんなに離れていない。
 ゼノは無言で二人の背を見送ったシンアの肩をぽんと叩いて、ついでにリスの首の後ろをつまんで持ち上げた。放っておいたら次の椀まで標的になりそうだったからに他ならない。しばらくじたばたしていた獣は、指先で喉元をくすぐられておとなしくなった。金髪によじ登っていく。
「シンア! そなたの食事も確保したぞ!」
「あ、ありがと……」
「ははは、さすがキジャ君だー」
 誇らしげに叫んだキジャの隣で、ユンが「めんどくさ」と呟いたのが唇の動きでわかった。そのまま賑やかに食事が始まる。
「騒がしい奴らだな」
 耳に滑り込んできた声は笑いを含んでいた。思わず傍らを見上げる。独り言だったのだろう、彼女の反応は意に介していない。匙を口に運ぶ横顔は取り繕うでもなく穏やかに落ち着いている。もうだいぶ調子を取り戻してきた。否、こちら側に戻ってきていた。他人事のような口調だが、ハクだって賑やかなのは嫌いではないのだ。彼の故郷の風牙の都はいつも皆の笑顔が溢れていた。それこそうるさいくらいだった。それを煩わしく感じるでなく、微笑ましく思える感覚をちゃんと取り戻している。だから、うん、もう大丈夫。
 安堵したら急に空腹を思い出して、ヨナは自分の取り分に目を落とした。
 ユンと四龍がぎゃあぎゃあじゃれあっている。それには加わらず、ふたり、静かに座っている。時折横からくくっと聞こえる笑い声が心地よい。
 私、がんばるわ。
 口には出さず、内心だけで呟いた。ぐっと拳を握る。
 今隣にある笑顔はおおむね皆のおかげで引き出されているもの。いつかは私がと思う。
 ただ正面から伝えたらまたからかわれるに決まっているから、密かに思い続ける。
 ああでも、幸せにしたいと意気込みながらその姿を思い描けば自分のほうがむしろ幸せになるのだからまたおかしな話だ。
 何の曇りもなかった日々への、たったひとつだけ残ったよすが。甘えれば際限なく受け入れられることはわかっていて、でも寄りかかりたくはなくて、でも手放したくない。いつかは自由を返したいと言いながら、捨てきれない執着があるのもまた事実だった。この情につける名前はまだ見えない。急ぐ必要がなさそうなのが唯一救いだ。


 いつか、でいい。
 まだ“いつか”でいい。今すぐじゃない。明日でもない。
 いつか離れる日が来るにせよ来ないにせよ、このひとにできる限りたくさんの、笑顔を。しあわせを。
--END.
初書きハクヨナ。
人の怪我って自分の怪我以上に背中ゾクゾクするよねとか思いながら書いてました。だってどれくらい痛いかわからんから。余計心配になる。自分のだとねー、痛みも治る見込みも自分でわかるから意外に平気なんですけどねー。
中盤以降のハクヨナの間には独特の空気感がありますが、城にいたころからものすごく仲良かったものの、この空気感はやっぱり城を出てから形成されたものだよな…とか。
ともすれば共依存にも陥りがちですが、「同じ傷」っていうのはやっぱり大きいなと思うのです。
ふたりは今もそれなりには幸せなんだろうけど、自分は幸せでも相手はそうでもないとか思っていそうなので、なんか早く気づいてくれたらいいね。いろいろと。
(初出:2015.01.12 / 再掲:2015.05.16)