特異体質忘るるべからず
 やはりというかなんというか、その日の夜は大騒ぎになった。
 うたうことり亭は変わらず暖かくにぎやかだ。息子に言わせればたった半年でそうそう変わってたまるか、ということらしいけれど、半年は決して短くはない。だいたい今日の主役の彼だって、たった半年で背が伸びて、顔つきも大人びて、少しだけ雰囲気が変わった。内面だってそのぶん成長しているに違いないのだ。
 シュトラウスの丘での一連の出来事を思い出すと、今更ながら顔から火が出そうになる。やっと会えて気が昂ぶっていたとはいえ、よくもまああんなふうに触れ合えたものだと思う。メリエーラは熱くなりそうな頬をそっと押さえた。
 彼女の思惑をよそに、周囲の面々は相変わらずのやり取りを繰り広げている。ラルフの帰省を聞きつけて早々にやってきたのはマルセルやハイディなどの同年代の友人、それからクレメンスら恩師たちだったのだが、いつの間にやら話が人の口から口へ、何かものすごい人数の大宴会と化している。
 俺のお帰り会っていうよりは宴会やりたいだけだろ、などという彼の言は皮肉なのか本音なのか微妙なところだが、これだけ騒々しければそう言いたくなるのもわからないではない。べつに、良い悪いの問題ではなくて。
 ディルクとフレンは同じ大皿の料理を巡って視線で火花を散らし、そんな二人を非武装地帯だと牽制するカルラもいつもどおり。厨房から出たり入ったり忙しいカールもいつもどおりだが、結局息子は今日のところはなんとか料理係から解放されることとなるらしかった。本人の希望というよりも、彼の隣にぴったりとくっついて座るポポットの姿に周りがなんとなく気遣ったというのもある。エルハルトはけらけら笑いながらラルフの背中を叩き続けているし、ヨハンとアレクセイ、それからベイジルはすぐそばでぎゃいぎゃい繰り広げられている喧嘩に参加する気はこれっぽっちもありませんとばかりにマイペースに料理をつついているし。無理やり引きずられてきた感の強いシュテファンも、嫌そうな顔をしながらも出て行こうとはしていない。喧騒の中確かな存在感を持って流れるバイオリンの旋律は、奏者の表情とは裏腹に明るく軽快だ。
 そしてメリエーラを含むアカデミー関係者も、ラルフたちと同じ大卓を囲んで座っていた。
 何が気になるかって、一番は彼の研究だ。何を学んでいるのか、何を学べるのか。何を目指しているのか。留学を勧めた張本人であるオズワルドはもちろん、新しい知識に目がないクレメンスも、最近進路を真面目に考え始めたらしいマルセルとカヤも、いつもあまりやる気が見られないハイディすら、ラルフの話に熱心に聞き入っている。
「……で、とりあえず研究室での動作は確認できたんだよ。あとは特別知識のない一般人でも安全に確実に使えるにはどうするかって段階にきて……」
 一般の生徒と違って、講師資格を持つものはより多種多様な、または危険な研究をする許可も与えられている。だがそれとは別に上から与えられる“課題”ももちろん存在するそうで、今はその話だった。
 一区切りついて全員が息をつく。
「駄目だ、しゃべりすぎて喉痛ぇ」
 けは、とラルフが軽く咳き込んだ。
「ずっと声出しっぱなしだもんなあ。あ、俺さ、来る途中アロイスさんに会って。こんなんもらったんだけど」
 マルセルは思い出したようにテーブルの下に手を伸ばした。どん、と皆の目の前に置かれた瓶は綺麗な赤だ。透明なガラスの内側で、波打つ液体は光を反射して宝石のように輝いた。察しよく空のグラスを配り始めたカルラに礼を言って、手早く注いでいく。水で薄めるタイプの飲料のようで、卓にもともと置いてあったお替り用の水を加えつつもはい、はい、と次々渡していく手つきにはよどみがない。アカデミーの寮では生徒たちがたびたび宴会もどきをすることがあったから、物慣れた給仕ぶりに特に違和感を感じることはないが。
 なんとなくぽかんとした表情でグラスを受け取ったラルフを見やり、彼の幼なじみはにかっと笑った。
「大丈夫、アルコールじゃないからさ。アロイスさん、ラルフ様が戻られたなら是非って言ってた。ほれ、一番にどうぞ」
「あ、ああ……」
 今宵の主役(忘れそうになるが)が口をつけたのを見計らって、メリエーラも自分のグラスに顔を寄せた。甘酸っぱい匂いがする。爽やかな酸味を予想させるそれが記憶の端っこに引っかかって、彼女は眉根を寄せた。
「…………百年石榴?」
「お、よく知ってるなあメリー。もしかして飲んだことある?」
「うん、去年の精霊祭の頃……って! ラルフ! もう飲んじゃった!?」
 味や香りを楽しむどころではない。カヤや先生たちはおいしいねー、などと暢気に微笑みあっているが、相槌を打つ余裕もない。あるわけがない。
 慌てて様子をうかがうも、果たしてグラスはすでに空となっていた。
「お、遅かった……!」
 そういえばあの件、アロイスには話していなかった。となれば善意で再び蔵出し品を振舞ってくれたのだろうが、それが仇になるとは思いもしなかった。
 飲む前に香りで気づきなさいよとか一口飲んだところでやめるって選択肢はないのとか。反射的に喉元まで出てきた罵倒を飲み込む。それよりまずは、この瓶を彼の目の届くところから隠してしまわなければ。
 ラルフが手を伸ばすより、メリエーラが瓶を攫うほうが一瞬だけ早かった。視線が合う。目が据わっている。不満げにへの字に結ばれた唇を見て確信する。
 やっぱり酔っ払った。また。酢で。
「……おかわり」
「だめ」
「おかわり」
「だめだったら!」
 そこで怒り出すかと思いきや、ラルフは今度はあらぬ方向を見つめたまま薄ら笑いを始めた。
「ふ……ふふふ……」
「え、ちょ、あに……おにーさま? 何その笑い。なんか怖……」
「酔っ払ったのよ!」
 ポポットこっちいらっしゃい、と手招きすると、幼い妖精は素直にテーブルのこちら側に避難してきた。再会してからこっち、兄貴分に泣きつく勢いで離れなかったにも関わらずである。やっぱり本能的に危険を察知してるのかしらとため息をつきながら、怯え気味の頭を軽く撫でてやる。
 マルセルが素っ頓狂な声で叫んだ。
「酔っ払っ……ええっ!? お前、調合で酒使っても別に酔っ払ったことないじゃんか! ていうかこれ酢だぞ!」
「俺は素面だ!」
「……これは完璧に酔っ払っていますねえ」
「ふむ、興味深い。ところでうたうことり亭のメニューにはマリネもあったはずだが?」
「えーえ、ありますよ。ねえカール」
「うん。それこそ作ったことも食べたことも数知れず……の、はずなんだけど……」
 どこかのんびりしている教師陣と彼の両親はたいした事態ではないと思っているようだ。というかメリエーラだって、酢で酔っ払ってしまうこと自体は問題にしていない。恐ろしいのはその後だ。以前の標的はポポットだったので、とりあえず自分の側に引き寄せて安全を確保してはみたものの、今回は人数が多すぎる。誰に絡み始めるやらわかったものではない。
 あまりにおかしくなるから記憶が飛ぶのかと思いきや、しっかり覚えているらしいし、これでは正気に戻ったときにまた頭を抱えることになるだろう。それは気の毒だ。しかも面白がってあおりそうな面々も混ざっているのが更に恐ろしい。
 相変わらず薄気味悪い笑みを顔に貼りつかせて「ふふふ」とかうなっている彼が暴走を始める前に、一刻も早く人目のない場所に移さなければならない。そして殴ってでも眠らせる。よしそうしよう。今すぐそうしよう。
「ラルフ!」
 彼女は素早く立ち上がって椅子の後ろに回りこみ、ラルフの腕を引っ張った。予想に反してぐんにゃりと手ごたえがない。脇の下に手を入れて椅子から引き摺り下ろす。
「休ませるのかい? なら私が運」
「小鳥ちゃーん、その細腕じゃきついっしょ。手伝ってあげ」
「大丈夫ですっ!」
 ヨハンとエルハルトの申し出が純粋な親切心ということはわかっていたが、メリエーラはぶんぶんと首を振った。
 重いが、こうなったら引きずっていってやる。火事場の馬鹿力さえあれば対応できないほどのものでもない。酔っ払いと同じくらい、いやそれ以上に据わった目で場を見回し、彼女はにっこりと微笑んだ。
「休ませてきます。皆さんは気にしないでそのまま楽しんでいてくださいね」
 メリエーラの鬼気迫る様子に慄いて、誰も後を追おうとはしなかった。







 ラルフの部屋は二階にある。
 一度彼を廊下に転がしておいてから、メリエーラはノブを回しできた隙間に足をねじ込み、背中全体でドアを押し開けた。青年を引っ張り込んで、上半身を寝台にもたせかける。
 とりあえず当面の危機は脱したと見ていいのだろうか。とにかく少しでも眠らせてさえやればすぐに酔いは抜けるらしいので、さて水を飲ませるか昏倒させるか、どちらにしよう。
 思案していたら名を呼ばれた。
「メリー」
 振り返る。
「ラルフ? 大丈夫なの?」
 ラルフはいつの間にかずりずりと身体をずらし、寝台の上に座っていた。微妙にゆらゆらしているので、やっぱりまだ危うい。不気味な薄ら笑いはやんだ。だが最低限の灯りでは表情が見えづらい。
 隣に座って顔を覗き込むと、がっしと両肩をつかまれた。
「…………」
「あの、ラルフ?」
 どこかとろんと溶けた瞳が、それでもまっすぐに彼女を射抜く。赤みがかった茶色は紅茶に似ている。落ち着かない気分になって、メリエーラはちいさく身じろぎした。
 酔うとその人の本性が出るという。以前彼は、手法は間違っていたがただひたすらに妖精を可愛がっていた。可愛がられた本人は相当怯えていたが、メリエーラにとっては正直笑い話で済ませられる程度の出来事ではあったのだ。ラルフは根本的に無害だ。
 それがわかっていたから、とにかく人目に醜態をさらしたくはなかろうと連れてきて、二人きりになることに成功したわけだけれども。
「えっと」
 何か間違えたような気がしないでもない。見つめる視線が熱を帯びてきたような気がする。比例して、頬も耳も熱くなってきた。どきどきして呼吸が苦しい。ポポットとは別の意味で、自分の身に進んで危険を招いたのではなかろうか。
「メリー」
「な、何?」
 びくっとして思っていたより大きな声が出た。肩に乗っていた彼の右手が頭の後ろに移動し、力が入り――いよいよ身を硬くしたとき。
「……帽子が邪魔だぁっ!」
「はいぃ!?」
 かぶっていた帽子を頭からすぽんと抜かれ、さらに部屋の隅っこに投げられて、メリエーラは目を見張った。大きな手がわしゃわしゃと髪をかき混ぜる。
「ちょ、なに!?」
「やっぱ伸びたよなあ、髪伸びたよなあ」
「いえ確かに伸びたけど!」
 抜けてしまう――ほどではないが、手つきに遠慮会釈がない。このままでは絡まってぐちゃぐちゃにされてしまう。やめて、と言うよりもラルフが言葉を続けるほうが早かった。
「伸びたよなあ……クソ、俺がいない間に綺麗になっちまいやがって……俺が……いない間に……」
「ら、ラルフ……」
 喉が詰まる。それはこちらの台詞だと言ってやりたかったが、口から出たのはため息だけだった。
 ラルフだって、素敵になった。もともと見目はいいほうで、エルクローネにいた頃から女神のクローゼットのベリンダが主催するなんとかいう会の“王子様”にも数えられていたくらいだ。それがたった半年の間に背が伸びて、線の細さも抜けてきて、悩んでいた頃の危うさもなくなった。自信と充実感はただでさえ人を輝かせる。留学先でも女の子の間でひそかに人気があったりなかったりするだろう。容易に想像できる。
「……もう、ばか」
 たった今感じた危機感も忘れて、メリエーラは彼に抱きついた。
 以前、酔っているときに褒められたってたいして嬉しくもないと憎まれ口を叩いたことはあったけれど。実際言われてみればやっぱりふわふわと浮かれてくるのは確かで、相変わらず髪をしゃかしゃかかき回されているのに咎める言葉も出ない。
 せめて仕返しとばかりに赤い髪を指で梳いてやっていると、ふとラルフの手が止まった。耳元で搾り出すような呻き声が聞こえる。
「………………またやった……!」
「あら、正気に戻った」
 あからさまに肩を落としているのは気の毒だが、やはり笑い話だ。メリエーラは青年を拘束していた腕をあっさり解いて、笑いながら帽子を拾いに行った。ぽんぽんと手で叩いて形を整える。かぶり直す前に思いついて手櫛で髪を撫でつけていたら、放物線を描いて何かが飛んできた。
「……櫛?」
「使えよ」
「へえ、櫛なんて持ってたんだ。って、当たり前よね。鏡ある?」
「おう。ちっこいのだけど……」
「あ、やっぱりやめた」
「は?」
 のっそり立ち上がってキャビネットの引き出しをごそごそやり始めていたラルフが、怪訝そうに振り返った。持ち手を彼の側に向けて差し出し、にっこり笑みを浮かべる。
「ねえ、梳かしてくれないかな?」
「ああ!? なんで俺が!」
「だってこれ、ラルフがやったんじゃない。……それに、ここまでわたし一人で運んできてあげたでしょ。大変だったんだから、その恩は返してもらわなきゃね。あー重かったなーあー腕が痛いなー肩より上に上がらなーい」
「嘘つけ!」
 容赦ない突っ込みとともに櫛をひったくられた。憮然としているが、お願いは聞いてくれようというのだろう。背を向けて座ると、ほどなく髪の中を細い木が通る感触がした。
「いや、まあ、すまんかった。何やってんだろうな、俺」
「わたしは別に怒ってないけど」
「お前たまに笑顔が怖ェんだよ……」
「え、そう?」
 俺の周りは怖い女ばっかりだ、とかなんとか嘆いている。反面手つきは優しい。色はともかく二人の髪質はわりあい似ているので、絡んだ場合の扱い方もしっかり心得ているらしい。手先の器用さも折り紙つきだ。安心して任せていられる。
「終わったらラルフのもやってあげるね」
「おー、そりゃありがとさーん。……手早く済ますぞ。下の奴らあんまり待たせてたら、何想像されるかわかったもんじゃねぇ」
「ああ、それはそうかも……」
 何しろ階下にはエルクローネきっての伊達男を自称する、色恋大好きエルハルトがいる。同じノリのディルクもいる。それに天然ヨハンが加われば、いったいどんな妄想を繰り広げられあまつさえ広められるかわかったものではない。
 自分たちの動向が多方面からわりと注目されていたというのは、精霊祭の後初めて知った事実だった。一部悪ノリしたアカデミー在校生の間で賭けも行われていたというから、傍目に相当わかりやすかったのだろう。そういえば、勝った人と負けた人どっちが多いのか。いやそんなことどうでもいいか。
 つらつら考えていたら指先が耳を掠めていった。びくっと身を竦めるとラルフの手が止まる。
「あ、悪ィ」
「う、ううん。びっくりしただけだから」
 口ではそう言いつつ、少しずつ動悸が早くなってきて、メリエーラは細く息をついた。
 耳たぶが熱を持っている。まず間違いなく赤くなっているだろう。軽い気持ちで梳かしてなんて言ってしまったけれど、男女で身繕いしあうというのはなんというか――こう。よく考えると色っぽい。雰囲気はまだまだだが。全然だが。さっぱりだが。
 わざとではないのだろうが、時折軽く触れる指を意識し始めるともう止まらなかった。どきどきする。早く終わって欲しい。いやずっと続いてもそれはそれで。
 当然だがラルフの視線は彼女の後頭部に固定されている。他意はなくとも観察されているも同然で、立場が逆転したら今度はこっちが思う存分眺めてやると決心を固めた。
--END.
酢乱イベントは最高だと思いますクレメンス先生。
ラルフ相手だと、メリーがつられてツンデレ気味になるのがニヤニヤものですが、素直にポポットをうらやましがるメリーもニヤニヤものです。
なんかお互い相手につられるんだよね。片方が素直になるともう片方もつられてもじもじしたりして、ああもう甘酸っぱいな! 生ぬるい笑みを浮かべて無言で観察するポポットの気持ちがとてもよくわかる!(笑)
完全にくっついて、かつ慣れてきたらわざと酔っぱらわせるのもいいと思うよ、メリー!
てか酔い醒めるの早いなとつっこんだのは私だけではないはずだ…まあ酒だってわりとすぐ醒めるもんだけど。
(初出:2012.05.24 / HTML化:2012.09.22)