戦場へ
 地鳴りが迫ってくる。
 どれくらいの数が、と見当をつけるのも億劫になるほどだった。
 見晴らしは良い。硬く乾いた土に、まばらに草が生えている。
 そのわずかな緑を塗りつぶすように迫ってくる色は馬の茶と黒と、鎧の鈍色。それから赤。
 遠目にもはっきりわかる、血をまとわりつかせた得物を手に、狂ったように集団が駆けてくる。
 彼は大刀の柄をしっかりと握りしめた。もう猶予はない。
「姫さん」
 反論されるのはわかっている。それでもなんとかして言うことを訊かせなければならない。
 目は前に据えたまま続ける。声を低く低く押し殺して、威圧さえ込めた。
「ユンとゼノと死にかけのバカ共と一緒に逃げろ。ここは俺が何とかする」
「……! いくらハクでも、ここを一人でなんて」
 続く台詞など想像できていたのだろうに、二人そろって息を飲む気配がする。案の定素直に承諾はしてくれなくて内心舌打ちする。
 押し問答をする時間も惜しい。こうしている間にも距離はどんどん詰まっている。話せば話すだけ、時間を使うだけその分彼らは近づいてくる。大地に溶け込む色の装束をまとった小柄な娘と少年だ、先頭の数騎はともかく後続からはまだ気づかれてもいないだろう。今のうちに身を隠してくれればまだ間に合う。
 迫るあの群れは、最早人としての良識など失くしかけているに違いなかった。
 普段は家族を愛し友人を愛し、目の前にいる見知らぬ人間にさえ情けをかけられるのかもしれない。出会ったのが今、ここでさえなければ、命の取り合いなどせずに済んだのかもしれない。
 すべては仮定だ。現実は容赦なく、着実に襲い来る。彼はかすかにかぶりを振って哀愁めいた想いを振り払った。
 野盗の類ならばともかく、軍隊との戦いなどそれこそ片手の指で足りる程度しか経験したことはない。だが彼は五感すべてで戦場の空気を感じ取っていた。獣のような息遣いが聞こえてくる。血走った目に映る、動くものことごとくを蹂躙して然るべきだと、膨れ上がった殺意が押し寄せてくる。他人にとっていかに理不尽であろうとも、悲しみに裏打ちされ暴走した感情は視界をも覆い隠すものだ。今の彼らは、自分たちの正当性を微塵も疑っていない。
 あんな状態の男たちに捕まれば、主や仲間たちがどのように扱われるかなど火を見るより明らかだった。それだけは絶対に阻止しなければならない。
 少しの間だけでも関わった村だって、できるなら守ってやりたいと思う。
 ここは見晴らしのいい平地、騎馬戦に向いた地形だ。何の備えもなくその足止めをするなら中心に飛び込んで行って注意を引いて、暴れまわらなければならない。無視できない存在がいると、何が何でも排除すべきだと認識させなければならない。思いきり戦わなければならない。顧みるものは少なければ少ないほどいい。
 そのためには、中途半端な力など邪魔だ。
 主はまだ引き下がらない。必死に声を張って、自分も戦えると主張する。けれど結論は変わらない。切り捨てるだけだ。
「足手纏いです、早く行って」
 ひゅっと短く風を切る音が聞こえた。一瞬呼吸を止めたのだろう。知り合ったばかりの少年が気遣わしげに二人を見比べている視線を感じる。主が傷ついた顔をしたのは見なくてもわかった。傷つけてもかまわないと思って放った言葉だ、べつにいい。
 その気持ちに嘘はなかったのに。漏れ出したちいさな嗚咽に、彼は振り返らざるを得なかった。
「……泣かんで下さい」
 にじみ出る涙をごまかしきれずに拭う。擦った場所があっという間に赤くなる。その仕種は乱暴で、自棄になっているようにも見えた。
 もともと感情表現は豊かな少女だったのだ。笑うのも、もちろん怒るのも躊躇はなかった。その出自故に誇り高いところがあって、それから大切に育てられていたこともあって、幼いころにその涙を見た記憶はほとんどない。そもそも泣くのを慰めるのは彼女の従兄の役目であって己のものではなかった。彼の役目はあくまで奮い立たせることだった。皮肉ってその負けん気を刺激して、そうして元気にさせる。
 きっとあのころ、本当の意味で対等に口喧嘩ができたのは幼馴染の三人だけだった。周囲の大人たちはそれを理解していて、無礼な言動について折檻――ほぼ祖父からのもののみだったが――することはあっても、決して三人を引き離そうとはしなかった。そうして何年も一緒にいるうちに、自然と役割分担は決まって行った。
 泣き顔は主にあの男のものだった。けれど、勇ましくきらきらと瞳を燃やして睨んでくる、あの顔は己だけのものだったのだ。それが腹立たしく同時に嬉しくて、とかくからかうのだけは上達してしまったきらいがあるが。慰め役なんてそれこそ柄ではなかったのに。
 それが、今は。
「ハクの言葉くらいで泣かないわよ」
 強がりのつもりだろうが、その台詞では認めているも同然だった。他ならぬ彼の言葉で泣いているのだと。
 あの夜を境にすべてが変わった。
 主が真の意味で頼れる相手は彼のみになり、あらゆる表情を手に入れられるようになってしまった。旅の仲間が増えてもその点は結局変わらなかった。皆にも多彩な顔を見せる、けれどきっと彼女が一番に身も心も無防備になるのは彼の前でだ。過去どこか上滑りしていたいくつかの言葉が、深い部分に届くようになった、なってしまった歓喜と悲哀。輝かしいものだけではない、ほの昏さも含んだ輪郭の見えない何か。
 状況は正直なところ絶望的だ。進んで命を捨てる気は毛頭ないが、皆が逃げる時間を稼げるのならどんなことでもしてやろうと思うくらいには覚悟は決まっている。それが見えてしまっているのだろう、いや、彼自身の内心までは読めていないかもしれないが、今気楽に彼を信じられるというのならそれは余程の阿呆だ。
 すがるような瞳の中に、不安と焦燥と、それから無力への憤りを見つけた。歯を食いしばっても一度溢れたものは止まらない。お願い、と声もなく紅い唇が動く。

 もらっても、いいだろう。

 唐突に脳裏に閃いた欲求に突き動かされるまま、彼は主の両頬に手を添えた。
 そのまま顔を近づけて、目尻ぎりぎりに口づける。啜った涙は予想通りの味、人の涙の味くらい知っている。誰も同じだ。少し塩辛くて、かすかに苦い。いろいろなものが溶け込んで、海水に似た複雑な味。同じだ。
「すみません」
 かつてした約束を破ったことへの謝罪だったのか単に驚かせたことへの断りだったのか、自分でもよくわからなかった。大きな瞳を真ん丸に見開いて、主は彼を見上げている。さっきまであったちらつくような炎は消えて、ただ無垢に潤んだ目。
 噛みつきたい。貪りたい。ぜんぶほしい。喉のあたりまでせりあがる熱いものを、苦労して飲み下す。
「今だけ。許して下さい」
 彼が流させた涙に違いないのだから、これだけはもらったとてかまわなかっただろう。塩辛くて苦い、誰も同じ。けれど自分にとっては甘露のようなその一滴を、ただ黙って零れていくのを見守るだけなどと、そんなことができるはずがなかった。欲しかったのだ。ただ、欲しかった。
 彼女の表情が変わる前にさっと離れる。どう変わるのかなど見たくはない。元気元気、とつぶやいてみせれば背後で狼狽したような声はあがったが、振り返らずに。というよりは振り返れなかった。
 どんな反応をされるにせよ、そんな場合ではないのに欲に走ってしまいそうになるからだ。もっとも自分も彼女も馬鹿ではない。だから振り返らず、もちろん縋ってくることもなく。
 ただし、びっくりさせたのは却って良かったらしい。狙いどおり最低限の冷静さは取り戻してくれたようで、少年の存在を改めて指摘し、鋭く指示を飛ばせば今度は躊躇しなかった。足音が遠ざかっていくのに胸をなでおろす。たぶんぎりぎり間に合った。
「……さて」
 状況は正直なところ絶望的だ。進んで命を捨てる気は毛頭ないが、皆が逃げる時間を稼げるのならどんなことでもしてやろうと思うくらいには覚悟は決まっている。
 今の主には彼ひとりではない。だからこんな、ある種無茶な行動をとることもできるのだ。もし、もしものことがあっても彼らなら大丈夫。任せられる。それがほろ苦く、そして酷く嬉しい。
 彼女の隣に誰がいようとも、己に課した役割は変わらない。この身が動く限り、この身は盾となり剣となり、ただ彼女の道を拓くためだけに。
--END.
17巻のアレ。
書きたかったことはだいたい本文に詰め込めたと思うので特にここに書くことはないです。
とりあえずハクさんはさっさと死亡フラグを叩き割るがいい。
(初出:2015.01.12 / 再掲:2015.05.16)