去年と違う日
「ん」
 目の前ににょっきりと差し出された手。
 その上に載ったちいさな包みを見下ろして、手塚は瞬きをした。
 業務も終了して人影はまばら、場所は独身寮の男女共同ロビー。正面に立っているのは少し前からつきあい始めた恋人、柴崎麻子である。
 まあ男女の交際としての形のつきあいを始めたのは最近だが、友人としては数年をともに過ごしているので気心は知れている。なんだかんだと理由をつけて菓子だの土産だのを渡されるのは日常茶飯事になりかけていたので、おおかたその類だろうとあたりをつける。
 が、どこかに旅行していただろうか。仕事にも出ていたので帰省はしていないだろう。もちろん毎日べったりなどということはないが、“彼女”のスケジュールはおおかた把握している自覚のある手塚は、手を差し出しつつも首をかしげた。
「……どこか行ってきたのか?」
「…………あんたねえ」
 満面の笑みに呆れが混じる。とりあえず引っ込めることはせず、しっかりと包みを彼に渡してしまってから、柴崎は右手の人差し指をぴっと立てた。
「さて問題。今日は何月何日でしょう?」
「二月十四日。……あ」
 言われるまでもない、バレンタインデーだった。あれ、今日だったか? 全然気がつかなかった。
 口には出さなかったが、内心はしっかりと伝わっていたらしい。
「やぁっとわかったか。まああんたのことだから、バレンタインなんて毎年女子がきゃあきゃあ言いながら集団でチョコ持ってくるのに遭遇して、それでやっと“ああ今日はバレンタインか”なーんて思い出したりしてたんでしょ。んで今年はこの時間まで誰にも渡されなかったもんだから、綺麗さっぱり忘れてたわけだ」
「いや、そういうわけじゃ…………ええと」
 ほぼ当たりである。困って視線を泳がせるも、柴崎の追求は緩まない。腹を立てている風ではないがなにしろ早口でぽんぽんぽんぽん言葉が飛び出してくるものだから、聞き取るだけでも大変だ。
 まあそういう情趣に欠けてるとこがあるのはもとから知ってたし、今更気にしやしないわよ。だけどいくらなんでもどこか行ってきたのかはないんじゃないの、周りの雰囲気とか包みの大きさとか色とかで瞬時に判断して話合わせて受けとるくらいの芸当はしなさいよ、ほんと変なとこ不器用ね。
 めった切りである。しかし慣れている手塚は、別段たいしたダメージを受けることもなくぽつりとつぶやいた。
「そういえば今年は誰も来なかったな」
 単純に思ったことを口にしただけだった。それなのに、なにやらいろいろ並べ立てていた柴崎は即座に反応して自分の台詞を中断した。そして一刀両断、
「当たり前でしょ。このあたしがいるってのに」
 両手を腰に当てて偉そうに胸を張る。確かに誰もが認める図書隊の華を相手取ろうという気骨のあるものはいないのかもしれない。しかもどうやら女子の間では自分の本命は柴崎だということはかなり前から読まれていたらしいし――おおっぴらにつきあいだしてなおどうこう、などということはないのだろう。しかしなんというか、ここまで恋愛に関する空気を読むものなのか、女性というのは。その辺り男性とはやはり違う。
「なによ、他の女からも欲しかったっての?」
「まさか!」
 慌てて包みを握りしめて、手塚は言い募った。
「どうせ他のは全部受け取らないんだから、断る手間が省けていいんだ。ただその、びっくりして」
 途中で言葉を切る。この場合柴崎が望んでいるのは言い訳ではないだろう。だいたい口でやりあっても泥沼にはまるだけで、しかも最終的にはやり込められて負けるに決まっているのだ。素直に、思ったことだけを伝えればいい。
「……嬉しい。ありがとうな」
 返ってきたのは最初と同じ、満面の笑顔だ。
 つきあい始めてから、柴崎は本当に幸せそうに笑うようになった。性格そのものが変わるわけではないので皮肉も棘も相変わらずだけれど、手塚に対してはそれだけではない。表情に声に、無防備な信頼と愛情がいっぱいに詰まっているのがよくわかる。好きな相手からの体当たりの好意がここまで嬉しく愛しいものなのだとは知らなかった。つられて彼も笑った。
「生まれて初めての手作りなんだから、レアものよ。このあたしが笠原たちと一緒になって騒ぎながらチョコ作りなんて、想像したこともなかったけど」
「手作りなのか。じゃあなおさら味わって食べないとな。……ホワイトデーのお返し、何にするか一ヶ月ずっと悩みそうだ」
「んー、おおいに悩んで悩んで。ずっとあたしのこと考えてなさーい。でも仕事はちゃんとやんなさいよ」
「それは当たり前だろ」
 そこでふと思い出して、手塚は手の中の包みを見下ろした。
 去年、同じ日。ロビーで出くわした自分に、彼女は残ったからあげるとチロルチョコをいくつか押しつけてきたものだったけれど――そして自分は、その様子を見ていたほかの男子に突っ込まれるまでその日がバレンタインデーだということを綺麗さっぱり忘れていたのだけれど。
 たぶんあのときにはもう好意はあった。売ってくれと拝まれて、他人にもらったものをおいそれと渡せるかとつっぱねたのは道徳心からくる本音半分、建前半分。柴崎は自分たちが周囲の目を集めていたことはわかっていたはずだ。その後手塚がどういった行動をとるのか、そこまでは予測していただろうか。それとも本当になにも考えていなかっただろうか。
 おそらく本人に聞いてみなければわからないことだが。
「光?」
 呼びかけられて、手塚ははっと顔を上げた。そのうち尋ねてみたいが、今はまだいい。考えていたことを振り払って、ロビーの時計を仰ぐ。
「麻子、お前夕飯は?」
「まだよ」
 時計の針は七時を指している。そうと来れば、口にすることはひとつだ。
「じゃあ外に出よう。一緒に」
「ふふふー、そう言ってくれると思ってた」
 柴崎はくるりと身を翻して、軽やかな足取りで二、三歩女子寮のほうへ向かってから顔だけ振り返った。
「服、着替えてくるわ。支度はすぐ終わるから玄関でね」
「了解」
 片手を上げて、手塚も男子寮へと向かう。軽い包みと柴崎の幸せそうな笑顔と、そしてこれから待っている時間と。誰もいない廊下に入り込んでから、頬と唇を緩めた。
--END.
別冊2読んで確信しました。柴崎は一度吹っ切れたらめちゃくちゃ甘えっ子に違いないと!
そして手塚はそのことに驚きつつますますめろめろになるのですよ。
皮肉いっぱいの会話は相変わらずだろう。容赦なくこき下ろした後いきなり真顔で「でもそういうとこも好き」とか本気でのたまうのです。のたまうのです。それをさりげに食堂とかでやらかして、んでますます男子にねたまれる手塚と女子に祝福されつつもなまぬるく見守られる柴崎(大笑)。堂郁ほど自覚なくオープンではないだろうけど。あくまで計算も込みで。そこは柴崎、抜かりはありませんよきっと。
(初出:2008.08.13 再録:2008.08.17)