しばらくは忘れていたのだ。
 多分、本当に。
 思い出したのは、親書に名を借りた招待状を受け取ったとき。



誓約





「サイードったら! 本当にずっとここに立っていたの?」
 記憶と寸分も違わない、元気な元気な異母妹の声が聞こえて、彼はゆっくりと振り返った。
 儀式はとうにすんだはずだが、そこここに点された松明の光を受けてきらめく“青い水<マー・アズラク>”は、未だかすかに揺れている。
 サイードは、大晦の朝と比べれば目に見えて上がった水面を不思議な気持ちで眺めた。
「……本当に増えるんだな。しかもこれを、おまえたちがやったって?」
「なによ、まだ疑ってるの? これの前なんかもっとすごかったんだから」
 少女は口を尖らせた。そう、まだ少女のままだ。この妹が、サルジュが、数日後にはジャウザーの次代を担うものとしてアルセス・サディマールの正妃になる。
 確かにいつかは来ることだと思っていた。というよりも、収まるべきところに収まったのだという安堵感さえある。意思もなにも省みず、ただ政略の駒として外つ国に嫁ぐはずだった娘。カダ・シエナへの輿入れ直前、痛々しいほどに割り切って開き直っていた姿を思えば、むしろ喜ばしいことでもある。サイード自身もあの王子のことが気に入っているし、サルジュは虚勢を張ることすら思い浮かばない風情で、なんら無理をしていないように見える。
 唇に軽く笑みを刷いて妹を見つめると、「何?」とでも言いたげに彼女は首をかしげた。一拍置いて、せわしげな足音が近づいてくる。
「サルジュ! ああ、やっとみつけた」
「アルセス」
 水を呼ぶ儀式はジャウザーの権威を守るためのみならず、沙原の命をつなぐためのものでもある。普段より多少華美な印象の衣装をまとったアルセスが、息を弾ませて近寄ってきた。
「ああ、サイードも。まさか本当にここにいたなんて」
「……まったく同じ台詞を聞くとはな」
 ぼそりとつぶやくと、きょとんとした瞳が返ってきた。それも、二対なのだからなんともはや。
「いや、なんでもない。聞いた話ではこの前の儀式がすさまじかったそうだから、今度はどうなのかと思っていたのだが……やはり穏やかだったな」
 当たり前でしょ、とサルジュが息をつく。アルセスは曖昧に微笑んで肩をすくめた。
「わたしはこの後用があるから、すぐ城に戻らなければならないけれど……二人はどうする? 少し寒いけれど、ここにいますか?」
「えーっと、私は」
「ここにいる。サルジュと話がしたい」
 妹の驚いたような視線を横顔に感じながら、サイードはアルセスをまっすぐにみつめた。渋るかと思ったのに、彼は思案することもなく素直にこくりとうなずいた。
「わかった。今夜は大晦だから宮城の門は夜通し開いているけど、あまり遅くならないで」
「……いいのか? 大事なアフドの巫女をこのようなところにほうっていって」
「……? だって、あなたが守るのでしょう? わたしが連れて行ってしまっていいなら、そうするけど」
 さも当然のように言われて鼻白む。両手をあげて降参の意を示すと、アルセスはにこりと微笑んで踵を返した。






「で、話したいことって何?」
 もうここ三日くらいずーっとしゃべり詰めだったような気がするんだけど。
 やはり少し寒いのだろう、サルジュは巫女のヴェールをかきあわせるようにして異母兄を見あげた。
 サナンで執務を行う領主の代理として、サイードがジャウザーの婚儀に出席するため訪れたのが三日前。ほぼ一年ぶりとなる再会にアルセスは気を利かせて祭祀以外のほとんどの時間をともにすごせるよう取り計らってくれた。
 夜通し語り合えばさすがに充分だ。あらためて話すほどのことがあるとは、彼女にはどうも思えないらしい。
「仮定の話になるんだがな」
「ええ」
「もし今、……そうだな、たとえばカダ・シエナの連中に拉致されたら、おまえはどうする?」
「は?」
 ぽかんと、サルジュが口を開ける。いや、もちろん顔の下半分はヴェールに隠れて見えないのだが、そういう気配がした。
「サイード……それはさすがにありえないわよ。現実問題として無理だわ」
「だから仮定だと言っている」
「ああ、そう……」
 サイードはそれきり黙りこんだ。大きな瞳が下から彼を見上げる。少女はばさりと衣装の裾をさばいて、湖水のほとりにしゃがみこんだ。
「そりゃあ……なんとかして帰ってくるしかないわよね。じゃなきゃアルセス泣いちゃうし」
「……泣くのか」
「ああ、いや、まあさすがに泣いたりはしないかもしれないけどっ」
 声がうわずっている。彼女はそれなりに演技が上手いほうだと思っていたのだが、どっこい心の準備ができていなければそうそう取り繕えるものでもなかったらしい。サルジュは目の前の水面に片手をつっこんでばしゃばしゃと音をさせた。
「だいたい……私がいなくなったら、水が呼べなくなっちゃうじゃないの。後継ぎも作らなきゃいけないし、うん、そうよ、這ってでも帰ってこなくちゃいけないんだわ」
「アルセスが悲しむからな」
「だからそれは……っ! なによもう、からかいたかっただけなの?」
 真っ赤になってにらまれて、彼はこみあげてくる笑いを抑えることができなくなった。追いかけてくる拳をかわしながら手を振る。

「いや、幸せそうでなによりだと思っただけだ」

 直後夜空に響いた意味不明の絶叫――罵り言葉だったらしい――に耳をふさいで、ここが居住地から離れていて幸いだったとサイードは考えた。
 結局のところ、興奮する異母妹をなだめすかして宮城に帰ることができたのは、夜明けも近いころのこと。






 彼が彼に、あのとき誓ったことは。
 無事に果たされ、続いているらしい。
 きっと、これからも。







--END.



|| INDEX ||


あとがきというか。
アルセスの甘ちゃん具合が大好きなんですよ。
そんで結局彼にほだされちゃう周りもいい感じなわけですよ(笑)
サルジュ可愛いよなーめっちゃくちゃ可愛いよなー。
アルセスは、サルジュの容姿もさることながらむしろ気の強すぎるところに惚れたんではなかろか。

(初出:2004.07.20 改稿:2005.10.04)