寄り添う変遷
 かざした手のひらと、痛々しい裂傷の間。青い光に照らされる中、切れていた血管が、伸びるように再生して繋がっていく。抉れていた肉が、内側から盛り上がる。破れていた皮膚は、周囲から穴を埋めるように傷を覆う。それは厚みを増し、やがて健康的な色を取り戻した。
 もう痛みもないはず。湿らせた布でそこをぐいと強めに拭えば、現れるのは傷ひとつない肌だ。息を詰めてその光景を凝視していたダナの青年は、ほっと肩の力を抜いた。椅子の背にもたれかかる。
「あ、りがとう……ございます」
 今はもう、目は光っていないはず。そんなことは関係なく、どこか捨てきれない恐怖と不信と、それからほんの少しだけはあたたかい色彩も混ぜられているだろうか。とにもかくにも彼は感謝の言葉を口にした。
 ちゃんと礼を言ってくれるだけ、この人物は礼儀正しいほうだろう。複雑な視線をよこされることには慣れている。ダナだけでなく、レナにも。
 むしろ変に感激されて詰め寄られても困るので――実際過去には何度かあって、そのたび手が触れてしまわないようにするのが一苦労だった――彼女は努めて平坦な声で応じた。
「どういたしまして。……傷のほうは完全にふさいだけれど、血液と体力は失われたままだから。痛みがないからといって急に動かないようにお願いするわ」
 こういう表情をしている相手には、あまり親身な態度を見せないほうが逆に安心してもらえる。冷たくも、かといって必要以上にやさしくも聞こえないようにするのはわりに難しかった。
 カラグリアやメナンシアであれば多少勝手も違うものだけれど、ここはガナスハロスだ。彼女が信を得られている土地ではない。
「わかりました」
 もっと高度な治癒術を行使すれば、傷を負う前にほぼ近い状態まで体調を戻すこともおそらくは可能だった。けれど少数の仲間たちを集中して癒せばよかったあのころとは違い、今はとにかく数をこなさなければならなかった。
 そして派遣されてきたレナを含む医療者たちからは、完璧に治療しようなどと思うなと釘を刺されてもいる。傷を塞げば感染症の心配はなくなる、痛みを取り除けば精神的な負担も応分に軽減できる。それこそが肝要なのだそうだ。
 なにしろガナスハロスはヴォルラーンの苛烈な支配によって意思を奪われた人間が多すぎた。だいぶ良くなってきてはいるが、ほかの地域の人々よりもぼんやりしてしまっているのは否めない。
 状況判断能力が低く、危険回避のために主体的な行動をとれないのだ。つまりは怪我をしやすく、病気にもなりやすい。そこにすぐに元どおりになれるなどという経験を与えてしまえば、行動は改善されないだろう。個々の過ごし方で徐々に良くなっていくという感覚も学習してもらわなければならないのだと説かれれば、彼女に否やなどあるはずがなかった。
 そもそも深入りできる立場ではないのだから、そこのところはちゃんとわきまえているつもりである。
 星霊術による治療が必要な人は、まだ居そうだった。けれどこの場には彼女の他にもちゃんと人員が配置されている。そろそろ切り上げておかなければ、終わりどころが見つけられなくなってしまっては過保護な友人たちにまた叱られてしまいそうだ。
 そういえば喉が渇いた。宿に戻るついでに外で水でも飲んでいこうか。患者用に水瓶には常になみなみと清水が満たされているが、わざわざそれをもらわなくとも彼女はどこへだって歩いていける。どうせなら新鮮な水が飲みたかった。この地は水の星霊力を司ると定められていただけのことはあって、ただの湧水でも甘く感じられるほどに上質で美味しい。
「シオン」
 椅子から立ち上がったところで、シオンは知己の声を拾ってそちらを振り向いた。
「ティルザ。そっちも一段落したの?」
 麦わら色の髪を短く刈った女性が、軽い足取りで歩み寄ってくる。ティルザは気安い調子で肩をすくめてみせた。
「一応はね。患者の症状の引継ぎもできたし、とりあえず後のことはもう任せてきたわ。そろそろ準備しないと、明日は早朝に出発するんでしょう」
「ええ。私もちょうど終わろうと思っていたところなの」
 双世界がひとつになった後。ひとまずヴィスキントまで戻って休息をとったシオンたちは、再び各地を巡っていた。
 何をするにしろ、まずは世界がどうなっているのか確認しなければ行動の指標もたてられない。手分けする案もあがったが、たいして効率が良くなるわけでもないうえに道中の治安の面でも懸念があったので、結局相変わらずの六人と一羽で固まって動いている。
 そこここで引き止められ助力を乞われ――けれどずっと一か所に留まることは決してできない。幸いレネギスと各領、かつての抵抗組織の面々とはそれぞれにつながりのある人物が揃っている。可能な限りで緊密に連絡を取り合いながら移動を繰り返し、今はガナスハロスの首府ペレギオンに滞在していた。状況確認だのはぐれズーグルの掃討だの、それぞれが忙しく立ち働く中で、シオンに声をかけてきたのがティルザだったのである。
 レナに向かう前に会った以来だったが、ティルザは未だカラグリアには戻れていないそうだった。傷病者の手当てができる医療者は相応にいるけれど、人の心に関わるものとなるとまだまだ数は少ない。そういうことでこのペレギオンでは引っ張りだこで、街の外にすら出られずにいたらしい。
 ようやく状況が落ち着き始め、任せられる相手も増えてきた。さらに今日、新たにレネギスから数人ではあるが医療関係者を受け入れる手筈になっている。さすがにウルベゼクの様子が気になって仕方ないとぼやくので、ならば一緒に移動するかということで先日話がついたところだった。
「はじめはどうなることかと思ったけどね。他の組織の人だっているし、ティスビムからも人手を出してくれるようになったし、大丈夫でしょ。……まあしばらくは行ったり来たりになるかな〜」
「大変ね」
「あなたたちだって似たようなものでしょ」
 女性ふたりの穏やかな会話に、周囲の雰囲気は先ほどよりも少しやわらいだようだった。
 ティルザはいつ見ても大抵笑顔でいる。医療に携わる人間として、まず他人に与えるべきは安心感だと考えているからだそうだ。やわらかいというよりは溌溂と楽しそうな表情だという印象を受けるが、どちらにせよ嫌なものは感じない。ちなみにいかにも気さくな彼女を舐めてかかる患者も時折見られるのだが、その場合は笑顔を崩さないままに相応の制裁を加えている。距離感の取り方が上手なのだ。遠ざけられるかもしくは変に近寄られることの多いシオンとしては、見習いたいのだがなかなかうまいこといかない。
 今ここで話しているのだってそうだった。ティルザの受け持つ患者は別の棟にいて、だから彼女がここまでやってくる必要は実はほとんどない。なのにわざわざ足を運んで顔をあわせて、他愛もないお喋りをしては固まりがちなシオンの表情を崩してくれる。そうやってこのレナは害意などない、そこらを歩いているひとと変わらない、ふつうの女性なのだとダナの患者たちに示してみせてくれているのだった。
 ヴォルラーンの支配が終わってすぐの一か月ほど。その間シオンたちもあれこれ人々の世話は焼いていたものの――顔役として前に出ることが多かったのは、アルフェンやキサラ、テュオハリムあたりだった。シオンをはっきり覚えてくれているのは関わる機会の多かったグナイくらいだろうか。いかにもレナらしい見かけのせいだけではないだろうが、シオンは未だどこか浮いている自分を自覚していた。
 今は去るだけの人間だから、まあそれでいい。ただ心残りは少ないに越したことはなかった。そもそも、目の前で苦しんだり痛がったりしている人間を放置できるほどシオンの心は冷えきってはおらず、だからここ数日はひたすらに治癒術を行使する毎日である。
「来る途中、大通りでロウたちとすれ違ったわよ」
 ティルザは手ぶりで部屋の入り口のほうを示した。
「ああ、戻ってきたのね。怪我はしていなかった?」
 ロウはキサラやリンウェル、他メナンシアから派遣されてきているダナレナ混成の近衛たちとともに外壁周辺の見回りに出ていた。いずれも手練ればかりだが、仲間たちの安否はいつでも一番の心配事項だ。うなずくティルザの表情は明るかった。
「大丈夫、みんなぴんぴんしてた。リンウェルなんか甘いものがほしーいって、元気に市場のほうに走っていってたわ。買い食いでもするつもりなんじゃない?」
「そう。よかった」
 事前に聞いていた構成人員であれば、リンウェルがその力を隠すのかそれとも明かすのか、迷う必要もない。ロウは遊撃に長けているし、キサラなど元同僚相手だから連携もお手の物だろう。危なげなく終わらせられたのであればそれ以上の朗報はなかった。
 まだ幼いともいえる年齢の少年少女にそのような役目を課すこと自体、あまり望ましい環境だといえたものではないが。じっとしていられないと訴えられてしまえばキサラも拒みきれるものではあるまい。繰り返すが、なにしろ実力は折り紙付きである。
「すぐ部屋に戻ろうかと思っていたけれど……市場に行けば合流できるかしら」
「そうかもね。私もお腹が空いてきたからつきあうわよ」
 周囲で働いていたレナとダナと、二、三言葉を交わして救護所として割り当てられた建物を後にする。
「市場も少しずつ充実してきているのよね。美味しいものを出す露店は増えた?」
「あーそうねー……美味しいのは美味しいと思うんだけど、物流が回るようになってきたからなのかしら、量が……なんかこう労働者向けっていうの? いや私も体力勝負のとこはあるんだけど、食べなきゃ仕事にならないし。でもこんもり山盛りのが多いっていうか……」
「最高じゃない」
「あなたはそうでしょうけど〜」
 味が濃いと胸焼けするのよ、と言いながら鎖骨のあたりをさするものだから、なんだかそれがおかしくて笑ってしまった。軽く睨まれるが本気でないのはわかっている。
 旅を終えてから、シオンの食欲は多少の落ち着きを見せていた。空腹に切なさを覚えるのは相変わらず、でもかつてのようなどうしようもない衝動に駆られることはなくなった。ひと一人が腹に入れる量としては規格外もいいところだったそれが、今はだいたい成人男性の二倍くらいか。常識の範囲内である。問題ない。
 他の面々とは夕食は宿でと約束してあった。だが敢えて満足できるまで行くか、それともおやつ程度にとどめるか。なかなか折り合わない意見を戦わせながらのんびり歩いていたら、昇降機のあたりがにわかに賑やかになってきた。
 ティルザが伸びあがってそちらの方向を見やる。まだ日は高い。手をかざして日差しを遮り、眉根を寄せる彼女に習ってシオンもまたざわめきのほうに意識を向けた。
「ですから! 炎の剣殿、ぜひともあなたの力を見せていただきたいんですよ!」
「……何あれ」
 麦わら色の、寄せられた眉の間にきゅっと皺が刻まれる。
 騒がしさに比して新たに現れた人数はごく少数だった。歩幅大きく先頭を歩く青年は、周囲に溶け込む実用的かつ地味な恰好をしている。ガゥム=アーサリスは華美で装飾も多いし、あれは王の力を強化するための装束だ。見た目も力も特段必要な状況ではなかろうと、アウテリーナ宮殿に辿りつくなりとっとと着替えてしまったのだった。シスロデンで譲り受けた黒い甲冑も街中では目立つし、なにより物々しさが半端ではない。
 そういうわけで最近の彼は、ヴィスキントで適当に買い求めた白いシャツを着ていた。その上から以前紅の鴉にあつらえてもらった簡素な革の防具を纏い、腰には差し色も兼ねて毛皮と青い泥除け布を巻いている。一時期に比べればよほど大仰さも剣呑さも省かれた服装。
 ただその表情は苛立ちを隠しもせず、かといって攻撃的にもなりきれずに、なんとも燻った色をしていた。
「アルフェン……ね。追いかけてきてる人はレナ?」
「……服装からするとそうね」
 シオンは唸るように答えて、近づいてくる集団を棒立ちのまま見つめた。
 不自然ではない。確か今日アルフェンは、テュオハリムとともに新たにレネギスからやってくる少数の医療者を出迎えに行っていたはずだ。先遣として未だ設備も体制も整っていないダナに降りることを了承してくれた、いわば変わり者たち。だがありがたいことは事実である。彼らが滞在する場所はまた別の階層に定めていたはずだから、テュオハリムはそちらの先導でもしているのだろう。そこを外れてきたか。
 見ればアルフェンについてきているのは、集団ではなくたったふたりだった。チュニカ・レネを着用した男女。女性は髪をきつくひっつめているし、男性のほうも短く刈っている。医療従事者らしく、服の白さと相まって何よりも清潔感が目立った。
「だから。俺はダナなんだ、星霊術がどうこう言われたところで協力はできない」
 もう幾度目かの問答なのだろう。アルフェンは基本的に快活で人当たりも決して悪くないが、短気なところもある。意に添わぬ要求を何度も突き付けられれば目つきが鋭くなってくるのも道理で、それなのに追いすがる男性は何事かとこわごわ遠巻きにする周囲の人々に、悪意のかけらもないにこにこ笑顔を振りまく余裕すら見せている。
「そんなわけはないでしょう。あれだけの力の行使、レナでもなかなかできませんよ。星霊力の制御に長けていなければ不可能です。ダナであろうとも特異体質の可能性もある、素晴らしい資質なのだからぜひとも、せめてお話だけでも」
「だから断ると言ってるだろう。くどいぞ、あんた」
 話の流れはくわしくわからないが、彼らはアルフェンが炎の剣を振るうところを見たことがあるのだろう――もしくは伝え聞いたか。そうだ、レネギスでは目立たぬよう気をつけてこそいたものの、降りかかる火の粉を払うことには皆躊躇しなかった。民の大半はテュオハリムに注目していたに違いないが、洞察力のあるものならすぐに気づく。同行していたものたちもまた、相当の手練れであるということに。
 レナにとって力あるものは正義。ダナへの偏見はあれども、力をもっているのならば認めてやらないこともないという思想のものも数多く存在するのである。
「アルフェン!」
 彼らに向かって歩き始めたティルザを追い抜き、シオンは小走りになりながら青年の名を呼んだ。
「シオン」
 こちらに気づいたアルフェンが、打って変わって嬉しそうな顔をする。
 走り寄ってぶつかるぎりぎり一歩手前で止まり、その手を取った。人目がなければそのまま突進してしまってもよかったのだが、さすがにティルザや見知らぬ人々の前でまで必要以上の身体的接触を披露する度胸はない。
「お帰りなさい。待っていたのよ、早く宿に戻りましょう」
 本音半分、出まかせ半分。顔を見たかったのは事実だが、べつにここで待っていたわけではないのだ。しかし意識してそれらしく、つまりは恋人らしく見えるように振舞うことにする。ふつうの人間なら見せつけてやればこれ以上野暮なことはすまい。大きな手の指先だけを握りこみ、もときた方向に引っ張った。
「ただいま。そうだな、少し疲れたよ。戻るか」
 今の今まで出していた刺々しいものとは明らかに違う、甘くやさしい囁きが耳をくすぐった。背後にいるふたりのことは意図的に無視して、アルフェンはティルザに向かって自由なほうの手を上げて挨拶した。目の端に映る彼女はからかうようににんまり口角を上げていて、また楽しみの種を与えてしまったかしらと半ば自棄ぎみで考える。
 だがそれでいい。とにかく今はアルフェンを、このレナたちから引き離してしまいたい。
「……アイメリス嬢?」
 そう思ってさっさと歩きだしていたというのに。予想外の呼びかけに、足が止まった。
 これは女性のほうの声だ。彼女はどちらかといえば男性に咎めるような視線を投げていて、けれど口出しはしていなかった。目に余るようなら止めようと考えていたのかもしれない。
 シオンの足を止めさせたのは、いっそ懐かしいその呼び方だった。
「あ……」
 振り返る。そうして初めて、ふたりの顔をまともに見た。
 遠い記憶の彼方に追いやっていたつもりだった。けれど瞬時に誰なのかを認識する。付随して引きずり出される思い出したくもないあれこれ。急速に口の中が渇いてきて、かは、と喉が鳴った。
「シオン?」
「ちょっと、どうしたの?」
 気遣う声が遠い。裏腹に男性はぱっと目を輝かせた。
 笑顔だ、嫌な感じじゃない、べつに嫌いでもなかった。相応に感謝はしているし、厭うほどの相手ではない――ないけれど。
「本当だ、アイメリス嬢じゃないですか! 服が違うからわかりませんでした、え、荊はなくなったんですか? 良かったですねえ! もしかしてそれも炎の剣殿の力が関係して、あ、ちょっと指先だけでも触れさせてもらっていいですか!? 彼だけでなくほかの人ももう平気なのかな」
「よしてくれ」
 ぐいと肩を引き寄せられた。
 伸ばされた手は空を掻き、シオンに届かない。眼前に白い布と日に焼けた肌が近づいて、嗅ぎなれた匂いが鼻腔を満たす。アルフェンに懐に隠すように抱きしめられたのだった。
 人前で。喉元まで出かかった叱責は、けれど声にならず吐息の中に溶けて消えた。
 全身が冷えていたことを自覚してしまったからだ。覚えのあるあたたかさに包まれて、強張っていた神経が弛緩していく。両手で彼の胸元の服地を握りしめれば、安心しろと言わんばかりに背中を撫でられた。
「……えーっと?」
 状況が呑み込めないながらも、ただならぬ雰囲気は感じ取ったのかもしれない。立て板に水を流すように言葉を連ねていた男性が、面食らって自分たちを見比べている気配がする。
 さらに深く抱き込まれ、シオンはきつく瞼を閉じた。
「シオン、歩けるか? ……運ぶか?」
「だ、大丈夫よ。支えていてもらえば、なんとか……」
 動揺しているせいで脚が萎えているのは本当だ。でも体調が悪いわけではないし、意識だってしっかりしている。そんな状況で抱き上げ運ばれるなど、さすがに羞恥に耐えられる気がしなかった。
「わかった。早いとこ戻ろう」
「あ、ちょっと待ってくださいよ……」
 腰を支える腕は力強い。抱えるようにして向きを変えられ、アルフェンに身の大半を預けたままシオンは歩き出した。
 追いすがろうとしてくる彼の前にはティルザが身を割り込ませる。
「ああ、ごめんなさいね。彼女ずっと怪我人の世話をしていたから、疲れているのよ。案内なら私がするわ、医療班と合流するために来てくれたんでしょう?」
「え、いやあの」
「ええ、そうです。助かります、途中からこの人がひとりふらふら違うほうへ行こうとするものだから、――――」
 会話はすぐに遠ざかり、聞こえなくなった。追うものと追わせまいとするもの、傾向としては一人対二人。ひとまずは放っておいてくれるだろう。
 景色も周囲も見えなかった。頽れそうになるたびに引き戻される。ただ寄り添うぬくもりだけを頼りに、足を動かしている体をまっすぐ保つのに必死だった。







 ペレギオンの宿に、部屋をふたつ取っている。
 順当に男女で一部屋ずつ。寝台はふたつしかないのだが、シオンにはもう荊もない。体格を考慮してリンウェルとふたりで寝床を分け合う形になっていたけれど、むしろそれは楽しくて何の苦にもならなかった。男性陣はさすがにそうはいかず、簡易ベッドを一台運び込んでいるらしいのだが。そのせいで手狭になり、揃って相談事をするとなると女性たちの部屋に集まるのが習いになっていた。
 支えられながら、のろのろと取り出した合鍵で扉を開ける。一応のこと書き物机とそろいの椅子はあるが、アルフェンはシオンの背に手を添えてそのまま寝台に座らせた。すぐ眠ってもいいようにとの配慮だったのだろう。
 揺れる上半身をなんとか伸ばそうとするが、どうにもうまくいかない。灰青の瞳が心配そうに顔を覗き込んできている。大丈夫だとも苦しいとも口に出せず、シオンは苦労して胸の中の空気の塊を吐き出した。
「シオン、体が冷たくなってる」
 抑えた声が鼓膜を揺らす。もっと聞いていたい。何か喋ってほしい。
 隣に座るアルフェンのほうに心持ち身体を倒すと、当然のように受け止められた。肩をゆるくさすられる。
「何か腹に入れたほうがいいんじゃないか」
 その質問には緩慢にかぶりを振った。
「……さむい」
「だからあたためたほうが……食欲がないなら白湯でも」
「いらないわ。どうせならあなたがいい……」
「俺?」
 今はなにも口にしたくない。それよりもただ抱きしめてほしかった。
 戸惑いながらもシオンが何を欲しているのかは正確に察してくれたらしい。アルフェンは分厚い革手袋から指を抜き、椅子の上に放った。防具も手早く外して身軽になる。そうしておいてから二本の腕で彼女の身体を包み込んだ。
 余計なものがなくなって、少し高い体温が直に伝わってくる。背中や二の腕をさするのは摩擦でさらにあたためようとしてくれているからか。その手つきはひたすらにやさしくて、全身に漲っていた不自然な力がゆるゆると溶け流れて消えていく。
 震えがおさまり始めたころ、頭頂部にやわらかな感触が落ちた。条件反射で触れたところから熱が生まれ出る。それは至極ゆっくりとだが血潮に乗って巡り、さらに彼女をあたためた。拒まないシオンを見て取って、アルフェンはさらに左右のこめかみに交互に繰り返し唇を触れさせてくる。
 色もない、欲もない。ただ労わるためだけの仕種だった。
 愛しているよと、自分は味方だと、どうにか伝えようとしてくれている。それがわかる。目と鼻の奥がつんとしてきて、彼女は広い背中に手を回してよりぎゅうと抱きついた。
「……シオン。言いたくないなら、黙っていてくれていいんだが」
 まるで赤子をあやすような手つきで、肩を背をたたかれる。いつのまにか楽に呼吸できるようになっていた。直前まで平然としていたのに、ああも動揺したところを見せられてしまっては気になるのも道理だ。隠すほどのことでもない。ふと吐息を零して、シオンは唇を歪めた。
「私の“治療”に携わっていたひとたちよ」
「……それは、荊の」
「そう。ああ、でも勘違いしないでちょうだい。あのひとたちは良心的なほうだったわ。治癒術の教師役もしてくれたし」
 そもそもそういうことを考慮した人選でなければ、今のペレギオンに足を踏み入れることをテュオハリムが承知するわけはない。
 彼女が身を寄せて、というよりほぼ軟禁されていたのは一応のこと医療施設だった。ズーグルの調整試験がうまくいかずに大怪我を負ったとか、ある意味で表に出せない怪我人も運び込まれることがあった。彼らはそういう状況を利用し、限定的ながら実践の機会も設けてくれていたのだ。
 あのころ。シオンは長じるにつれ、己の身の置き所がよくわからなくなっていっていた。
 誰とも触れ合うことができない。むしろ近づけば害をなす存在である。それでいて誰かの世話にならなければ生きてはいられず、厄介者だというのに胃袋だけは一人前以上。大量の食事を必要とする、つまりはレネギスの資源を浪費させる。そんな者に果たして存在価値はあるのだろうかと。
 成長し自身が大人に近づいた今ならば、もちろん確信をもって言いきることができる。幼子は無条件で愛され保護されるべきであって、本人にそのような思いを抱かせることすらあってはならないのだ。でもそう考えさせてくれるような存在とは引き離されて久しかった。無償の愛など忘れてしまっていた。
 レナは力を重視する。役立たずに価値などない。一般社会であろうとも研究施設であろうともその思想は細部にわたり浸透していて、その中で育ち染まったシオンを余計に苦しめた。何か少しでも役に立てないのかと模索した末に思いついたのが治癒術の習得だった。
 彼らはシオンの“治療”において、いわば中堅どころの立ち位置にいた。方針を決定できるでもなく、かといって使い捨てにされるような立場の弱い駒でもない。そのおかげかは知らないがどちらかといえば親切なほうだったと思う。できるだけ希望をかなえようとしてくれた。職分を侵さない範囲での善意は幼い自分でも確かに感じ取ることができた。
「まあ、研究者らしく無神経なところはあったけど。少なくとも悪意はなかったわね」
 さっきの反応もそれを示すものだろう。荊がなくなって良かったと言っていた。笑顔を向けてきた。不躾なのは否めないけれど、シオンが同胞を裏切ったこともきっと知っているのだろうにああいう態度なのだから。
「……ダエク=ファエゾルの連中みたいなもんかな……」
「そうかもね」
 そういえば、激痛といってもどれほどのものなのかと試しに触れられたこともあったか。ほかの実験対象にされた人たちのように恐ろしい視線は向けてこなくて、それは新鮮だった。もちろん、二度と距離を詰めてくることもなかったが。
「だからあのひとたちが特別どうこうというのではないのよ。ただ私が会いたくなかっただけ。……思い出したくなかっただけ」
 抱きあうお腹のあたりから、きゅるる、と控えめな音がした。問いかける目には首を振る。
 昼食もいつもどおり満足するまで腹に詰め込んでおいた。少なくとも飢餓状態ではないし、健康にかかわるようなこともない。今この瞬間に空腹を覚えていることは確かだが、食欲自体はすっかり失せていた。
「言ったことあったわよね。何度も死にかけたわ。実際死んだところを荊に無理やり蘇生させられただけかもしれない。怪我に、病気に、毒物もあった」
「は……毒、て」
 こんなこと、人に語って聞かせるような話ではない。それでも口は止まらなかった。
 頬を押し当てたアルフェンの胸は、嫌なふうにどくどくと脈打ち始めている。半面腕には力がこもり、シオンを守るように掻き抱いた。シオンのために憤り、悲しんでくれている。傷は消えずともどうにか少しでも慰めることはできないかと懸命に考えてくれている。
 今自分に必要なのはこのぬくもりであって、食事ではない。
「あのひとたちは違うわよ?」
 宥めようと背を撫でたが、アルフェンは絞り出した語尾を揺らして唸る。
「だとしても! 当事者でなくても、知ってはいるんだろう。なんでああも平然と声をかけてこられる……!?」
「だって、それはそういうものだから」
 冷たく聞こえようとも、覆しようのない事実だった。
 何年にも渡ったシオンの“治療”の方針は、上に立つものの考えや異動でそのときどきにより変わっていった。
 どうやっても彼女が息絶えず、ひたすらに頑丈らしいと気づかれてしまってからは実験の内容も苛烈になった。さすがに死なないということを悟られていた節はないが、死んだほうがましなのではないかという思いの消えない日々だった。
 最初にことが起こったのはまだ十にも満たなかったころだ。まだシオンも幼く年相応に愛らしい子どもで、同情的な研究者が多かった。せめて食事どきくらいは無邪気な顔をさせてやりたいと好物を並べてくれていて――どうもその中に、致死量の毒物が仕込まれていたらしい。
 違和感に気づいても吐き出すほどの機転はなく、灼けた内臓がただれて出血した。逆流しせり上がってきたさまざまなものを口から吐き散らした。椅子から転がり落ち、喉を掻きむしりながらのたうち回っても助け起こしてくれる人はいない。硬いもので頭をめちゃくちゃに打たれているようで、腹の中は無理やりにねじられているようで。閉じた瞼の裏が赤黒く明滅し、どっと嫌な汗が噴き出した。当然呼吸もままならずに苦痛と酸欠でそのまま意識を失った。
 次に目覚めたのは診察台の上。子どものちいさな身体だ、触れずとも運べるやりかたはある。ただし服はそのままで、鉄錆の匂いが近すぎて吐き気を誘った。
 傍らについていた治療師は、給仕担当がシオンが死んでしまったものと思い込んで取り乱し泣き叫んでいたのだと教えてくれた。
 ――けれど。おずおずとでも笑顔を向けてくれていた、その給仕担当に二度と会うことはなかった。ほかにも見知った顔が何人か消えた。
 どうやらシオンの生命活動を著しく弱らせれば荊もまた干渉できるほどに弱るのではということで、上の裁定を待たずに先走ったものがいたらしい。
 当時の“治療”の最高責任者は、幼い子どもに何をしてくれるのだと怒り狂っていたという。伝え聞いただけだから、本当だったかもしれないし、彼女のご機嫌を取りたくて聞かされた作り話かもしれない。もしくは慰めるためか。はたまた生家への配慮だったのか。
 真実などわからない。ただ実際に人は消えて、それが研究者たちのなかでは家格が低く、使い走りのように扱われていたものたちだと知った。下手人は懲らしめたからもう安心しろと言われても、あからさまな蜥蜴の尻尾切りはむしろシオンの心胆を寒からしめた。
 シオンの生家には相応の力がある。粗末に扱ったと知れれば立場を失うものも出てくるのだろう。それは家族からの愛情の一端だったのかもしれないけれど、気が晴れるわけなどなかった。つまりは苦しくても、それを面に出せば誰かしらが“責任”を取らなければならなくなるのだ。
 以来彼女は、人前で表情を取り繕うことを覚えた。
 笑うことも泣くこともなくなった少女の周囲には、人が寄り付かなくなった。
 試しに断食したこともある。再び毒を盛られるのではという恐怖と、劇物を使わないまでもゆるやかに弱ればやはり荊を引き剥がせるのではという儚い期待。けれど空腹は心と身体を萎えさせただけで、荊にはなんの影響ももたらさなかった。シオンを死なせてもくれなかった。
 お腹が空くのだ。いっそ死にたいと思うのに、お腹が空く。
 飢餓感に逆らえない、おのれの生き汚さにも絶望を覚えた。耐えられず仕方なく食事を摂って、一応のこと気を遣われた内容ではあったはずなのに、もう砂を噛むような感覚しか味わえなかった。
 頻度はごくわずかながら、その後も食事に何かが混ぜられていたことはあった。もう治療なのやら実験なのやらわかったものではない。そのころにはシオンもあきらめて、どうでもよくなっていた。幸い治癒術の腕前は目覚ましいほどの成長を見せて大抵のことは自分でどうにか対処できるようになっていたし、万一しくじったところで最終的には問題ない。ならば食事において重視すべき点はどれだけの力を蓄えられるか、腹持ちが良いかだけ。それだけ。
 再び食事どきを楽しみに待つようになったのは、アルフェンたちとの旅路の中でだった。
 つんけんした鉄仮面と食べた麦粥は、味こそひどいものだったけれど、まっとうにシオンの腹を満たした。少なくとも体調が悪くなるようなことはなかった。当たり前だ。そういう悪意は彼にはない。
 紅の鴉で配られた煮込みは、味は可もなく不可もなく、だったけれど。積み上げられた食器を次から次へと取っては大鍋からよそって回してこられて、やっぱり妙なものを仕込む余地は皆無だった。
 そしてダナに降りて初めて、素直に美味しいと思えたのは、ジルファが振舞ってくれた野菜スープだった。
 心を許していたわけではない。だから目の前で最初から最後まで調理を見守っていられたのも大きかったのかもしれない。彼は手許を隠しもせず、かといって興味津々のアルフェンの視線に気負うこともなく、手際よく作業を進めた。ちいさなナイフがごつごつと武骨な手の中で繊細な動きを見せていて感心した。大半がレネギスでは捨ててしまうような野菜屑だったはずなのだ。なのにできあがるころには、よくもここまでと言いたくなるくらいにいい匂いを漂わせていた――二度と会えなくなってから、ふと思い出した。あんなふうに味を楽しみながら食事ができたのはいつ以来だっただろうかと。ほんとうに、久しぶりだった。
 そう、良いことばかりではない。いろいろあったけれど。
 それでも旅は続く。時間は進む。どんどん道連れが増えて、料理の知識も増えていった。
 食べるのが楽しくなった。自分のためだけでなく、人のために作る楽しみも覚えた。触れ合うことはできずとも、橙色の火を囲んでの談笑はシオンの心身にこれ以上ない活力を蘇らせてくれた。
 半端ではない食欲に驚きながらも誰も彼女を否定しない。むしろ欲しいならもっと腹に入れてしまえとばかりに差し出される皿だの椀だの鍋だの。さすがに鍋ごととは物申したくなったものだったが、少なくとも嫌な気分にはならなかった。
 そんな生活を、ここ最近はずっと続けていたものだから。心をかたく守っていた鎧がすっかり剥がされていて、不意打ちに取り乱してしまったのだった。
「……シオン」
 身体に巻きついていた腕が解かれる。肌寒さを覚えたのも束の間、両の頬が大きな手のひらに覆われた。視線を合わせてきたその瞳は、少しばかり潤んでいるか。水分のせいで灰青に光が加わって、銀色も混じっているように見える。
 哀しげに唇を震わせる彼に、シオンはにこりと微笑んでみせた。そうできるだけの余裕を取り戻していた。
「終わったことよ」
 思い返すと体の芯が冷える。あれはそういう年月だった。けれどあくまで終わったことだ。消えずとも、過去でしかない。
 今のシオンは“アイメリス嬢”ではなくシオンだ。家も特異な現象も関係ない。彼女自身を見つめて尊重して、こうして触れ合い、体調だけでなく心の痛みまで思いやってくれる人々がいる。特にアルフェンはシオンをいちばんに大切にしてくれている。愛してくれている。
 それだけでもう、何もかもが報われた心地でいられる。
「私はもう大丈夫。みんながいるから、あなたがいるから。……気持ちのいい話ではなかったでしょう。取り乱してごめんなさい」
「そんなこと」
 嘘でも虚勢でもない。それはちゃんと伝わったのだろう、アルフェンはぱっとシオンの肩を掴んでかぶりを振った。再び抱き寄せられて瞼を閉じる。首筋のあたりに額を押しつけた。
「言いたくないなら黙っていればいいんだ。でも、俺はシオンのことならなんでも知りたいと思っている。だから聞かせてくれてよかった」
「……ふふ。熱烈ね」
「茶化すなよ……」
 はーっと吐き出す息が長い。紛うかたなきため息とともに、シオンを包む胸がふいごのように上下した。よっぽど空気をため込んでいたのか。
「さっきのシオンの気持ちは、全部とは言わないが俺にもわかるさ。……ありえない話だが、俺だってあのころ俺の身体を好きに弄ってくれた奴らと会ったら冷静でいられる自信はない」
「……っ」
「俺が引き起こした事態を考えれば、どの面下げてって感じだが」
 でも、それとこれとを結びつけるのはきっと違うんだろうし。
 自嘲的に呟かれた続きは、確かにシオンの耳に入り、その意味を浸透させた。けれどそれは彼女にとって彼を厭う理由になどなりえなかった。冷淡なようだが、喫緊の問題は別にある。
 発端に立ち返って、シオンは思わずこぶしを握りしめた。
 そうだ。アルフェンもまた、禁領の研究者たちに実験動物のように扱われていた過去があったのだった。そうだ、だからこそさっきは、アルフェンを少しでも早くあのひとたちから引き離したかったのだ。
 シオンとは状況が違う。推測だが彼女への一連の所業にはヘルガイムキルは皆無とは言わないまでもあまり関わっていなかっただろうし、研究者たちにも一応のこと同胞という意識があった。生家の後ろ盾は常にちらつかされていたし、名目は“治療”であったことと荊の存在のおかげで、少なくとも切り刻まれるなどということはなかったのだ。
「そうよ!」
 勢いよく顔をあげたせいで、あわや顎と頭がぶつかるところだった。
 すんでのところで避けて目を白黒させるアルフェンにずいと詰め寄る。肩に手を置いて顔を近づけると、彼は忙しなく瞬きした。少々腰が引けている。
「私よりあなただわ。アルフェン、あなた何度かレナと一緒にはぐれの討伐にも出てるでしょう。まさか彼らの前で王の力を使っていないでしょうね?」
 火の主霊石はもうない。しかし、アルフェンとシオンに宿らされた力は未だ消えずふたりの中に息づいている。
 リンウェルやレナのように術として練り上げることはできずとも、星霊力により属性を付加した攻撃方法自体はダナにも可能である。そしてそれは王の力、すなわち星霊力の制御能力とすこぶる相性がいい。
 シオンが巫女の力を必要とする局面は、アルフェンよりもさらに少ない。なおかつ紋章も一般には記録が失われており、見咎められたとしても星霊術とこじつけてどうとでも誤魔化しがきく。
 けれどアルフェンのほうはそうはいかないのだ。レネギスの民の前で王の紋章など顕現させた日には、大騒ぎになってしまうことだろう。そしてそうなった場合、倫理観よりも探求欲のほうが優ってしまいがちな研究者たちがどう出るか。政治的な意味でも、妙な野心を持つものを無暗に引き寄せかねなかった。
 どちらにせよ楽しい想像ではない。
「うん、え?」
 気圧されてアルフェンは腰の後ろに右手を突いた。残った左手を落ち着けとばかりに突き出してくるが、明確な答えをもらうまでシオンに引く気はなかった。さらに促す。
「どうなの」
「大丈夫だ……と、思う。最近相手にしてるのは雑魚ばっかりだし……やばい奴ならシオンたちと行くだろ」
「そう。ならいいわ」
 ひとまずは安心できた。物憂げに震えていたさまから一転、ふんと気強く鼻を鳴らした彼女に、彼が苦笑を向けてくる。
「そんなに心配しなくても平気だ。ダエク=ファエゾルの連中もぼちぼちダナに来てるんだろう。情報交換だってするだろうし、そうすりゃ落ち着くんじゃないか。一般人だって王のことなんかそのうち忘れるさ。それどころじゃないからな」
「甘いわ、アルフェン」
「おわっ」
 さらに詰め寄ると、アルフェンは均衡を崩して寝台に仰向けに倒れた。
 ちょうどいい、大事な話なのでいい加減に聞き流されても困る。このまま囲い込んでしまおう。シオンは乗り上げるようにして彼に覆いかぶさり、額を突き合わせて睨んだ。さらさらと薄紅色の髪が落ちてきてふたりの顔の周りを暗くする。
 いまいち危機感が薄い表情をしている。やっぱりよくわかっていないのだ。ぽかんとしたままのアルフェンに、シオンは噛んで含めるように続けた。
「いいこと? 医療者も研究者も、いろいろいるのよ。気のいいひともいれば、悪辣なひともいる。そして当たり前だけれど、全員にすべての情報が開示されるわけではないわ。中途半端にヒントだけ与えられた人間――特に研究者が何を考えるか、想像がつかないわけではないでしょう?」
「お、おう。まあそこら辺は知ってるよ……って、それを言うならシオンだって危ないじゃないか」
「私はいいの。なにしろレナだもの、目新しさがないわ。荊も消えたし、握手のひとつでもすれば興味をなくしてくれるはずよ」
「え、そもそも触らせたくないんだが」
「聞きなさい」
「……はい」
 もごもごと言いかけたところを凄んでやれば、素直に口を噤む。
「人はすぐには変わらない。あなたを見下して、どう扱ってもいい相手だと考える輩は絶対にいる。私はそんな人たちにあなたを渡したくないし、嫌な思いもしてほしくないの」
「シオン」
 生きていれば嫌なことなどたくさんある。哀しい目にも遭うだろう。でもふつうに生きていて遭遇するような事態ならばともかく、ふたりの過去は特殊すぎた。シオンはもう二度と、あんな思いをしたくない。そして当然誰にも味わわせたくはない。
 ただ誰にもと言いながらも、まず彼女が最優先で守りたいのはアルフェンだ。彼を害しようというのならば、同胞であろうとかつて世話になった相手であろうと容赦するつもりはない。絶対に退けてみせる。
「完璧に隠し通せるものでもない。いずれは知られてしまうかもしれない……でもそのタイミングだって大事よ。私も当然気をつけるわ。だからあなたも、少なくともそうあるべきところでは油断しないで。そういう話なの」
 そこでいったん切って、深く息を吸う。
「……あなたのことは、もちろん私が守るけど」
 はっきり口に出せば想いはより強固になった。もともとシオンは身の内にそれなりに闘争心を飼っているほうだ。理不尽には抗う。その自信もある。なによりそうやって、望んだ終わりのその先を、仲間たちとともにつかみ取ることができたのだから。
「いくら星霊術が強くたって、こもりっきりのひょろひょろなんか返り討ちにしてあげる。それになにも私だけじゃないのよね、伝手はたくさんあるんだから相手が誰だろうと沈黙させられるでしょう……ええ、だから問題はないんだけど」
 発言がだんだんと物騒になっている自覚はあった。つられて彼女の表情も、それはもう剣呑なものを宿しているのだろう。だがかまうものか。
 面食らったような顔をしていたアルフェンは、今や好戦的な笑みを唇に刷いている。瞳が楽しげにきらめいて、やっぱり零れ落ちたのは弾んだ声だった。
「頼もしいな」
「怖がらせたかしら?」
 挑むようにさらに顔を近づけても、今度は引いていこうとしない。
「まさか。惚れなおした」
 あっと思う暇もなかった。次の瞬間には噛みつくように唇を奪われていた。
 油断していた歯列は呆気なく突破されてしまった。舌が無遠慮に忍び込んでくる。口腔を探られ、シオンはすぐさまおのれを支える力を失ってアルフェンの上に頽れた。
「んっ……ふ……」
 隙間からつい声が漏れてしまう。こうなるといつものことながら、やたらに甘ったるい。喰らいつくごとき勢いで、唾液どころか全身の筋力まで吸い取られてしまいそうだった。色を含ませ撫でられた背中が、手つきに導かれるままにぐにゃぐにゃと波打つ。
 胸がつぶれて少し息苦しい。それでも離れる気にもなれなくて、結局密着したまま腰をくねらせるしかできない。割られた腿が擦れ合い、指先がうなじをくすぐる。ぞくぞくする。気持ちいい。
「っは」
 いっそ永遠に続いてもいい。心情としては間違いなくそうだが、このまま衝動に身を任せるには状況が悪すぎた。身じろぎすれば意図は伝わって、アルフェンはちゃんと唇を解放してくれた。
 つながっていた糸が重力に従ってたわみ、そしてぷつりと切れる。唇の端に落ちたそれを赤い舌で舐めとり、彼はシオンの肩を下から少しだけ押した。身を起こすのを手伝おうとする動きだ。
 彼女はアルフェンの額を撫でていた手を離した。顔の両脇にひとまず肘を突いて、次に手のひら。順番に。身体を押し上げようとしてくれる力を借りて、萎えた膝もなんとか立てて。四つん這いの状態になって見下ろす。
 ゆらゆらと。銀青に情欲の炎がちらついて、シオンの内まで炙られるようだった。
 また引き寄せられそうになり、さりげなく逆らう。
「……鍵。かけてないわよ」
 囁けば、アルフェンは初めて気づいたとでもいうように一度瞬きした。それから何が不満なのか、むっと唇を尖らせる。
「そういうのじゃない」
「そういうのじゃないって……じゃあ、どういうの?」
「どうもこうも……俺はただキスしたかっただけで」
「要領を得ないわね」
 目の際を赤くしておきながら、アルフェンは頑なに違うと言い放った。
 べつにシオンは人目さえないのならばかまわない。抱きしめられても、口づけされても、たとえすべてを暴かれるのだとしても。事実今の戯れで何かが燻り始めている。腰のあたりがなんだか重たくて、痺れるような感覚がある。
 欲求が羞恥も戸惑いも凌駕することがあるのだと、アルフェンと想いあうようになって彼女は初めて思い知った。そんなこと生に直結するような、それこそ食欲くらいしかないと思っていたのに。
「今はまだ……」
「今は?」
 鸚鵡返しに問うて、シオンは顔だけを下げた。触れあいそうな距離で、吐息だけを交換する。内緒話にはちょうどいい。べつに、ほかに聞くものなどいないのだけれど。
「だからさ……」
「――――ね、やっぱりガナスハロスのイチゴも美味しいよね? 酸っぱさがきりっとしてるからフルーツサンドにしたら絶対引き立、ってぎゃあー!?」
 ばん、と騒々しい音をたてて突然扉が開かれた。そして閉じた。
 いや、正確には突然ではなかった。闖入者は、おざなりではあったがノックもしていたはずだ。はばかるような話題でもなし、堂々と声を張って会話していたし、徐々に近づいてくる聞きなれたそれらは普段ならば気づかないはずはなかった。
 なかった、のだが。まあ状況が状況だったので、ちょっとお互い相手に集中しすぎていたかもしれない。
 悲鳴は長く尾を引いた。けっこうな声量だ。扉に阻まれてくぐもっているのに、徐々にちいさくなりながらもまだ聞こえる。なんだか鳥の囀りっぽいものも混じっている。そちらはどちらかといえば少女の動揺につられているだけのようだが。
 ……急に体勢を整えられるものでもない。
 シオンとアルフェンは扉のほうから視線を移し、顔を見合わせる。ほんの数秒見つめあって、もう一度同時に部屋の入り口を見やった。
「……。……そういえば女性部屋だったっけ」
「……。だから言ったじゃない。鍵かけてないって……」
 壁の向こうで少年と少女がぎゃあぎゃあ騒いでいる。
「なんだ!? どうした大丈夫か!」
「っぎゃー! だめだめ、ロウは来ちゃだめ入っちゃだめ!」
「は、なんでだよ! 早く入れって、荷物重いんだからさ!」
「だめぇ――!! サンダーブレーってここじゃダメかやっちゃえフルル!」
「ホオオォオ!」
「なんで!? なんで俺つつかれてんの!?」
 がちゃがちゃとドアノブをひねるような音がする。未だ寝台の上にいたふたりは身を硬くしたが、ふたたび扉が開けられることはなかった。
 とどめのようにがちん、と金属音が響いて、その後言い争いの気配が徐々に遠ざかっていく。
「…………外から鍵をかけていったみたいね」
 求めていた気遣いとは若干方向性が違った。いや、ある意味正解か。まああのまま入ってこられても、何事もなかったかのように振舞われても、気まずいことこのうえないので一番ましな選択だったのかもしれないが。
「……だからそういうのじゃないのに……」
 そしてこっちはまだ言っている。
 アルフェンは寝転がったまま両手で顔を覆って呻いていた。耳が真っ赤だ。可愛がっている妹分にばっちり目撃されてしまったのがよほど恥ずかしいらしい。しかしシオンに対しては少々失礼ではないだろうか。あそこまでしておいてどの口がそれを言うか。
 本人たちがどういうつもりであろうとも、体勢だけ見れば言い逃れできるような状況でないことは明らかだった。なにしろ寝台の上で、女が男を押し倒していたのである。たまたま密着まではしていなかったし口づけを交わしていたわけでもない、顔を近づけていただけだったけれど。まさしく今から始まります、とでも言わんばかりの濃密な雰囲気ではあった。誤解するなというほうが無理だ。
 いや、そもそも。重大なことに気づいてしまって、シオンはのろのろと起き上がった。
 横座りになって頭を抱える。さらさら流れ落ちてくる髪が火照る頬を隠してくれるが、この場合あまり意味はない。
「アルフェンはまだいいじゃない……あれ絶対、私のほうが迫ってると思われたわ……」
「っあー……」
 アルフェンが弟分や妹分に対して兄貴ぶるのと同じように、彼女だってあのふたりに対してはできるだけいい恰好をしておきたいというのに。そうだ、なんだかんだで先にちょっかいを出してきたのも彼のほうだったではないか。シオンも乗ったけれど。正直大乗り気だったけれど。それにしたってひどい話だ。
「ちょっともう、どんな顔して会えばいいのよ……」
 弱りきった呟きがなんともいえない空気を揺らす。
 ご愁傷様、とでも言いたいのだろうか。ぽんぽんと背中を叩かれたが、もちろん慰められるわけはなかった。
 後日部屋分けを三にするかとそれぞれ年長組に問われ、ふたりともが大慌てで拒否したことはまた別の話である。
--END.
いやなんか、こんなに長くなる予定なかったんですけど。
想像を膨らませながら打ってたらどんどこどんどこ発展していって…毒云々はもちろん私の妄想ですが。
シオンがひたすらカロリー重視なのって、一番はとにかくお腹が空きやすいって理由でしょうが。それとは別に、もちろん死ぬつもりだったからとか以外にも、単純に食事に楽しみを見いだせない状況が長かったのかなーって思ってしまい…
だってほんと、最初の料理シーンなんて腹さえ膨れればいいって素で言ってたもん。それがジルファの野菜スープもりもり食べててあー美味しかったのねーってなってその後美食クエやらその他でどんどん食いしん坊キャラ扱いされていってたけど。
最初は! 味とかどうでもいいって態度でしたよあのお嬢さんは! それが変わった万歳!
…いや書こうと思ってたのはね、荊に関わってた人らに会って取り乱してアルフェンによしよしされるシオンってだけだったんですけどね。めっちゃ長くなったな…(笑)
シオンの家族はどうなんでしょうね、領将を輩出するほどではないけどそれなりの名家ってイメージ。シオンがお嬢様っぽいので。
まっとうに心配されてたのか家門の者を蔑ろにするのは許さないっていう方向だったのか。とか、シオンがレネギスを出奔したことはどう受け取ってどう周囲にそれについて表明したのかな、とか。針の筵を避けるために勘当扱いか、周囲の白い目に耐えるほうを選んだのか。あとそもそも生きてるのか。…っていう。
天の楔打ち込まれたときに市街地変形しちゃって、それでだいぶ死傷者出たっぽいから…そこらへんは公式には濁されたままなのかなって気はするけど。
設定資料集どないなんだろうねー。


あ、あと最後のイチャァ…ですが、当然ふたりは「まだ」です。
一応一連の話は時系列繋がってるつもりで書いてるので、私の脳内における初はアレです。
まだ意識のすり合わせもしていないので、シオンさんはアルフェンさんが中途半端に手ぇ出してくるなあとか思ってる。アルフェンさんは色々我慢してる。あれでも。
一応シオンはプロポーズもされてるのと生物学的な知識があるのとで、それらに基づいてアルフェンがそういうつもりだっていうのは理解してるんだけど、なんだかんだ実感は伴ってない。アルフェンのほうは今どころか数十年後の現実もがっつり見据えてるので一生懸命お預け状態に甘んじてる。
そこらの危ういもだもだも書きたいなあと思いながらとりあえず一回終わっときます。
アルシオは「触れる」が重要なのでどうしてもそっちの方向に頭が行きがち〜〜
(2021.11.27)