終わりの向こう
「ま、今んとこ把握しておいてほしいのはこのくらいかな」
 渡された書類はたいして分厚くもなく、ただ紙の節約のためか文字が詰め込み気味に書かれているだけだった。
 受け取って、軽く視線を滑らせる。考えながら読む必要すらない、出航して数日経った今では内容もある程度の予測がつくようになった。なにしろ毎日のことなのだ。そうそうイレギュラーな事態が起きてたまるものか。
 すぐに読み終え、オーフェンはばさりと音を立てて書類を翻した。差し出された死の教師の手の中に、それを突っ込んでやる。
「わかった。問題はなさそうだな」
「そりゃな」
 サルアは紙を丸めて、自らの肩をその筒でぽんぽんと叩いた。そのまま片手をあげて行ってしまうかと思ったのに、立ち去る気配はない。
「……なんだ?」
 ここに書かれていたこと以外に何かあるのだろうか。尋ねると、彼は横目で船室の入り口のほうを見やった。べつに誰もいない。といっても、今二人がいる甲板には、他にもそれなりの人数がいた。昨日はあまり天気が良くなかったので、仕事だけでなく外の空気を吸いに来たという者もいるだろう。キムラックは荒れ果てた土地だった。これだけの量の水を見て、未だ興奮冷めやらぬ様子の難民は少なくはない。子どもや、若い者は特に。
「嬢ちゃんのことだが」
「クリーオウ? どうかしたのか」
 あの日、傷だらけのぼろぼろの姿で現れた少女は、結局そのまま船に居ついた。本人は帰るなどとは口にしなかったし、誰も帰れとも言わなかった。簡単に怪我の手当をして少しだけ湯を使い、ベッドをあてがわれるが早いか倒れるほどの勢いで眠りにつき――目覚めたのは、丸一日経ってからだ。相当に憔悴していて、その理由を聞いたときは驚いたが、同時に納得もした。なるほど、彼と彼女では相性は最悪だ。もっとも、たとえ相性が良かったのだとしてもやはり同じように疲れていただろうことは確実だが。
 クリーオウは、目を覚ました翌日は、記憶にあるよりも少し大きく成長した黒い毛玉を抱えて船内をうろうろしていた。そして何故か昨日の昼間は、まったく姿を見なかった。船長命令で同室にされたので(彼女は二段ベッドの上だ、もちろん)夜には部屋に戻ってきたが、今朝起きてみればもうベッドの中にいたのはレキだけだった。
 心配はしていない。ちっとも。最後に別れたときの姿とは似ても似つかない、笑顔。見れば見るほど不安になるような、どこか危うさをはらんでいた一時期と違い、今の彼女が安定していることは一目でわかった。
「いやな、自分なりに居場所をみつけたみてぇだぞ。朝、厨房でみかけた」
「へえ?」
「で、昼に船倉に行ったら女どもと洗濯してた。んでお前が来る少し前にな、あっちの……後ろ甲板で物干しして、それからは見てないが」
「……意外と元気だな、あいつ」
 再会した当日の夜は、あまりにも静かに眠っているので心配になったものだったが。まさか死んでいるんじゃあるまいなと顔の前に手をかざして息を確認してみたり、朝になっても起きないクリーオウを前に声をかけるべきか否か悩んだりした。
「お、噂をすれば」
 サルアがにやりと唇の片方だけをあげた。
 船室へ続く扉が開き、途端に金色の髪が海風に乱れる。片手でしっかりと仔犬を抱えたまま、少女はもう、と声をあげて頭を押さえた。あまり、ものの役にはたっていない。
「あら、オーフェン。と、サルア? 何してるの、こんなところで」
 オーフェンは目で書類を示す。サルアは丸めていた書類を広げて持ち直した。
「? えーと……よくわからないけど、要するにお仕事ね? ここにいたら邪魔かしら」
「もう終わったからかまわんぞ。お前こそ、何しに来たんだ」
「わたし? わたしはレキと風に当たりに。昨日は部屋から出してあげられなかったから」
 ねー、とささやいて自分の鼻を黒い鼻先に近づける。レキはふんふんと匂いをかいでから、クリーオウの腕の中でじたばたした。甲板に降ろされ、オーフェンとサルアの周りをちょろちょろと歩き回る。
「さて、俺はもう行くかな」
 サルアは手すりにもたれかかっていた背筋を伸ばし、そのまま歩き出した。引き止めるでもなくその背中を見送る。
「あの人って、いつ見ても暇なんだか忙しいんだかよくわからないわよね」
「あー……ま、忙しい、と思っときゃいいんだろうけどな。態度がアレだからなあ」
 オーフェンの呟きを最後に、二人の間につかの間沈黙が落ちた。
 クリーオウは特に何を考えている風でもない。再び毛玉を捕まえて、今度は頭の上に載せてやっている。ほらレキー、どの方向見ても全部水よ、すごいわねえ。などと無邪気に喜んでいる有様だ。喜んでいる? 喜んでいる、たぶん。見間違いでなければ。
「ひとつだけ、不思議に思ったことがあってな」
 唐突に話題を振っても、彼女は少しも驚かなかった。なあに? と首をかしげる。頭の上ではずり落ちそうになったレキがじたばたともがいて、後ろ足を肩に乗せた。さすがに不安定だからか、胸に抱えなおす。
「いや、お前……何も言わないから」
 たとえば一緒に連れて行けとか。たとえばどうして一人で行ったとか。
 もしかしたら向けられるかもしれないと思った言葉を、彼女はまったく抱えていないように見える。一発殴っておけとレティシャは言ったそうだが、殴ったことにしておいてということで結局あれっきりだ。クリーオウ自身思うところは何もない、ということもなかろうに、解せない。
 ぴょこん、と短い金髪の先が揺れた。
「だって、オーフェンが何も言わないんだもの」
「何を言えっつうんだ」
「要するに、言うことがなかったのよね? だからいいと思ったの。むしろ何か言ってきたら、ティッシのぶんは抜きにして二、三発殴ってやろうかと思ってたんだけど」
「いや、さっぱりわからん」
「そう? …………」
 クリーオウは再び首をかしげ、見上げるように顔を近づけてきた。大きな瞳は相変わらず青く澄んでいる。幼さは少し消えた。頬の線がすっきりしたように感じるのは、年月の経過のせいというよりも単純にこれまでの過酷な道行きで肉が落ちたからだろう。だがそれだけではない。何かが違う。そう、今の彼女になら、今の自分の背中を遠慮なく預けてもつぶれてはしまわないだろうと――根拠もなしに確信できてしまう、そう思わせる何かをまとっていた。
「わかったわ。オーフェン、わかってることをわかってないのね」
「なんだそりゃ。言葉遊びか?」
「そんなつもりはないけど」
 言って、身を翻す。軽やかな足取りには、ほとんど音が伴っていなかった。レティシャの下について一年間特訓を受けたと聞いていた――たった一年、されど一年。もともと素質はあった。知っていた。
 クリーオウが手すりに片手をかけてこちらを見た。
「変わってしまった自分は、もうわたしたちと一緒にはいられない」
 オーフェンは息を呑んだ。それはまさに、彼がわずか数日前まで抱いていた考えそのものだった。
 ただし、無意識下でのことだ。言われて初めてはっきりと認識することができた、その程度のもの。だが的確であることは疑いようがない。その証拠に、今自分の身体は正直に反応した。
「口には出さなかったけど、あのとき、そう思ってたでしょう? わたしはその思い込みをひっくり返してやりたかった。オーフェンはわたしなんかよりずっと強いし、いろんなことを知ってるわ。だけど、それだけは絶対に間違ってるって思えたんだもの」
「……そうだな」
 一人で旅立った理由は他にもある。単に、巻き込むわけにいかないとの考えもあったからだ。だが、一番の理由はきっと、それだった。自暴自棄になってしまえるほどの痛手ではなかったが、多少の寂しさはあった。
 今、追いかけてきたクリーオウを目の前にして、浮き立つような感情はない。反面、追い返してしまわなければとも思わない。彼女は自分で考え、選び、そして持てる力と手段の限りを尽くしてここまでやってきた。死ぬこともなく生きている。この上なく自然に隣にいる。あの頃のように――互いにあの頃とは違うのに。
「だけどオーフェン、何も言わなかったから……わたしも、何も言う必要はないと思ったの」
 そう、何も言わずに、当たり前のような顔をして彼女を受け入れた。それが当たり前だと、思えたからだ。
 また会えたことは素直に嬉しかった。彼女が追いかけてきたことを、自分自身それほど意外に思わなかったことが、また予想外ではあったが嬉しかった気がした。
 そしてそうしたオーフェンの内心こそが、クリーオウが求めていた解だったのだろう。
 彼は軽く笑って、金髪をぽんと叩いた。
「なんだ。俺はまた、いつ何を言われるかと戦々恐々としてたってのに」
「何か言ってほしかったの?」
「さあ、何だったかな」
 具体的に何かを考えていたわけではない。そらっとぼけて身体ごと視線を逸らすと、クリーオウはちょこまかとオーフェンの正面に回りこんできた。また逸らす。回り込んでくる。そうこうしているうち、クリーオウの動きについていこうとしていたらしいレキが、足をもつれさせて獣とも思えない器用な尻餅をついた。
 思わず、二人揃って噴き出す。
 彼女の隣は居心地がいい。そして彼は、それがこの先も続くことを疑っていなかった。
--END.
BOXで燃え上がった!
で、ちゃちゃっとキーボード打ってたらこんなんできましたー。

私の中のオークリイメージはこんな感じです。普段騒がしく、でもシリアスなときは意外に淡々と。
(初出:2010.02.02 再録:2010.09.12)