いつのまにか、眠ってしまっていたらしかった。



こぼれた時間





 ふ、とまぶたを開く。
 すぐに視界に飛び込んできたのは旅の間幾度となく見ていた飛晃機械の天井で、ティアは何度か瞬きをした。
 まだ夜は明けていない、らしい。となれば眠りについてからそう時間が経っていないことは確実だ。慌てて身を起こし、辺りを見回す。
 決してうるさくはないが、妙に耳に残る低いうなりとともに、部屋がゆらゆら揺れていた。床に固定された椅子。探し物がみつかって腰を浮かせるも、逆らう力に引き戻される。彼女は目を落として嘆息した。いつの間にか装着されていたシートベルトは誰かの気遣いだろう。ともあれ目の覚めた自分には必要はないと判断して外す。外さなければ、彼に近づけない。
 跪いた床の冷たさはすぐに忘れてしまった。せいいっぱい行儀良く、けれど窮屈そうにクッションにおさまっているのは二十歳に届こうかという風体の青年だ。ひそやかな寝息にあわせて伸び放題の赤毛が揺れる。
「……ルーク…………」
 つぶやいた声は想像した以上に震えていた。強い人間だと言われながら、その実自分は周囲が考えている以上に脆い。そのことをティアは知っている。知っているからこそ強くあろうとしてきた。努力がなんとか形を保っていたから、虚勢であろうとも、せいいっぱいに胸を張って歩き続けることができていた。
 時間を置いたせいか、見つめるのは意外に勇気が必要だった。気づかれないように細心の注意を払いながら椅子のひじ置きに手をかける。灯りは最小限に絞られているのに、緋の鮮やかさは疑うべくもない。光を弾いて輝く色の深さは、記憶と寸分たがわぬもの。
 結局、ティアは一定の距離を保ったままで目を凝らすことにした。年相応に丸みを残していたはずの頬の輪郭は、硬い大人のそれに近づいている。わずかに残る甘さは、目を覚ましてしまえばさらに減ってしまうだろう。ルークの寝顔は、起きているときよりもさらに幼く見えたものだったから。そういうところだけは変わらない。
 確実に年を経た青年の姿に、ティアは今になってようやく戸惑っていた。
 肝心なことは何一つ話せていない。
 ルークだと思った。あの瞬間は理屈も何もなく、全身の感覚がそう叫んでいた。だから疑わず、ためらわず、なりふりかまわずその胸の中に飛び込んで、大声で泣いた。抱きしめられたことなんて片手の指の数にすら届かなかったのに、背中にまわされた腕の感触は懐かしさ以外の何ものをも呼び起こさなかった。
 かすかに微笑んだ瞳が緑色をしていたのは覚えている。呼ばれた名前が間違いなく自身のものであったことも記憶している。優しい声が耳に滑り込んできたと同時に皆もまた騒ぎ始めて、彼ごともみくちゃにされた。
 泣いて、笑って、……ああ、もしかしたら少し暴れてしまったかもしれない。あふれ出した感情を抑える術がわからずに、抱きしめてくれる胸に何度も拳をたたきつけた。最後が曖昧なのは、きっとそのまま眠ってしまったせいだ。
 今、アルビオールは海上にある。窓にゆらめく光は海面の反射だ。空を飛んだほうが早いのにこちらを選んだのは、おそらく眠る彼女たちへの気遣いだろう。
 誰が運んでくれたのかはわからないが――今更とはいえ、かなりの失態をさらしたものだと思う。火照る頬を押さえてかぶりを振ると、腰まで伸びた髪がさらさらと揺れた。
「……ルーク」
 もう一度、名を呼ぶ。ただし気づかれない程度に。
 あの時。黄昏の光の中に消えていった彼がどうして生還できたのか、わからない。ルークはまだ何も言わないし、一行の中で一番に頭の回転が速いジェイドも、推論めいたことさえ口にしなかった。言わずもがな、他の者が何を察することもできようはずがない。
 ただ確実に年を経た青年の姿に、釈然としない感情を覚える。
 頭では理解していたのだ。あれから、暦の上では少なくとも季節が二回は巡った。ティアは化粧することを覚えたし、ガイは上に立つものとしての責任を感じさせる言動が増えた。アニスは背が伸びたし、ナタリアとジェイドは――まあ大きく変わったと言えるほどの箇所はないが、やはりあの頃とは違う。
 違うとわかっていたのに、普通に考えればルークが成長していないはずもないのに、ティアが心に描いていたのはいつも、最後に見た彼の背中だった。
 がむしゃらに、ただ生きていただけの時間。何をしていたかすらよく覚えていない。
 ぽっかり横たわる空白を一足飛びに飛び越えて、ここまで来た。そんな気さえしてくる。
 彼女をそんな気分にさせた不埒者は目の前にいるのだ。手を伸ばせばすぐに触れられる。痛くない程度にほっぺたでもつねってやろうか。思いついてティアは指先をあげかけたが、ちいさくおののくにとどまってしまった。
「私、は」
 嬉しいのかしら。それとも、悔しいのかしら?
 自問する。
 戻ってきてくれたのは嬉しい。もちろんだ。
 兄をこの手にかけたときでさえ流さなかった涙の堰があっというまに決壊してしまったのだから、誰に指摘されるまでもなく自覚できる。
 でも、今まで、きっと誰よりもそばで、彼の成長の軌跡をつぶさに眺めていたのに。
 それが途切れてしまって。いきなり結果を見せつけられて、釈然としないということなのだろうか。
「…………ティア?」
 眼前で眠たげなつぶやきがあがった。
 はっとして身体を引くも、それほど機敏な動きができるわけではない。あきらめて、とびのきかけた足をゆるゆると戻す。
 聞き間違いではなかった。半分まぶたを閉じたままの緑の瞳が彼女を捉えていた。
 ああ、声も少し低くなった。いや、変わっていない? どうだったろう。彼は騒いでいるときと静かに話すときの声に天と地ほどの差があったから――会えなかった間すぐに再生できていた数多の言葉は、今は霧の中に隠れてしまったかのように出てこない。声の代わりにめまぐるしく頭の中を駆け巡るのは、短い赤毛と一緒に揺れる、笑顔だ。長く伸びた髪の下、しかし確実に面影を残した青年が、重たそうにまつげをしばたたいている。
「ティア?」
 ルークはもう一度目の前の娘の名を口にして、手を伸ばした。ティアがあれだけ逡巡した距離を一瞬で無にして、あたたかな指先がふわりと彼女の頬に届く。自分でも原因がつかめないまま、ティアはただ泣きたくなった。
「……どうかしたのか……?」
 半覚醒状態のせいだろう。事態を把握した風もなく独りごちて、首をかしげる。彼女は仕種だけで否定した。今度はちゃんと身体が動いた。つながった指先はやはりあたたかい。握りしめる。
「そうじゃないの。そうじゃないのよ。……ただ目が覚めてしまっただけ」
 ルークは幼い子どものようにうなずいた。安心したのか、すぐに規則正しい寝息が聞こえてくる。再び起きたときには、こんなやりとりをしたことも覚えていないだろう。
 だけど。
 ティアは数度瞬きをして、唇を笑みの形に緩めた。
 肝心なことは何一つ話せていない。会えなかった時間は気になるし、そもそも絶望視されていた命がどのように生き延びたのか、ここまでたどりつけたのか、わかるどころか想像もつかないのだけれど。
 瞼の下に隠されてしまった緑に思いを馳せて、穏やかに息をつく。
 今この瞬間は、奇跡が起こったことにただ感謝しよう。
 途切れてしまった軌跡も、横たわる空白も、明日から埋めていけばいい。
 まずは笑顔でおはようと言ってから、それから。






--END.




|| INDEX ||


あとがき。
「ルークの寝顔にきゅんきゅんするティア」
…の予定で書きはじめたはずなのに途中で脱線し(途中どころか初めから)、あれよあれよという間に
「私の知らないところで大きくなりやがって」になってしまったという話。
…あれ?
いへでもなんかティアってこういうこと考えてそうなんですもん。母兼姉兼彼女、みたいな。
んでヘタレながらも男前度もそれなりに上がってるルークにときめいてればいいよ。うん。
そんで平然装いつつも内心悔しがってればいいよ。

(2006.03.18)