いつかの
 やわらかな感触は一瞬だけ肌を湿らせ、すぐに去っていく。
 湯に浸してかたく絞った布は、あれやこれやを拭って心地よい清涼感をもたらした。火照りはすでに大半治まっているけれども、だからといって体温が消えてなくなることもない。束の間とどまったほんのわずかな水分は、あっという間に蒸発していって、寒いわけでもないのにぶるりとひとつ肩が震えた。
「シオン、ちょっと腕上げて。頭はこっち」
「ん……」
 応えて喉からひねり出す響きは緩慢だ。同じようにのろのろと動かした手をやんわりとした力でとらえられ、今度はさらさら乾いたものが腕を滑り、肩を背を覆っていく。
 座り込んだ、その腰元まで隠されてほうと一息ついた彼女に気づいているのかいないのか。目の前にいた男は慣れた手つきで自身の始末もすませ、手拭いを放り投げた。それは狙い過たず、放物線を描いて盥の中に落ちる。ぽちゃんと控えめな水音がした。
 視界の大半を占めているのは敷布の白と、それから褐色と。布に寄った皺なぞに興味はないので、鍛え上げられた上半身をぼんやり眺める。褐色が亜麻色にすっぽり隠されるのを待って、シオンは腹の力を抜きそのまま前のめりに倒れ込んだ。
「っと」
 きちんと抱きとめてくれる。わかっている。襟足からぼふんと空気が抜け、同時に去りきっていない汗の匂いを嗅ぎ取って、唇の端がなんとなくにんまりした。もつれた髪を梳く指に気を取られるうち、横たえられる。毛布を肩まで引き上げたその手で改めて差し招かれたから、抗わず肩口に頬をすり寄せた。
「んん……」
 なんともちょうどいい疲労が全身を包んでいる。ぽん、ぽん、と背に感じる衝撃はあくまでやさしく、ゆっくりだ。伝わる心音もおおむね平常通り。きっと自分も同じようだろう。
 さあ寝つけと言わんばかりに整えられた環境の中、虚勢も羞恥もすっかり鳴りを潜める。残るのは素直な欲求だけで、とろとろと落ちてきそうになる瞼を押し上げながら今は穏やかなはずの灰青色を探した。
「アルフェン……」
「……うん?」
 返る声はやさしい。
「おやすみの、」
「ああ……」
 皆まで言いきる前に唇にやわらかなぬくもりが落ちた。
 先刻までの貪るようなそれとは違う。食むような動きの、けれど表面だけをなぞるもの。欲を呼び覚ますことはなく、ただあたたかく乾いて擦れる。肩を覆う手のひらを意識しながら、こちらは頬を捕らえ顎を撫でる。
 そこでふと指先に、予想だにしなかった感触を捕らえてシオンは瞬きした。
「あれ」
「ん? なに」
 寝室を照らすのは、絞った灯りひとつだけだ。ただそれだけでも暗闇に慣れた身には事足りる。感覚を裏切らず過ぎった光を、彼女は目を凝らし正確につかみ取った。厳密にいえば、指先でつまんだ。
「…………発見。剃り残しね」
 かたい輪郭の中途半端な位置から、ひと筋だけ。銀色がぴょろりと飛び出していた。
 わりと長いこと見過ごされていたのではなかろうか。つまめるだけの十分な長さを有していて、ちょっと引っ張ってみるとさすがに彼も自覚したようだった。
「ええ、気がつかなかった。けっこう長いか?」
「そうね、こういうのも個人差はあるんでしょうけど……少なくとも一か月くらいは生き残ってたんじゃない?」
「おお……」
 下手に長さがあるせいで、剃刀からのらりくらりと逃げていたのだろうか。
「何せ目立たないからさ、鏡見てもあんまりわからないんだよなあ」
「でしょうね。それにあなた、もともと濃いほうじゃないみたいだし」
 シオンは少しだけ首を傾げて、アルフェンの肌の様子を思い浮かべた。自然な産毛は全身にあるが、始末が必要なほどとの印象もない。色素の薄さも相まって目立たず、ぱっと見はむしろつるんとしている。
 もしかしたらともに旅をしていた最初の頃は、仮面の影響もあったのかもしれない。心を鎮静させる機能を持つというそれは、おそらく心だけでなく様々な神経や器官をも支配下に置いていた。当然と言えば当然だ、人の心身は繋がっている。強制的に精神をどうにかしようとするのであればまず身体的な処置を施してしまうのが手っ取り早い。
 ビエゾによって鉄仮面が半壊した、あのとき。現れたアルフェンの相貌は、相応に傷つき薄汚れてはいたものの、垢まみれでも髭ぼうぼうでもなかった。それを考えれば代謝も抑えられていたはずだ。
 ただその後仮面を完全に失っても、口にすることといえば暑いだの寒いだの痛いだのとあくまで感覚に偏っていたから、つまりはそういうことなのだろう。
「そんなに気にしないですむぶん、楽っちゃ楽なんだが……シオン。とりあえず引っこ抜いてくれないか」
「引っこ抜いて……って、え、今?」
「今。だって明日になったら忘れるだろ」
 聞き間違いかと思ったのに、そうではなかったらしい。毛を一本だけ指先でつまんでいるという、どこか間の抜けた状態のままシオンは眉尻を下げた。
「ちゃんと剃刀を使ったほうがいいわよ」
「それだと明るくしないと危ないじゃないか。目が覚めそうで嫌だ」
「……もう覚めてるんじゃ……」
 そう、シオンが違和感に気づきさえしなければ、今頃ふたりともやすらかに夢の中だったはずなのだ。正直なところ眠気はだいぶ飛んで行っている。閉じかけていた思考はすっきりと……いや多少ふわふわしているが、間を置かずやり取りできている時点で今にも落ちそうなどということはないだろう。
「アルフェン」
 促してみたが、男は微動だにしない。どうやら起き上がる気も、かといってこのまま眠る気も皆無らしいとみて、彼女は鼻を鳴らした。
「……痛くするかもよ?」
「いいから、ほら」
「もう……」
 そこまで言うのならばもう、知ったことか。シオンは思いきって手を引いた。
 ぷちっと音がして光を弾く銀色がアルフェンの顎から離れる。一瞬だけ思案して、引き抜いたものをくず入れに向けて投げた。投げてみただけだ、重さはない。だから到達できずに床のどこかにへろりと落ちるのだろうが。どうせ掃除するのだし、毛の一本くらい気にすることもあるまい。
「血が」
 あまりうまくできなかったか、ちいさな赤い珠が表面に盛り上がっていた。
 改めて添えようとした指先は包まれ、握られる。抜き取ろうにも存外力が強く、できたのは手を揺らすことだけだった。
「血が出てるわ。治癒術をかけるから、手を放して」
「こんなの、術を使うまでもないだろ? 舐めときゃ治るよ」
「……。それは……まあ、そうね」
 痛くなかったわけはなかろうに、あまりにあっけらかんとしているものだから、シオンは反論せずうなずいた。たぶん逆の立場だったとしても、やはりたいしたことないと終わらせてしまうだろう。その感覚はひとまず理解できる。
 これが例えば野外でのことだったならば、大事を取って術で傷を塞ぐのかもしれない。しかしここはある程度清潔に保たれた室内だ。ちょっと運動したけれども、身体も清めてあることだし。後は寝るだけ。なるほど、確かに言う通りだ。
 彼女は心持ち背筋を伸ばして、アルフェンの顎に唇を寄せた。
「え」
 少しのしょっぱさに混じって鉄錆の味がする。それがふやけてまぎれて消えるまで、何度か舌を往復させて。仕上げに指の腹で余計な湿気をぬぐい取った。
 じっと見つめるも新たな血は滲んでこない。よし。
「…………」
 ひとり納得したシオンが沈黙に気づいたのは、少し間を置いてからのことだった。
「アルフェン? どうしたの」
 呆気にとられた灰青が、まん丸の形になって自分を見つめている。じんわり目の際が赤くなっているような気もするが、錯覚で片づけられる域のものだ。
 気にせずごそごそと体勢を戻して胸の中に納まれば、指先がゆっくりと解放された。そのまま彼の手のひらは背中に回り、一度拳の形を作り、また、戻った。
「……ああ、いや。舐めてくれって言ったわけじゃ……」
 もごもごと歯切れの悪い物言いに眉を顰める。
「だって自分じゃ届かないでしょうに」
「……。それは……うん、そうだな……?」
「そうよ」
 初めて気がついたみたいに呟くものだからおかしくなった。くすくす笑いを零しながら鎖骨のあたりに額を押しつけてみる。吐息でくすぐったかったのかアルフェンは少しだけ身をよじったが、離れていこうとはしない。ただ頭頂部に口許を埋めてくる。
「あした剃るときは気をつけて。また血が出てくるようなら言いなさい」
 んむ、とくぐもった返事は肯定とも否定ともつかなかった。これは傷ができていたとしても、悪気なく放置してしまう方向だろうか。もしそうなったとて、この目は誤魔化されてやることなどないので問題はないけれども。
「それとも」
 ふと思いついて、シオンは知らず語尾を弾ませた。
「いっそのこと伸ばしてみるのはどう?」
 街を歩いた印象では、よほど身繕いできないような環境でさえなければ、レナもダナもあまり髭を伸ばす習慣はないようだ。あくまで彼女の観測範囲内でしかないのではっきりと断定できないけれど、すれ違う大抵の男性は剃っていたように思う。
 でも伸ばしたうえできちんと整えている人もいた。キサラの兄、ミキゥダなどはわりに鮮明に覚えている。あれは一見無精髭に見せかけて、実は計算された長さと配置だ。きりりと凛々しい妹に比べてどうにも柔和な雰囲気の抜けきらない瞳をしていたから、侮らせないための武装を兼ねていたのだろうか。
 狙いがどこにあるにせよ、見栄えはなかなか悪くなかった。ああいうアルフェンなら、ちょっと見てみたい気もする。
「……えー……」
 しかしながら案の定、彼は気が進まなさそうな素振りで呻いた。
「絶対に邪魔だって……想像してみてくれよ。口の周り、ソースでべたべたになりそうじゃないか」
 ソースがついてるだの、粉がこぼれてるだの。食事に夢中になりすぎてしばしばなりふりかまわなくなってしまうのはシオンのほうで、アルフェンはどちらかといえば指摘する側だ。
 だがもちろん何も粗相をしないわけではない。固形物ならばまだしも汁物、なおかつとろみのあるものなどを食べた日にはよほど気をつけなければ惨憺たる有様になってしまいそうだった。
「口の周りが輪っかになるのかしら。グラニードーナツみたいに? ……ふ、ふふ、それはそれで可愛いかもしれないけど」
「こら、想像しない」
 想像してみろと言ったその口で、今度は逆のことを宣う。
 大きな手のひらでぶにっと両頬を潰された。それだけでは飽き足らずぐにぐに揉まれるが、こみ上げるものは止まらない。アルフェンは大きくため息をついて、シオンの額に己のそれをぶつけた。鈍い音がしたものの、特に痛くはなかった。
「シオンだって知ってるだろ。俺、けっこうがさつなんだぞ。苦労するのが目に見えてる」
「苦労してほしいとは思ってないわよ。ただ見てみたいだけ」
「それに、絶対似合わないからさ」
「そんなこと」
 髭を伸ばし、きれいに整えたアルフェン。髭のアルフェン。いやアルフェンの髭?
「…………うーん?」
「ほらな」
 試しに少しだけ想像してみたが、すぐにはうまくいかなかった。やはり参考にできる具体例が少なすぎるのが敗因か。勝ち誇ったように笑いかけてくるのを一瞥し、明後日の方に視線をやる。
 いやこれは、目の前のこの若い男で想像しようとするからだ。そう思ってしまう時点で彼の主張を肯定しているも同然なのだが、そこには目を瞑ったままシオンは強引に思索にふけり続けた。
 そうだ、たとえばもっと、肌が乾いてきたら。深く皺が刻まれて、どこか苦みや険しさをも含む面立ちになってきたのなら。年齢を重ねたなら、将来装いの一部としてぴったりはまるようなこともあるのかもしれない。
「そうだわ、おじいさんになれば……」
「なんで一足飛びしてるんだ」
 視界の外で、アルフェンが天井を仰ぐ気配がする。シオンを閉じ込めていた両腕の一方が解かれて向こう側にぱたんと落ちた。仰向けになったのだ。と思ったら枕を手繰り寄せ、頭ごと再び腕いっぱいに抱えられる。
 後頭部を数度往復した指が、背まで降りてきてそこも撫でた。
 無意識の仕種で、本格的に寝に入っている。会話を打ち切りたいとまでの意思は感じないが、さすがにそろそろ限界が近くなってきているのだろう。まあ確かに、シオンも眠い。しかもこの議題は延々問答したとしても埒が明かないものではある。
「シオンはさ……」
 ほとんど寝言のようなささやかな響きだった。
 それでも独り言ではなく呼びかけられたのだということは察して、その顔を見やる。
「……アルフェン?」
「おばあさんになっても、きっと」
 続きはない。
 もう一度そっと呼んでみても案の定、返るのは深い吐息だけだった。厚い胸が穏やかに上下する。がっしりと力強い腕はいつもどおり彼女を囲い込んでいる。
「……確かに。アルフェンがおじいさんになるなら、私はその頃おばあさんなのよね」
 続けようとした言葉は何だったのだろう。
 彼のことだから、肯定的な内容であるには違いない。きれいなんだろうなとか、かわいいんだろうなとか。もしかしたらしゃきっとしてるとか、いや、相変わらずいっぱい食べるんだろうだなんて続いていた可能性だってある。
「……べつに、どれでもいいけど」
 それよりも。互いにごく自然に数十年後の伴侶の姿に思いを馳せたのだということに気づいて、彼女はちいさく微笑んだ。
 そうだ、今自分たちは、当たり前のように未来を想像した。年を経てもなお、隣にある存在を確信していた。かつては願うべくもないことだったというのに。
 特になにがしかの結論が出たわけでもない。宙ぶらりんだ。
 たぶん、明日の朝になったら二人とも綺麗さっぱり忘れていることだろう。けれど気づいた事実は、ひどく満足感を誘うものだった。
 居心地のいい寝床の中で、目を閉じる。束の間瞼の裏に浮かんだ光景がいつか必ず訪れることを、疑いもなく信じられることがただ幸せだった。
--END.
いつかの景色。

本文には入れなかったけど、シオンは普通にアルフェンもおじさんおじいさんになったらお腹が出たりするのかしら〜背が縮んだり髪が薄くなったりとかもあるのかしら〜みたいなことも考えてると思います。本人には言わないが。
アルフェンのほうは具体的に想像してないかもしれん。逆に過去現在の身内やら近所やらのばーちゃんと想像を重ねてほのぼのしてることもあり得るかもしれん。わからん。
アルシオちゃん今までの人生考えると、すぐ死ぬのは嫌だけどずっと死ねないのも嫌、てやつだよなーと思います。そこんとこを永遠に擦っています。
いろいろかけ離れてるしぶつかり合うけど、根本的に大事にするところは同じなのが愛い。ともに年老いて、自然に衰えて、やがて土に還る…までうっすらだけど思い描いてるのだろうなあ。

と言いつつぶっちゃけ書きたかったのは「アルフェンの剃り残しを引っこ抜くシオン」なだけで欲望に忠実に始めてみたんですがなんか色々くっついてきました。
(2023.05.07)