悠久の向こうがわ
 彼のいない数千年は、寂しく、けれど穏やかな日々だった。
 心揺らされることが何もなかったとは言わない。彼でなくとも、人は傍にいた。言葉は交わせた。同じ願いを抱えていることを知っていた。
 去りゆくものたちと生まれてくるもの、喜びも悲しみも、願いも理想も欺瞞も欲も、色々なものを見てきた。すべてを否定する気には到底なれなかった。
 機械としての理論的な思考が生まれ変わりなどあり得ないと断じる。けれどいつのまにかこの鋼の中に宿っていた心は、叶うならばその日までと、まるで人の子のように涙を流して訴えてくるのだ。
 あのとき願いはかなったと言えたのだろうか。待っていたはずの瞬間は、しかし長い時の中で彼女をがんじがらめにしていた無数のしがらみのせいで、全面的に喜ばしいものとは言えなかった。
 なにものも自由に生きるべきなのだ。自分はまだいい、機械なのだから。人のためにありたくて、人と同じような感情を手に入れはしたけれど、本分を見誤るにはまた冷静さが邪魔をする。
 でも彼は駄目だ。
 家族や友人たちから引き離された挙句に、本人の意思さえ確認しないまま強制的に眠りにつかされた彼は駄目だ。彼を道具にされるなど冗談ではない。そもそも遺伝情報が同じであっても、姿かたちが同じであっても、どれほどその心のありようが似通っているのだとしても、彼は彼であってあの人ではない。
 自分の心情としては、ともにありたいのはやまやまだった。けれど彼の持つものを利用されることは許しがたい。心はもちろん、髪の一本に至るまでだ。
 とうに限界を迎えていたこの身を生きながらえさせた、その一心を、人は公平なものとして称賛するのだろうか。それとも鋼にあるまじき利己だと非難するだろうか。
 良きにつけ悪しきにつけ、彼女に直接感情をぶつけてきたあの幼い少年も、遠い空に旅だって久しく。



 アイオンは、幻影であればそれこそ世界中どこであってもその姿を結ぶことができる。自らに課していた“道具であること”という戒めを捨てた現在では、内心を口に出すのも自由自在だ。かつてとは比べものにならないほどに好き放題している。それこそ生まれ落ちた瞬間から彼女のことを知る研究者や青年たちまでもが、これほどまでに人間臭いとは思わなかったなどと口をそろえて驚くさまはなんだか小気味いい。
 ただ、なんだかんだで長い時を過ごした場所には愛着も生まれていた。この石と緑が違和感なく混じりあったホールは、彼女を捕えていた優しい檻であると同時に安らげる棲家でもある。本体のシステムは質量がありすぎて未だ移動できないまま。エネルギー消費が最も少なくてすむのは本体のそばで、だから別段用のないときは結局ここにいることが多い。
 この場所にいるのは言わば単なる習慣なのだ。やむをえない理由だとか、そんなものは存在しない。呼んでくれればどこにでも顔を出せる。それなのに、皆話をしたいときには律儀にここまでやってくる――そう、今目の前で一人お茶を楽しんでいる少女も然り。
「あづ……夏彦は、今日も空汰と一緒なのですか」
 人の名をフルネームで呼んでしまうのは半ば癖のようなもの。名が被るということもままあるので、誰を指しているのかより特定しやすいという点では合理的なのだが、会話のテンポはどうしても悪くなってしまう。言いなおして尋ねたアイオンをちらりと見やり、久我深琴はため息一歩手前の表情で持っていた茶器をトレーの上に戻した。
「ええ、そうよ。お昼には一度顔を見せたけど、その後ずっと籠りきり。……よくもまあ集中が途切れないものだと思うわ」
 そういう彼女は家事を済ませた後、午前中は竹刀を握っていたのだそうだ。汗を流し、昼食をとり、けれどまた同じことをするのもなんだからとアイオンのもとにお喋りに興じにやってきた。
 だいぶ上手になったものの、まだ少々焼きむらの目立つお手製クッキーの数はたった二枚。体調管理という名の彼女の節制の成果のほとんどは、育ち盛りの島の子どもたちの腹の中に消えてしまう。形も味もいまいちなのにどこがいいのかしら、と口を尖らせる深琴の表情は皮肉げな言葉とは裏腹に照れくさそうで、食物を摂取できないアイオンの頬も知らず緩んでしまう。
「がんばるのですね。夢中になりすぎて、体調を崩さなければいいのですが」
「その辺はちゃんとわかっているでしょ。それに一朝一夕でできることじゃないもの。長期戦になるから、生活のリズムはきちんとしておかなくちゃいけないわ。私やあなただけじゃなくて、夜が遅くなったときなんか正宗も口うるさく注意しているみたいよ? 夏彦は煙たがっているけれどね」
「ふふ」
 抑えきれなくなって、アイオンはついに笑みを漏らした。
 能力者たちは結局リセットを選ばなかった。
 空汰と夏彦の主張が聞き入れられたという面もある――でもそれ以上に、能力者たち自身の考えもまたリセットには傾かなかったのだ。リセットに関しては彼らの判断が何より優先される。どうにかして翻意させようとするものもいないではなかったが、最終的に誰ひとりとして首を縦に振らなかった。
 うやむやのうちに結賀史狼が力尽き、各国の紛争は徐々に治まりつつある。もっとも彼ひとりいなくなったところで争いがなくなるわけではない。人は主張する生き物で、利益を求める生き物で、少なからず残酷な性も持つ。各地に存在する火種を消して回るため、武力でなく効果的な方法をと請われ、今もなおアイオンが姿を変えて根回ししている事象もある。
 世界がどういう方向へ向かっていくのか、それはわからない。ただ少しずつましになっていっているようには見受けられる。少なくとも、各国首脳陣に文明を白紙にするしかないと選択させたあの時代のような閉塞感は、今はまだ感じられない。
「まあ、あの子はできるだけ急ぎたいみたいだから」
 深琴は一度周囲を見回してから、潜めた声で続けた。
「あなたを“世界”のシステムから切り離したいと言っていたものね」
 夏彦も将来的なリセットの可能性をなくせれば万々歳だからって、協力的だし。
「……ええ」
 控えめにうなずく。
 すべての真実を知った空汰がまず見せたのは、理不尽な仕打ちに対する憤りだった。当前だ、本人に了解すら取らず、気づかぬ間に大切な人たちを失ったのだから。寄る辺もないのに、いきなり見知らぬ世界に一人きり放り出されたのだから。
 だが彼は、無闇に騒ぎたてたところでどうしようもないこともまたよく理解していた。未だ幼い、まだ子どもだというのに、どこか冷静で状況を飲み込むのも早い。頭が良くて、現実を見据えていて。でも人が好くて甘くて。
 そんな空汰が密かに望んだのは、アイオン――愛音の解放だった。
 彼の見せる旺盛な学習意欲を、島の人間はおおむね喜んでいる。
 かつて期待をかけた夏彦が島に戻り留まるようになり、そしてなにより鈴原空汰が研究者としての道を歩み始めた。二人に加え、夏彦とともに島を飛び出してしまった滝島雪もいる。“世界”はこれで安泰だろう。もしものことが起こったとしても、次回のリセットは滞りなくうまくいくだろうと。
 彼らがそんなに素直なわけはないと、懐疑的なものも、いるが。
「学ばなければならないことはたくさんあります。私も、私自身の仕組みについては知っているところと知らないところがある」
「それはそうでしょう。私だって、私の身体の仕組みを詳しく知っているわけではないもの。そういうのは専門家の仕事だわ」
 島の研究者たちは若い彼らに惜しみなく知識を与えているが、核心を告げられるのはおそらくそれなりに先のことになる。時たま、本当に時たま気まぐれのように、室星ロンから分厚い書類が送られてきているのを見るけれど――どこから手に入れたものやら。今のところその情報は夏彦一人が抱え込んでいて、こちらまで回ってこない。おおかた結賀史狼のアジトから失敬した何がしかではないかと踏んでいる。しかしそれもあくまで推測だ。
 そこまで考えて、アイオンはもう一度深琴の横顔をじっと見た。
 彼女のアイオンへの態度は、メモリと照らし合わせるならば至極一般的な、女友達に接するものだ。理屈屋なところはあるくせに、目に見える姿や感覚が優先されるらしい。システムが投影しているホログラムではなく、同じ女性として扱ってくれる。
 堅苦しい話も嫌いではないのだろうが、彼女のような人を相手にいつまでもこの話題を引っ張っていても仕方がないのではないか。アイオンは片頬に手を当てて、少し首を傾けた。
「話は戻りますが、深琴。それでは貴女は、夏彦とあまり一緒にいられていないのですか? 寂しいのですか」
「そっ……! ういう、わけじゃ……いえ、寂しくないわけじゃ、ないのだけど」
 かすかに上気して、深琴はもじもじと指先を擦り合わせる。と思ったら今度は眉を吊り上げた。本当に怒っているわけではない、照れ隠しなのだ。微笑ましい気分で見守るしかない。
「その、だって。四六時中べったりっていうのもどうかと思うし……お互い自立した人間なんだもの、ある程度の距離は必要でしょ? 前みたいに徹夜続きで何日も戻ってこないってことはないし、食事はできるだけ一緒にとるようにしてるし、ああでもそうね、……。……寂しいっていうよりは」
 やきもちかしら。
 立て板に水を流すような淀みない台詞の最後、そこだけは声には出さなかった。だが唇の動きは見てとれた。笑みを深めたアイオンに目ざとく気づき、途方に暮れたような顔をする。
 楽しい。
 恥じらう彼女には悪いが、こんなふうに他愛無い話題で弾む心が嬉しかった。過去空汰と一緒にいたときも幸せでいっぱいだったけれど、それらとはまた別の趣がある。こんなむず痒いような感覚は終ぞ味わったことがない。いつだったか少年の空汰に言われた、女の子と仲良くなりたいのかという問いが今更蘇る。
「も、もう! アイオンったらからかわないで……」
「深琴」
「っきゃああああ!」
 間近であがった派手な悲鳴に、長身の青年がのけぞった。
 ホールの扉は重い。開くときにはそれなりの音がする。アイオンには音が聞こえたし、近寄ってくる彼の姿も見えていたのだが、深琴は予期すらしていなかったようだった。
「なっ、ななな、夏彦!?」
「…………なんだ、どうしたんだ」
 一時期に比べれば随分鋭さの取れた青年が、胡乱げに少女を見下ろす。
「な、なんでもないわ……少し、びっくりしただけ。ドアが開いたの、気づいてなかったのよ」
 そうか、と応じて彼は未だ手をつけられていなかったクッキーに手を伸ばした。さくさくと軽快な音とともに菓子はあっという間に消えていく。ついでに飲みかけの紅茶まであおったところで、呆気にとられて固まりかけていた深琴が復活した。
「ちょっと! 勝手に食べないでったら!」
「ああ、すまないな。残っているからかまわないのかと……邪魔したか」
 最後の問いは自分に発されたものだ。こんなふうに穏やかな眼差しを向けられるのは何年ぶりだろう。アイオンはかぶりを振って応えた。
「いいえ、大丈夫ですよ。お喋りしていただけです」
「そうか。……深琴、今から研究室に来られるか」
「え、今?」
 深琴が戸惑った目をしてこちらを見やる。話自体はいつでもできる、べつに中断されたところで困るようなことでもない。けれどせっかく楽しく話していたのに、アイオンを一人ここに残していくというのも気が引けるのだろう。
 微笑んで、彼女は深琴の背中を押した。実際に触れることはできず、あくまで仕種だけだったが。
「私はかまいません、深琴。お話の続きはまた後でしましょう」
「こ、この話はもういいわよ! 別の話題にしましょう、今度は。まったくもう、夏彦、ここまで来るからには大事な用事なんでしょうね? くだらないことだったらただじゃおかないんだから」
「くだらないかどうかはお前が判断しろ、俺は知らん。新しいヒヨコの羽毛のサンプルをいくつか作った。どうせだから、お前の好きな色を選ばせてやろうと思っただけだ」
「えっ、新しい子を作るの? 必要になったの?」
 そういえば深琴は、以前夏彦が作ったという白ヒヨコをいたく気に入っているのだった。
 あれに勝るものは今後もないのだろうし、たくさんのヒヨコに囲まれて喜ぶような性質でもない。でも愛らしいものを好むところはやはり年頃の少女だ。微妙に恩着せがましい発言にも腹をたてることなく、どころか目を輝かせて食い入るように彼を見上げている。何故か直視できない、といったふうで夏彦が少し視線を逸らした。
「必要というほどではないが、居て困るものでもない。……あいつの練習にもちょうどいいからな」
 あいつとは、今更尋ねるまでもない空汰のことだ。
 ヒヨコ型のロボットはノルンに搭乗し、能力者たちの世話を一手に引き受けていた。限りなく生体に近く、人工知能を搭載していて自律して動く。あくまでプログラムとしての範囲内ではあるものの、いくつかの感情を持っている。夏彦が設計、製作したものもほぼ同じ性能を有しているはずだ。
 あれほどのものを一人で組み上げるのは少年にはまだ無理だろう。だが触りだけでも始めればいいと、もっぱらの教師役である青年は判断したのか。アイオンが想像していた以上に空汰の成長は早いのかもしれない。
「そう。小坊主のことはともかくとして、それなら確かに行きたいわ。今すぐ連れて行きなさい。……あ、アイオン、お皿はそのままにしておいてね。他の人が来たら、後で私が片づけるからって言っておいて」
「承知しました」
 後半のアイオンに向けた口調はやわらかくて優しいのに、夏彦に向けるそれは傲岸不遜そのものだ。お互い素なのか遊んでいるのか、やり取りだけを聞いていたらよくわからないだろう。ただ彼女はつんと顎をあげながら、そのくせ舞踏を申し込まれたときのように優雅に手を差し出す。彼のほうも心得たもので、仕種だけは恭しく指先を受け取った。
 足音が遠ざかれば、ホールは再び静寂に包まれる。
 沸き立っていた気持ちが徐々に治まり、アイオンは静かに長く息を吐いた。
 賑やかなのも好きだ。けれど、静かなのも好きだ。見上げれば天井に開いた穴から青い空がのぞき、縁から小鳥が数羽、下へ身を乗り出している。このホールにも食べられる実をつける植物がちらほら自生している。昔からの島の人間はこの場所を最低限管理するだけであまり寄り付かないし、まして収穫や採取などしないから、格好の餌場だったのだろう。
 ここを頻繁に訪れる人たちも動物を害するなど考えも及ばないものたちばかりだが、どうしても警戒してしまうらしい。アイオンだけになったのを見てとってしばらく様子をうかがっている。無言で見上げる。短くはない時間の後、小鳥たちはようやく舞い降りてきた。
 聞く人はいないけれど、歌ってみようか。
 しかし口を開いたところで、再び鳥たちが立て続けに羽音をたてて空へ戻っていく。羽根を休めるいとまもない。忙しないこと、と特別残念にも思わずその背中を見送った。
 続く軽快な足音、誰はばかることのない扉の開閉音。
「アイネ! ここにいる?」
 飛び込んできたのは空汰だった。目が合い、彼はほっとしたように微笑んだ。
「あ、よかったまだいたんだ。一人になっちゃったし、システムに戻ったかと思ってた」
 一直線に駆け寄ってきてどさりと椅子に身体を投げ出す。走ってきたのか、軽く汗ばんでいた。暑い暑いと言いながら服の胸元をばさばさ引っ張ったり戻したりしているので、相当急いできたのだろうか。温度を抑えた風を送ってやると、空汰はありがとう、とつぶやいてまた微笑んだ。だが直後、アイオンのもの問いたげな視線に気づいて肩をすくめてみせる。
「ぼく、逃げてきたんだよ」
「逃げる……? 何からですか」
 この島はできる限り自然と共生することを目標にしているから、大地に必要以上の手は加えられていない。森の奥まで入れば危険な獣と遭遇することも、もしかしたらあるだろう。
 だが居住区からここまでの道は比較的整備されている。向こう見ずな子どもならともかく、大人びた空汰がわざわざ道を外れて危ないことに首を突っ込むとは思えなかった。いったい何から逃げてきたというのか。
「まったく、嫌になっちゃうよね。あの二人、ぼくらがいるってのに目の前でいちゃつき始めるんだからさ。夏彦はともかく、深琴は絶対周りのこと忘れてるよ。ぼくの年齢的にはまだ目の毒ってやつなのかなと思ったから退散してきた」
「……」
 そこまで聞いて、だいたい想像がついた。
 なんだろう、笑いしか込み上げない。そういえば正宗も零していたか。普段は二人ともつんけん取り澄ましているくせに、一度スイッチが入るとあたりかまわずいちゃつきだして困ると、子どもたちの教育に悪いと、いかにも保護者めいた愚痴につきあって費やした時間は確か二時間程度だった。わりと長い。
「それは……災難でしたね」
 しかつめらしい顔を作っても、彼はうんとうなずいてくれなかった。
「声が笑ってるよ、アイネ」
「すみません、こらえきれなくて」
「そりゃあぼくだって、立場が逆なら笑いごとで済ませるけどさあ」
「空汰くんのばかーぁ!」
「!?」
 ばーん、と先ほど以上に騒々しい音をたてて激しく入口が開いた。扉が壊れて外れてしまいそうなほどの勢いだ。転がり込んできた新たな客は、青い顔をして、空汰以上に息を弾ませていた。
「お、オレ一人置いてくなんて酷いじゃないスか! おかげで夏彦さんの『失せろ』って視線がまるで氷のように冷たくて……ヤバイあれはヤバイ! ああ、あの人女ならほんとに完璧なのに!」
「あ、変態までこっちに来ちゃった」
 普通に走ってきただけのはずが、雪の三つ編みはところどころほつれてどこかやつれた風情を醸し出している。来る途中木の枝にでもひっかけたのだろうか、よほど余裕がなかったのか。
 空汰がぽろりと漏らした言葉にもそれほど反応しない。必死の精神状態であるからという以上に、本当に男性からの罵倒には露ほども刺激されないらしい。
「半分は自業自得じゃないの?」
 急停止した拍子に帽子が落ちて転がっていった。べつに急ぐ必要はないのだろうに、あたふたと拾って埃をはたいている雪を、空汰はすっぱりと断じた。
「ぼくが出てった後も、二人のこと見てたんでしょ。そりゃ睨まれるよ……」
「何言ってんですか空汰くん、あれはあれで眼福っしょ! まあいつも言われっぱなしだからね、野次るネタのひとつやふたつ欲しいなとかね、思わないでもないんだけど! ……いやほんと撃たれるかと」
 肩を落とす青年に向けられる視線は、あくまで冷たい。
「やっぱり不純な動機込みなんじゃないか。べつに殺されはしないでしょ、あの人もう銃も持ってないんだからさ」
「でもオレよりケンカ強いから」
「…………うん、まあ。おおかた予想はついてたけど」
 ああもう、とつぶやいて、空汰は思いきり伸びをした。椅子から伸びた足はすんなりと長いが、まだ床に届くには至っていない。ぷらぷらと揺らして、わずかに頬を膨らませる。
「せっかくアイネに歌ってもらってのんびりしようと思ってたのにさ。雪が来るとうるさい」
「え、オレここでもお邪魔虫扱いなわけ? 今どきのお子様って……」
「ほんと、雪ってうるさいよね。しかも訳わかんない」
「あああなんで空汰くんも男の子なのかなあ!」
「ぼくは今自分が男でよかったって心の底からほっとしてるよ!」
 少年の甲高い声と、青年のわめく声。緑に覆われて久しい壁も、一部は無事に残っている。音が良く響くように細工されていることも相まって、小鳥など到底寄り付かないような大音量がホールをわんわんと揺らしている。誰かが外を通ったら会話は丸聞こえだろう。
 深琴と話していたときのこの空間は同じように人の声が満ちていても、朗らかとでも表現するのがふさわしかった。
 今は正直なところ、騒々しい。だがこのわずらわしいまでの音量がアイオンにとっては新鮮だ。
 島の人間たちは彼女を縛りつけたが、同時に家族のようなものでもあった。ただこんなふうに屈託なく接してくれることはなくて、結果この心は徐々に摩耗していった。
 ずっと静かだった。穏やかで、けれど寂しい時間が流れていた。自分が力尽きるまで、ただ水のように空のようにたゆたって、いつか終わりを迎えるのだと思っていた。
 満ち足りていた過去のあの日々に知っていた、それとはまた別種の幸せがここにある。
 空汰と出会えたことは大きい。けれどそれだけではない。彼が連れてきた人々と、持ち込んだ今までとは形の違う日常。忙しい。目まぐるしく変わりゆくすべてを見つめながら、それらに追いつこうと歩いて走って、ふと遠い場所までやってきたことに気づく。まるで人のように。
 たとえばほら、こんなふうに声をあげて笑った経験はなかった。これは新しく学んだことだ。昔の自分は、おとなしくやさしく微笑むのがせいぜいだったはず。
 アイオンの笑い声に気づいた二人が振り向いた。言い合いはやまないけれど、笑顔になる。笑いながら悪態をつきあうというのもなんだかおかしな話だ。
 でも笑っている。アイオンもさらに笑う。笑いすぎて涙が出てきて自分で驚いた。そんな機能、まだ残っていたのか。そしてそのことに気づくのが今このときだとは。
 そっと目尻を拭う。

 続いていけばいい。願わくばこの幸せが、形を変えても、いつまでも、ずっと。
--END.
深琴は夏彦がヒヨコ作ってやんよ! って言っても「この子(白いの)がいれば私は充分よ」とか返しそう。
ですがまあそれは置いといて。
願望と妄想を混ぜてみました。この中の夏彦さん大忙しですね月の研究に加えてアイオン関連もか。
でも問答無用で壊したいほどアイオンを憎んでいるのかと思いきや、抑止力にするって言ってみたりまともに会話してたり聞く耳持ってたりするので、最初のころはわりと仲良かったのかもとか妄想。
あと雪、最初はロンと同じように金銭や利害でつながってるのかと思ってたんですが、どうにもやり取りが気安いので…まさしく「舎弟くん」という表現がぴったりな。なので勝手に幼馴染だったりするのかなと妄想してみました。技術レベル的な意味でも。
アイオン、エピローグのスチルで泣いてたような気がしますがまあ細かいことは気にしないでください。
空汰はきっととてもいい男になると思います。将来が楽しみな子ですねふふふふふ。
もうそうたのしい。
(2013.06.28)