夢と現と
 その部屋は、事前に話を聞いて想像していたよりも少しだけ広かった。
 棚の背は低い。最上段でも幼い少女が背伸びすれば届く程度の高さで、ご丁寧に部屋の隅には簡素な踏み台まで置いてある。
 窓から差し込む午後の陽光はまだ白く眩しく、室内に舞うわずかな埃を映し出していた。充分に明るい。文章を追うには何の問題もない。
「あれっ?」
 扉の向こうで愛らしい声が響いた。
「駆くん? 駆くーん? どこに行ってしまわれたんですか?」
 駆は本に落としていた視線をあげて、玄関の方向に首を巡らせた。用事で外出していた妻――正式な手続きはまだ踏んでいないが、そう位置づけてもかまわないはずだと思っている――こはるが帰宅したらしい。
 一緒に行くと言ったのに、今朝の朝食を少しだけ残してしまったから、強制的に留守番を言いつけられたのだ。まったく、彼女は自分に甘すぎると思う。精神的な意味でも、身体的な意味でも。さっさと回復して全面的に頼りがいのある男として寄り添いたいのに、今はまだ体調のせいでそう扱ってはもらえない。もっとも、速度こそ緩やかなものの食欲もその他も徐々に上向きつつあるので、気をつけてさえいればそう遠くない未来に願いは実現するのだろうけれども。
「こはる、ここだよ」
 駆は外開きの扉を少しだけ開けて少女を差し招いた。目があった瞬間ぱっと笑顔になる。寝台に横になっていなかったことを咎められるかと思ったが、そんなことはなかった。テーブルの上に手荷物を置き、ぱたぱたと軽い足音をたてて一目散に駆け寄ってくるさまはひどく愛くるしい。
「ただいまです、駆くん!」
「うん。おかえり、こはる」
 一人きりの住まいでは交わすことのできない挨拶。急いで帰ってきたのか、少しだけ息が乱れている。挨拶ついでに額に軽く唇を落とすと、ふっくらした頬がほんのり上気した。
「……え、と。駆くんはどうしてこの部屋に……あ、その本」
「うん、手持無沙汰だったからさ。こはる言ったでしょ、今日は外の風には当たらないほうがいいって。だったら本でも読もうかなと思って、色々見させてもらってたんだよね」
「そうなんですか。それが気に入ったんですか?」
「気に入ったというか、気になったというか」
 答えて、駆は手に持っていた本を見下ろした。厚紙と布で頑丈に装丁され、背には箔押しで題名が書かれている。いわゆる童話をいくつか集めた本だが、題材は日本のものではない。
 こはるの家は、人里離れた場所にある。集落から追い出され、外れの廃屋に半ば押し込むようにして置き去りにされたのだという。能力のせいで忌避されたが、同時に神か物の怪の類に属するものとして、畏れられてもいた。だから徹底的に害されることはなく、最低限の生活ができるように環境を整えられたらしい。ただ、もちろん与えられたのは屋根のある場所と寝床だけで、そのほかの場所は放置だった。その後史狼が現れて調度や本を運び込み、今のような寂しげな、けれど快適な住まいとなったのだ。
 この時代、本は高価なものだ。識字率は相当に高くなってきているが、辺境では未だ読み書きのできない人間も珍しくはない。だというのに一室丸々を本のための部屋として、本で埋め尽くしてある。一人きりの生活を慰めるための手段としては至極ありふれた――そして気遣いにあふれたもの。子ども向けの絵本から始まって、図鑑や専門書、実用書や作法書など多岐にわたっている。これを全部史狼が用意したのか。そして、こはるは読破したのか。
 いったい父は何を思って、――――いや。今考えていたのはそれではなかった。
 ぶ厚い表紙を開く。興味津々で覗き込んでくるこはるに見えやすいように、彼女のほうに向けてやった。重量に反して頁はわりあい少ない。平易な文章と美しい挿絵。ただそれなりに漢字も使われているので、七、八歳くらいの子どもならちょうどいいのだろうか。
「ほら、ここ」
 挿絵を示す。頭に大きなリボンをつけて、袖の膨らんだ服を着た少女が林檎をかじっている。少女の前には爪の長い、かぎ鼻の老婆が立っていて、林檎の入った籠を抱えていた。
「ああ、『白雪姫』のお話ですね。お姫様が騙されて毒リンゴを食べさせられる場面です」
「だよね。いや、ちょっとおかしいなとは思ってたんだけどさ……ホントはお婆さんが持ってくるんだ? 毒リンゴが自分で歩いてくるわけじゃなくて」
「それはそうですよ! ふつう、リンゴは歩いたり喋ったりしません……し……」
 何を思い出したのか、こはるの顔はそれこそ林檎のように赤くなった。自分でも意識しないうちに唇の端が上がる。指先でつんと頬をつつくと、面白いくらいに反応して飛び上がった。
「こはるー? どうしたのかな?」
「ななな、なんでもありませんよっ!?」
「本当? それじゃなんでそんなに赤い顔してるの?」
「ほ、本当です、なんでもありません!」
 あまり追いつめると逃げ出しかねない。そもそも、聞きたいことはまだ残っているのだ。すぐに追及をやめて、駆はさらに頁を繰った。
「まあ、俺はここまでしか知らなかったんだけどね。さっきこの本を最初から最後まで読んで……あれってさ、やっぱり童話を再現しろって話だったんだよね? 俺が魔女じゃなくて毒リンゴなところは何かおかしいけど、一月の意図としては」
 何と具体的に言わなくても、話が通じていることはわかっている。つまりはあの船の中にいたとき一月に見せられた夢が気になるのだ。わざわざあんな凝った仕掛けまで用意したということは、あれは趣味と実益を兼ねた遊びだったのだろう。趣味だけでは決してない。実益がなければあんな真似はしない。そしておそらく物語を最後までなぞってみせろとこはるに要求した一月は、結局のところ何が目的だったのだろうか。最終的に自分たちの後押しにしかならなかったあたり、単純な親切心と見てもよさそうではあるのだが、一月なので微妙に信用できない気もする。
「あの後、俺はすぐ目が覚めた。…………こはるは、どうだったの?」
「え?」
 探るような口調に、彼女は反応も薄くきょとんと瞬きした。
 あの夢は、あまりにも彼に都合のいい夢だった。弱さも何もかも受け入れてもらえて、口づけまで交わして。現実も同じように、信じられないくらいに幸福な軌跡を辿ったわけではあるのだけれど、『白雪姫』の本来の展開とは違う。
 毒を食んだあの後、こはるは、やはり倒れたのではないだろうか。そして王子様が現れて、彼女を救ったのではないだろうか。最後まで役割を演じきり、そこで目が覚めたのか。
 王子は誰だった? 別人か、それとも俺と同じ姿をしていた? でも、たとえ同じ姿だとしても、駆に記憶がないのならそれは夢の産物に過ぎない。実態を伴わない幻のようなものであったとしても、自分以外のものが彼女に触れたのかもしれない。そう思うと、腹の底にどろどろと熱いものがたまっていく。
 顔に出さないだけの分別はある。こはるのことは信じているし、今の生活にもとても満足している。波紋と呼べるほどのものでもなく、けれど、一度気になってしまったらどうにも確かめずにはいられなかった。
「こはる」
「えっと……それが、わたしもすぐに起きたんです」
 頬の赤みは少し引いていた。記憶を反芻するような遠い目をして、こはるは少しだけ首をかしげる。やわらかい髪がさらりと流れて、華奢な肩を滑る。それをぼんやり眺めながら、本を閉じて傍らに置いた。
「わたしも最初はお話の通りに動くようにしてみました。でも展開が違ったし、途中でなんだかおかしいなと思って……ただ、一月さんが言っていらしたことの意味を考えると、べつに間違ってもいないような」
 ひとつひとつ、ゆっくりと言葉を継ぐ。
「大切な人をみつけなければ夢から出られない……」
「大切な人?」
「はい。そう言っていました。わたしにとって大切な人といえば駆くんで、顔も知らない王子様ではなかったので。だからすぐに目が覚めたんだと思います。……あれ? それじゃ、一月さんはわたしの気持ちを知っていたんでしょうか……」
「……こはるっ」
「え、きゃ!? か、かけるく…?」
 たまらなくなって、駆はこはるを強く抱きしめた。
 なんだってこの子は、こちらが欲しているものを無意識に読み取るのだろう。そして、惜しげもなく与えてくれるのだろう。
 世間的に評価するなら、こはるはいわゆる“鈍い”部類にはいるのだと思う。ふわふわほわほわしていて、何かを仕掛けても意図とは違う受け取り方をして、蝶か何かのようにひらりと飛んで行ってしまう。肩透かしを食らって呆然としたことだって、一度や二度の話ではない。
 なのに肝心な時には聡いのだ。軽やかに舞い戻ってきて止まるのだ――この、緑の葉の下に毒を隠した己を恐れもせずに。決して図っているわけでなく、ただただ自然に、傷も惑いも敏感に察して的確に慰撫する。浄化するでもなく、かといって自らも毒されることなく。そっと寄り添ってくれるのだ。
「……あの、かける、くん」
「大好きだよ、こはる」
「!?」
 何を言われるかなど予想がついていただろうに、いちいち反応が初々しい。あわあわと見上げてくる顎を取り、唇を重ねる。抱き上げるような形になってしまって、こはるのつま先が宙に浮き、身体が一瞬強張った。静かに下ろしてやり、覆いかぶさるようにしながら背を撫でる。徐々に力が抜けたところを見計らってさらに深く抱き込んだ。
 やがて細い指先が胸元をたどり、鎖骨を這って、すがりつくように首の後ろに回される。
 腹の底にあった熱いものはその質を変えて、今や全身を駆け巡っていた。鼻を鳴らすような甘ったるい声と吐息が、耳と言わず五感すべてから入り込んで脳をちりちりと焼く。
 汗ばんできた首筋に吸い付いて、ごく弱く歯を立てた。こはるがびくりと肩を震わせ、その拍子に大きな物音がする。
「…………あ」
 本が数冊床に落ちてしまっていた。急に目が覚めたような心地になる。見下ろせば、息を弾ませながらも彼女もやはり同じような表情をしていた。視線が合った瞬間、今更ながら耳まで真っ赤に染めたが、苦笑を送るだけにとどめる。
「……ごめんね。本、落としちゃったよ。傷んでないといいけど」
「だ、大丈夫です……その、あの、わたしも。ふ、不注意でした……」
 二人してぎくしゃくした動きで本を拾い集め、おぼろげな記憶に従って棚を埋めた。幸い表紙の角が少しへこんだくらいで、中身には何の問題もなさそうだ。こはるは両頬に手を当てて向こうを向いている。まだ照れているのか、駆は軽く笑って彼女の頭をぽふぽふと撫でた。
「こーはーる。こっち向いて、笑って」
「か、駆くん……でも、あの、今わたし」
「うん、きっとすっごく可愛い顔してると思うんだ。だから見せて?」
「〜っ、もう! 駆くん、いじわるです……」
「え、そう?」
 微妙に口を尖らせながら、それでもこはるは素直にこちらを向いてくれた。駆の満面の笑みにつられて、仏頂面に傾きかけていた唇がふにゃりと崩れる。
「…………駆くん」
「ん?」
「気になっていたことは、解決しましたか?」
 いやそれは、たった今君が答えをくれたから。
 突っ込みつつ応じようとして、駆はすんでのところで思いとどまった。理屈ではない、本当に感覚的なものなのだ。意思の疎通のために言葉を尽くす努力は必要だし、怠るつもりもない。けれどこんなふうに、心の奥底で確かにつながっているのだと感じられることは、このうえない幸福だった。
 返事をせずとも表情で察したのだろう。満足げに微笑む花のような少女に、もう一度だけ唇を落とした。



「ところでさ、こはる」
「はい? なんでしょう?」
「白雪姫のお話、毒リンゴが出てくるところまでは同じだったんだよね?」
「はい、そうですよ。継母の王妃様は出てきませんでしたが、森の中を彷徨うところから始まって、小人さんの家で何日か過ごさせていただきました。……小人さんじゃなくて、ヒヨコさんでしたけど」
「ああ、俺を見た途端脱兎のごとく逃げ出して、ベッドの中に潜り込んで出てこなかったあの千里似のヒヨコね。……それで、お風呂とか着替えとかはどうしてたのかな?」
「あれ? 言われてみれば……そういうことをした記憶はありません。寝て起きて、お掃除してお料理して……あれ? 寝たのかどうかも、正直よく思い出せません」
「……まあいいか。それなら許してやるかな……本当はちらほら許しがたい要素も存在しないでもないけど」
「駆くん? 他にも何か気になるんですか?」
「ううん、なんでもないよ。それならよかった」
「? はい」
「それより小腹が空いちゃったよ、こはる。お茶にしよう」
「あ、そうですね! イチゴジャムがまだ残っていますから、パイならすぐに焼けますよ! 午前中、生地を仕込んでおきました!」
 嬉しげに小走りで厨房へ向かうこはるの背中を見送りながら、駆は一人ひっそり呟いた。
「……まあ、いいか」
 一応のこと、一月は女性に対してそれなりの配慮はしていたらしい。もしも興味本位や欲望に任せて好き放題していたら、張り倒してやるところだったのだが。
 千里もまあ、いいだろう。アレが本人だったのか違ったのか、どちらにしても次回会った時にはつい苛めてしまうのだろうし、実質はそう変わらない。
「……いや、ほんとにいいから」
 誰が聞いているでもないのに言い訳をして頭をかく。明るく呼ぶ声に返事をして、彼もまた彼女を手伝うべく止めていた歩を進めた。
--END.
毒林檎と白雪姫めっちゃ好きです…好きです。
最初は「ちょ!?」と思いましたが(笑)
この二人はなんていうか、本当に相性がいいんだなあと思わされるところが燃えます。
一見デコボココンビなんですが、駆がこはるを愛するのもこはるが駆を慕うのも、理屈というより感覚で腹の底にすとーんと落ちてくる感じ。
一番最初にやった朔也ルートの二人のいちゃつきっぷりにまでごろごろ悶えていたので相当重症です。
傍若無人と純粋培養っていう対極にある二人が密かに隠し持ってる同質の弱点っていうのがもう! もう!
なんか奇怪な雄たけびをあげてしまいそうだ。
(2013.06.28)