月は、慣れ親しんだものだった。
 育ったのは山奥の寒村。夜でも煌々と明るい王都とは違い、陽が落ちればすぐに辺りは濃い影に塗りつぶされる。
 樹間からのぞくいくつもの光る目。どこからか聞こえてくる梟の羽音。
 夜を侮ったことはない。けれど恐怖を感じたこともない。
 そして月の光は、眠る生命たちをあくまで優しく包み込む、静寂の帳だった。




17.捕まえていてください





 ルウの家は、故郷の村に良く似ていた。
 正確に言うなら、家を取り囲む環境が、だ。光を与えてくれるものは月と星しか見当たらず、過ぎる風は木と水の匂いがする。虫の声が絶えることなく鳴り響き、命の気配が濃厚に漂っている。
 アメルは切れかけた息をついで空を見上げた。身体がひどく重く感じられて、思いのほか手間取ってしまったが、同室の少女たちの眠りを妨げずに抜け出すことにはどうやら成功したらしい。念のための見張りにと数体の召喚獣を残したほかは、みな泥のように眠りこけている。窮屈そうに、けれど離れるものかと肩を寄せあって。
 夜を徹してファナンまで歩くには消耗しすぎていた。悪魔たちは結界を越えてまで追って来ることはできないとの守護者たちの言もあり、今夜はここで夜明かしをすることにしたのだ。おそらくかつては一族で暮らしていたのだろう、森の奥にあるにしては屋敷は立派な造りをしていたが、城砦ではないのだから襲われればひとたまりもない。それでも屋根と壁があるだけでも随分安心感が違う。
 ちいさく身震いした拍子に、くしゃみが出た。たった今まで触れていたはずのぬくもりは、すでに消え去ってしまっていた。夢を見る余裕すらもないのだろう、静かな寝息だけがあの場のすべてだった。いつもなら寝言やいびきや寝返りの音や、ひそやかながらそれなりに雑音がしているものなのだけれど。
 自分だって、喉の渇きを覚えなければ起きだしたりしなかったに違いない。今はとにかく休息がほしかった。眠るのが一番だ。少しの距離を歩くのすら億劫に思える。足の筋が痛みをうったえて、骨から剥がれたがっているような錯覚に襲われる。
 厨房に汲み置きの水はなかった。
 裏手の井戸まで行かなければならないのか。肩にかけたショールの前をかきあわせて、アメルは踵を返した。どうせついでなのだ、桶一杯分くらいは汲んできておこうか。朝が来るまでに、他に起きだす者がいないとも限らない。






 森は、静かだった。
 悪魔の気配を感じて息をひそめているものか、ざわざわと葉ずれの音がするのみで虫の声ひとつ聞こえない。
 そういえば、と思い出す。突然の襲撃にレルムの村が灰と化したあの夜も、こんな静けさに包まれていた。にわか造りの神殿らしき建物は木造で、けれど今まで暮らしていた家よりもはるかに壁が厚かった。覗き見などできぬようにと塗り込められた土の壁が少しだけ息苦しくて、だからこそ頻繁に森に散策に出ていたのだと思う。毎日たくさんの人に会って、たくさんの魂の輝きをみつめていたのに、身近にあった命の音からは遠ざかっていた。
 兵士たちにすぐにみつからなかったのは、空を見ようと部屋を抜け出していたからだ。悲鳴に気づいて戻ったときには、すでに見慣れた光景は赤一色に染め替えられていた。
 おびただしい量の血。風にあおられて舞いあがる炎。土の茶色空の青、木々の緑に慣れていた目に突如なだれこんできた、命と破壊を同時に象徴する矛盾した色。
 高みから照らす満月までも、滴るように赤く、紅く――……
「…………あ……」
 アメルはうめいて一歩、後ずさった。
 今夜も満月か。こんなの、結局はただの自然現象だ。それなのに、ひさしく見ていなかった紅い光に動悸が速くなる。
 戻ろう、戻らなければ。水はもういい、このままここにいたら、おかしくなる、呼んだら誰か来てくれるだろうか、ああでも、みんな疲れてるのに、危険があるわけでもないのに、意味もなく騒ぎたてるなんて、そんなの駄目だ、そういえば、屋敷はどっちの方角だっただろう、明かりを持たずに出てきてしまった、もういい、とにかくどこか、月の光の届かないところに

「アメル?」

 呼ばれてすぐには、それが自分の名だとは気づけなかった。
 いつのまにかしゃがみこんでいた肩を揺らされて、ようやく顔をあげることができる。ゆるゆると結んだ焦点の中心にきたのは、訝しげな表情をした青年だった。少年を抜け出したばかりのまっすぐな瞳。濃い眉尻が少しだけさがって、心配されているのだと思い至る。
「……マグナ、さん?」
 呆然とつぶやくと、彼は安堵したように肩の力を抜いた。
「ああ、大丈夫なんだ。急に具合でも悪くなったのかと思って……」
 座り込んだまま優しく背中をさすられる。気づかないうちに冷えて強ばっていた身体が、弛緩して自由を取り戻した。息をついてかぶりを振ると視界の端で栗色がさらさらと揺れた。
「……どうしてこんなところに」
「どうしてって……たぶん目的同じだと思うんだけど」
 指し示された先には井戸がある。改めて周囲を見渡してみれば、屋敷の煉瓦壁がすぐそばにあった。一時的に混乱してしまっていたらしい。いくら暗くとも、迷うような道のりでは、いやそもそも道のりと呼べるほどの長さすらない距離だったのに。転がしてしまった桶を拾いあげて苦笑する。
「立てるか?」
 マグナが背をかがめてささやいた。うなずけば手を伸ばしてくる。素直に握り返して立ち上がり、アメルは井戸のほうへ向き直った。
「少しだけ水を汲んでかえろうと思ったんです。ちょっと立ちくらみがして方向がわからなくなっちゃって」
「昼間あれだけ走ったんだからそりゃ無理もないよ……俺やらフォルテやらは慣れてるけどさ、アメルは女の子なんだから。言ってくれればつきあったのに」
「ごめんなさい。でも……」
「あー、ストップストップ! そこまで!」
 目の前に手のひらを突き出されて少しだけのけぞる。彼は乱暴に頭を掻いて笑った。
「……ごめん。戻ろう。で、ちょっとだけ話がしたい。……いい?」
 アメルが口を出す暇もなく、見守る横でするすると器用に釣瓶が上下し、桶はあっという間にいっぱいになる。差し出した指は空を切って、桶の持ち手はさらわれてしまった。行き場を失った手で思わずマグナの袖をつかむ。ふりさばかれた次の瞬間、指と指が絡んでいた。さくさくと草を踏む音がして、歩き始めていたことに遅ればせながら気づく。
「あ」
 突然立ち止まった背中に鼻がぶつかって、アメルは目を白黒させた。何事かと見上げた横顔を照らすのは夜の闇と月の光だ。けれど、先刻とは違う。穏やかに凪いだ心に自分でも不思議に思いながら、彼女は彼の次の言葉を待った。
 りー。りー。りー。
「虫が鳴いてる。そっか、ここら辺ちょっと標高が高いもんな。秋が来るのも早いんだ」
「……あら? そういえば……」
 一人で出てきたときは聞こえなかったはずだ。アメルは首を傾げて考え込みかけたが、結局やめた。錯覚か、事実か。どちらかはわからないが、べつにどちらでもいい。繋いだ手に少しだけ力をこめてひっぱる。
「みなさんを起こしちゃったら悪いですし、テラスに行きましょう? 月も綺麗に見えるし、虫の声も聞こえるはずです」
「そうだね」
 うわあ、今夜の月ってば真っ赤なんだ。
 ごく近くであがる感嘆の声にくすりと笑みをもらして、彼女も空を見上げた。
 あの日見たものと、寸分たがわぬ紅い月。けれど、その下に広がるのは魔を封じ込めながらも穏やかな様相を保つ森と、静かな闇。
 とてもとても綺麗だけれど、正直、一人で眺めていたいとは思わない。つい先ほど錯乱しかけたことを忘れられるほどお気楽にはできていない。
 でも彼と一緒なら大丈夫だろう。
 きっと。
 他愛無い話をして笑いあって、それからぐっすりと眠ろう。








--END.




|| INDEX ||


あとがき
そして夜会話に続く、と。
…他愛無い話? あの夜会話が? ああもう、それは無視の方向で(おい)
「縋りつく」とか「癒し」でもよさそうだなと思ったんですが、題名から派生して考えた結果コレだったのでもうこの題でGOです。
アメルは強い子だと思っておりますが、もちろん完璧ではないわけで。
折れそうだと思ったときに絶妙にひっぱりあげてくれる人がいたからこそ、強くあろうと前を向いていられたのだと思いますです。
傷の舐めあいだとか依存してるとかそういう要素もあるにはあるけど、まあいいかなーと。
なんだかんだで二人だけで世界が完結してるわけでもないあたり、健全ですな。
え、不健全でもいけますよ? 

ネストリも、マグナがいる場合はけっこう健全なイメージがあります。
つまり、マグナが同時存在でなかったら、かなり病んでおります(笑)
んで、旅の中で他にも大事な存在ができて段々世界が開けてくのさー。互いが一番ということに変わりはなくとも。つーかラウル師範は不要なんですかひどくないですか(ツッコミ)

(2005.08.22)