十六夜に甘露落つ
 月影が冴えわたり、涼やかな風が虫の声を遠くまで運ぶ夜だった。
「そういやお前ら、往来でいちゃついてたんだって?」
 鬼面の下にある口が、にやにやと弧を描いている。話の途切れた隙にそんな言葉を投げかけられて、彼は含んでいた酒を変なふうに呑み込んでしまったのだった。






 失敗したかもしれない。
 スバルは人当たりよく見える笑みを顔に貼りつけたまま、心中では眉をひそめていた。
 観月の宴をするぞ! と神々から招集がかかったのが今朝のことだ。里長としての仕事は夕方までには終わらせられる算段だったし、明日はもともと休日と定めてある。多少飲みすぎたところで障りはなかろうと承諾して、秋の里までやってきたのだが。
 ちなみに今は秋ではない。ないが、茜色に染まり始めた空の東側には、真円に近い月がぽっかりと顔を出していた。最盛期ではなくとも秋の里の月は見ごたえがある。そしてなにより六神にとって重要なのはなんやかやで酒を飲む理由だった。それぞれの里の祭りの前には張り切って準備をしているから季節がまったく関係ないとまでは考えていないのだろうけれど、そう、要はとにかく何かにつけて呑みたいのである。わいわいやりたいのである。
 最低限それらしく整えようとしたらしい里人たちの努力の成果で、そこここにいつもはないちいさな灯篭が置かれ、東屋には薄と秋の花が活けてある。はらはらと散る紅葉に、涼しげな音をたてて流れる遣水。もともと風情のある景色に装飾での演出も加われば、雰囲気はすこぶる良くなる。いつもより人出も多い気がする。
 もっとも急なことだったから、約束を取り付けられた相手は多くはなかった。居酒屋ヤチヨを会場としたささやかな宴の顔ぶれは、神々と秋の里に住まう大人たち、それからスバルと彼の妻カグヤだ。
 一緒に住まいを出てきても良かったのだが、せっかくなのだからとふたりは遊び心を発揮した。恋人時代の逢引のように、たまには待ち合わせをしてみないかと言い出したのはどちらだったか。いつもの戦闘を想定した装束ではなく浴衣を着つけて、相棒であるモコロンと適当に雑談しながら絵馬掛けの前で佇んでいた。
 失敗したかもしれない。少し身体を引くと、肩に触れてしまった絵馬がからころと音をたてる。彼がさりげなく立ち位置を変えて距離を取ろうとしていることに、目の前の娘たちはとんと気づいていないようだった。
「ねえ、いいでしょう? 私たちと一緒に月を見ましょうよ」
「いえ……人と待ち合わせをしているので」
 このやり取りも何度目かだ。同い年くらいか少し下か。若い娘がふたり、夢見るように瞳をきらきらさせてにじり寄ってきている。やんわり断っても聞き入れやしない。
 かといって楽しげにしているのを強く拒絶するのもよくない気がして――たぶん里人ではないのだろう。四季の里の住人であればスバルが既婚者であることは把握している。親しく声をかけてくることはあっても、不躾に迫ってくるようなことはない。
 はじめて訪れたおおきめの里で、しかもたまたまだけれど祭りのようなにぎわいも出てきていて。ならば心浮き立つのは理解できないでもないのだが。偶然の出会い、のようなものを期待することもあるのかもしれない。それが、男に凄まれたなどという思い出を残すのは少々気の毒だ。
「相棒〜……」
 傍らでふわふわ浮いているモコロンに関しては、彼女らは気にしないことにしたようだった。
「だから、人を待っているんです」
 待ち合わせでさえなければ走って振り切ることもできたものを。カグヤが来た時にここに居られないようでは、意味がない。すれ違ってしまう。かといってこんなふうに女性と話しているところを見られたくもない。あまり長引けば仮面も剥がれ落ちるだろう。いっそ苦虫を噛み潰したような顔を見せてでもやれば――いやだから、それは駄目だと今自戒したばかりだろうに。気づかれない程度にちいさくため息をつく。
 曖昧な笑みを貼りつけたまま、一向に靡かない男に業を煮やし始めたか。娘のひとりがいいことを思いついたとでもいうように両手を打ち合わせた。
「じゃあ、その人もご一緒させてもらえない? だったら、」
「スバル!」
 名を呼ぶ声が、まっすぐに届いた。
 それが目の前の男の名であるのだとは、娘たちは把握していなかっただろう。けれどその場の空気に切り込むような鋭さに、思わず声のしたほうを振り返る。そうしたことでできた隙間に身体をねじ込むようにして、待ち人が駆け寄ってきた。
 どんと強めに胸にぶつかる。よろめくようなへまはしない、受け止めて両腕で包み込む。
「ああ来た、カグヤ……ん? カグヤ?」
 思わず安堵の息をついて見下ろした彼女は、そのままぐりぐりと額を擦りつけてきた。続けて忙しない足音が近づいてくる。
「ちょ、ちょっと待ってよ……何も、逃げなくても」
「……?」
 スバルは首を傾げた。たて続けに闖入者がふたり。とはいっても、ひとりはまさしく待っていた相手だ。彼女を追って現れた青年はやはり自分たちと同年代くらいで、人相は別段悪くはなかった。至って普通の人、という印象だ。腕の中のカグヤも――大丈夫、怯えてはいない。ただスバルにすがりつき、ようやくほっとできたとでもいうように身体の力を抜いている。
「ええっと、知り合い?」
「いえ」
「……あー……」
 どうやらカグヤもまた自分と同じ目に遭っていたらしい。スバルは片手のひらを額に当てて天を仰いだ。相棒のふわもこが肩をすくめて手を広げ、かぶりを振っている。
 いつまでもここで硬直しているわけにもいかない。スバルは改めてカグヤの肩を抱き、青年を見返した。
「この子に何か御用ですか?」
「はえ? ええと……あ、不審者じゃないですよ俺!」
 慌てたように両手を振り回すさまには確かに悪意は見られない。見られないが、こういうことは声をかけられた側がどう受け取るかのほうが問題だ。不審者と判断するか否かも受け取り手に委ねられているところがある。
 カグヤが特に怖がる様子を見せていないからスバルも穏便な態度ですませていられるが、そうでなければ思いきり威嚇していたことだろう。
「確かに初対面ですけど、これから仲良くなる予定で……って雰囲気似てるな、お兄さんですか? えっと、俺も一緒にいさせてもらっても……」
「……は?」
 自分でもびっくりするほどの低い声が出た。
 びくぅ、と三人――青年とふたりの娘が肩を跳ねさせた。肚の底から苛立ちがこみ上げる。とはいえ、さすがにこの程度のことで素人相手に殺気は飛ばせない。彼は必要以上に声を尖らせないように苦心しながら言葉をつづけた。
「夫婦ですけど」
「は、え?」
「えっ、でも雰囲気似てるわよね……?」
「でも顔は確かに似てないわね……?」
 なぜにすぐに信じてくれないものやら。きょうだいじゃないです、と繰り返してもどこか半信半疑の表情が癇に障る。
 国や地方によっては、一目で既婚者とわかるように髪型や化粧、身に着けるものなどで示す風習が存在しているところもあるという。アズマでも一部はそうらしいが、少なくとも四季の里周辺ではそういった話は聞いたことがなかった。だから本人や周囲の話、その人のもつ雰囲気だとか、そういったものから判断をつける。それはそれでいい。いいが、そうか、自分たちはそれほどに健全な仲良し感を醸し出しているというのか。
 信じないのなら信じさせるまでだ。手っ取り早い手段はある。スバルは、未だ腕の中で息をひそめているカグヤに顔を寄せた。
「あ、すば、」
 口づける。横顔が彼らに見えてしまわないように手のひらで頬を覆い、軽く唇を食んだ。喘ぎが漏れる直前に離れて素早くその頭を抱き込む。恋人のかわいい顔はさらしたくないが、どう反応しているのかは察してもらう必要があった。
 カグヤは何も言わない。ただ髪を梳けば、間からのぞいた耳が紅く熟れているのは明らかだ。そこだけはしっかり見せつけられるように華奢な肢体を抱えなおし、腰も強く引き寄せる。スバルの袖をつかむ指先までもが震え、染まっていくさまに愉悦を覚えながら、彼は若者たちににっこり笑顔を向けた。
「新婚なんです。……邪魔しないでもらえますか?」
 唖然と口を半開きにしていた三人は、徐々に思考を取り戻してきたようだった。何か言おうとした青年の腕をふたりの娘が両方から引っ張る。
「お、お邪魔しましたー! ごめんね!」
「え、ちょ、え?」
「バカさっさと行くわよ! アンタがかなうような相手じゃないってのは端からわかってるでしょうが!」
「ひどっ! はなからって何!? てかちょ、引っ張らないで俺の一張羅が伸びる伸びる……!」
「「知ったこっちゃないわ!」」
 最後は綺麗に台詞を重ね、娘たちは青年をそのまま引きずっていった。
 あのまま三人で秋の里を楽しむのか、それとも解散するのかはわからないが。まあそれこそ、知ったことではない。とにかく追っ払えた。妙な達成感にふんっと鼻を鳴らす。そうしてから固まって黙ったままの妻を見下ろす。
「カグヤ」
 そっと名を呼ぶと、抱きしめた肩がぴくんと震えた。おずおずとあげられた花のかんばせは真っ赤だ。沈みかけた夕日に照らされているからでは決してなく、心なしか目も潤んでいる。軽く頬を撫でれば嫌がるそぶりもなく擦り寄ってきたので、内心安堵した。
「えと、人前で、ごめん?」
 意思確認ができればよかったのだが、心情的にもそれどころではなかった。ふるる、とちいさな頭が控えめに左右に揺れる。
「恥ずかしいけど、嫌ではなかったです。……それに、こんな言い方はよくないのかもしれませんけど」
 彼女は頬を染めたまま、えへ、と口許を緩めた。
「ちょっとだけ、すっとしました」
「……実はオレも」
 呆気に取られて、しかし大慌てで退散していった後ろ姿を思い返せば、留飲も下がるというものだ。ふたりにこにこと微笑みあう。カグヤのはにかんだ笑顔はほんとうに愛らしくて胸がいっぱいになる。いつまでも眺めていられる。
 見つめあう視線を先に逸らしたのは彼女のほうだった。
「……あの」
「うん?」
 声を聞いたことで何故か顔が徐々に近づいていたことに今更気づく。なんでもないふりをして少し戻って、スバルは余裕ぶって小首をかしげた。
「もう一度、と言ったら……」
「うん、いいよ」
「あ……」
 かわいい。かわいい。脳髄が痺れたように熱い。わずかに湿る目尻を指で擦って、唇を寄せる。瞼を薄く閉じて互いの吐息を感じとり――耳元で甲高い第三者の声が響いた。
「お前ら、天下の往来だぞ!」
「うわあ!?」
「ひゃあ!?」
 ちいさな身体から発された大音量は実体を伴わない。それでもそこはさすがに神の一声、といったところか、殴られでもしたかのような強烈な衝撃をもたらす。ふたりは同時に弾かれたように離れてよろめいて、そして体勢を立て直した。
「モコロンいたの!?」
「最初っからいただろうが!」
「そういえばそうだったね!」
 激しい突っ込みに反射的に叫び返して、スバルは頭を抱えた。
 天下の、というには少々大げさな気もするけれど、そういえばここは秋の里の入り口近く、しかも絵馬掛けの真ん前だ。当然人通りもそれなりで、今もちらちらこちらを見ている人が少なくはない――というか、どうも通りすがりに野次馬をしていたのではと疑いを抱かせる様相なのが何人か。空の月を見上げたりかくかくと歩きだしたりしているが、いやつい今まで立ち止まってたでしょう見ればわかりますと指摘したくなるようなあまりにもぎこちない仕種である。
 カグヤは浴衣の袖で顔を隠している。でもやっぱり指先は真っ赤だ。わなわなと震えるスバルを前に、モコロンは大げさにため息をついてみせた。目つきがやたらになまあたたかい。
「仲がいいのはいいことだけどよぅ……わざわざ見せつけるようなのは、やめとけ?」
「ごもっとも……」
 灯篭のおかげで視界には事欠かないが、辺りは急速に暗くなってきている。涼しいのに熱い。ぱたぱたと片手で顔を扇ぎつつ、スバルは眉尻を下げた。
「オイラは先にヤチヨんとこ行っとくから」
「え、モコロン?」
「約束まではまだ時間あるだろ。……お前らはその緩みきったカオ元に戻してから来るんだな」
「あ、うん」
 白いかたまりは前触れなくぱっと消えた。ぱちぱちと何度か瞬きをして、それから乱れに乱れた呼吸を整える。
 紅い袖をつまんで覗きこんだら、カグヤは未だに涙目だった。ただまあ、少しは落ち着いてきたらしい。目があえばへにゃんと気の抜けた苦笑いを返してくる。
「ちょっと移動しようか」
「……はい」
「誰もいないところでなら、少しくらいはさ。……続き、いいよな?」
 声を抑えて囁けば、彼女はこくりとうなずいた。






 まあそういうわけで、約束の時間になるまで四半刻ほどか。カグヤとふたり、まっすぐに伸びる竹の合間に身を潜めてちょっとばかりいちゃいちゃしてはいたわけだが。跡をつけてくるような無作法者はいなかったし――さすがにふたりともが神経を研ぎ澄ませればそれくらい察するのは造作もない――秘め事を知るのは笹葉を透かしわずかに差し込む月影と、風と虫の音だけのはずだ。
 そもそもが屋外であることは重々承知していて、交わしたのは口づけだけだった。たぶん明るいうちから早々と酒盛りを始めていたのであろう神々に、たちどころに話が伝わってしまうほどに目立った覚えはない。それはもうまったくない。
 酒を吹き出してしまうことはなんとか避けられた。が、そのぶん変なところに液体が入り込んで苦しい。げほごほと咳き込むスバルにヤチヨはおしぼりを差し出し、ツイランは背をさすってくれる。
「きゅ、急に何を言い出すかと思ったら……」
 ふたりには目顔で礼を伝えて、悪びれずにやにやしたままの根の神のことは軽く睨んでおく。
「ちょっと絡まれた? ってほどでもないんですけど、望んでないお誘いがあったので。それをお断りするのに立ち回ったくらいです」
「ああ……おふたりとも人目を惹きますからね」
 真っ白い耳をぴこぴこと揺らして、冬の神が苦笑した。肯定するべきか否定するべきかはわからないが、災難だなと共感してくれているのはわかる。
「カイさんが聞いたのは別のご夫婦のことじゃないんですか? 今夜は特に風情がありますし、そういう気分になる人も多いかと」
 特徴までは聞いてないんでしょう、と畳みかけてみれば、カイは訝しげに唸った。
「あん? そりゃそうだがよ」
「オレはいちゃついてなんかないですよ。……おとなしく月を愛でていただけです」
「お、おう……そうか……?」
 噂の往来で云々が自分たちを指すのか他の誰かなのか、の確証はない。しかしこの場で話題にしたが最後、とことんまで肴にされそうなので煙に巻くことにする。
 カグヤは輝夜だ。月を愛でていたというのもあながち嘘とは言いきれない。あの時間は腕の中に閉じ込めた月に夢中で、空に浮かぶ月はちっとも見ていなかったけれども。
「なるほど。月を……な」
 心臓がちいさく跳ねた。独りごとのように呟いた秋の神の声は聞こえないふりをする。知らない知らない。聞こえない。幸い彼には追及する気はなさそうだ。
 あれから心ゆくまで互いを堪能したスバルとカグヤは、火照りがおさまるのを待って約束していたひとたちと合流した。はじめは皆適当に色々な相手と話していたのが、いつのまにやらなんとなく男女で分かれて固まっている。異性の耳目が離れればしぜん話題は気安いものとなる。いやこの神様たちの場合あまり関係なさそうな気もするが。
 とにかく飲み始めて一刻以上は過ぎたか。今回の目的は酒とお喋りだけで込み入った話など皆無なので、貸し切りというわけでもなんでもない。神様と同席など恐れ多いと恐縮する里人たちのために、少し離れたところにも卓と椅子は据えられている。そちらも人で埋まっていて楽しそうだ。
 モコロンなんて変に開き直っているのか、知らない人たちの間をふよふよ漂い話しかけては分け前を頂戴している。素面であればまずモコモコが喋った、などと驚かれるところだが、酔っ払いは些細なことは気にしない。楽しく飲み食いできるか否かが全てである。愛らしい見た目のふわもこは、その点では場の空気にぴったりだった。たぶん。
 あんまり目に余るようなら連れ戻さないとな、と横目でその動きを追っていたスバルは、杯の縁をちびりと舐めた。少し酔いが回ってきているかもしれない。なんだか身体が温まってきている。特に背中がぬくい気がするなあとかなんとか。秋の里の風は乾いて涼しいから、気持ちいいくらいだけれども。
「おい。……おい」
 なんだかまた揶揄ってきそうな気配を勝手に感じて、斜めからかけられた声は意図的に聞き流した。
「無視かよ!」
 怒っているというよりは嘆いているふうの鬼神をヤチヨがまあまあと宥めている。そのままちびちび酒の甘さを味わっていたら、ツイランがそっと腕を叩いてきた。
「スバル。背中を」
「はい? 背中ですか?」
 そういえばさっきから、やけにあったかいなあとは思っていたのだ。ちっとも不快ではなかったので気にも留めていなかった。肩をちょっとひねって背後を見やる。見慣れた色が月光を弾いて目を射って、スバルは仰天した。
「カグヤ!? 何やってるの!?」
 いや別に、慌てるようなことでもない。ただ、びっくりした。びっくりしすぎて酔いが醒めた。
「……えへへー……あったかいです……」
 カグヤはスバルの背中にぺったりとひっついて、何やら嬉しそうに頬ずりしている。一瞬具合でも悪くしたのかと焦ったけれど、ふにゃふにゃ笑っているのでそういう心配はないのだろう。行動はかなり謎だが。ってああそうか、酔っぱらっているのか。
「カグヤ、私と席を代わろう。きちんと座ったほうがいい」
 左隣にいたツイランが、冷静に言って立ち上がった。
「あああ、すみませんツイランさん」
「かまわない」
「ありがとうございます〜」
 一応周りは見えているのか。笑顔で礼を述べた彼女はしかし、座った途端にこてんともたれかかってくる。カグヤと一緒にいたのであろう女性たちもいくつか椅子を持ってきてまで近くに陣取った。
「うふふ、酔ったカグヤ様も愛らしいことですわ〜」
「いや酔わせたのはそなたじゃろ……」
 春の女神は案の定もうべろべろだ。まあ彼女の場合はどれほど酒精を入れたところで倒れもしないし正気を失ったりもしないわけで。ただただ陽気にほんわかするだけなので、気にしなくても問題はない。
「うららかさん……酔わせたんですね……」
 うららかは良識のある、やさしい神だ。固辞するカグヤに強制したとは考えづらいが、声にじっとりしたものが含まれてしまうのは否めない。じいっと見つめると、ちいさく微笑んで人差し指を立て唇に当ててみせた。なんだろう。
「ごめんごめんスバルくん、さっきまでカグヤさんすごく普通だったんだよ? だからそんなにいっぱい飲んでたなんて、ひな気がつかなくて」
「ああ、いえ。責めてるわけじゃないんです。カグヤも本当に気が進まなければちゃんと断るでしょうし」
 それに、これだけの見守る目があれば危険も悪意も裸足で逃げていくだろう。なによりスバルがここにいるのだから、彼女は安心してとことんまで気を抜いてかまわないのだ。
「なんかな〜、アタシら別のこと喋ってたはずなんだけどな〜? カグヤがいきなりぃ、スバル! スバル! って」
「は、はあ」
 ほわほわふわふわ酔っぱらった夏の女神の声は聴きとりづらい。というか要領を得ない。
「よくわかんないから〜、好きにさせてみた! 貼りつきたかったのか、あはははは」
「酔っ払いだらけじゃのう……」
「なぁんだ天、まだシラフなのぉ? のめのめ!」
「ぷわっ! これ、押しつけるでないわ馬鹿力が! 零れる!」
 うん、もうぐだぐだだ。でも、いつものことといえばそう。ヤチヨとツイランは慣れた様子で水やらおしぼりやら用意し始めるし、クラマは横合いから伸びた手からささっと皿を避難させているし。ちっと舌打ちしたカイとの間に挟まれて、フブキが耳と尻尾をぺたんとさせている。逃がしてやりたいが今のスバルには力及ばない。そもそも立てないので無理だ。申し訳ない。
 カグヤは上機嫌だった。にこにこにこにこ、スバルの左腕をがっしと抱え込んで肩にほっぺたを擦りつけている。
 いつもの装束と違い、今日は浴衣だ。その下には肌襦袢くらいしか身に着けていないのだろう。つまりはやわらかいものが、肘から上腕にかけて遠慮なく押しつけられている。何とは言わないが。彼女が頬ずりで頭を動かすたび、ふにふにした感触が彼の中の何かを刺激した。
 そ知らぬふりで杯を傾けながら考える――結婚した後でよかった。まだ平静を装っていられる。前だったら色々と耐えられなかったかもしれない。
 まあそれはそれとして、もうここまで来たら終わらせたほうがいいのではないだろうか。そっと窺うと、満面の笑みが返ってきた。反射的に微笑み返して、囁く。
「カグヤ、そろそろ帰るか?」
 しかし予想に反してカグヤは笑顔のまま首を振った。
「まだたべます」
「あ、食べる気あるんだ……?」
 おなかがいっぱいになったからスバルをかまいにきたのかと思った。もう皆だいぶ飲食の進み自体は遅くなってきていて、ヤチヨへの新しい注文もぽつぽつとしか入っていない。
「あら、何か注文する?」
「あ、いえ。さすがに時間も遅いですから、ひとまず今あるぶんを食べきろうと思います」
 宴もたけなわ、夜も更けてきた。店主はもう微妙に後片付けの方向に舵を切っているようだし、今から新しく用意してもらうのも気が引ける。
「えっと、オレの皿からで良ければ分けるよ」
 彼の前には、これで最後にしておこうかと思っていた大学芋の小鉢がひとつ残っていた。好都合なことに甘いものだ。これで満足してくれれば助かるなあと祈りつつ指し示してみる。
「おいもですか?」
「うん、甘いやつ」
「たべます!」
「はいはい、どうぞ」
 食べやすいようにと小鉢と箸を移動させたのに、カグヤはなかなか手をつけない。……どころか、さっぱり動かなかった。ただ言葉どおり食欲はあるようで、じいっと芋に顔を近づけて凝視している。すんすんと匂いを嗅ぎ、少しだけ唇を綻ばせる。
「カグヤー?」
 なんだか酔っ払いというよりは小動物だ。呼びかけると彼女はぎゅうとさらにスバルの左腕を抱え込んだ。曇りなき眼があからさまに要求している。見間違いかなと何度か瞬きをしてみたが、状況は変わらなかった。あー、と口まで開けられてしまっては察するよりほかない。
「しょうがないなあ」
 箸でひとかけつまんで口元までもっていってやれば、躊躇いなくぱくんと喰いつかれた。
 しあわせそうにもぐもぐしている。あんまりしあわせそうなものだから、彼はつられて自分でも食べてみた。知ってはいたが、いつもどおりおいしい。かりっとあげられた芋の表面を齧れば、醤油とみりんの薫り高い蜜に続いて、ほくほくと崩れる素朴な甘みが後を追う。しあわせの味だ。
 故郷にいた頃は飢えることはなかったけれど、甘いものなど滅多に食べられなかった。贅沢を覚えてしまったんだろうなあ、でも悪いことではないはずだしなあ、と甘さを噛みしめていたら、くいくいと腕を引かれた。見下ろす。また口を開けられる。
「あーもう……今日だけだぞ」
「はぁい」
 恥ずかしげもなくこんなことをせがんでくる時点で、相当に酔っぱらっていることは確定だった。自分で箸を使わせようとしても、下手をしたら取り落とすだろう。だったら仕方ないかと給餌に専念することにする。ちょっとだけ、親鳥のような気分になってきた。
 そんなこんなで満面の笑みで芋を頬張るカグヤの顔をにこにこ眺めていたら、複数の視線を感じた。振り返ると神々と里人がぐだぐだ劇をやめ、ふたりのことをやっぱり眺めていた。あ、モコロンも戻って来てる。
「……。お前たち、いつもそうなのか?」
「はい?」
 何度か繰り返せば間合いにも慣れる。話しかけてきたクラマに視線は固定しながらも、スバルは器用に箸を動かした。心得たようにカグヤがぱくついて、手ごたえがなくなったら引く。
 何を訊かれているのかはじめはわからなかった。しかし順調に減っていく小鉢の中身を顎で示されれば悟らざるを得ない。まあびっくりされるよなあ、と内心うなずきながら彼は苦笑した。
「いつもじゃないですよ。ここまで甘えんぼなのは久しぶりじゃないかな。それこそちいさいとき以来です」
「子どもの頃か」
「はい。年の近い子は少なかったし、大人たちは身の周りの世話はしても甘やかしてはくれなかったので」
 一度箸を置いて、スバルはカグヤの髪をそっと撫でた。嬉しそうに擦り寄ってくる。この顔だけは、変わらない。
 里を出るまでは他に例もなくさっぱり知らなかったが、今思えば不思議な環境だった。あたたかな手のひらで撫でられたりやさしい声で話しかけられたり、うっすら残ってはいるけれど、それらの記憶はひどく曖昧だ。スバルとカグヤの知る大人とは、言うなれば皆が皆、師のようなものだった。
「そうすると子どもって、どうしても相性のいい同士で団子になるじゃないですか。オレたちもそうでした」
 ごく幼いころのカグヤは内気で恥ずかしがりで、そのくせ少し先に生まれたスバルの後追いをしては、あにさまあにさまとくっついてくるような甘えん坊の少女だった。慕ってくれるのが嬉しくて愛らしくてかわいくて、思いきり甘やかしていたから当然のごとくべったりだった。ただ一方的に甘やかすばかりでもなかったのだ。彼自身も泣き虫ではあったから、そういうときは逆に、いっしょうけんめいにちいさな手で頭を撫でてくれていた。
 無邪気に身を寄せ合う幼子ふたりを見れば、大人たちの口から娶わせようかという話が出るのも自然なことだったろう。十にもならない頃だった。それこそ恋愛と親愛の区別もつかず、結婚の意味も知らず、ずっと一緒にいられる特別な約束なのだと信じて頷いた。
「スバルスバル! みかんむいてください」
「ん、みかんだね」
 甘えんぼ呼ばわりされても気にせずに、というより自分の話だと思っていないのかもしれない。小鉢の大学芋を食べつくし、元気に次の要求をしてきたカグヤに返事して、山と盛られたみかんをひとつ手に取った。
「婚約の話が出たのもそういう経緯でしたし……そういえばその頃かなあ。甘えんぼがちょっとだけ鳴りを潜めたのって」
 結婚するということがどういうことなのか、本当に知らなかったのだ。知らなかったのだが、そこで彼女になにがしかの自覚が芽生えたらしい。カグヤは兄さまのおよめさまになるのですからしっかりしないと、とませたことを言いだした幼馴染に誇らしいような寂しいような複雑な気分になったのを覚えている。その頃のスバルにとって、彼女は大切で大好きな女の子であると同時にかわいい妹分でもあったからだ。今までと同じように甘えてくれてかまわないのにと言ったら、むしろあなたが甘えるべきですと胸を張られた。そういう問題だったのだろうか。よくわからない。
「今じゃすっかり、真面目なしっかり者で通ってますけどね」
 片手で皮を剥くのは難儀するが、まあできないことはない。時間がかかっていること自体はかまわないのか、カグヤはおとなしくスバルの手許を見つめて待っていた。
 白い筋もなんとなく丁寧に除いて、割る。一房つまんで近づいてきた口に差し出した。
「カグヤさん、しっかりしてるもんね。あ〜見てみたかったなあ、昔のカグヤさん。かわいかっただろうなあ。ねえ、ちいさいころに会ってたら、ひなのこともあねさまって呼んでくれたかな?」
「ああ、いいですね。ボクもどちらかといえば弟分としての立ち位置になることが多いので、兄さまとか呼ばれてみたいです」
 ねー、と耳と尻尾をぴこぴこさせながら微笑みあう様子はいかにもほのぼのしていて、つられて同意したくなってしまう。けれどスバルはわざと唇の端を上げて、ふふんと不敵に笑ってみせた。
「それはどうでしょう。あの頃のオレがやすやすとその座を譲ったかどうか」
 だってカグヤはスバルのものだ。そしてスバルは、カグヤのもの。恋も知らない童の頃から、そう思い定めて生きてきた。彼女もそうだったのではないかと勝手に確信している。
「ええー、スバルくんのケチー」
「独り占めですか?」
 ぶーぶーと唇を尖らせるふたりはしかし、あからさまに目が笑っていた。なんてことない型通りのやりとりが、妙に楽しい。
「……ってこら! それは指です! 食べないの!」
「むー」
 予期していなかった感触に、スバルは反射的に手を引いた。
 というかこの子は、いま歯をたてなかったか。べつに痛くはなかったが、気を引くためにわざとしたのか、それとも注意力散漫だっただけでたまたまなのか。あまり喋ろうとしないから余計に意図が見えない。
「まったくもう……」
 一緒に咀嚼されようとしたものだから、指先がべたべたしている。彼は果汁を舐めとり、それからおしぼりで拭った。ついでにカグヤの口許もごしごしと擦ってやる。彼女は特に文句も言わず、されるがままになっていた。
「なあ、相棒。さすがにもう帰ったほうがよくないか?」
 一部始終を見守っていたモコロンが、どこか重々しい口調でふよふよと寄ってきた。口調は真面目くさっているが目つきはやっぱりなまあたたかい。そこには突っ込まず、思案する。
「うーん……そうだね……」
 体調が悪化する様子は見られない。けれど、カグヤの頭はふわふわぐらぐら不安定に揺れ始めていた。
 普段ならともかく、酔っぱらった状態で転倒したらどんな怪我をするものやらわからない。それにカグヤとのやり取りを続ければ続けるほど、モコロンのみならず周囲の皆の視線がなまぬるいものを多分に含んできている気がするのだ。
 白状してしまえば、彼女が酔っぱらってこんなふうに甘えてきたこと自体はむしろ渡りに船だった。
 カグヤは美しい。姿だけでなく、まとう空気も清廉で凛としている。かわいいものやきれいなものに惹かれるのは命の性で、ふらふらと何かを夢見ては寄ってくる有象無象のなんと多いことか。
 今日だって決して悪人とは言えずとも知らない青年にまとわりつかれていたし、心配は尽きない。でも撃退の術はある。要は、もうすでに押しも押されぬ仲の相手がいるのだと見せつけてやればいいのだ。
 神々が揃ったこの席は、華やかさも相まってけっこうな注目を集めている。人通りも多い。そんな中で先ほどのふたりのやり取りを見かけたものがどういう印象を抱くか。さすがにきょうだいだとは思わないだろう。それでいて何か言われたとしても、いちゃついているわけではなく介抱だという主張が通る。ありていに言ってしまえば都合がいい。
 我ながら姑息な考えだが、躊躇いはなかった。べつに誰にも迷惑はかけていないし。
 ただそう割り切る反面、カグヤのことは少し心配だった。明日の彼女に記憶が残っていたら、羞恥で悶絶するのではないだろうか。やっぱり早めに戻ってやるべきだっただろうか。気心知れたひとびととの気兼ねないお喋りも久しぶりで楽しかったのもあって、ずるずる長居してしまったけれども。
「すみません、そろそろオレたちお暇を……」
「えー。まだかえりたくなーいー、ですー」
「……」
 久々に食べ物に関する要求以外の言葉を発した。と思ったら駄々をこね始めた。カナタがマツリの肩越しにぴょこんと顔をのぞかせる。
「やはり見事なまでの酔っ払いじゃのう。ある意味天晴」
 何故に。
「あはははは、ならもうちょい飲むか〜? アタシはー、いくらでもつきあうぞー?」
「いやもう勘弁してくださいよ……」
 こうなったら宴会の恥はかき捨てだ。今までも十分恥ずかしいことをしていた自分のことは棚に上げて、スバルは抱えられたままだった左腕を無理やり抜き取った。不満の声が上がる前に両手のひらでカグヤの頬を挟み込み、額が触れるほどに近づける。
 こすれ合う前髪を意識しながら、酒精に融けた瞳を見返した。
「……カグヤは、オレとふたりきりになりたくないの?」
 ひゃああ、と誰のものともつかぬ歓声が背後であがるが当然無視する。もういいや、どうせみんな酔っ払いだ。そんなに詳細な記憶は残らないに違いない。そして残ったところでどうもしない。
「ふたりきりには……なりたいです」
 今まで無邪気なばかりだった声音の中に、ゆらりと欲の色が混じる。それには気づかないふりで、スバルはうなずいて彼女の肩を叩いた。
「じゃあ帰ろう。立てる?」
「だっこ」
「……カグヤさん?」
「だっこしてくれるならかえります」
「……。そっかあー」
 おんぶではだめか、と提案してみたところでへそを曲げられるだけのような気がする。
 彼は苦笑して、カグヤの身体を横抱きに抱き上げた。途中からほとんど飲まなかったおかげで酔いはだいぶ醒めてきている。ゆっくり歩けば落としてしまうようなへまもしないだろう。
 しかしこれでは明日が思いやられる。スバルの密かな策略はこれ以上ないほどに達成されたが、反面彼女のほうは恥ずかしすぎて明朝布団から出てこられないのではないだろうか。羞恥に悶えて蓑虫のように丸まるであろう妻の姿が容易に想像できる。でももう仕方がない。一度よいしょ、と肩を揺すり上げれば心得たもので、抱きやすいように首に腕を回してきた。
 右隣に座っていたクラマが立ち上がる。
「ここの竜神社に戻るんだろう。送っていこう」
「えっ大丈夫ですよ? そこまで手間をかけさせるわけには……」
「あのな……お前だってそれなりに飲んでいただろう。カグヤが歩ける状態ならまだしも、それだぞ」
 秋の神はついと顎をしゃくった。まあ彼女の場合、歩けないというよりは歩きたくない、のほうが大きいのだろうが。
「酔っ払い二人だけで行かせてどこぞで倒れただの転んだだの、後から報告が来るほうが手間だ」
「う。それはそうかも」
「オイラもいるけどな〜」
 ふよん、と中空で宙返りした白竜の化身を見やり、クラマは肩をすくめた。
「お前の場合、小さすぎるか大きすぎる。介抱の役には立たん」
「そりゃそうなんだけどよぅ」
「わたし知ってます!」
 スバルの肩口に猫のように懐いていたカグヤが、ぱっと顔を上げた。
「こういうの、おくりおおかみっていうんです!」
「違う」
 智神は酔っ払いに対しても容赦がない。失礼な横槍を、一言ですぱっと切って捨てた。ただそこで特に腹を立てることもないのがさすが子ども慣れした神様だ。
「スバルはあげませんよ!」
「取らんから安心しろ」
「つーか、送り狼って単語は知ってるんだな、そいつ」
「誰かが教えたんじゃないですか? ほら、さっきまで女性陣だけで固まってましたし」
「あー、新しく覚えた言葉を使いたくて仕方ないってやつか? ガキか」
「か、カイさん……」
 カイとフブキは声を潜めているつもりらしいのだが、そこは彼らも酔っ払い同士。声量を落とすことができておらず丸聞こえだ。クラマは眼鏡の奥の目を皮肉げに細めた。
「送り狼というならカグヤ、むしろお前がそうなる気満々じゃないのか? ……夫婦だからかまわないんだが」
「わたしはいいんです! かわいいので!」
「……。あーそうだな、かわいいかわいい」
 さっきまで喋りもせずにふにゃふにゃとひたすら芋やらみかんやら貪っていた人物とは思えない。打てば響く勢いでぽんぽん言葉を発するカグヤに、クラマが棒読みで相槌を返す。そうしてからスバルに心持ち体を寄せてきた。つまりはカグヤとの距離も近くなるわけで、結局筒抜けなのだが、内緒話のように口の横に手のひらをたてる。
「おい……スバル。大丈夫かお前の嫁。支離滅裂だぞ」
「……まあ酔っぱらってますしねえ……」
「わたしはスバルのかわいいおくさんなのでいいんです! あとよっぱらってません!」
「あ、一応繋がってたんだね? うん、どう見ても酔っぱらってるから」
 抱き上げた身体をゆらゆら揺らしてみても、眠そうにするなどということはなかった。いっそ眠り込んでくれたほうが楽な気がするが、あくまで元気いっぱいである。対抗する相手もいまいに、「スバルはあげませんー」とかなんとか言いながら首をぎゅうぎゅう絞めてくる。だから苦しいってば。
「ご安心くださいカグヤ様。わたくしもご一緒しますわ〜」
 それまで手酌でひたすら鬼殺しをあおっていたうららかが手を振った。
 立ち上がり、しっかりした足取りで寄ってくる。女神はスバルの肩に貼りつくように添えられていたカグヤの手をやさしく取って、撫でた。撫でた後、何事もなかったかのようにまた元の場所に戻す。首が締まる力がだいぶ弱まった、ありがたい。
「社の入り口までちゃんとお送りいたします。クラマさんのことはわたくしが見張っておりますから心配いりませんわ」
「いやだから、見張られる筋合い自体ないんだが」
「こころづよいですうららかさん! よろしくおねがいいたします」
「この扱いの差はなんなんだ……?」
 クラマの微妙な嘆きは誰にも拾われることなく、風にさらわれていった。






 共に飲み交わした面々と店主に辞去の挨拶をして、なぜか控えめな口笛を背に帰途に就いた。
 途中飽きたのかカグヤがじたばたしだしたり(自分で歩くの? と問うたらおとなしくなった)、すれ違う人たちにぎょっと二度見されたりはしたが、一行はなんとか何事もなく秋の里の竜神社までたどり着いた。
 石段は特に慎重に。とはいえ神が二柱、すぐ後ろについて万が一に備えてくれていたから不安はなかった。抱えた彼女もさすがに階を昇る間は暴れはしなかった。どころかうんともすんとも言わなかった。
 社近くまできてようやく少し緊張が抜ける。ふよふよと先導するモコロンが中まで入っていって、灯りを点して戻ってきた。
「火だけは入れといてやったぞ」
「ありがとうモコロン、助かるよ」
「いいってことよ〜、そんじゃクラマ! オイラ今夜はお前のところで世話になるからな!」
「まあ仕方ないか。宿代代わりと言ってはなんだが、最低一局は相手してもらうぞ」
「え、ここで寝ないの?」
「「……」」
 スバルとしては当然の疑問を口にしたに過ぎなかったのに、なぜかクラマとモコロンは示し合わせたように憐れむ視線を向けてくる。
「お前は、善良だな……」
「まあそうじゃなきゃ神と仲良くやれるとも思わないけどな〜」
「なんですかその言いぐさ……褒められてる気がしな、ぐえっ、ちょ、カグヤ締まってる締まってる」
 カグヤは女性だが、腕力もそれなりにある。全力でしがみつかれればそれはそれで苦しい。うららかは今度は助け舟を出してくれなかった。あらあらうふふふとほわほわしながら手のひらをほっぺたに当てて微笑んでいる。
「……とりあえず、結界を張っておいてやる」
「え、あの?」
 クラマが袖を一振りする。ふっと風の流れが変わった。目に見えない空気の流れだが、ルーンを読み解くことのできる彼には当然どんなふうになっているのかはわかる。
 今スバルとカグヤ、それから三柱の神々の間に明確な壁が生じさせられていた。それは竜神社の社とその周囲をまるく包み込んで、天まで柱のようにそびえたっている。見えはしないが。
 さすがは秋の神、彼を祀る里でこのくらいの風を操るのは造作もないのだろう。感心するのとは裏腹に意味はわからない。そもそもいつも休むときに結界など張っていないのだ。社の木戸くらいは閉めるけれど、かつてならともかく今のアズマで神域で狼藉を働こうなどというものはそうそういないことだし。
「確かにオレも酔っ払いではありますけど、結界が必要なほどとは……」
「ああ心配するな、念のためだ。それに“出られない結界”じゃない。お前たちふたりともが外に出れば消滅するぞ、単に外から入れないだけだ」
「余計に意味わかりませんけど……」
「あらあらまあまあうふふふふ!!」
「えっ今度は何!?」
 普段あまり大声を出さないうららかがいきなり叫びだしたものだから、スバルはびっくりして肩を跳ねさせた。「ふあ?」と彼の首にぎゅうぎゅう圧をかけたまま寝入りかけていたらしいカグヤも目を覚ます。
 春の女神ははっと口に手を当てて、楚々と微笑んだ。……表情こそきよらかだが、その頬は酒精というより興奮で赤らんでいるようだ。え、何か楽しくなるような要素があっただろうか。たおやかな指がふわふわと宙を押すのは、結界の仕上がりを確かめているかのよう。
「ではわたくしは、楽の神として。音を遮断する力を加えさせていただきます」
「はい?」
「ああ、それも必要だな。頼んだ、うららか」
「おまかせください〜」
 クラマの紡いだ透き通った緑のルーンに、うららかの薄紅色が華を添える。ルーンの色自体はそれこそ花と葉のようで綺麗だけれども、この神様たちはいったいなにを期待しているのか。モコロンも相変わらずなまあたたかい目を向けてくるばかりで何も言わないし。
 目を白黒させている間に気は済んだらしい。二柱はやり遂げたと言わんばかりの満足げな表情でうなずいた。
「あの、うららかさん、クラマさん?」
「ああ申し訳ありませんスバル様。わたくしたちの声は聞こえましょうが、あなた様の声はわたくしたちには聞こえないのです。結界の効果ですわね〜」
「まあどうするかはお前たちの自由だ。簡潔に言わせてもらうと、リア充爆発しろ」
「りあ……? ば、ばくはつ?」
「ただし爆散はしてくれるなよ」
「違いがわかりませんけど……!?」
 ああそうだ、何を言ったって声は伝わらないのだった。そうこうしているうちに神々は踵を返して帰ろうとする。視線がまだこちらに残っているうちにとなんとかぺこりと頭を下げた。モコロンはちいさな手を振り、クラマはやさしげに目を細めた。うららかはスバルに微笑んでみせた後、わざわざ首を動かしてカグヤにも何か目配せをした。ふにゃ、と耳元で挨拶のような返事のような何かが聞こえる。
 もう一度寝入っては――いない。人目がなくなったからか、さらに首元にすりすりと鼻先を擦りつけてくるのだからくすぐったい。
 まあ、ふたりきりになってしまえば恥ずかしいも何もないのだ。したいようにさせておけばいいだろうと、スバルはカグヤを抱えたまま社の裏庭へ回った。
 階に座らせようとしたら、意外に抵抗はなかった。自分の草履を脱ぐ。まずは足を軽く拭き清めてからぺたぺたと歩いて行って表側の木戸を閉めた。たすき掛けして、盥に水を満たして戻れば、いちおう彼が何をしようとしているのかは察していたらしい。静かに腰掛けたまま、裸足をぷらぷらと宙に遊ばせている。草履は少し離れた場所にすっ飛んでいる。あんなふうに履物を飛ばすなんて、それこそ子どもの頃に天気占いで遊んだ以来ではないだろうか。
「カグヤ、これで足洗って……あ、はい。オレがさせていただきます」
 今度はのったりと姿勢を崩して階に懐き始めた。自分は指一本動かす気はないぞという強固な意思表示のもと、こちらは肩を落とすしかない。
「足さわるよ?」
 細い足首に、ちいさな指。ちまっとかわいらしい爪が規則正しく並んでいる。いつものように脚絆に覆われていれば土埃が付着することはないが、今夜は浴衣で草履だったのだ。どれだけおとなしやかに歩いたところで砂だの草の切れっぱしだのがくっついてしまう。場合によっては爪に小石も入り込む。
 きちんと整備されているとはいえ竹林にも分け入ったことだし、小傷くらいはできてしまっているかもしれない。カグヤを寝かせた後に自分の足も改めて見ておいたほうがいいなあと思いながら、スバルはちいさな足指の間に手の親指を突っ込んだ。擦る。
「あんっ」
「……」
 何かこう、状況にそぐわない声を聞いた気がする。ぶわっと首のあたりまで上がってきた熱さをやり過ごした後、彼は何事もなかったかのように作業を再開した。そう、これは作業だ。というかお世話だ。酔っ払い、すなわち病人のようなもの。心頭滅却。
「ひゃぅ……」
「……カグヤ。くすぐったいなら自分でやる?」
 半眼で見上げた先には、うっすら頬を染めたカグヤが笑っていた。声は何かを想起させそうな色を含んでいるのに、表情はまるで幼子だ。一度は微睡みかけていたところを戻ってきてしまったせいか、どうにも夢と現の間でふわふわしているような。
 にこにこ笑顔で首を傾げてみせる。
「聞こえませーんって? まったくもう」
 こうなったらくすぐったがって暴れようが腹を抱えて笑いだそうが、とことんまできれいに洗ってやる。やけくそ気味に決意して紅い浴衣の裾をめくる。すらりとした脛があらわになったが、初めて見るものでもないのだし。意趣返しにつつと筋に沿って指先を這わせてやれば、彼女はぴくんと膝を震わせた。
「スバルのすけべ」
「助平はやめて……」
 足を洗っているだけだ、疚しいことなどなにもない。それでも助平呼ばわりはちょっとばかり嫌だった。
「スバルのえっち」
「えっちってなに?」
 左足はとりあえず終わった。今度は右足。洗い終わったほうの足先も盥から出さずに、カグヤはちゃぷちゃぷと水面を波立たせて遊んでいる。
「西のことばで、やらしいこととか、やらしいひとのことです。じょしかいでひなさんに教えてもらいました!」
「……そっかー……って結局助平と変わんないよねそれ!?」
 語感はなんとなくかわいらしい気はするが、それだけ。カグヤが友人たちと交友を深めるのはいいのだ。しかし女子会、いったい何を議題にしているものやら。女三人寄れば姦しいとは言う。いや男も三人寄ればやかましい。そして楽しい。きっと彼女たちはスバルが想像する以上にたくさんの話題に花を咲かせていて、それは彼がカグヤに与えることのできない類の幸せだ。だから口出しする気は毛頭ないのだけれども。
 でもなんか変なことばっかり教わってそうなんだよなあ……送り狼とかさ。いや女の子には必要な警戒心? 教訓ってやつかもしれないけど。
 内心でため息をつきながら、それでもスバルは淡々とカグヤの足を清めた。もう終盤だ。片足ずつ手ぬぐいで拭いて、うんなんかまた変な声が聞こえるけど聞こえない。最後にこれで終わりだなと気を抜いたのが悪かった。
「ひゃっ!」
「あ、ごめん!」
 ぴしゃ、と盥から飛沫が跳ねた。今度の悲鳴は普通だ。予期せぬところが濡れてびっくりしたのだろう。ぱちくりと大きな瞳を瞬かせて硬直するカグヤに慌てて、新しい乾いた手ぬぐいをひっつかむ。膝を拭き、浴衣の上からお腹を拭き。顎にまで飛んでしまっている、首筋と、それから。
 勢いのまますべて拭おうとしていた彼だったが、途中で我に返った。のろのろと視線を逸らし、カグヤに布を差し出した。
「はい、これ使って」
「えー、やです! スバルがこぼしたんですから、スバルがふいてください」
「胸ですけど!?」
「? いつもいっぱいさわってますよね?」
 それは、そうですが!
 さすがに状況が違う。かといって酔っ払いには理屈が通じないというのは重々承知している。加減がわからなくなっているのか、必要以上に襟元を緩めようとしたのを制して、仕方なく動いた。
 柔肌を傷つけないように拭い、それから布同士で水分を移動させるように乾いた部分を濡れたところに押し当てる。極力触らないようにしてもふにょふにょとした感触は伝わってきてしまう。
「んぅ……」
 だから、その誘うような声を出さないでほしいのに。
「もー……あんまり挑発すると、ほんとに襲うよ?」
「きゃーっ! たべられちゃいますー!」
「うん、危機感まったくないねえ……!」
 いや危機感を抱かれても困るのだが。カグヤは脚をひかえめにぱたぱたさせて笑い転げている。笑い上戸か。むしろ絡み酒か? 標的は主にスバルに絞られているようなので、被害を拡大させないことだけは救いだ。今後は嗜む程度ならともかく、深酒はさせないほうがいい。そうしよう。ひそかに心に誓う。
「はあ……なんかめちゃくちゃ疲れた……」
 ぼやきながら手ぬぐいを絞り、盥の水を捨てる。それでもなんとか終わってくれた。済ませておきたいことはもういくつかあるのだが、カグヤを寝かしつけてからのほうが進みがいいだろうことは明らかだ。明日は休みだしなー、少しくらい夜更かししても大丈夫かーなどと暢気に考えながら、空の盥を持って立ち上がったところで。
 くん、と袖を引かれてつんのめった。
「カグヤ?」
「……襲ってくれないんですか?」
 髪の中に飛んだ雫を拭いそびれていたらしい。水滴がつるりと首筋を滑り、ふくらみが形づくる谷間の間に流れていった。
 我知らず、ごくりと喉を鳴らす。
「何言って」
 唾液があふれてきて、けれど喉が渇く。緩められた襟元からのぞくなだらかな曲線が、月明かりに照らされて白く輝いた。
 濡れた瞳がゆらゆら揺れている。何かを乞うようにうっすら開かれた唇の間から、真珠のような歯がのぞいている。
 くん、とまた引かれた。
「あなたは、ふたりきりになりたいって、いいました。わたしも、まってました。絵馬かけのところで口づけしてから、今日ずっと、」
 スバルは袖を引く腕をつかんで、カグヤを強く引き寄せた。
 すっぽりと胸の中におさまる躰を掻き抱き、噛みつくように唇を重ねる。招かれるのを待たず舌をねじ込み、探り当てて、絡めて吸い上げる。
「んっ……ん、っふ」
「っカグヤ」
「あ、ふぁっ! ん、ん、う、んむ……っ」
 激しく求める彼に、彼女は戸惑った風もなく応えた。ようやく合点がいって、スバルは肚の底で唸った。
 ずっと、誘われていたのか。
 腕をぎゅうぎゅう抱き込んできたのも、指を食べられそうになったのも。抱っこをせがんできたのも、足を自分でするのでなくわざわざ彼に洗わせたことも。
 それらの行動は酔っているからしたものではなかったのだろう。すべて自覚的だ。酒精は背を押すために使われたにすぎない。それをスバルは、前後不覚に陥って子どもがえりしたのだろうと解釈していた。酔っ払いに手を出すのは褒められたものではないという意識も手伝って、カグヤの見せた誘惑から半ば意図的に目をそらしていた。
 気づいてみればこんなにも、欲しがってもらえていたのに。
 同時に社の前で見送った神々の言動の意味も理解した。いろいろとお見通しだったのだ。こうなることを予期して、わざわざお膳立てしてくれた。余計なお世話と言えなくもないが、要領を得ない彼の受け答えに内心さぞ呆れていたに違いない。
「ほんとに、襲うからな……」
 絞り出す声が低い。聞きようによっては恐ろしいだろう。なのにカグヤは嬉しそうに唇を綻ばせて、スバルの首の後ろにふんわり腕を回した。
「……はい。いっぱい愛してください、スバル」
「カグヤ……っ!」
 寝所に移動する時間も惜しい。縁側に華奢な肢体を押し倒す。帯に手をかけ、緩めてから襟をさらに引っ張った。首筋に舌を這わせ、鎖骨に歯を立ててきつく吸う。くねる腰を撫で上げればばたついた脚で自然と裾が割れた。
 さらに頭を下げてふくらみの間に顔を埋め、下から手でも揉みあげようとし――やけに反応が薄い。
 このあたりまで来れば、カグヤからもまたスバルの肌をまさぐり始めるのが常なのだが。そういえば、いつもなら激しく暴れ狂っている心の臓も穏やかになっていないか。やわらかいところに押し当てた手のひらに伝わる鼓動が、規則正しい。
「カグヤ?」
「すー……すー……」
 カグヤは、寝ていた。
「え……っ、ちょ、ここで寝るか!?」
 思わず叫んだスバルの声も、呼び戻す役にはちっとも立たなかった。安心しきった顔で、しあわせそうに、健やかな寝息をたてている。軽く揺すってみたが、起きそうにない。
「〜っ。カグヤぁ……」
 スバルはがくりと冷たい板床に突っ伏した。
 酔っ払いならまだしも、寝ている相手にはさすがに手出しできない。散々煽っておいて、いざこちらがその気になったらこれとは。臨戦態勢のわが身をどうしてくれようか、どうもできないのだけれども。
「……しょうがないか」
 すでに夜半を過ぎている。もう少し気づくのが早ければ一緒に楽しめたのだろうけれど、時間が遅いうえに酒が入っていては眠気に勝てないのも道理だ。
 いつまでも項垂れているわけにもいかない。秋の里は日中は過ごしやすいが、夜になると途端に冷える。このままでは風邪をひいてしまうし、布団の中にいれておいてやらなくては。
 寝巻の単に着替えさせる精神力は残っていなかった。ひとまず帯を全部ほどき、飾りを外す。襟元をきっちり整えてから腰紐だけ簡単に結びなおした。このまま寝かせてしまおう。浴衣なら多少皺になったところで、後できちんと手入れすれば問題はない。
 意識を失った身体は、帰途よりも重く感じられた。芯が入っていないからかもしれない。ぐんにゃりと重力に従いたがる手足を落とさないように、敷居に躓かないように。慎重に運んで、布団の上にそっとおろす。ふわふわで埋める。
 顔にかかった髪をどけてやれば、花の色の唇がふんにゃりと笑みを形づくった。
「ふにゅ……すばる……すぅ」
「夢の中にもオレがいるの? なら許してあげるよ」
 囁きかけても返事はない。
「その代わり、明日は覚悟しておいて」
 彼はしあわせそうな唇に、触れるだけの口づけを落とした。
--END.
酒の勢いで誘惑するつもりで全力で甘えてみたものの、甘え方のレパートリーがお子ちゃま寄りでさっぱり気づいてもらえなかったカグヤ。
周囲からきょうだい扱いされるのは嫌なものの、妹的な甘え方をされること自体は好きで、相手が酔っぱらってるのもあってドキドキしつつもちいさい頃を思い出してほのぼのしてしまうスバル。
という微妙なすれ違い(笑)
ちなみに周りでふたりを観察している親しい面々にはふたりともの思惑は透けて見えています。…ので、ガッツリお膳立てされてしまうのであった。
翌朝のスバル氏はやりたい放題で結界が解除されるのはー…少なくともお昼以降ですかねえ…中でナニがどう行われているのかはもちろんわからないわけですが、いつ結界が消えたかはうららかさんとクラマさんには伝わってしまうのであった。
神様たち、特に何も言わないけど内心では舞手のお子を待ち望んでて(親戚の子を楽しみにする感覚と、あとは単純に人口増えるの歓迎、的な意味あるだろうねえ地に満ちよ人の子よみたいな)いくらでもいちゃつけばいいのでは、みたいなスタンスでいそうだもんなーとか。
(2025.09.23)