息つく暇もない。
 それが、ここ最近起こった出来事をひっくるめて表現するのに一番適した言葉なのではないかと思う。
 一度は終わったはずの旅には、続きがあった。発生した瘴気を消すための方法を求めて世界をさすらう中で、大切なものを、人を、たくさんたくさん失った。
 それでもきっと道はある。たとえ絶望にまみれているのだとしても、がむしゃらに前を目指せばより良い未来を導き出せるのだと信じて。自分たちは延びに延びていた預言会議の調整のため王都バチカルにやってきたのだ。
 みんな真面目な人たちだ、それは知っている。この星の行く末を真剣に考えていないものなど、この場にはいまい。
 だが。
 今このときだけは、頭の中から綺麗に抜け落ちているのだろうなと、ティアは眼前の光景を眺めつつこっそりため息をついた。



食卓の攻防





 そもそもの始まりは、食卓の端でにこにこと控えめに――けれど確かな存在感をもって座っている女性の一言だった。
 さまざまな要因から自身に価値を見出せなくなっているルークが、いや、それでなくとも他人の感情に配慮することを覚えた彼が、その被験者であるアッシュを両親に会わせたいと考えるのは自然の成り行きだったのだと、そう思う。自分が傷つく可能性を怖れながらも、迷わず行動した優しさは尊ばれてしかるべきものなのだろう。ティアたちにしてみればそれすらもどかしいことこの上ないのだけれど、さすがに七年ぶりの親子の再会を邪魔しようなどという気は起こらなかった。
 もしもこれを機に、アッシュが再びルーク・フォン・ファブレとしての人生を送ることを望んだとしても、誰にも責める権利はない。今このときこの場所で、短い赤毛を微動だにせず皿を睨んでいる少年が居場所を失うことになったとしても、人々は一連の事件を当然の帰結として受け止めるのだろう。
 しかし、彼は言った。今更戻る気はない、と。
 その決意を聴いて両親がどう感じたかまではティアの推測の及ぶところではないが、彼らはうすうす感づいていたのではないかとも思う。
 服の裾を翻して背中を見せたアッシュを、父は止めようとはしなかった。母も同様だった。
 ただ。
 一度だけでいい、ともに食事をしてはくれないか。
 病弱な母のささやかすぎる願いをはねつけるには未だ少年は幼く、そして非情にもなりきれていなかった。
 かくして、急遽用意された午餐の席に一同顔をそろえることになったわけなのだが。
 ファブレ公爵は無表情に、けれど上品にゆっくりと食事をしている。シュザンヌは料理にほとんど手をつけていないが、機嫌がいいせいか具合が良いようだ。王城から呼ばれてきたナタリアも加わって優雅なナイフ捌きを見せている。視界の端にはガイがミュウにナプキンを渡してやるのが映った。アニスは豪勢なメニューにこのうえなく幸せそうな表情で舌鼓を打っている。
 それぞれ深刻な状況を忘れて――わだかまりや不安はあるにせよ、みなそれらを束の間心の片隅に追いやる程度の器用さは併せ持っている――和やかに進んでいる時間が、しかし、彼らの周辺では凍りついている。
 ティアはもう一度息をついて、自分の皿の中にある赤い物体を見下ろした。
 わかっている。ルークを固まらせているのは、ビーフステーキの横に彩りよく添えられたにんじんのソテーだ。短くはない旅路をともにしたおかげで、彼の食べ物の好き嫌いはほぼ把握している。
 だが、およそこういった弱点があるなど想像もつかなかった人物がもう一人、ルークと同じように顔をこわばらせていた。
 一向に動かない二人に気づいたものか、シュザンヌがおっとりと頬に手を当てる。
「まあ、ルーク、アッシュ。どうしたのです、にんじんが残っていますよ?」
「は、はい……」
「わかっています、母上」
 少年たちは同時に返事をし、顔を見合わせ、同時に相手とは反対側を向いた。さすがにこの母の前でいきなり口論には突入できないらしい。
「こんな台詞は聞き飽きているかもしれませんが、にんじんはとても栄養があるのです。あなたたちはまだ成長期なのだから、なんでもたくさん食べなくては」
 噛んで含めるように言い聞かせる表情には、悪気など微塵も見受けられない。しかし、息子たちの耳にはおそらく届いていまい。二人ともただひたすら大きくもないにんじんの欠片を睨んでいる。
 世界を回る前のルークであったならば、嫌いなものは嫌いなんだから食べねえ! と駄々っ子のように言い張っていたことだろう。もしかしたら料理長を呼びつけて、文句のひとつやふたつ、ぶつけていたのかもしれない。けれど、今の彼は身の周りに存在するものすべてが誰かの手によるものだということを知っている。目の前に鎮座ましましている、ひとかけらのにんじんを食卓に届けるまでのさまざまな人の苦労を思えば、我侭など口にできないのは道理だ。
 幼い頃から聡明であったらしいアッシュもまた然り。
 ナタリアがフォークを置き、ナプキンで口許をぬぐった。
「二人とも、叔母様のおっしゃるとおりですわよ。しかも今は瘴気のせいで食料不足にもなっているのです。感謝していただかなければなりませんわ」
「……あー。そうは言うけどよー」
「わかっている、ナタリア。俺をガキのような我侭を並べるこの屑と一緒にしないでもらおう」
「屑言うな!」
 がたんと騒々しい音をたててルークが立ち上がったのを機に、それぞれ好き勝手に喋り始める。
「まあアッシュ、そんな言い方なさってはいけませんわ」
「妙なところで気が合うもんだ。そういえばアッシュも昔にんじんが苦手だったが……今もまだそうなのか。子どもみたいだなあ」
「ルーク、座りなさい。食事中にみっともない」
「ミュウはにんじんも大好きですの!」
「ていうかあ、ぶっちゃけ食べ物ってぜーんぶおいしいじゃん? 好きはともかく、嫌いってもったいなくなーい? やっぱおぼっちゃんだよねえ」
「あらあら、落ち着きなさい二人とも」
 今や声を出していないのはティアのみ、という状況だ。もしかしたら、一声怒鳴ってみればこの場は収まるのだろうか。いや、やってみようとも思えないのだけれど。
 およそ食卓には似つかわしくない、蜂の巣をつついたような騒ぎが膨れあがる。
 主たちのじゃれあい――たとえ若干名殺気をまき散らしながらわめいている人間がいるとしても、これは喧嘩というよりはじゃれあいに近いのだろう――をものともせず、新たに料理が運ばれてきた。赤毛の少年たち以外の人間が、ほんの少しだけ声の調子を落とす。
 いち早く冷静さを取り戻したナタリアが、食事を再開しようとフォークに指を伸ばし――油のきれた音機関のように突如動きを止めた。気のせいか、こめかみのあたりに脂汗が出ているようにも見える。
「どうした、ナタリア」
 相変わらず元婚約者の少女のことだけには敏感なアッシュが問うと、彼女はしなやかな手をあげて運ばれてきた皿を示した。
「あ、あれを……ご覧、くださいな」
「ん? …………」
 急におとなしくなった二人に、他の面々も訝しげな顔をして口を閉ざす。視線の先で、ルークが打って変わって弾んだ声をあげた。
「お、タコのマリネか! すげー、新鮮じゃん」
 調理されたものだけではなく、市場で食材を見て経験があるからこそわかる事実だ。いつのまにか隣に立っていたアニスに、よくわかったものだとからかい半分褒められて、満更でもなさそうにしている。
「タコ、ですわね……私の見ている幻ではなく」
「……俺にもタコに見えるぞ、ナタリア」
「やはりそうなのですね……ああ、夢であったならどんなにか」
「ナタリア!」
 ふうっとよろめき椅子から落ちかけた王女を、長い赤毛の少年が慌てて支えた。みな呆気にとられて眺めるしかない。
 旅の途上、ナタリアが食事に関して文句をいうことはなかった。味付けに関しては多少うるさかったものの、自分が料理が不得意だという負い目もあるのだろう。出されたものはすべてきれいに平らげていたのだが。
 意識的に避けていたわけではないけれど、そういえば、タコを購入したことはなかったかもしれない。ナタリアはタコが嫌いだったのか。判明した新たな事実に、ティアは心の中だけでうなずいた。
 覚えておこう。今まで出さずともやってこれたのだから、これからも特に買う必要はないだろう。ここでもし誰かが彼女の内心を読み取っていたなら贔屓だと叫んだかもしれないが、ティア自身にはそんなつもりはなかったりする。
 ぽかんと口をあけていたルークが、次第に頬を緩め――唇が完全に笑みの形になった。
「……忘れてた。そういやそうだ、ナタリアってタコ嫌いだったんだよなあ」
「え、ええまあ、そうとも答えられます……わね」
「てめえ、何が言いたい」
「いや、べつに。でもさ、ナタリアじゃないけど瘴気のせいで食料不足なんだよな、今。野菜に増して手に入りにくいのが魚介類なんだよなあ……料理長、一生懸命探してくれたんだろうなあ、タコを」
 タコを、の部分を強調するルークは実に楽しそうだ。何をそこまで嬉しそうに、と思うが公爵夫妻は言葉を差し挟む様子もなく、ガイもアニスもなにやら楽しそうに成り行きを見守っている。……ミュウは取り残されておろおろしているけれど。
 いや、でも、この話の流れでは、結局全員が苦行を選択せざるを得ないのではないだろうか。
 ナタリアの肩に手を添えたまま、アッシュがうなった。
「……にんじんを食えねえてめえの言うことじゃねえぞ」
「なにおう! 俺は食えるっつーの! 単に嫌いなだけだ!」
「じゃあ証拠を見せてみやがれここで今すぐ!」
「やってやろうじゃんてゆーかお前も食えここで今すぐ食え!」
「フン! 俺の手にかかればにんじんなんぞ……!」
「ああ……タコは嫌ですわ、タコは……けれど民の労苦を無駄にするわけには……」
 額に青筋やら冷や汗やらそれぞれ浮かべ、ルークもようやく定められた席に戻る。
 ティアは、すさまじい速さでかつ最低限の品位をそこなわない食器捌きを横目で眺めた。
 べつに勝敗の行方になどそれほど興味はないのだが。
 残しておいたにんじんは自分で食べるべきか、それともルークかアッシュの皿にこっそり放り込んでしまおうか。
 悩んでいる間に勝負はついてしまい、結局彼女も自分で苦手なにんじんを食べてしまわないわけにはいかなくなったのだった。







--END.




|| INDEX ||


あとがき。
自分でありえねえありえねえ言いながらも手が勝手に動いたんです私は悪くない(え)。
いやあ、友人のおうちで読んだお話でファブレ邸の応接室は食事をしつつじゃれあうところだというイメージがくっついてしまったんだ。たぶん。きっと。
アビスはぐるぐる考え込む人が多いですが、反面笑うときはちゃんと笑う、メリハリはつけてると思う。
んーでもこの後レムの塔っていうのはどうなのって感じですが(笑)
あそこにこんなアホ話が挟まってるなんていやんという方は脳内で適当に時間軸ずらしてくださいな。
テイルズたくさん書いたけどそういや好き嫌いネタって初めて…か?
あ、席順はとりあえず考えてますが聞かれると困るので聞かないでください(上席がどうとかさ)
ついでに食事形式がフルコースなのかどうかそのへんもまったく考えてない。

しかしそういやアッシュもタコ嫌いなんだよね…てことは速さ勝負したら単純に量の差でルークが勝利するんだろうか。公爵家の食卓にイケてないビーフとか出るわけないし。

(2006.06.04)