ベルクハイデにやってきて、まずマナを感じないことに驚いた。
 今まで当たり前に存在していると思っていたものが、ここではそうでないことを知り――けれど、失望はしなかった。
 汚いものをたくさん見て、だけど同じくらい、いやそれ以上にたくさんの綺麗なものを見た。
 変わったといえば、遠かった憧れから、より身近なものなのだと認識するに至った意識だろうか。
 それでも、故郷を一番に懐かしく思う気持ちはやはり変わりはしないのだけれど。




かえるところ





 リーゼ宮を攻略する。決行は、明日。
 幼いとさえ見える皇女の言葉に不安の声もあがったが、強硬に反対するものはいなかった。皆が皆、来るべきときに向けて少しずつ神経を研ぎ澄ませていたのだ。やっとここまで漕ぎ着けたという思いもある。二十歳をとうに過ぎていた青年の求心力には及ばないものの、美しく毅然としたフィーの姿は象徴としても充分な役割を果たすだろう。
 ノインにも、グレイにも、マックスにも、フィーにも。たくさんたくさん助けてもらった。持ちつ持たれつ、という言葉があるが、まさにそのとおりだと思う。
 義務感に突き動かされていたわけではない。王家の面々には多少それらも混じっていたかもしれないが、結局のところ自分も彼らも根本は同じだった。
 故郷を平和に。大切な人たちを、笑顔に。
 共通する何かがあったからこそ互いに助け合って、ときに自らの目的を後回しにしても、ともに旅を続けてきたのだ。
 エデンの再生は成った。後は、やるべきことをすませて帰るだけ。深紅のアゾットの主の出方は気になるが、今考えていても仕方がない。明日の攻防にてまみえるならばそれでよし、そうでないにしてもあれだけ執着していたガルドの大陸儀をそのままにしておくことはないだろう。作戦が終わったら、帰りついでに様子を見ていけばいい。
 フェルトは息をついて土手に寝転がった。夜露を宿し始めた青草が、優しく首筋を濡らす。冷たいけれど不快ではない。明日に備えて早く休んだほうがいいとは最年長のグレイの談だったが、彼は忙しく立ち回るシルムシルトの人々の間をすり抜けてここまでやってきた。一人静かに月を見たいと思ったのだ。
 満月ではない。けれど真円に近い形をした月の表面には、見慣れた模様が浮かび上がって見えた。
 幼なじみの少女と一緒に、何度仰いだか知れない。うさぎだの蟹だの、果てはフェルトの知らない花の名前を持ち出したりしてはしゃいでいた彼女は、今は遠い空の下だ。
 エデンとベルクハイデがどういう原理でつながり、また隔たっているのかはわからない。大陸儀が鍵だということはわかっても、実際に操れるかどうかはまた別の話になってくる。月は同じだ。星の配置も、少々のズレこそあるもののほぼ記憶にあるとおりになっている。錬金術の片鱗は残っていても、故郷を思わせるものはこちらにはなかった。ときおり幼なじみ――ヴィーゼがよせてくる、本に場所を借りた手紙と、手製の品たちと。そして夜空だけ。
 寝転がったまま右手を空にかざす。指の間を通して、金色の光がやさしく降り注ぐ。きらりと反射して目を射るのはやはり金色で。小指に通した指輪は、手を動かすたびに微妙に光の強さを変えて彼の眼を楽しませた。
 無骨で、けれど美しい指輪だ。共同研究のために作られたものだと聞いたが、これを使っていたのはいったいどんな二人組だったのだろうか。二つのサイズはまったく同じだから、同性同士だったのかもしれない。剣を振るたびに手が大きくなっていくフェルトには、小指しか入る余地がなかった。初めこそ頼りない思いをしたものだが、今では慣れてしまった。ヴィーゼならおそらく中指か薬指が妥当なのだろう。そちらのほうが安定がよさそうでうらやましいな、などと埒もないことを考える。
「もうすぐ……もうすぐだ、ヴィーゼ」
 つぶやいて、月をつかむような心持でかざした指を握りこむ。
 最後に見たのは笑顔だった。けれど、前日の泣き顔が忘れられなかった。きっと笑顔で別れた後、泣いたのだろう。強がりで意地っぱりのくせに、泣き虫だから。
 彼女を慰めるのは、ずっと彼の役目だった。遠く離れている今、顔を見ることはできない。触れることもできない。故郷の危機が原因ではあったけれど、一方で憧れの地に旅立つ嬉しさも否定できなかった。そして、唯一の気がかりを置き去りにしてきたことを後悔はしていない。野を行く獣に襲われたとき、その確信は深まった。近くにいれば守れる。それは真実だが、いつも通用するわけではないのだ。ヴィーゼは安全なエデンにいてくれる。フェルトが帰るのを待っている。だからいつも穏やかな気持ちで、安心して歩き続けることができる。
 おかしなことだが、彼は今まで帰れない可能性を考えたことがなかった。ユーヴェリアに会うことがかなって、彼女の手を借りれば帰れるということがわかったとき初めて、こちらで生涯をすごすことになるかもしれなかったのだということに気づいた。
 ベルクハイデは異郷だが、異世界とはいえなかった。自分の足で大地を踏みしめ、ここに生きる人々を見て、今ではこちらの世界はごく身近なものとして認識している。エデンに戻れば、二度とこちらには来られないだろう。気安く笑いあえる、友人たちにも会うことはかなわなくなるだろう。
 寂しいのは事実だけれど。
 それでも、複数存在する選択肢の中で、選ぶのはいつもひとつだけ。いつどこで突きつけられたとしても、瞬時に結論を出せる。それは不思議な誇らしさとなって胸の奥に息づいている。
「……もうすぐだ」
 もう一度声に出して、フェルトは起き上がった。
 明日からの戦いを望む結果に導いてみせる。
 そして、あの笑顔の隣に帰ろう。







--END.




|| INDEX ||


あとがき。
フェルト一人惚気。の、つもり…(えー)
ヴィーゼ→フェルトはたびたび取りざたされてましたが、フェルト→ヴィーゼはそれほどでもなかったんですよねー。
まあなんだかんだ端々でヤツは自覚なくノロケておりましたが(笑)
フェルトは自覚ないんですよ。も、全然、まったく。
彼の中では「ヴィーゼが好き」とか「大事」とかいうのは当たり前のことであって特別なことではないから。
あと、本編中の二人のお互いを思う態度の違いですが。まあ妥当かなと。
フェルトはそのへんで寝てたら頭からかじられるような世界に行って、しかも戦争に巻き込まれてます。
ヴィーゼは原因不明の崩壊の危機にあるけどでもやっぱり生まれ育った平和な世界にいるわけです。
しかもエデン崩壊に関しては、ユーヴェリアに会えば具体的な対処法わかるしねえ…
ヴィーゼはフェルトが心配で心配でたまんないでしょう。でもフェルトは、ヴィーゼがさみしがるだろうなくらいの心配だけで、まあ彼女の身の危険の心配はほとんどしなくていいわけで。
ベルクハイデで初めてモンスターに襲われたとき、連れてこなくてよかったとか絶対考えてるだろうな。
合流してからもすごい自然に自覚なくかばったりしてるんだろうな。傍から見たら…みたいな。
OPアニメの月夜に指輪を眺めてるシーンがめさツボに入りました。そして書いてしまいました。
あそこ、フェルトがぼんやり指輪見てるのに続いたヴィーゼは「よし!」みたいな表情で顔上げるし。
むしろフェルト→ヴィーゼですか?(笑)
アニメパートも萌えの宝庫だな。

(2005.06.12)