花の陰、木漏れ日の差す
 里の中を歩くときは、いつもさほど気を張ってはいない。
 だからその感覚に気づいたのは本当に偶然だったと言えた。
「ん? どうした相棒」
 立ち止まると、肩より少し高い位置をふよ〜んと飛んでいたふわもこは少し先へ行った。そうしてからすぐに戻ってくる。
「いや、ちょっと」
 彼はのんびりと首を傾げた。
 どうも見られているな、と思ったのだ。とはいえ虫の知らせというほどに嫌な感じでもない。単にふと引っかかっただけ、と表現するのが最もふさわしいだろうか。
 実のところ、誰かの視線を感じること自体は日常茶飯事である。彼はこの里の長を務めているから、里人のみならず行商などに訪れる人々からも容貌を知られている。用事があればふつうに寄ってくるので、声を掛けられないということは気にせず行ってしまっても差し支えないのだろう。
 そう考えたはずが、足はなんとなくこの場に縫い留められたままだった。
 向けられる意識には悪意などまったく含まれていない。かといって熱心に注視している、というほどでもない。ただ茫洋と眺められているだけ――感覚を頼りに周囲を見回すと、葉陰にはあまり似つかわしくない真っ白な色がちらりと意識の端を掠めた。
「あれ、そこに誰かいるのか……うわ!?」
 突如伸びてきた手に遠慮なく腕を掴まれ、気を抜いていたスバルは容易く茂みの中へと引きずり込まれた。
 思いのほか強い力だ。均衡を崩し、慌ててたたらを踏む。なんとか転ばずには済んでほっとした後、顔をあげた彼の目の前にあったのは果たして、至極見慣れた相手の姿だった。
「カグヤ……? 何やってるの」
「しーっ! もうちょっと奥に入ってくださいスバル、このままでは見つかってしまいます……!」
「わぷ」
 さらにぐいと引かれ、頭を抱え込まれる形になる。
 動揺するスバルにかまわず、カグヤは彼を捕まえているのとは別の手で宙を漂っていたモコロンの足も引っ張ったようだ。およそ彼女らしからぬ雑な仕種には白竜の化身も何ごとかを読み取ったようで、いつもは騒がしいくらいの子だというのに抵抗もせずにされるがままになっている。
「……?」
「……?」
 何かに巻き込まれたらしき同士で訝しい表情を交わしても、もちろん理由など把握できるはずはなかった。ひとまず静かにじっとしているのがお望みなのだろうと息を詰めていると、さして間を置かず複数の軽い足音が近づいてくる。
「ねえねえ、カグヤちゃんいた?」
「あっちにはいなかったぞ」
「むむむカグヤ、かくれんぼでわらわの先を行くとは! 負けてはおれぬぞ、こうなったら残りの子らも見つけていっそ全員で鬼になるのじゃ! なんとしてでもあぶり出す!」
「はあーい!」
「おう!」
 ……あぶり出すとは。
 微妙に物騒な物言いだというのに、しっかり統率された少年少女は疑問を差し挟む余地も覚えないようで。元気いっぱいな返事がなんとも愛らしい。ひとりでに唇が綻んだ。
 察するにカグヤは、里の子どもたちとかくれんぼをしていたのだろう。普段は絵馬掛けの依頼をこなすことを中心に生活を回している彼女が、童と混じって遊ぶようになるとは。ずいぶん馴染んだものだと、感慨深い気持ちでひとつうなずく。
 その拍子になにやらやわらかい感触も来てしまったが、まあ気にすることはないだろう。わざとじゃないし、本人からも抗議はない。
「……もう行ったみたいだよ?」
「ですね」
 平静を装っていても、体勢にそわそわしていたことは事実だ。密着状態から解放され、スバルはこっそり安堵の息を漏らした。モコロンは用心のためか舞い上がらずスバルの頭の後ろにくっついている。
「んえーと、かくれんぼか? カグヤ」
「そうです」
 ひとまずの危機(?)は去ったとはいえ、油断はできない。声を潜めてわかりきった質問をしたモコロンに、これまたカグヤも生真面目に肯定した。
「すみません、急に引きずり込んだりして。あそこにあのままふたりがいたら、注意を引いてその流れで見つかってしまいそうだったので……」
「ああ、うん。べつにいいよ」
「びっくりはしたけどな〜」
 やたらに間延びしたモコロンの声には責める色はない。わかっているのだろう、カグヤも眉尻は下げたがそれ以上謝罪を繰り返すことはなく、ただ苦笑した。
「遊び、だとはわかっているのですが。いざ始めてみるとどうにも本気になってしまいまして」
「あー、わかるかも。オレたち子どもの頃にあんまりこういうことしなかったもんな。だからなのかどうかはわからないけど、なんだか新鮮で楽しいんだよ」
「そうなんです! それで隙を突いて移動したりもしていたら、すっかり最後のほうまで勝ち残って……」
「カグヤちゃん、みぃつけた!」
「!?」
 がさり、と鳴った葉音に振り返った時にはもう遅かった。
 見知った少女の勝ち誇った笑みがそこにある。少し後方を見やれば童たちがずらりと勢ぞろいだ。それぞれ安心したように胸をなでおろしていたり、ぴょんぴょん跳ねていたり、何故か腕組みをして満足そうにうなずいていたり。
 対して大人たちは、がっくりとまではいかないが、してやられたような気分を味わっていた。なにしろあのまま静かにしていればもう少し時間が稼げたかもしれないのに、油断していたのは事実だからだ。
「ようやった! お手柄じゃぞ、すず!」
 お日様色したおかっぱ頭の童女が両手を打ち合わせ、偉そうに高らかに賛辞を贈った。
 声だけではいまいち判別がつかなかったが、見れば彼女もしっかり子どもの姿を取っている。さすがの天の神と言えど、大人の恰好のままで子どもたちと遊ぶのは気が引けたのだろう。――いや以前はそのまま戯れていたような記憶もないではないが。というかそれこそ大人のカグヤが混じっているのだから、ふつうに合わせてくれてもよかったのでは――もしかしてかくれんぼなら身体がちいさいほうが有利だからか、そうなのか。
「すずの言ったとおりだったな。いっぺん探したとこもう一度見てみるのも大事なんだなー。オイラちっとも思いつかなかった」
「すずちゃんすごーい」
「えへへえ」
「これで全員だね!」
 それでも一応、勝者はカグヤであるらしい。スバルはカグヤとモコロンと顔を見合わせ、肩をすくめた。身を隠していた茂みから道に出る。衣や髪についた葉っぱを落としていると、カナタもといソラノが一歩ずいと前に出てきた。
「さて、カグヤ」
「あ、はい。次は何の遊びをしましょうか?」
 彼女も相手が誰なのかは把握しているはずだが、見た目が幼いとどうしても対応も引きずられがちになってしまう。膝に手をついて目線を合わせたカグヤに、しかし天の神はちっちっちと人差し指を左右に振った。
「かくれんぼはもう仕舞いじゃ! というわけで絵馬の依頼はここまでとするぞ、ご苦労であったの!」
「あ、はい?」
 なんと、わざわざ絵馬で遊びの誘いをかけたらしい。
 仕事として名目をつけて依頼すれば、断られる確率も低かろうという算段だろう。遊びたかったという気持ち自体は本物だろうから、欲望半分、気遣い半分といったところか。
 もっともきっかけとしての気働きをしたのはソラノひとりで、他の子たちは純粋にただただ楽しく遊んでいただけだろうけれど。
「ええと、もう終わりですか? まだ日が暮れるまでは時間がありますが」
「次はけんけんぱをするからの!」
 違う遊びをするから打ち切り、というのもよくわからない。しかしすずやコタロウは訳知り顔でうなずいた。
「カグヤ、大人だからオレたちより足長いもんな」
「カグヤちゃんのひとりがちになっちゃうね?」
「それは、まあ……そうなんですね……?」
 その“けんけんぱ”なる遊びがどういうものなのか、スバルもカグヤも知らない。ただ、身長があることが優勢につながるらしい。そもそも勝ち負けが存在するものであるのかというところから疑問だが。
 しかしこちらはとんと知識のない分野だ。もっともらしく自信満々に説かれてしまえば、子ども相手でも反論しようとは思いつかない。いやでもだったらかくれんぼはいいのか。かくれんぼこそ体格がものをいう最たる遊びだと思うのだが。微妙に釈然としないものもあったりする。
「せっかくスバルさんと会えたんだし、カグヤちゃんはでーとしてきたらいいと思うの!」
 童のうちのひとりが、無邪気に輝く笑顔で宣った。
「うん?」
「えっと?」
 首を傾げる大人ふたりの反応を待たず、ソラノがにやあと口端を持ち上げる。
「そうじゃな、ちょうど良い。カグヤの空いた予定はほれ、スバルが埋めてやるが良いぞ。なんぞ苦しゅうない」
 何が苦しゅうない、なんだかよくわからない。しかし彼女の台詞を皮切りに、子どもたちはてんで好き勝手にぴーちくぱーちく囀り始めた。
「でーとってなあに?」
「あいびきだろ、あいびき。お前知らないの?」
「あいびきなら知ってる! おとうさんとおかあさんがこないだ行ってた、えっカグヤちゃん赤ちゃんできるの?」
「そりゃ飛びすぎじゃねーかあ? そのうちつがいにはなりそうだけどさあ」
「こたろーくん、つがいってなあに?」
「うむ、わらわが説明して進ぜよう! ……とその前に、場所を移動せんかのう? ここでは通行の邪魔になりそうじゃ」
「そうしよそうしよ! 遊んでくれてありがとねカグヤちゃん、ばいばーい!」
「スバルくんもばいばーい!」
「えっ、あの、ちょっと待って……」
 声変わり前の子どもたちの声は甲高く混じり合う。内容を拾うだけでも大変で、しかもやたらに速くて突っ込みを入れる隙を見いだせなかった。
 このまま行かせたらあの子たちは何かこう、大いなる誤解を抱くのではないだろうか。しかもそれが四季の里に広まってしまったりもするのではないだろうか。厄介ごとの匂いがする、それはもうぷんぷんする。しかしここから先は大人は来るな、子どもの時間だと言われてしまえば無理やり割って入ることも憚られる。
「オイラに任せとけ!」
 モコロンがスバルの肩口から離れて舞い上がった。ふわもこは振り返り、たった今の頼もしい口調とは裏腹のなまあたたかい瞳でこちらを一瞥した後、ふよ〜んとにぎやかな一団の後を追っていった。
「……大丈夫かなあ」
 オイラも混ぜてくれ〜との声が流れてくるが。任せろとは、話が変な方向に行かないように見守ってくれる、との意図ではなかったのだろうか。幸い拒まれなかったようで、複数のちいさな背中はやがて角を曲がって見えなくなってしまった。
 まあまずは、こちらの対処が先だろう。
「ええと、カグヤ」
「あ、はい?」
 カグヤもやっぱりあの勢いにはついていけていなかったらしい。藤色の瞳を見開いて辻の角を眺めている。そこにはもう誰もいないが。ぱたぱたと目の前で手のひらをひらめかせれば、幸いすぐに反応はある。
 視線が合うと、彼女はかすかに頬を染めた。
「えーっと……気を遣われて、しまいましたね……?」
「そうだね。最近の子がませてるのか……いや、それっぽいこと言ってたのはソラノちゃんとコタロウくんだけかな……?」
 スバルとカグヤが幼馴染としてだけではなく、恋人として想いを通わせられたのは、つい最近のことだ。豊かになって娯楽が増えても、人は人への関心を完全に見失ってしまうことはない。
 つまりはふたりがその気だという情報は、四季の里をあっという間に駆け巡った。数日は顔を見るなり祝福もしくは揶揄うような言葉を投げかけられるばかりで、随分面映ゆい思いをしたけれども。
 彼らのいわゆる進展というものはのんびりゆったりしていて、見ているものをどうもはらはらさせてしまうらしい。
 相愛になったならめおとになるものだ。子を生すものだ。そう急かしたがる里人の気持ちはわかる。故郷にいたときなど周囲の圧力は今よりもはるかに顕著だったから、ここの人たちはむしろ気の長いほうだろう。
 スバルとしてはいずれそうなることは必然と定めているものの、無暗に急ぐ必要もなかろうというのが本音だった。なにしろカグヤはようやっと、色を含んだ抱擁に慣れ始めてきたばかりなのだ。まだ口づけひとつ交わしていない。
 確かに存在する欲は、けれど愛し愛されているという確信の中で未だ穏やかに微睡んでいる。
 それはそれとしてせっかくの気遣いなのだし、とスバルははにかむカグヤを横目でひそかに眺めた。
 今日やらなければならないことはひととおり済ませてきた。実のところ、わざわざ春の里までやってきたのはカグヤの顔を見られないかという期待もあったのだ。
 そして当の彼女はといえば、さっきの口ぶりからして子どもたちと遊ぶために少なくとも日暮れまでは時間を確保していたというわけで。まさしく渡りに船というものだった。
「せっかくだから一緒にゆっくりしようか」
 驚かせないようにゆっくりと手を近づけて、指先でちょんとつついてから、繋ぐ。軽く引っ張ると、カグヤは一度瞬きして、嬉しそうにうなずいた。
「はい」





 密集して生えているように見える木立も、中に入ってしまえば意外と隙間があるものだ。
 常に咲き誇っている躑躅からは甘い香りが漂っている。スバルはカグヤの手を引いて、ともすれば酔ってしまいそうなほど濃厚な花の香の中を進んだ。さっき茂みの中に引きずり込まれたときに、かき分けてもっと奥に行けそうだなと思っていたのだ――予想したとおりだった。
 ゆるやかな斜面を登りきった行き止まり、これ以上行ったら崖下に落ちてしまうけれど。ぱっと開けた視界に、カグヤが歓声をあげる。
「すごいです……!」
「これは……想像以上だったなあ」
 高台からは春の野原が一望できた。
 はるか彼方まで緑の稜線が続き、そこここに薄紅色や藤色の花々が咲いている。散りばめられた華やかな色彩を辿りながらさらにむこうを見晴るかせば、だんだんとぼんやりと諸々の輪郭が混じり合っていくのがわかる。地平線も春霞の影響でかすんでいて、空との境が曖昧だ。
 豆粒のように動いている何かは野生のバッファモーやらモコモコやらだろうか。遠見にはそれなりに自信があったが、距離がありすぎて特定することまでは無理だった。
「あっ、あそこ! 緑が濃くてこんもりしています。鎮守の森でしょうか」
「うん?」
 弾んだ声で指さす先に視線をやれば、確かに他よりも樹齢の長そうな大樹が密集している区域があったが。スバルはちいさく笑って首を振った。
「いや、あっちは廃神社の森だよ。鎮守の森はあっち」
 自分で指し示した方角にもやはり森がある。ただあちらは穢れに侵されたご神木が魔と化して、長いこと縄張りとしていた。ルーンの流れが整ってきた最近ではだいぶ回復してきているが、それでも茶色に枯れた残骸がちらほらと残っている。
「え、あれっ?」
 カグヤはぱちぱちと瞬きして眼下を見渡した。
「えっと……では秘湯のある島は、あちら……?」
「そっちは北だから違うね。ここからだと東だからあっち。ほら、あそこが廃神社だろ? そこから道なりに出てきて、里のほうには来ないで橋を渡ったら街道に出るよね。北上して少し右――北東にあるのが鎮守の森。実際歩いていくとちょっとややこしいけど、方角的にはそう。で、さらに右回りというか東に向くと秘湯のある島」
「……う、え……?」
 頭の中に地図を描き、自分が今どこにいるのかを常に意識しながら移動する。完璧ではないにしてもそのあたりを心がけていればひどく迷ってしまうことはないはずなのだが、カグヤにとってはどうにも難しいらしかった。
 スバルのもとにはしょっちゅう彼女の迷子報告が寄せられるのである。ついでに道案内をしておいたからねとの言葉を合わせて頂戴して、お世話になりましたと頭を下げるまでが定番の流れだ。
「ついでに春の里の門はあっちだよ。竜神社は方角そのままで、もうちょっとだけ向こう」
 流れるように指を動かし、方角を説明してみせた彼に思考が追いつかないのか。カグヤは人差し指を半端な位置でうろつかせながら、若干目をぐるぐるさせている。そんなさまが愛らしいやらおかしいやらで、とうとう吹きだしてしまった。
「あ、ははっ!」
「ひどいですスバル! 真面目に考えようとしていたのに、今聞いたことが飛んでいってしまったじゃないですか!」
「え、え、そうなの? ごめ……いやでももうここまでくると理屈も無駄なんじゃないかなあ……!」
「もう、また笑う!」
 腹が忙しなく波打つから、体をくの字に折り曲げて震える箇所を抑えようとする。それを阻止しようとしたのか、彼女は両手で彼の腕をつかんで引っ張ってきた。
 私は怒っているんですよと主張したいのだろう、眦を吊り上げている。眉根を寄せて、唇も尖らせて。それでもなおだ、見つめる花のかんばせは、ただひたすらに、愛くるしい――
 ――ああかわいいなあと思ったときには、体がもう動いた後だった。
「……へ……?」
 腹の底からではなく息が抜けたような一声が、可憐な唇から洩れる。
 刹那のことだが、間違いなくそこが触れ合った。近すぎる焦点を合わせるや否や、薄紅色程度に過ぎなかったはずのカグヤの頬が真っ赤に染まっていく。呆気に取られてまん丸になった瞳は瞬きを忘れ――ここは何か言わなければならないのでは。
 しかし何かといっても、彼にとってもある意味で自身の行動は想定外だったのだ。要は焦っている。気の利いた台詞など思いつきはしない。ただぱくぱくと口を動かしているだけのスバルを数秒見据え、彼女は口許をわななかせている。
 これはさすがに叱られるかもしれない。危惧して身構えたこちらの予想に反して、カグヤは素早く顔を伏せた。
 ――同意も前触れも何もなく、やらかしたなあとの思いは変わらないものの。
 だけど。
 そうするつもりなら逃げられるだろうという程度の力で肩にそっと手のひらを添えてみる。恋人は一瞬ぴくんと震えたが、続いて髪の中を通り抜け始めた指を、振り払うでもなくじっとしたままだ。
 ちいさな手はぎゅうぎゅうと皺の寄るほどに、装束の胸元を握りしめている。こんなにも強く胸元に顔を押しつけられていては、こちらの跳ねまわる鼓動も聞かれてしまっているのだろうが。
 顔は上げられない、直視なんてもってのほか。だけど決して嫌ではなかったのだと、主張しようとしてくれているのだろう。懸命な仕種が猶更に愛おしい。ここはあれこれお互い様だと開き直ることにして、スバルはカグヤの華奢な肢体をふんわり包み込むように抱きしめた。
 ふと、ぴーちちち……と頭上を行く鳥の囀りが聞こえてくる。
 いや、耳をすませば周囲は決して無音ではなかったのだった。鳥は忙しなく歌っているし、かさこそとそこらで餌を探す小動物が動き回っているのもわかる。風も弱いけれど吹いていて、やさしく葉擦れの音を響かせていた。
 それこそ緊張するあまり、自身とカグヤの息遣い以外が耳に入っていなかったらしい。
「えー……と」
 なんとか絞り出した声は、出だしが変に掠れていた。いったん咳払いする。
「カグヤ、そろそろ顔を見せてくれると……」
「……そういえば、私は怒っていたんでした」
 主張の内容の割に、声音はたいして怖くない。さもありなん、怒っていたといっても本気で心底から、でないことはお互い承知の上だったからだ。
 でなければさすがにあんなことはできるはずがない。いつもどおりならば拗ねてみせたところに謝って、形式的に許されて、それで終わりのやりとりのはずだった。ちょっと進行を間違えた――というか、うっかり変更してしまった。
 おそらく本人も決死の勢いで上げたのだろう顔は、やはり怒りのためというよりは恥じらいと戸惑いで紅く色づいていた。若干目も潤んでいるか。
「か、カグヤさん?」
「スバル、私は怒っていたんですよ」
「あ、はい」
 でも怖くない。怒っている、ではなく怒っていた、となってしまっていることに本人は気づいているだろうか。なんだかかわいいだけだ。とはいえそこをつつけばへそを曲げるに違いないので、スバルはがんばって神妙な表情を作った。
「腹を立てている相手に対してする行為ではないと思います……!」
「う……すいません」
「し、しかもはじめてのくちづけだったのに! もっとこうその、雰囲気とか……!」
「ごめん、ごめんって」
 泣きだすかと思ったが、べつに泣きたいわけではないらしい。宥めようと忙しなく上腕をさする彼の手をぶすくれた顔で見下ろしながら、小声でぶつくさ呟いている。
「……ついうっかり、みたいなノリで来るのが余計腹立つんです……」
「いや、やらかしたなとは思ったけどいい加減な気持ちだったわけじゃ……聞いてないな?」
 雰囲気はあまり深刻ではない。だから言い訳がましいこちらの言葉が届いていなくてもさして問題はないのだろうが。無意識だろうか、カグヤはさっきと同じような形に唇を尖らせていた。さすがに口づけを乞われているわけはないので手も口も足も出さずに用心深くただ待つ。
 ひとしきり文句を吐いて満足したのか。罵倒とも言えないようなやんわりした言葉たちだったが、カグヤはやがて半目になってこちらを見上げた。
 冷たい目、をしているつもりなのかは知らないが、拗ねて甘えた感情が駄々洩れになっている。これで私怒っているんです、はさすがに無理がないかと思いながら、彼は控えめに首を傾げるにとどめた。
「カグヤ?」
 すいとしなやかな指先が伸びてきた。
 親指の腹でふにふにと口許をいじりまわされる。大胆な行動をしていると自覚がないのかもしれない。抵抗もできずただ胸を高鳴らせるスバルの眼前で、カグヤもまた表情を少しずつ変えていった。眉間の皺が取れ、やわらかそうな唇がうっすらと開く。間から真珠のような歯がのぞいた途端、なぜかおのれの喉が鳴ったのがわかった。
 はっとしてカグヤが手を引っ込める。
「ご、ごめんなさい! はしたない真似を……!」
「あ、いや。べつに……」
 反射的に否定した後、思いついて言いなおす。
「オレ相手にするぶんには問題ないよ。他の人にはしないようにね」
「す、スバル以外になんてするわけありませんから!」
「ならよし」
 今度は自分にも非があるとの思いがあるからだろうか。打って変わっておとなしく縮こまってしまったカグヤの頭を軽く撫でながら尋ねた。
「なんだかぼんやりしてたように見えたけど、考えごと?」
「たいしたことではないんですよ。ただ、殿方の唇もやわらかいものなんだなあと……」
「え」
 無垢ゆえの破壊力というのはおそろしい。硬直したスバルを尻目に、彼女は今度は自分の唇をなぞっている。同じ指で。うっすら頬を染めて焦点を遠いところに当てるのは、おそらく反芻しているからだ。
 嫌な記憶にならなかったらしいことはおおいに喜ばしいことではあるが、待ってほしい。待ってほしい、これはちょっと色々と我慢するのが難しいような気がしてきた。
「……ま、まあ、このへんの造りは男女でも一緒だろうから……?」
「……そうですね」
 これは願望なのか、それとも現実か。想いを通わせてそう経たない恋人はしかし、なにやら物欲しげな瞳でこちらを見つめていはしまいか。
 スバルは一度、息を詰めて吐き出した。
 恰好よく、とまではいかないにしても多少の落ち着きをもって。震えないように、上ずらないように丹田のあたりに力を込めてから声を出す。
「カグヤ。その……もう一回、いいかな」
 頬の紅色を耳まで移し、カグヤはかすかにうなずいた。
「……あなたが、そうしたいのなら……」
「うん、したい」
「……ぁ……」
 永遠のように思えた瞬間はしかし、実際には一瞬だった。
 確かにやわらかい。ふにっとした。
 さっきは半ば衝動的な行動だったので自身の動きに驚きすぎて、感触やら何やらの諸々はすぐに記憶の彼方に飛んで行ってしまったのだ。
 カグヤがため息を零す。互いに至近距離で震える睫毛を見つめ合いながら、もう一度。心臓は破れそうなほどに騒いでいたけれど、今度はもう少し長いこと触れ合っていられた。
 唇を離し、同時にぷはっと息をつく。
「ちょっと、息が続かないかも……?」
「……っはふ、ですよね……?」
 高揚と、恥じらい。あふれそうな幸福感とともに、実のところもうひとつうまれてきたものがあった。顔を見合わせて、ふたり同じことを考えているのを確信する。それすなわち好奇心だ。
「慣れたら息が続くようになる、とかかな」
 スバルは首をひねった。出歯亀の趣味はないが、とある恋人たちや夫婦が仲良くしているのを事故のごとく目撃してしまうことというのは、たまにある。もちろん屋外であるからして濃厚な絡みなどではなく、戯れ程度のものに過ぎないけれども。
 ただ彼らはわりあい長いこと唇を重ねられていたように記憶しているが――カグヤも似たような経験があるのだろう。彼の発言に疑問を呈することはなく、探求心からか少し声を弾ませる。
「肺活量、という点なら私たちは優れているほうなんじゃないでしょうか」
 それもそうか。
「じゃあ、息は止めてないとか……?」
「そうかもしれません。息を止めずに……つまり呼吸を続ける……口は塞がれていて……? あっ」
「「鼻!」だ!」
 ふたりは同時に声をあげ、互いの手のひらを打ち合わせた。
「考えてみれば当たり前ですよね。そもそも基本的に呼吸は鼻でするものですし」
「だよなあ。でもなんか止めちゃってた」
「緊張してたから、でしょうか?」
「あー、そうかも」
 正解らしきものを見いだせた興奮で、きゃっきゃと握りあった手を揺らす。無邪気にくっついて離れて、を繰り返すうち、カグヤがふと瞼を閉じた。
 わずかに上向きで、無防備に。さっそく試してみましょうさあどうぞと言わんばかりの仕種に体温があがり、同時に探求心も刺激される。
「……」
「……」
「……く、ふ」
「ふ、うふふっ」
 それに気がついたのは同時だったか。それとも単に我慢できなくなったのが同じ刻限だったのか。ともかくふたりはくっつけていた顔を離し、示し合わせたように肩を震わせた。
「く、くすぐったいです……」
「だよなあ!」
 やわらかく熱い唇の感触を堪能するのも束の間、鼻で呼吸することを重視しすぎて、今度はそちらに意識が持っていかれた。
 だってとにかく緊張していたのだ。抱きしめる力を強くしすぎないようにだとか、頬を引き寄せる指も至極やんわりしようだとか。それからそれから跳ねる心臓を宥めるのにも忙しくて、そんな状態のなか穏やかで規則正しい呼吸などというものができるはずがなかった。おそらく彼女もまた然り。
 結果互いの鼻から出される呼気は強弱及び間合いも甚だ不規則なものとなり、粘膜周囲の感覚の鋭い皮膚を刺激しまくった。音を当てはめるならば、ふんす! ふんす! ……とでもいったところだろうか。そりゃあくすぐったさに耐えられるわけなどない。敢無く口づけ中断と相成ったわけである。
「たぶんこれで合ってるんだとは思うけどな」
「私もそう思います。でも」
「経験値が圧倒的に足りない……?」
「結局のところ、そういうことなんでしょうね」
 経験がないこと自体は当然である。なにしろお互い、誰かと恋愛関係になるのもそういう触れ合いをするのも初めてのことだ。
 気心知れた相手だから、表情の変化は目敏く察せられる。少なくとも悪い気分ではないことを、視線を交わすことで確信しあってふっと肩の力を抜いた。
 欅の根元に座り込んだスバルを追うような形で、カグヤも腰を下ろす。わずかに触れ合う肩に今更どぎまぎするのを押し隠して、流し目で幼馴染の様子を見やる。
「おやつか何か持って来ればよかったかなあ」
 特に空腹を感じていたわけではなかった。たださっきの今だからか、少々口寂しいような気もする。まさかもう少し練習を続けましょうかとも言えず――今日のところはもういっぱいいっぱいだ――違う気まぐれを声に出したら、意外にもすぐに応えがあった。
「あっ、ありますよ」
 携帯用の鞄の中をごそごそやっていたと思ったら、出てきたのは油紙に包まれた大豆と木の実だった。甘く煮た後に日干しし、さらに砂糖をまぶしたもの。それから炒って糖蜜掛けしたものなど、とりどり数種類が混ざっている。
「本当は子どもたちに配ろうかと持ってきたんですが、思っていたより人数が多くて。全員に行き渡らないな……と」
 それでそのままお蔵入りになっていたというわけか。半分こです、と渡されたそれを礼を言って手のひらの上に転がす。乾きものに分類されるといえばそうなのかもしれないけれど、干物ほどからからではないから水がなくても飲み込むにさほど苦労はしなさそうだ。何より甘くて香ばしくておいしい。
 しばらくの間、ぽりぽりこりこりと種子を噛み砕く音だけが風に混じっていた。
 暑くもなく、寒くもない。遮るもののない日差しの下にいれば汗ばむくらいの陽気だが、頭上の緑がちょうどいい影を作ってくれて居心地がいい。遠くにたなびく雲は端のほうが霞と一体化して薄くたなびく紗のようになっているけれど、反面近くの青空に浮かぶ雲はふわふわとちぎれて白くいかにも身軽そうだった。
「あ」
 手を上げてひとつを指さす。
「あの雲。おむすびみたいな三角形してる」
「本当ですね。あっ、あれはもみじみたいです」
「おおー……あ、その右にあるのは串団子っぽくないか? あっちは大福」
 意識して探してみれば、空の上には大小さまざまな塊が浮かんでは流れていっていた。日ごろふと空を見上げて目を細めることはあっても、目的もなくあれこれを眺めてはお喋りするなんて久しぶりかもしれない。
 あっちはこっちはと自覚なくはしゃいでしまっていたのか、カグヤはいつのまにか空ではなくじっとスバルの横顔を見つめてきていた。
「ん、何?」
 瞬きして首を傾げると、「いえ……」と言葉を濁す。催促するように顎をしゃくれば、ふにゃっと眉尻を下げて手の中に残っている油紙を丸めたり開いたりした。
「おやつ、足りなかったですか?」
「へっ? いや、そんなことは……」
 その質問は彼にとっては唐突に感じられた。けれど彼女にとっては自然な流れだったらしい。どうしてそうなったのかを考えつくには少しの時間を要した。
 たぶんほんの数瞬だ――が、思い至り、スバルは跳ねるように肩を上げて右手を左右に振った。
「って、あー! ああ、いや、べつにお腹は空いてないよ! 大丈夫大丈夫、単にそう見えたってだけだから! 食べ物のことが頭から離れないとか、そういうのじゃないから!」
「本当に? もう少したくさん渡せばよかったですよね……」
「いえいえ、半分こありがたいです! ちゃんと足りてました!」
 満足しているからと繰り返せば安心したのかへの字になっていた唇はようやく元の形になってくれた。今度はくしゃくしゃに丸めていた紙を指先で伸ばし、ちいさく畳み始めている。再利用するつもりかそれを隠しにしまいこんで、カグヤは膝の上に行儀よく両手を揃えた。と思ったら少し勢いをつけて欅の幹に背を預ける。よく育った柱はびくともせず、ただそよ風が吹いただけだった。
「雲って単純な形だからさあ……連想しやすいのが食べ物ってだけなんだよ」
「何も念押ししなくても」
 視線は合わせず、並んで空を見上げている。ただごく近くに在る気配を感じながら、かわりばんこにくすくす笑いを漏らしてとりとめもない話をする。
「そういえばこの間いろはさんが……」
 いい香りのする、やさしい風が頬をくすぐって過ぎる。
 ちらちらと瞬く木漏れ日は眩しくもなく、いつまでも眺めていられそう。笑うたびほのかな温もりが肩に触れたり離れたりするのが心地いい。
 ずっと昔から、聞きなれた声。満ち足りた気分で相槌を打っていたら、やがて、瞼が重くなってきた。





 くしゅん、と遠くでくしゃみが聞こえたような気がした。
 実のところ遠くなどではない。なにしろ自分のくしゃみだ。意識を彼方に置いていたからそう感じただけなのだろう。
 ああでも、身を取り巻く大気が少し冷たくなってきたようには思う。陽が傾いてきたのかもしれない。反面頭はなんだかふわふわとやわらかな温かさで包まれていて、前髪の間を通り抜ける細いものもじんわりした熱を持っていて。
 無意識に暖を取ろうとあたたかいものを追いかけて握りしめたら、焦ったように退いていこうとするのがわかった。力を込めて捕まえる。
「す、スバル? 目が覚めたんですか?」
「……。……んあ?」
 ちゃんと返事をしたつもりだった。でも想像以上に間抜けな声――というより呻きとしか取れない音が喉から洩れて、予想との落差にぎょっとする。
 まず最初に目に入ったのはなだらかな曲線だった。なんだか豊かさのようなものを感じる山ふたつの向こうから、光の加減か彩度を落とした藤色の瞳がのぞく。柳眉がほっとしたように緩められ、桜色の唇が弧を描く。
「っ!?」
「ひゃ!」
 認識した瞬間スバルはばねのように跳ね起きた。額をぶつけなかったのは咄嗟にカグヤが身をのけぞらせて避けてくれたからだろう。
「あ、れ……オレ?」
 急に動いたせいで然るべきところへと十分に血が回ってくれない。脳天がくらくら揺れている。
 支えようとしてか肩に添えられた手にありがたく頼りながら、彼は一度強めに目を閉じた。そのままじっとしているうちに、輝くくらい真っ白になっていた瞼の裏になんとなく本来の暗さが戻ってくる。何度か瞬きして異常がないことを確認したのち、胡坐をかいてまっすぐ座りなおす。
「急に起きあがったら体に良くないですよ。大丈夫ですか?」
「……うん、大丈夫。ごめん、なんかびっくりして動いちゃった。ぶつからなくてよかったよ」
「ふふ。よく眠れたみたいで何よりです」
「……」
 人差し指で軽く頬を掻きながら彼女に目をやるも、笑みの中に影は見当たらなかった。カグヤを放ったまま暢気に寝こけていたことには特段思うところはなさそうだ。
「えー……と。正直に言うと、途中から記憶がない」
「でしょうね」
 短くはない時間をスバルの頭に占有されていた脚は痺れてしまっているに違いない。予想にたがわずカグヤはさりげない動きで折りたたんでいた膝をまっすぐ伸ばした。ついでに両腕も天に向けてうーん、と伸びをしている。
 胡坐に頬杖を突いて見上げるような姿勢をとれば、彼女は悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「ちょっとおもしろかったですよ。うとうとし始めたなと思っていたら、スバルったら肩にもたれかかってきたんです」
「……なるほど?」
 覚えていない。そのときにはすでに寝入りかけて意識が朦朧としていたということか。
「そのあと、頭がずるずる下のほうに行き出して。はじめは抱えておけば大丈夫かなって思っていたんです。でも支えきれなくなって結局お腹を滑っていって、最終的に膝枕とあいなりました」
 意識のない人の頭は重いんですねえ、などとカグヤはにこやかに新発見を語っている。だがスバルとしてはなんだか冷や汗が止まらないような心地になってきた。
 いやだって、肩を借りるくらいならともかくだ。状況を聞いて察するにそれは、要は彼女の胸元に顔面から突っ込んだということではないのか。了承を得ているならばともかく、いきなり、しかも無意識にやらかすとかどこの変態だ。
 誓って疚しい気持ちなどなかった。というかそうなるなどとは微塵も予想も妄想すらしていなかった。誓えと求められたら誓える。そもそも寝てしまうつもりもなかったのだから。
 しかし、言われたとおり熟睡はしてしまっていたらしい。主な要因は疲れだろう。ここ数日は四季の里のみならずあちこちを動き回ってひとところで落ち着ける隙間などなかったからだ。
 あとはまあ、久々の逢瀬に緩んだ精神やら春の野の昼寝に最適な天候やら。極めつけに愛しい恋人の膝枕と来れば、うん、まあ。目覚めたときの一瞬を思い返すだに、どうやらずっと頭を撫でてくれていたようだし。
 スバル自身はのんびり昼寝をするだけの時間も好んでいる。自分ひとりのことを言うなら、大満足の休息だった。ただ、カグヤのほうはどうだったのだろう。それこそ久しぶりにふたりきりで過ごせる機会だったというのに、肩透かしを食らった気分になっていたりしないだろうか。もっと話をしたかったのに期待外れに終わってしまった、とか。
「……ごめん。こんなに長いこと寝るつもりはなかったんだけど……」
 伸ばした指先はあっさり迎えられ、逃げられなどしなかった。それどころかもう片方の手も添えられて、強張っていた口許が少し緩む。
「もう日が暮れちゃうよな。退屈しなかった?」
 少なくともスバルが危惧するほどに、カグヤの機嫌は悪くはなさそうだけれども。
 恐る恐る伺い見る。小首をかしげた幼馴染は、こちらの顔を見返すなりくすくす笑い始めた。へんにょり八の字眉になっているのは自覚している。もしかしてその表情がおもしろかったのか。
「いいえ、ちっとも。おおいに充実した時間でしたよ」
「ほんとに?」
「本当ですってば」
 やんわり繋いでいた手を引っ張られ、腕ごとぎゅうと抱え込まれる。甘えるように肩口に擦り寄ってきた頭に空いたほうの手のひらを置けば、彼女は言葉どおり満足そうに目を細めた。髪を梳く。ほんのり染まっている頬は、なにも夕焼けのせいだけではないだろう。
「あなたの寝顔がかわいらしくて」
「えっそういう方向!?」
 そういえばそうだ。多少寝返りくらいは打ったかもしれないが、基本的にこの頭はカグヤの太ももの上にずっと預けられていたのだからして――深く考えるとあらぬところがおかしくなりそうなので感想だの感覚だのは置いといて事実だけを認識するようにしよう心頭滅却――そうだ、一刻と言わず二刻近くは観察し放題だったというわけだ。
「よ、よだれとか垂らしてなかった?」
「? いえ、そんなことはなかったと……多分」
「たぶん!?」
「そこは気にして見ていなかったので」
「じゃあ何を気にしてたんだよ!」
 やり取りの最後のほうはほとんど悲鳴だった。今更だ、情けない姿も知られてしまっているのだから今更。でも最低限の恰好はつけていたいのだ、年上の兄貴分としては。頼りになる許婚ですよという素振りはしておきたい。いやだから、今更だけど。
「何を……というか。今は私だけのスバルだなあ、と考えて一人でにやにやしていたといいますか……?」
「ひとりでにやにや」
「あっ、言葉の綾です! 決して怪しいものでは!」
 よほど慌てたのか、密着していた身体はぱっと離れていった。日が暮れてくると気温が急に下がる。ふたりの間を風が通り抜けていったが、一抹の寂しさを覚えるより先にカグヤの忙しない動きに気を取られる。
 彼女は意味もなく両手を胸の前で振った。
「いえ、その、変な意味ではなく! ここ何日かはすれ違うばかりで、顔を見られても挨拶くらいで話もできなかったじゃないですか! あなたはいろんな方に頼りにされていますし、里長としての御役目もありますし、見ていて誇らしいなあと思うのは間違いないんです! でもその、時々は私のスバルですよって触れ回ってしまいたい気持ちもあって、それが寝顔を見ていたらあなたがこんなふうに気を抜いて寛ぐのはきっと私の前だけだってなんだかくすぐったくて、それでその、なんというか」
「うん、カグヤ落ち着こうか」
 振り回される手に意識が持っていかれて、言葉を拾うのに苦労する。なんとか手首を捕まえると、カグヤは一瞬だけ息を詰めた。
 それでも口は止まらなかったと見える。勢いこそ失ったものの、伏し目がちにぼそぼそと続ける。
「……独り占めできたの、嬉しかったんです」
「……。……そっか」
 叫びだしたい衝動に駆られながら、しかし出てきたのはなんとも味気のない相槌だけだった。
 かわいい。かわいすぎて叫びだしたい。なんていじらしいのか、いやスバルももしもカグヤが隣ですうすう寝始めたらやっぱり寝顔を堪能しながら幸せを噛みしめるのだろうからして、まさしく似た者同士というところなのだろうが。
 いや、叫びだしはしないにしても。そういえば自分たちは想いを交わし、今日の今日で口づけまで済ませた仲なのだ。なら躊躇することはないのではないか。
 スバルは欲求のまま華奢な肢体を引き寄せて、包み込むように抱きしめた。
「す、スバル?」
「あーかわいい。カグヤかわいいなあ……」
「えっ、あの」
 お互い座ったままだから、ぎゅうぎゅうに密着できるというほどのことでもないけれど。かすかに鼻を掠める白梅と彼女自身の香りに深い満足感を覚える。あからさまにならない程度に耳元に顔を寄せてすうはあ吸ったり吐いたりしていたら、ふっと吹きだす気配がした。細い腕が背に回される。
「話したいことはいつもたくさんあるんです」
「うん」
「でも、絶対に話さなければならないってこともなくて。……ふたりでただぼんやりするだけの時間も必要だし、なにより素敵ですよね?」
「うん、オレもそう思う」
 なにしろ故郷にいた頃は毎日べったりだったのだ。それが仕方のないこととはいえ何年も離れ離れだった。自分たちにしてみれば、くっついている状態こそが普通だと言ってしまえるのかもしれない。
 さすがにもう童ではない。だからそればかりではよくないし、そういうわけにもいかないことはわかっている。それこそモコロンあたりに漏らそうものなら真顔で「お前らのそういうとこどうかと思うぞ」と言われてしまいそうだ。そのときの表情――なまぬるい視線をくれるところまで鮮明に想像できてしまう。
 ただこればかりは幼馴染たちの意見が一致してしまっているのだから、まあ、とやかく言われるほどのことでももちろんないのだろう。幸せだなあと素直に思える。
 橙色に染まっていた彼方の雲が、藍色を帯びてきた。抱きしめた背をひと撫でして、スバルは囁くようにカグヤに唇を寄せた。
「そろそろ足の痺れは抜けた? 歩けるかな」
「あ、もう大丈夫です。……暗くなってきましたね」
「うん。視界が利くうちに道まで戻ろう」
 月は早々に顔を出しているし、まったくの真っ暗闇というわけではないけれど。木立に覆われた斜面を下らなければならないのだ、陽が沈みきってしまう前に里の中まで戻っておくほうがいいだろう。灯りも持ってきていない。
「そうですね……」
 名残惜しげな声にちいさく笑いがこみ上げる。立ってついでに繋いだ手を引っ張り上げて、スバルは唇を弧の形にしたままで彼女の顔を覗き込んだ。
「一緒に夕ご飯食べに行こう。それでお風呂屋さんに寄って、家まで送るよ」
「……はい!」
 何もここでお別れ、というわけではないのだ。せっかく子どもたちが気遣ってまで作ってくれた時間なのだから、今日が終わる寸前の最後まで、それを大切にすればいい。
「こないだ居酒屋に行ったとき、隣の人が食べてたのが美味しそうでさ……」
「人が食べていると余計に美味しそうに見えますよね。そういえばお品書きに聞いたことのない料理が増えていて」
 実のところやるべきことは山積みで、問題は次々出てきて、しかもまだすべてが解決したとはとても言えない状況だ。
 それでもやってくる明日には、続く日々にはちゃんとカグヤが居てくれる。
 今日、はもうそろそろ終わり。けれどつないだ手を揺らしながらの帰途は、足取りも軽かった。
--END.
スバルはこういうとこあると思うんですよ。
黒スバでさえ垣間見える感じなので白スバだとしがらみが少ない分余計スパーンと行きそうな気がするんですよ。
何がって、唐突なやらかしですねハイ。
でもなんていうかなー、自分の欲求にわりあい素直に強引に動くわりに、相手が本当に嫌がることは絶対にしない、みたいな妙な信頼がある。それこそ常識とか規範とかその場の空気とか恥じらいとか躊躇とか、そういうのが邪魔して今一歩踏みきれない相手を巻き込んで無理やり動かすというか。
もしくはいまいち気が進まないと思っていたけど結果的には良かったなあ、と相手に思わせられる力というか。
白カグは二度記憶を失ってるぶん、だいぶしがらみから解き放たれて自由に動けるようになってる雰囲気があるんですけど、黒カグは白に比べるとたぶん忘れてるものが少ない…というかもしかしたら故郷にいたころの記憶に関しては全部戻ってる可能性ある。
そうするとまあもともとの気質もあるんだろうけど、スバルとカグヤは生まれた立場や男女の性別の違いで周囲からの教育方針や圧がけっこう違ったんじゃないかと思ってるので、こう、黒カグはより「女子はこうあるべき」という意識にとらわれがちというか。黒スバも「男子はこうあるべき」という部分が見えるけどカグヤのほうが抑圧されてそうなんだよなー。
そこを踏まえて幼い頃から始まり、長じてからもスバルの強引さに振り回される、という形式をもってしてカグヤもストレス解消やらなんやらできてた面が実はあったんではないかと思っている。ちょっとね、ちょーっと兄様から動いてくれるのを様子を窺いながら待ってるように見える場面がちらほらあるのでね。なんとなく期待も見え隠れする感じというか。白黒両方で見受けられる。
まあ毎回全部が全部「正解」の行動をとれるかっちゅーとそうとも限らないわけですが。そこら辺なんだかんだ前提としての絶大な信頼が先に存在してしまってるので、黒竜関連の和解後は幼馴染のやらかし全部を「もう、スバルは仕方がないんですから…」で最終的に済ませていそうな気がしている。やっぱちょろいなカグヤ。
ゑろいくつも書いといて今更だが、カグスバのほうで色々すっ飛ばしてしまう二人を妄想したので、スバカグのほうはあくまで段取りを踏みつつ、のイメージを築きつつ遡っても色々考えてみようかなーと思っておるのです。常にのんびりゆったり彼らのペースでキャッキャウフフしていてほしい。
(2026.03.21)