下段回し蹴り





 ぽてぽてと、自身の足音が後を追いかけてくる。ヒールのついた皮のブーツで、しかも乾いた石畳を規則正しく歩いているというのに、何故こんなに緊張感のない音が出るのだろうか。
 大きな紙袋を抱えて歩きながら、アティはふとそんなことを思った。
 絶え間なく続く音は、つい最近自分のもとから巣立っていった教え子の護衛獣の名前に似ていないこともない。ただし、彼は足音ではなく歩く様子から命名したと言っていたのだけれど。"てこてこ"と"ぽてぽて"との間に、そうたいした違いはないだろう。
 いや、そもそも純粋な音を文字として表す際、表現は人によっていかようにでも変わっていく。あの子なら、彼女のことも同じように"てこてこ歩いている"と評するかもしれない。
 ぬいぐるみのような風体をしている獣と子どもの組み合わせは、見ていてひどく微笑ましいものだった。今ごろ軍学校での語り草になっているのではないだろうか。マルティーニの名代として出席した入学式で、彼らはおもしろいほどに人々の注目を集めていた。
 ――――そう、今の彼女のように。
 自らが置かれている状況を思い出してしまい、アティは軽くため息をついた。
 先ほどからやたらと視線を感じるのだ。含まれている意味まで推し量ることはできないけれど、あまり気持ちのいいものではない。一体何が原因だろう。
 確かに初めて訪れる街だ。そもそも彼女にとって、港町はあまり縁のなかった場所である。故郷は山中の村だったし、軍学校に入学してからもほとんど敷地内から出ることはなかった。唯一まともに歩いたのはあの島に流れ着く前、自分の乗る客船を捜していたときのみ。しかも、あのときはこれから就く"教師"という職業に不安でいっぱいで、ろくに景色も見なかった。結局初めてだろうが二回目だろうがそう変わりはない。だから必要以上にきょろきょろしていたことは認めるが、それにしてもこれほど無遠慮に見られる理由があっただろうか。
 入り口に派手な色使いの庇がかけられているところから考えるに、並ぶ建物はおそらく商店なのだろう。しかし、売り子の姿も商品も見当たらない。二階以上が住居として使われているのも一般的だが、窓からのぞく顔はあるのに庇から出てくる人影がないというのは、なんとも奇妙なものだ。
 アティは一度立ち止まった。どうやら道に迷ってしまったらしい。道を尋ねることにさえ気が引けてしまうが、かといってあてもなく歩いていたのでは港にたどりつくことはできないだろう。一人で大丈夫だと言い張って出かけてきた手前、船で待っている仲間たちに手間をかけさせるわけにもいかないし。
 頼まれたものは手に入れてあるのだ、後は帰るだけ。
 そう結論づけると、早速辺りを見回す。近場にいたのは男性三人組だった。日光を避けているのか、庇の端のほうにかたまって座り、なにやらぼそぼそ話をしている。ときおりこちらをちらちら見るのが少しばかり不安を誘うか。
 ……女の方かお子さんに聞くことにしましょう。
 内心で一人ごちて、アティは回れ右してもう一度視線をめぐらせた。しかし、こうして改めて探そうとするとどうにも目当ての姿は見当たらない。夕刻とはいえまだ日没までは時間があるのだ。人の往来も激しくて当然なのに、通りはやけに静まり返っている。
 唐突に、誰かが肩に手を置いてきた。
「っ!?」
 ぶんっ!
 緊張が高まってきていた矢先に刺激され、彼女は思わず持っていた紙袋を後ろに投げた。遠くで軽い音がする。中身は壊れ物ではないから心配はしない。それよりも、避けられたことのほうに神経が尖る。
 振り向きざまに裏拳を叩き込もうとしたが、それもかわされた。腰に帯びていた剣を鞘ごと外して宙を薙ぐ。ごつ、と鈍い音がしたが動きが鈍る気配はない。予測の範囲内だったらしい。吐息だけで悪態をついたとき、視界の端で一瞬陽光がきらめいて、アティは相手が大柄であることを見てとった。おそらく純粋な力比べではかなわない。
 つかみかかろうとする腕をかいくぐって軽く跳躍する。着地と同時に地を蹴って一気に距離を詰めると、彼女は腰を落として足払いをかけた。背が高いとえてして足元がおろそかになりがちだ。しかし、かなりの手練であるらしい相手は、思い通りにはなってくれなかった。
 地面についていた両手に、がっしりと大きな手のひらが重なった。その力強さに悲鳴をあげかけ――それが馴染んだ温かさだということに気づく。
 その時点でようやく、アティは目の前の人物をまっすぐに見据えた。
「……………………………………あれ……?」
 首をかしげる。
「あれ? じゃねえよ……」
 そこにいたのは、ごく身近な人物。身を寄せている船の船長が、疲れたような表情で、つかんでいた彼女の手を揺らした。







 大きいけれど重さはそれほどでもない紙袋が、歩くたびにがさがさと音をたてる。足音が二人ぶん重なったらそれほど間抜けには聞こえないんだなあ、などとどうでもいいことを考えてから、アティはそっと隣を歩く青年を見上げた。
 差し込む光が金色に弾ける。立ち回りの最中に陽光に見えたのは彼の髪だったのだ。まっすぐ前を向いている横顔をひとしきり眺めてから自分の左側に視線を落とす。
 先ほど再会してから、彼は有無を言わさずアティから袋を奪い取った。そして、あまっているほうの左手でぐいと彼女の腰を引き寄せてそのまま歩き出したのだ。歩幅は合わせてくれているから、歩くのに特に苦労するというわけでもないが、この密着姿勢はやはり気になる。
「あの、カイルさん?」
 返事はない。
「……カーイールー」
 歌うように呼び捨てしてやると、カイルはようやく気づいたようだった。
「……あ。あ、わりぃ、なんだ?」
「何ってことはないんですけど。ちょっと気になって」
 言って腰を指差す。なんだかんだで自分たちは恋人同士と言える関係にあるのだから、彼のこの行為自体は問題ではない。ただ単純に不思議だった。そもそも、カイルは人前ではあまりくっつきたがらないたちだ。二人きりのときでさえ、ふっきれてしまうまではおっかなびっくりといった風なのに、一体どうしたのだろうか。
「もうちっと我慢しとけ。大通りに出たら放してやるからよ」
「いえ、だからかまわないんですけど……理由が知りたくてですね」
「……おまえ、気づいてなかったのか?」
 カイルが眉をひそめた。琥珀の瞳に浮かんだ光が紅い。西の空を見上げる。いつのまにやら街は黄昏の気配を色濃く映し始めていた。
「気づくって、何をです?」
 周りを見てみろ、との言葉に顔を上げて、次の瞬間彼女は目を瞠った。
 閑散としていたはずの通りに人が増えている。乾いた風は、いつのまにやらむせ返るような甘い香りに取って代わられている。建物の中だけではなくどうやら港のほうからも人波は押し寄せているようで、やけに急いでいる風情の男たちが二、三人、路地裏のほうに駆けていった。
 アティは目をぱちくりさせてつぶやいた。
「え? あれ? ……人、いなかったのに」
「そろそろ店が始まるからな」
 店。
 なんの、とは尋ねるまでもなかった。一気に華やいだ空気があふれ、酒と白粉の匂いがぷんと流れてくる。薄物をさらにはだけた女たちの客引きの声がひっきりなしに響く中を、少年とも少女ともつかない恰好をした子どもが楽器を手に走り抜けてゆく。
 アティは嘆息した。
「……なるほど」
「な?」
 要するに、ここは繁華街だったのだ。もっと正確に表現するならば花街か。知識では知っていたが、実際見るのは初めてだったので、こうなるまでちっとも気づけなかった。
 とん、と腕に誰かがぶつかってくる。何事かと振り向けば、すでにおおいに酔っ払っているらしい男性の赤ら顔が目の前にあった。
「おー、べっぴんはっへーん! なあらあ、あっひれいいころしらいら? ん?」
「へっ?」
 ろれつが回っておらず、よく聞き取れない。思わず男のほうに身を乗り出しかけると、ぐいと引き戻された。なにやら硬いものに包まれる。鼓動が聞こえてきて初めて抱き寄せられたのだということに気づき、アティは頬をわずかに染めた。頭上を声が素通りしていく。台詞の内容まで聞き取る余裕などとてもなかったが、とにかくぎゅっと目をつぶってカイルのシャツを握りしめる。大きな手が安心しろとでもいうように背中をなでた。
「ほれ、行くぜ」
「えっ」
 おそるおそるまぶたを開けば、手を振る男の笑顔が遠ざかってゆくのが見えた。至極友好的にお引き取りくださったらしい。しがみついたまま琥珀の瞳を見上げると、彼は苦笑してアティの肩を叩いた。
「何必死な顔してんだ」
「あ、れ?」
 能天気だお気楽だと、仲間内では散々言われっぱなしの彼女だが、人並みの危機感くらいは持ち合わせている。確かにカイルならば大抵の相手はすごむだけで退散させてしまえるけれど、今の御仁はしこたま酔っ払っていた。まともにしゃべれもしないのに、二人の間で会話が成立したのか。
「……行っちゃいましたね」
「ああ。まあ、大抵のヤツはなあ……」
 そこまで言いかけて、彼は一度口をつぐんだ。アティを促して再び歩き始める。少々落ちついたのか、周りをきょろきょろ見回している彼女と同じように視線をめぐらせてみる。
 影の落ちている路地裏に、光る目をいくつも見出して彼はそちらに鋭い一瞥をくれた。牽制にはなっているだろう。見てくれだけで腕がたちそうだと思わせることができるのは楽でいい。
「けどな、アティ」
「はい?」
「全員が全員話すだけで退散してくれるとは限らねえ」
「……ですね」
 楽しげだったアティの表情が、少しだけ引き締まった。
「こんなとこ一人で来るもんじゃねえぞ」
 カイルが鼻を鳴らす。彼女のことだ、おそらく教えた道順をほんの少し間違えただけだろう。けれど、そのほんの少し、が侮れないこともあるのだ。加えてアティは人目を引く。美しい娘が一人で歩いていれば、そこがたとえ表通りであっても良からぬことを考えるものはいるかもしれない。出るとき散々からかわれたが、やはり探しにきてよかった。
 この街の地理を知り尽くしているソノラでさえこの辺りには一人では近づかないのだ。いや、傘下の者たちが色と食事を求めて大勢でやってくるときも、彼女だけはカイルやスカーレルらとともに比較的治安の良い界隈で夜を過ごす。何事にも首を突っ込みたがるあの少女が不満を口にしないのは、荒くれたちをよく理解しているからこそ。種は蒔かないに越したことはない。
 しかし。
 彼は先刻の立ち回りを思い出して、ちいさく笑った。
「まあ、あんだけの立ち回りができるんなら自信があってもしょうがねえけどよ」
 あの回し蹴りには焦ったぜ。
 そういうと、アティはかすかに唇を尖らせた。
「そんなこと言って……結局カイルさん、よけたじゃないですか」
「そりゃあな」
 なんだかんだいって、海賊稼業に戦闘行為はつきものだ。暇があれば組み手をすることもある。であればより近い身体能力を持っているもの同士が組んだほうが効率がよい。突出しているのはカイルとアティ、それにスカーレルの三人。同じ相手とばかり戦っていれば、行動パターンは自然に覚えてしまう。初期、足払いで何度も地面に転がされたのだ、同じ手をそう何度もくうものか。
 そして、油断や偶然は思わぬ結果を引き起こすものだ。
「……ま、勝負なんてのはわかんねえもんで」
 カイルは細腰に回した腕に力を込めた。確かにアティは強い。技術だけではなく咄嗟の判断力も一流で、腕力のなさを補えるだけの敏捷性があるし、なにより最後の切り札としてあの蒼い魔剣がひかえている。
 けれど、抱きしめるたびに感じるのはその繊細さと脆さ。途方もない力を秘めていたとしても。何にも屈することのない心が宿っていたとしても。翻る赤毛もやわらかな笑顔も、しなやかな肢体も。優しさをこそ抱いているのがふさわしいではないか、とそう思ってしまう。
「あんまり心配させるんじゃねえぞ」
 そう簡単に壊れるものでないことはわかりきっている。守りたいと思う心が自身の身勝手に基づいたものだということも、自覚はしている。
 それでも、根底に流れるものはいつも同じだから。アティは素直にうなずいて、綺麗な綺麗な笑みを浮かべる。







--END.




|| INDEX ||


あとがき。
ていうかお触りの前には声をかけましょう船長(笑)
…題名がふざけてるんですが、まず何より浮かんだのがアティ先生回し蹴りの図だったもので。
私OPのギャレオとカイルの殴り合いに燃えまくったクチですが、先生とも戦って欲しかった…
話の中でも戦ってるし、ビジュアル的にいいと思うんだけどなあ…レックスでもOK。
ところでOP内にカイルのアップはありましたっけ…? なかったよね?
ソノラとスカさんはあったのになー。可愛かったのになー。かっちょよかったのになー。

花街、といっても千差万別なわけで。
吉原とかだとあんまり治安の悪いイメージなかったりして(実際はどうか知らないけど)
まあどっちにしても用もなく女の子が一人で歩く場所ではないかなとも思いますが…
この中の花街はタチが悪い部類なんだろうなーと思っていただければ。
個人的に船長は花街通いも普通にしてたんじゃなかろかとか。先生に会った後はさっぱりだろうけどねえ。