岐路を過ぎて
 なんだかもう、滅茶苦茶だ。


 その場所はいつも静かで、ただ空があって風が吹いて、緑の香りがしていた。
 そのはずが今は、血と硝煙の匂いが充満している。風は優しくない、吹き荒れて、深琴の長い髪を容赦なくかき混ぜていった。
「駆くん! 駆くん!」
 鉄錆の匂いは、淡い髪色の少年から漂ってくる。銃とかいうものから発射された弾が彼の肩を撃ち抜き――ああ、貫通しているならまだ手術の難易度は低いはずだと、乏しい知識で安堵しながら――どす黒い赤がこぼれていくのを呆然と眺めることしかできなかった。
 これでは落ち着いて話をするどころではない。半狂乱のこはるが、両手で必死に傷口を抑える。あんな華奢な指で止められるわけがない、暁人が上着を脱いで硬い布地を押しつけたが、駆の表情はもちろん歪んだままだ。
 この事態を招いた青年はといえば、飄々とした風情で銃を構え直し、もう一度彼らに向かって突きつけた。
「あれ、急所外しちゃった? しょうがないなあ、もう一発撃っとこうかな」
「! やめて!」
 深琴は咄嗟に結界を展開させた。黒ガラス越しにちらりと見えた瞳に感情の色はない――見えないけれど、引き鉄を引かないだけで、撃つ気は満々に見える。結界が解ける隙を狙っているのか、だから、そもそも戦いに来たのではなかったはずだというのに。
「よせ、ロン」
「ええー? 能力者は皆殺し、じゃなかったの?」
 頭痛をこらえるように眉根を寄せて低く吐き捨てる夏彦に対しては、とりあえずは反応した。それほど不満げではない、いかにもどうでもよさそうな態度は記憶にある通り。だけどぞっとする。底冷えのする気配をまとわせながら、彼は油断なく能力者たちを睥睨している。
「今のところリセットは回避できる算段だ。……余計な軋轢を生んでどうする」
「知らないよ、そんなの」
「ロン」
「はーい」
 今度こそロンは完全に夏彦の後ろに下がった。下がったから、どうだというのだろう。
 何を言えというのか。唇は震えるだけで、言葉など出てはこなかった。信じてと言われた矢先に戦いになって大怪我をして、これでどうして冷静に話し合いなどできるものか。説得? そんなの自信がない。朔也と一月は駆を気にしながらも自分に向かって「こちらに来い」の一点張りだし、千里と平士はおろおろしているし、こはると暁人は駆にかかりきりでこちらを見もしない。
 七海だけが、まっすぐに深琴を見ていた。恐れていた疑いも怒りもない、それだけは救いだけれど、ただただ戸惑っている。あんなふうに瞳を揺らす少女一人にいったい何を語って聞かせれば――何を。
「そんなに泣くことないよ、えーと……名前忘れちゃったけど。ていうか名前なかったんだっけ?」
 さりげなくひどいことを囀りながら、ロンが駆を指差した。
「急所は外しちゃったって言ったでしょー? 手当てすれば大丈夫だよ、しばらくは動けないだろうけど。死ななきゃいいよね、大丈夫だよね?」
「……お前は黙っていろ」
 一歩踏み出す夏彦につられ、一月と朔也が殺気立つ。この船、ノルンにはたいした医療設備はないが、おそらく夏彦の船であれば治療は可能なのだろう。もう能力者を殺さないとはっきり言いきった彼のことは信じている。そう、いっそのこと全員をここから連れ出してしまえばいい。最終的にアイオンのもとに向かうことになるのだとしても、事前に知っている情報があるとないとでは大違い、それに早く駆の手当てをしなくては。
 ただ、皆が素直に夏彦の言うことに耳を貸すわけがない。それだけは断定できる。
「待って夏彦、私が……」
 深琴は彼の肩に手をやり、自分が前に出ようとした。ようやくこちらに注意を向けた、こはるの大きな瞳は、濡れて真っ赤に腫れ上がっている。その中に縋るような光をみとめて、こんな時だというのに深琴まで涙で視界がぼんやりしてくる。
 そのとき、耳がかすかな物音をとらえた。
 間一髪、何もないはずの空中で弾丸が止まり、勢いを失って地に落ちる。短くはない時間を武器や兵器の轟音と共に過ごしたからだろうか、何より勘が働いた。青ざめて落ちた弾を見つめた深琴の隣で、夏彦が舌打ちをする。
「……貴様」
「それは私の息子だ。離れてもらおうか」
「……とう、さん?」
 駆の呟きに、驚くもの驚かないもの。
 深琴が思い描いていた死と破壊の権化は、意外に華奢で優しげな姿をしていた。ただ瞳だけが恐ろしく冷たい色をしていた。


 ああ本当に、滅茶苦茶だ。
 結賀史狼は駆を担ぎあげ、泣いて取りすがろうとしたこはるは一月と平士に引き剥がされた。
 ロンが生き生きと史狼の子飼いと撃ちあいを始め、その隙をついて暁人とようやく事態が飲み込めてきたらしい千里が七海を後方に引きずっていく。
 深琴はといえば当然のように夏彦に手を引かれて走った。雪の通信に先導されながら、よく知る道をたどって壁の破れ目まで。
 名を呼ぶ朔也の声を聞いた。一度振り返った。
 ごめんなさい。ごめんなさい。
 声は聞こえなかっただろう。唇の動きは見えただろうか。
 彼の顔を直視する勇気まではなくて、嗚咽の漏れる口許ごと、今ではすっかりなじんでしまった肩口に押しつけた。


「深琴。……深琴」
 囁く声は優しい。ぐしぐし鳴る鼻をすすりあげ、ますます強くしがみつく。
 より良い結果を求めて行動したはずだった。完全にうまくいかなくても、皆に正しく警戒を促すことができればそれで御の字だと思っていた。
 実際は駆が重傷を負った挙句に敵に連れ去られ、無事だった仲間たちに残したものもただただ不信と不安だったろう。ロンを責めようにも、目に見える範囲には居ない。いやそもそも、あんな常識をどこかに置き忘れてきたとしか思えない男相手には何を言っても無駄な気がした。
「深琴。もう飛行姿勢は安定している。そんなに力を入れなくても大丈夫だ」
 やわらかいものが頬を滑って涙を吸い取っていった。言外に離れろと言っているのか、その割に触れる唇は繊細で、吹きさらしの場所でもそよ風しか感じない。風下にかばわれているからだ。そのことに気づいてまた泣きたくなる。
「…………何よ。なによ、なによ」
 わけもなく思うさま罵ってやりたい。罵倒は浮かんでこないが、何かしら。目許に力を込めてきっと睨みあげるも、勢いはすぐに萎んでしまった。
 長めの前髪が風に躍っている。すくいあげ、指先に絡めた。手首を取られる。力は弱い。
「……夏彦。落ち込んでいるの?」
「何故そう思う」
「なんとなく。……かしら」
 ちょっとした感情の機微を読み取れる程度には一緒にいる。疑問ではなく確信の響きに、彼は観念したように息をついた。腰に回った片腕が、少しだけきつくなった。
「炎使いの」
「炎……?」
「泣き叫ぶ声が耳から離れない」
 深琴は、船に乗っていた全員の能力を把握していたわけではなかった。夏彦が誰のことを指しているのか一瞬首をかしげたが、続く言葉ですぐに察する。
「あの子はこはるというの」
 夏彦はこはる、と繰り返した。
 他の女の名を、しかも呼び捨てで目の前で呼ばれて、けれど嫉妬は湧き起こらなかった。その口ぶりがあまりにたどたどしかったせいかもしれない。
 まるで幼い子どもが初めて知った単語を反復するかのようで、むしろ嬉しいとさえ思ってしまう。
「少しの間しか一緒に居られなかったけど。優しい子よ、本当にやさしい子。いつも笑っていて、自分より人の心配ばかり。悪い男の冗談に騙されて、逆に毒気を抜いていたこともあったわね。……やさしい子よ」
「俺は知らない。…………だが、お前が言うならそうなんだろう」
 能力者も、結局はただの弱い人間に過ぎない。悩み、怒り、傷ついて悲しんで必死に生きる。
 こはるの取り乱す姿は、彼が得た実感を改めて裏打ちするものだったのだろう。嫌っていた能力者を、それでもその心情を慮ることができるようになった。だからこそ彼は皆を説得したいという深琴の願いにうなずいてくれたのであり、今ここで傷ついた顔をして彼女を抱きしめているのであり。
 深琴は夏彦の胸に額を擦りつけた。
「もう一人女の子がいたでしょう。あの子は七海というの。あの子も優しい子。感情をあまり出さないたちだから読みづらいけど、よく目を見ると何を考えているかわかるのよ。滅茶苦茶をしているように見えて、意外に人のことを思いやっているわ。滅茶苦茶しているように見えるけれど」
「……」
「最後まで追いかけてきた子は朔也。幼馴染なの、小さいころは体が弱くて。遊び相手が私くらいしかいなかったものだから、弟みたいに懐いて、いつも後を、んっ」
 話の途中でいきなり唇を塞がれ、深琴は目を白黒させた。伏せた睫毛が瞬きして、深い色の瞳が現れる。気恥ずかしくなってまぶたを閉じれば、口づけはより深くなった。
「ちょ、なつ……っ」
「ん」
 何が彼の背を押したのかはわからない。ただここで拒むのもなんだか酷に思えて、深琴は抗わず素直に応えた。なによりも人の体温は安心する。やや性急な口づけとは裏腹に髪を梳く指は労わりに満ちている。そういえば自分だって落ち込んでいたのだった。途中から相手のことばかりに気を取られて、自身の胸のうちさえ忘れそうになっていたけれども。
 癒しあっているのか、それとも単なる傷の舐め合いか。どちらでもかまわない、結果は同じだ。夏彦が流し込んでくれる温かな何か、それを同じだけ深琴も彼に与えることができていればいい。
 酸素不足に陥るほどではなかった。熱はやがて離れていき、背伸びしていた踵が船の屋根に戻る。一応いきなりだったことへの抗議の意味だけは込めて、ぽかりとひとつ背中を叩いた。
「……もう。一体どうしたのよ、急に」
「いや……」
『夏彦さーん。まーだ降りて来ないんスかぁ?』
 突然無遠慮な男の声が割り込んできて、びくっとする。音声の源は夏彦が耳に装着していた小型の装置からだ。嘆息が額にかかり、深琴は間近にある彼の顔を見上げた。もういつもどおり、ふてぶてしいほどに冷静な気配を取り戻している。
「すぐ戻る。そもそも貴様、ハッチを開けていないだろう。どうやって中に入れというんだ」
『えー? そりゃあほら、お姫様が落ち着くまで色々ヤ……じゃない、時間も少しは必要かなぁ、とか思いまして。待ってたんですけど、でもやっぱりそろそろそこに居たままじゃ危ないかなあとか。いや、これでも色々考えてるんスよ?』
「いいい、色々って何よ!?」
「深琴、落ち着け。音声はともかく映像は雪には見えない」
「あ、そうなの……って、そういう問題じゃないわよ! 何変な妄想してるの、変態変態変態!」
『そう、そうなんですオレ変態なんです! もっと罵ってお姫様!』
「……」
 いかにも浮ついた声音に、頭に昇った血は一気に引いて行った。そうだ、ああいう男だった。夏彦の眉間に皺が寄っている。なんだかんだで、彼に対する感想は深琴が抱いているものとそう変わりないようだ。
『ともかく、今開けますから。ちょっと離れててくださいね。続きは思う存分部屋でどうぞー』
「……馬鹿を言うな、続きなどない」
「えっ、ないの?」
 彼女は驚いて素っ頓狂な声をあげた。その声にか内容にか、夏彦が切れ長の瞳を見開いて見下ろしてくる。何故か頬も赤い。体温でも上がったのだろうか。そんなにびっくりすることかしら、と思いながら、深琴は白い服の胸元をつかんだ。
「深琴」
「私は、聞いてほしいわ」
「待て深琴、今それは……。…………聞く?」
「ええ、私の話を聞いてほしいわ。あなたは能力者になんて興味がないって言うんでしょうけど。私の大切な人たちのことだもの、聞いてほしいし、もっと知ってほしい。……このままで終わらせたくないの」
 夏彦の得た新たな実感も、そして皆のことも。彼は頑なだが盲目的ではない。ただの能力の器としてしか認識していなかった深琴の人格を認め、愛してくれるまでになった。だからもっと知ってほしいのだ。
 ちゃんと見てほしい。知ってほしい。皆同じ人間なのだということを。共感できる相手は決して少なくない、能力者であってもそれは不可能ではないのだと。
 リセットについて語ったときに見え隠れした深い絶望も孤独も、払拭できないものではないのだ。
「……そちらか」
「? そちらもどちらもないんじゃない?」
 一瞬過ぎった気の抜けたような何かはなんだったのだろう。首をかしげながらも、意図が伝わったことに満足する。諦めたような照れているような複雑な視線が返ってきた。初めて出会ったころには気づけなかっただろうそれらを正面から受け止めて微笑む。
「……まったく、恐ろしい女だな。どんどん術中に嵌っていくのを感じる」
「あなたって、たまによくわからない物言いをするわよね」
 想像していたよりも静かな機械音を伴って屋根の一部が開いた。意味を問い返すことはせずにばっさり切り捨て、今度は深琴が夏彦の手を引いて階段を下りる。
「奴の息子はおそらく生きている。奴が死なせはしないだろう。……ただ、」
「洗脳されたら、それを解けばいいのよ。生きてさえいれば機はある。だいいちあの性悪が、いくら親相手だからっておとなしく人の思い通りに動くものですか。結賀史狼の澄ました顔を崩してやるんだから、絶対よ」
 言い淀んだ台詞の続きを遮って、深琴は力強く宣言した。
「最善は尽くす。その過程で、きっとお前の望みもかなえられることになるだろう」
「当然よ。私たちは負けない。皆のことだって助けてみせるわ。全部終わらせて、好きなことだけやるの。私も、あなたも」
 ただただ泣いて蹲るなどまっぴらごめんだ。
 奪われたものは取り返す。無事なものは守ってみせる。
 自分を甘やかすときとは違う、挑みかかるような夏彦の表情が嬉しくて、深琴はつないだ手に力を込めた。
 目には二人して同じような不遜な光を宿しているのだろう。鏡もないのに確信できて気分が高揚する。

 そうだ、落ち込んでいる暇なんかない。
 すべての決着まで、あと少しだ。
--END.
暁七ルートで二人が一度ノルンに現れる場面がベースです。
駆こはと夏深と暁七を混ぜてみた結果のカオス。3ルート復習してイベントごとの時系列書き出して、直接この場面には関係ないと思われるところも無理矢理辻褄合わせてから書き始めました。私はとても楽しかった(言いきり)
ツンデレ×2、殺伐→デレの破壊力はすさまじいものがあります。楽しかった(また言う)
こんなこと書くと怒られるかもだけど、深琴ってあらゆる点でものすごく征服欲を刺激される、かつ満足させる子に見えるのですよ。
だからやっぱ夏彦はSだと思います先生。「クセになる」ってそういうことなんだろ…的な。何か。すいませんほんとすいません。
まあ二人とも根本的に良心的(たぶん)なのでそういう意味では安心して見ていられます。末永く爆発していただきたい。
(2013.06.28)