夢なら覚めないでと何度思ったことか。
まどろみから連れ出してくれるその人の声を、まぎれもなく現実のものなのだと思うことができるようになるには、少しの時間が必要だった。
現への導きて 〜トリス〜
真っ白で、足元がふわふわして、なんとも頼りない空間。
ゆらゆらとまるで母の胎内をたゆたうような感覚に身をまかせながら、トリスは閉じていたまぶたをゆっくりと開いた。
相変わらず身体の位置は定まらない。しかしそのことに特に不安を抱くことはなく、ただ彼女は次に起こるであろうことを静かに静かに待っていた。
やがて正面に黒い小さな点が浮かびあがる。それははじめもやもやと不安定な輪郭を描いていたが、やがて凝り、そして。
「……トリス」
笑った。
「ネス!」
唐突に、しかも徒人としてはあり得ない方法で目の前に現れた彼に、けれどトリスは戸惑いの表情ひとつ浮かべずに抱きついた。彼はもちろん、抱きしめ返してくれる。その確信とともに。
髪を優しく梳く指先を感じる。胸元に押しつけた耳には規則正しい鼓動がはっきりと聞こえ、ひそやかな息遣いがときおり頭頂の後れ毛を揺らして通る。
幸せな、幸せな時間。言葉を交わすこともなく、ただ黙って抱き合うだけ。大切な時間。
実はこれが夢だなんて、とうの昔にわかっている。それでも、いつか来るであろう再会のときのために、こころを壊さないために、これは彼が自分のために置いていった想いの一部が与えてくれるものなのだと。そう思って、拒むこともなくこの心地よい瞬間を彼女はずっと黙って受け入れることを選んできた。
夢でも。
泡沫のように儚く消えゆく危険性を孕んでいるものでも、それでも、今の自分にすがれるものはこれしかない。
だから、夢でもいいと、思った。
息さえもつめてじっとしていると、遠くから呼ぶ声が聞こえた。
「…………や……?」
途端にトリスはがくがくと震え出した。耳をふさぐ。ふさいでも聞こえてくる。
目覚めを促す声。
「やっ、いやっ!」
救いを求めて見上げた漆黒の瞳は、けれどしがみつく彼女の身体を引き剥がす。愕然としたトリスの視界に、優しげな笑みが映った。満足そうとも取れる表情を浮かべて、乳白色の薄霧の中に少しずつ、少しずつ彼の姿が溶けてゆく。一気に涙があふれた。
――どうして?
――どうして、そんな顔をしているの?
いつもならいっそう強く抱きしめて、逃がすまいとしてくれるのに。どうして意地悪するのだろう。彼は寂しくないのか? 自分たちが会えるのは夢の中でだけ。命をつなぐことにすらたいした意味を見出せなくなっている自分が、それでも最低限の食事と睡眠だけはなんとか取っているのは、ただこの逢瀬のためだけに死ぬわけにはいかないから、それだけなのに。
かすんだ視界の中で、形の良い唇がかすかに動くのが見えた。
声は聞こえない。読唇術などできない。
何を言ったのか知りたくて、聞き返したくて、聞き返せば彼はもう一度言いなおすために戻ってきてくれるだろうかとトリスが口を開きかけたとき。
「いいっ、加減に、起きろ!!」
怒号とともに彼女は夢から現へと強制的に引きずり出された。
ネスティは不機嫌だった。このうえもなく不機嫌だった。
目の前には涙を浮かべたままぼんやりとした顔で自分をみつめる妹弟子の姿。幽霊でも見るかのような目つきが腹だたしい。
生きるか死ぬかの瀬戸際で、それでも果たす気満々で交わした約束を守ってようやく帰ってきたというのに、この娘は何も変わらない。相変わらず日の三分の二は寝ているのではないかと思うほどの怠惰ぶりでもって、あげくに起こそうとした自分の手を泣きながら振り払った。
どんないい夢を見ていたのかは知らないが、いい度胸だ。彼のいる現実よりも、夢の中の世界のほうがそんなにも居心地がいいとでも言うのか。
生身と化しても未だ周辺にいる誰よりも速い頭の回転を誇る彼の脳裏には、すでに皮肉と刺のたっぷり含まれた台詞が何通りも何通りも、何通りも用意されている。
「君は……」
「……ネス――――ッ!!」
まさにがば、と形容するのがふさわしい風情でもってネスティは勢い良く抱きついてきたトリスの勢いに負けて真後ろに倒れこんだ。
「な、ななっ、な……!?」
先ほどまで頭の中で渦を巻いていた皮肉は遠くに消し飛び、代わりに襲い来るやわらかい感触やら甘い香りやらで口もうまく回らない。
だいたいトリスは寝間着のままだ。こんな格好の彼女に抱きつかれているところを、いくら気心が知れているとはいえ弟弟子やその護衛獣や友人やらに目撃されてしまったとしたら。
想像するにあまりおもしろくない事態が招かれるのは必至。となれば、引き剥がすしかない。
そう思って決意も新たに見下ろしたのに。
「ネスーっ! ネスネスネス――!」
何やら連呼されて妙な抑揚になってきた自らの名前に、逆に彼は爆発してしまいそうだった理性的思考を急速に呼び戻されて大仰にため息をついた。
おおかた怖い夢でも見ていたのだろう。こういうときは黙ってそばについていてやるに限る。目撃その後ばらまかれる噂推測その他もろもろのものを考えると最適な選択とは到底思えなかったが、心を決めてしまうと後は簡単だった。抱きしめて、背中をなでる。えぐえぐと肩を震わせる姿は幼いころの姿そのものだ。
苦笑の気配を感じて、トリスは保護者兼兄弟子兼恋人(?)の顔をうらめしそうに見上げた。案の定、ネスティはまるで父親のような目で自分をみつめている。
また子供扱いされている。
その事実には不満を覚えないでもなかったが、彼女はそれでもこの状況には満足していたから、黙ってもう一度彼の胸に顔をうずめた。
これは、現実だ。どうして忘れていたのだろう。
優しげな笑みを浮かべて消えていった彼は、そのことを教えようとしていたに違いないのに。
夢ではないのだから、儚く消えてしまうことなどあり得ないのだと。
毎日まどろみから連れ出してくれる声が、それを教えてくれる。
自分があの夢を見ることは、もう、ないのだろう。
--END.
|| INDEX ||
あとがき。
なんかトリスがやばい人みたいだ。
…自分で書いといてなんですがそう思いましたヨ…(笑)
いやでもネストリスキーならわかるよね!?
トリスってネスティいなくなっちゃったら絶対夢の中とかで逢瀬してそうじゃあないですか?
ネスが帰ってきても、しばらくはそれが夢じゃないかとおびえる日々が続くのだろうなあ…とか思ったり。
これ「木々を…」の初めと最後にくっつけてた文章から出たネタです。
あの話とは微妙にそぐわない気がしたんで、削ってふくらませてみた…
ちなみに「〜トリス〜」と書いてあるのはマグナも書こうかと思ってたからです(立ち消えになったけど)
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