移り香だろうか





 藤原道長は、ふと聞こえてきた声に閉じていたまぶたを開いた。
 内裏を退出したのはつい先刻。牛車に乗り、屋敷に帰ったら出そうと思っていた文の内容を練っていたところだ。
 どうしてその声に気づいたかといえば単純だった。文の相手が、その声の持ち主だったからに他ならない。
 いや、正確に言えば文は少年の祖父にあてたものなのだ。だが、返事を持ってくるのはおそらくかの駆け出し陰陽師であるはず。内容の幾ばくかも彼の意見を踏まえたものになるのだろうから、今話ができるのであれば手っ取り早い。
 そう結論付けると、道長は牛車の上部にとりつけられた引き戸を開けた。ちいさく切り取られた四角の中に、件の少年の姿が見える。
「昌浩」
 呼びかけ、彼が振り向き――そうしてはじめて道長は、昌浩が一人ではないことに気がついた。
 昌浩のそばにはいつも無害な物の怪がはりついている。そう聞かされていたから、彼は少年が誰かとしゃべっているのを聞いても、それが独り言のように見えたとしても、さして奇妙だとは思わずに眺めていたものだったのだが。
 今日の同行者は人間だったようだ。昌浩と同じく陰陽寮に属する者で――行成が何くれと気にかけていたのを覚えている。名はなんといっただろうか。
 彼の目の前でできる話ではなかった。道長は気づかれないように息をつき、牛車を道の端に寄せさせた。御簾をあげると、呼び止められた二人が足早に近づいてきて膝をついた。
「道長さま! おひさしぶりです」
「珍しいな、今日は一人ではないのか。そちらは確か、行成の」
「は。初めてお目にかかります。陰陽生の藤原敏次と申します、大臣様」
 屈託なく挨拶してくる昌浩に比べ、敏次は少々ぎこちない。
 直接言葉を交わすのは初めてだからそれも無理はなかろうと判断して、道長は笑顔を作った。身振りで示して立ち上がらせる。
「用があったわけではないのだがな。顔を見るのはひさしぶりのような気がして、つい呼び止めてしまった。すまないな」
「いえ、そのような」
 若い二人は、殿上できるだけの官位を持っていない。今上の側近くで仕えることを専らとする道長とは、確かに会う機会はごく限られているはずだった。
 顔を合わせた以上はと、他愛もない世間話を交わす。本当に尋ねたいのは娘彰子の様子だったが、敏次の前で話をふるわけにもいかない。ただでさえ緊張しているものを、真の意味を隠した会話などした日にはますます居心地を悪くさせてしまうだろう。それはさすがに酷だ。
 転換点は唐突にやってきた。
 会話が途切れ、ふ、と風がなにがしかの香りを運ぶ。
 それは、嗅ぐ回数こそ限られていたがなじみのある――
「良い香りがする」
 思わず口走ってしまって、道長は首をかしげた。どこから漂ってくるのだろう。彰子の、あの朗らかな娘のお気に入りの伽羅――
「……昌浩か? 移り香だろうか」
「えぇっ!?」
 言うと、昌浩は傍目にもあきらかなほど狼狽して両手をぶんぶんと振った。
「えええ、違います、だって俺……じゃない私、移り香するほど他の方に近づいてないですしっ」
「そうなのか? しかし以前そなたは伽羅など使ってはいなかったように記憶しているが」
 これは確かに彰子の香り。同じ邸で暮らしているのだから、衣に焚きしめている場面に居合わせることもあるだろう。別段やましい意味合いをこめてもいなかったし、責めたてようなどというつもりも毛頭ないのだが。むしろ隣の敏次のほうがなにやら険しい顔をしている。
 肝心なことを読み取られる心配のない話題だと油断したか……この場で口に出すべきではなかっただろうか。
「いえ、あの……たぶんこれだと」
 少年が懐からごそごそと出してみせたのは、ちいさな匂い袋だった。受け取って鼻を寄せると、確かにあの香りがする。
「知人からまじないのお礼にといただいたものです。その、とても良い香りで気に入ったので……持ち歩いていたんですが」
「なるほど」
 道長はうなずいた。昌浩は隣の青年を横目でちらちらうかがっている。彰子の様子など聞きたいことはたくさんあるが、今ここでなくともいいだろう。納得して、彼は牛車の御簾に手をかけた。
「そろそろ行かねばならぬ。足を止めさせてすまなかった。気をつけて帰るのだぞ、二人とも」
「あ、はい。道長さまもお気をつけて」
「失礼いたします」
 動き出した車が、がたりと揺れた。外から従者の謝る声が聞こえたが、一言かまわぬ旨を伝えて彼は腰を落ち着けた。
「妖異の呪縛……そして、入内、か」
 目を閉じる。
 入内とは無条件の栄華を約束するものではなく、呪縛は即座に死につながるわけではない。
 どちらが幸福とは比べられるものではない。どこにいても、苦しみや厄介ごとは平等に降りかかってくるもの。唯一皇族のみに許された座をのぞき、頂点までのぼりつめた彼だからこそ知っていること。
 娘の幸せを願わぬわけではなかった。奔放なところもあるあの娘に内裏が向いていないかもしれないと、ちらと考えたことはある。だが、権力を保つことができなければ、幸せとは何なのかを考える余裕さえうまれぬ状況まで落ちてしまうかもしれなかった。だからこそ。
 幸せを、感じることができるかどうか。章子のほうはまだわからない。だが、彰子は、大丈夫だろう。
 あの少年を見ていたら、なんとなく、そう思った。







--END.




|| INDEX ||


あとがきというか。
改稿にあたって文庫読み返しました、ええ。
くそう昌彰かわいいよ…かわいいよ…!
道長さんはけっこうあっさり許してくれそうな気がします。気に入ってそうだし、打算も込み。
ある程度の出世は条件になるでしょうけどねえ。半永久的にっつったらもうねえ。
嫁ぐにしても陰陽師が現実的でしょうし、それなら昌浩がちょうどいいし。
余談ですが鶴君(頼通)は昌浩を恐れ続けるといいと思います。しつけたれ!
んでどうにも頭のあがらない存在になればいいと思います。
これも昌彰萌えの一環。

(初出:2004.08.28 改稿:2005.10.04)