夢を、見る。
ぼんやりとかすんだその光景の、輪郭がはっきり見え始める頃。
彼女はまた、流れる。
流転
「……シェリル? おい、シェリル」
肩を叩く手に、シェリルと呼ばれた女はだるそうに身体を揺らしてそばの男を見上げた。
「…………なに?」
年のころは二十代半ばか。つくりものではないかと思わせるほどの端正な顔立ちに、濡羽玉の黒髪を豊かに波打たせ。白磁の肌の中目立つはずの黒曜石の瞳は霞がかかったように奥底まで見通すことはできない。
美しい、美しい彼女に、けれど声をかけた男は物怖じする様子もなくあっけらかんと部屋の隅を指差してみせた。
「一曲頼むとさ。ロマンチックなやつをー、だと」
見れば小さなテーブルに、恋人同士らしい一組の男女が座っていた。男のほうがこちらに向かって一枚の銀貨を放る。ほの暗いランプの光に、銀色が紅い残光を伴って閃く。
一瞬の後放物線を描いて飛んできたそれを、シェリルは慌てることもなく片手でつかみとった。
ここは酒場。そして、彼女は歌を歌ってその日の食い扶持を稼ぐ歌姫だ。
シェリルは立ち上がり、黒いドレスの裾をさばきながらゆっくりと歩き始めた。この酒場にはステージなどない。竪琴を抱えた楽師が座る椅子の傍ら、そこが歌うときの彼女の指定位置。
雑談がやむ。ゆっくりと視線が集まる。
この場にいるものすべての神経が自分に向けられているのを感じとって、シェリルはちいさく身じろぎした。
……また来た。
見られるのには慣れている、もちろん。注目を集められなければ成り立たない仕事を生業にしているのだから。見られることを恐れているようではその日を生き抜くことすらもままならない。
だが何故なのだろう、いつの頃からか彼女は同じ"視線"を一定期間以上浴びることに厭いを感じるようになっていた。
いつからなのかはわからない。
そも自分が今のような生活をはじめたのがどれくらいの年頃だったのか、何故このような生活をしようと思い立ったのか。今では記憶のかけらすら残っていない、生まれた村で生涯を過ごしてもよかったのかもしれないのに。
自らの歌声が他人のもののように耳から滑り込んでくる。うっとりと聞きほれる人々の表情はいつもと同じ。何ら変わりない。
だが。
歌い終わって席に戻る彼女の後姿を、ささやかな拍手が見送った。先ほど声をかけてきた男――この酒場の主人だ――が、年代ものらしい酒瓶とグラスを持って自分の向かいの席を指した。
ここに、座れということらしい。
受け取ったグラスから薫る酒の芳香を嗅ぎながら、シェリルはグラスの足を指先で挟んでくるくると弄んだ。
回るグラスの中で琥珀色の液体がきらきらと光を反射して輝く。そのさまをぼんやり眺めながら、彼女はぽつりとつぶやいた。
「……ねえ」
「ん?」
同じようにグラスを回していた男が顔を上げる。物静かに見えてなかなか人懐こいこの男は、得体の知れない流れ者のシェリルを屈託なく受け入れ、仕事場と寝床まで提供してくれた。
金も地位もない、身ひとつで旅暮らしを続けてきた彼女は、いわれのない悪意や偏見に苦しめられることもあった。だからこの居心地のいい場所を離れてしまうのは少し、少し名残惜しい気はするのだけれど。
「あたしそろそろ……また流れようかと思うの」
「……そうか」
この酒場に落ち着いて二ヶ月、客はようやくシェリルの顔を覚えて気軽に声をかけてくれるようになったところだった。稼ぎも上々、彼女の美貌目当ての客も増えつつある。今彼女が消えれば、多少なりとも酒場の売上げが落ちてしまうことは明白だ。
けれど彼は、引き止めるようなことは口にはしなかった。ただ静かにうなずいた。
シェリルは低くのどを鳴らして笑った。そして、おもむろに立ち上がり入り口に向かって歩き始めた。
客たちはまさか彼女が出て行くとは思っていないのだろう、気にも止めずに思い思いにくつろいでいる。
「またな」
去り際にかけられた言葉の心地よさとその孕む矛盾に、何故か安堵感を覚えた。
夢を、見るのだ。
傍らには二人の男。
言葉を交わすたび、視線を交わすたびに胸の中に芽生えるのは無上の信頼だけで。
それだけならいいのだけれど。
それだけなら、どんなにかいいだろうと思うのだけれど。
目の前に広がる地獄絵図。
自らの唇が刻むのは笑みの形、自らの唇から発されるのは甲高い哄笑。
逃げ惑う人々を遥か天空の彼方から見下ろし、地の底から見上げる。
やがて光が訪れ。
ぼんやりとした夢の輪郭が、ここまではっきり見えるまでになってしまったのは初めてのことだった。
あの夢は彼女がひとつところにとどまろうとすると決まって訪れる。
「……長居、しすぎたわね」
居心地が良かったから。
薄暗い、光になど縁のないような場所だったけれど、確かに自分はあそこに春の日溜りを見出していた。
旅に理由などないのだ。ただあの夢を見たくないがために流れているだけのことで。
シェリルはぶるんとひとつ肩を震わせると、ショールの前を掻き合わせて濃い暗闇を見据えた。
と、きらりと何かが目の端をかすめる。彼女はおもわず淡い笑みを浮かべてその光に唇を寄せた。
左手の薬指にはめられたダイアモンドの指輪。
どこで手に入れたのかなど知らない。
だが、この美しいが何の変哲もない指輪は、ある意味彼女にとってのただ一筋の光明だった。
まさか自分ひとりの力でこのような高価なものを手に入れられるはずはない。
となればきっとこれは、誰か自分を案ずる人が持たせてくれたものなのかもしれない。
この広い世界のどこかで、今彼女のことを考え、心配している存在があるかもしれない。
そう思えることは心地よかった。
だから、これはお守りだ。
祈りの拠り所。
つぶやきは声にならないままひそやかに夜の空気を揺らす。
どうかあたしを、守ってください。
あの夢の女はあたしじゃない。
あんな男たちだって知らない。
あの罪は、あたしの罪ではない。
はず、なのに。
夢は知らぬはずの記憶をもって彼女を責めたてる。
安息が得られるのはいつなのか。
旅の終わりは見えない。
夢に追われて、彼女は流れつづける。
--END.
|| INDEX ||
あとがき。
ロマンシング サ・ガの「謎の女」、シェリルのお話でした〜。
知らない人もいるかと思うので(読んでるかどうかはわからないけど)説明すると、
この「シェリル」はもとは「シェラハ」という名の女神です。
ただし邪神。
同じく邪神である二柱の兄とともに遠い過去に世界を滅ぼしかけ、光の神エロールによって記憶を封じられ、神の力がこもった特別な宝石「デステニィストーン」のひとつ、「光のダイヤモンド」を指にはめて世界を放浪しています。
SFC版では彼女に話しかけることはできないんですねー、酒場のカウンターの中にいるから。
ミンストレルソングではイベント追加されてましたな。この話とは違って、自分の苦しみから逃れるためだけではなく他人を不幸にしたくないという理由も付け加わって。
自分がシェラハだってことも知ってたんだっけ?(思い出したんだっけ?)
この話の中では、シェリルはあくまで普通の人間の女なわけです。
過去の事実を夢に見て、罪悪感に苦しむ普通の人間。
そして自分の力と本性を封じた神に、そうと知らずに救いを求めている。
拠りどころとしている指輪も、その神の力が宿っていて、おそらく記憶と力を封じる鍵にもなっているのでしょうけども…
まあ、なんていうか。
「何が書きたかったんだ」って聞かれたら「これだ」としか答えられないくらい曖昧ですがー(笑)。
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