周囲の思惑どこ吹く風と。
 それは彼らにとってはたいした意味も含まれていない、単なる日常だったのだ。




思惑





「うーん…………むむむ……」
 腕をひねる。肩を回す。ついでに首も通常ではあり得ないような方に向けて曲げてみる。
 割り当てられた自室で、アティは一人うなりながら身体を動かしていた。
 すでに夜は更けている。にも関わらず、窓辺に据えられた机の上ではランプが淡い光を放っている。起きているものは少ないだろう。けれど、彼女にとってはまさにこれからが大切な時間だった。
 昼間は青空教室で子どもたちの面倒を見る。その後、一人年の離れているアリーゼの授業を行い、食事の用意を手伝ったり、薪を拾ってきたり、船内の掃除をしたり。やるべきことはたくさんある。一日中が文字通りてんてこまいで、限られた時間をいかに有効に使うか、それをつきつめれば自身の勉強や次の授業の準備を夜行うことになるのは自然な流れだ。
 しかし今、アティはやりかけの仕事をほったらかして体操らしきものに没頭していた。
 首筋から肩にかけて、どうにも違和感が取れない。いくら力をこめてもそれが正しく筋肉に伝わっていないような気がする。腰に手を当てて思いきり背をそらした瞬間、誰かが扉を叩いた。
「どうぞ〜」
 腹筋を使ってぐっと息を吐いたにも関わらず、出した声は妙に間延びして聞こえる。
 ああ、この体勢はちょっと気持ちいいかも。
 のんびりそんなことを思った彼女だったが、さかさまの視界に現れた人物を認識した途端に一瞬前の自分を呪った。
「……………………何やってんだ?」
 ぽかんと口を開けて、金髪の男が立ち尽くす。
「かかかかかっ、カイルさんっ!?」
 アティは音さえ聞こえそうな勢いで上体を起こした。よりによってこのひとに、なんて姿を見られてしまったのだろう。ばさばさになっていた赤毛を慌てて手櫛で整えて、直立不動の姿勢をとる。純粋に驚いただけだったのか、カイルは笑い出す気配もなく首をかしげている。それがかえっていたたまれない気分をひきおこして彼女はがっくりと肩を落とした。
「えー……、と。頼まれてた海図と航海記録持ってきたんだが……」
 彼がすりきれた革表紙の本を示す。昼間アティが貸してくれるように頼んだものだ。天候の予測に関することも教えて欲しいとスバルにせがまれ、教材にでもなればと思っていたのだが。
 ……なんともタイミングが絶妙なものだ。
「あ、ありがとうございます……」
 再び沈黙が落ちた。
 そのまま踵を返して出て行くものかと思いきや、カイルはもう一度首をかしげて彼女を見つめる。
「で、なんだったんだ? 今の」
 体操でもしてたのか?
「いえ、そうじゃなくて……まあ、まったく違うとも言いきれないんですけど」
「はあ」
「その……、……り、が、ですね」
「ん?」
「ですから、肩こりがですねっ!」
 思いがけず大声になってしまって、アティは慌てて口を押さえた。時刻と内容を考え合わせれば、今の台詞はごくちいさな音量でもってつつましく発されるべきものだった。そろそろと上目遣いにカイルの様子をうかがう。笑われるかと思ったのに、実際には「ああ、そうか」と相槌が返っただけ。彼はそのまま窓際の机に歩み寄ると、持っていた本を置いてびっしりと文字の書き綴られた紙束に目を落とした。
「もしかしてメシの後からずっとやってたのか?」
 そりゃ肩ぐらいこって当たり前だろう。
 言って一枚取り上げる。文章を追っているのが視線の動きでわかった。
「それ、アリーゼが作ってくれたお話なんです」
「へえ、うまいもんだな」
「でしょう?」
 教え子に対する素直な賞賛の言葉はやはり嬉しい。いそいそと傍らに寄っていって、一緒になって彼の手許を覗き込む。
 いつか偶然耳にした童話は、てっきり寝物語に聞かされた話をそのまま年下の子どもたちに語ってきかせてやっているのだとばかり思っていた。その後彼女の意外な才能を知って、口説き落として教材に使うことを了承してもらった。
「聞くだけでも勉強にはなるんですけど。やっぱり手元に文章があったほうが、字の勉強にもなっていいかなあって思って……」
 短くはない話を、人数分書き写すことにしたのだ。思いもかけず作業が長引いて、同じ姿勢を何時間も続けることになってしまったのは少しばかり誤算だったけれど。
 ぱさ、と軽い音がして紙が机の上に戻る。顔を上げると同時に身体をぐるりと回されて、アティは軽くよろめいた。すかさず伸ばされた腕にがっしり支えられて安堵の息をつく。
 肩に指が触れた。
「けっこうこってるな」
「ええ、ついつい……って! あたたた、カイルさん痛い痛い!」
「あ、わりぃ!」
 涙目で振り返ると、ばつの悪そうな表情とぶつかった。そもそも善意でやってくれたことなのだから文句を言う筋合いもないのだが、彼の場合力が力である。手加減していてもアティの肩など簡単に握りつぶせてしまえるだろう。うってかわって恐る恐る触れてくる手にほっとして力を抜くと、なにやら温かいものがじんわりとしみこんできた。
 頑固に居座りつづけていた余計な緊張が抜けてゆく。違和感を訴えていた筋が、少しずつ本来の位置に戻っていくような気がする。
 たとえるならば、温浴をしているときのような心地よさか。
 ある可能性に思い当たって、アティは前を向いたまま視線だけを心持ち後ろに向けた。
「もしかして……ストラ、してくれてます?」
「あたり」
 楽しげな声に自然笑みが浮かぶ。まぶたを閉じるとカイルの息遣いを感じた。呼吸のリズムと、よせては返す温かさが、同じ速度。流れ込んでくるものがそのまま彼の生命の息吹なのだということがよくわかる。
 とん、と指先が肩をたたいて、アティははっと我に返った。
「あ。え……と?」
「終わりだ。ちったぁマシになったか?」
 律儀に確認してくるあたり、単なる思いつきだったらしい。もっと続けてくれればよかったのにと口に出してしまいそうになって、とっさに口許を押さえる。
「あ、はい。ほわーってして、すごく気持ちよかったです」
「そりゃ良かった」
 カイルは一度赤毛の頭をくしゃりとなでて、大またで戸口に向かった。たいして広い部屋でもないが、慌てて追いかける。ノブに手をかけたところで彼は振り返った。
「またしんどいときは言えよ。あんなんでいいならお安い御用だからな」
「はい。……ありがとうございます」
 なんの、と笑って開かれた扉から。
「きゃあっ!」
「なんだっ?」
 どどっと小柄ななにかが倒れ伏してきて、カイルはとっさに人影を抱きとめた。アティが目を瞠る。
「アリーゼ。まだ起きてたんですか?」
「あ、あの……っ」
 しどろもどろになるのはいつものことで、慣れきっている二人はたいして疑問にも思わずそのまま視線を交わした。ふとカイルが片目を眇める。時刻はすでに深夜、補充が利くとはいえ油は貴重なものだ。灯りはまったくの闇になってしまわない程度にしか据えられていない。しかし存外注意深い瞳は、ランタンの明るさが生み出した質の違う影のもとに巧妙に隠れた人物を見出した。
「なんだ、おまえらまで。先生に用だったのかよ?」
「ああら、アタシたちは通りかかっただけよぉ」
 白々しく明後日の方向を向いてスカーレルがそううそぶく。そうそう、と彼の後ろにいた妹が調子を合わせる。すぐばれる嘘などつかなくてもいいだろうにと、そう思わないこともなかったが、かといって追求するのも面倒だったので、彼は一瞬眉をひそめるにとどめただけでそのまま抱えていた少女を床に下ろしてやった。
「あの、あのっ、先生っ……!」
 アリーゼが泣きそうな顔でアティにすがりつく。
「大丈夫ですか?」
「え? ……あれ、もしかして気づいてました?」
 彼女は苦笑して生徒の頭をなでた。アリーゼの部屋は壁一枚隔てたすぐ隣だ。妙な体操をしていたから、気配か何かが伝わってしまったのだろう。体調管理も大切な仕事のひとつ。改めて調子が悪いというほどのことでもないが、教え子に余計な心配をかけてしまうのは教師としては避けたいところだ。
「なになになにッ! 何があったの!?」
 なにやら急にらんらんと瞳を輝かせ始めたご意見番と妹に気圧されて、二、三歩カイルが後ずさる。何か誤解してねえか、ともごもごつぶやいてみたが誰の耳にも届かなかった。



 その後真相を知った彼らの反応は三者三様で、特にスカーレルとソノラの豹変ぶりには参ったと、後々船長は語ったとか。







--END.




|| INDEX ||


あとがき。
なにやらテンポが悪いのですが。
つーか肩こりってネタとしてどうなのよと思わんこともない…
いやでも机に向かってる時間が長いと若くても肩こりはするし!(笑)
船長にストラしてもらって、「あー気持ちいーですー」とか言いつつほわわんと和んでるアティさんの姿が思い浮かんでしまったのですよ。ええ。
せんちょもたまには肩こりしてると思います。慣れないデスクワークをたまー…に、やってね。
…萌え(ええ?)。

私のイメージでは先生がレックスでもアティでも、やきもち焼きなのはアリーゼとウィル。
逆にさっぱり…ってわけでもないんだけど、別段それっぽいそぶりを見せないのがナップとベルフラウ。
そんな感じで。

深夜部屋に男が! すわ先生ピンチ! とかなんとか勝手に周りが心配(期待)するのです。
でも本人たちはなんにも考えてなかったりするのです。
後半だと艶っぽい展開もアリなのかなあと思ったりもするので、序盤なイメージなんだけど…
アリーゼのイベントって何話目だったかいな。