抱く渇望
 瀟洒な窓枠に飾られた、透明なガラス窓。その向こうには晴れ渡った青い空が広がっている。
 太陽はまだ高い。浮かぶ雲も白くふわふわと軽くて、絶好の散策日和だろうと思わせる陽気だった。
 だが、外出したくとも様々な理由で今はできない。やわらかなソファの座面に身を沈ませて、彼にできることといえば隣に座る女の顔をじっと眺めるくらいだった。


 そもそも、たいしたことはないのだ。ないはずなのだ。
 確かにあれは大きな大きな戦いだった。自分たちに宿る――宿らされた力を最大限に振るったことで消耗が激しかったのは、認めよう。安全な寝床に辿りついたなり他の仲間よりも一昼夜程度、長く眠ってしまったことだって事実ではある。
 でも。帰還した後に目覚めてからさらに半日経ち、重たかった身体はすっかり軽くなった。頭痛や吐き気を心配されたが互いにそれはないことを確認しあったし、医者だの治癒術士だのにひっきりなしに問診され治癒術をかけられ、ひいては満足するまで腹に美食を詰め込んだ。
 それでなおじっとしていろとはどういう了見になるのだろうか。
 彼らが留め置かれていたのはアウテリーナ宮の賓客用の一室だった。お目付け役にはなんとダナフクロウの仔と黒猫を置いていかれたのである――人間ではなく。
 これがまたけっこうな曲者だった。扉から出ようとすればそこで待ち構えていて、風渡るすべてに響けとばかりに大音量で鳴かれる。窓から抜け出そうとすればちょうどいい足場を塞ぐようにでろんと弛緩した毛並みを横たえられていて、うっかり踏んでしまいそうになる。どちらにしても誰かに気取られ、一日くらいじっとしていられないのかと叱られてまた室内に戻るという流れだ。
 彼と彼女。ふたりでいれば雑談の種は相応に尽きることはないし、この部屋には本棚もある。退屈を紛らわせるためと遊戯盤も置いていってくれたから指南を受けながら少し挑戦して――おもしろくなかったことはないのだが、ずっとやっていればさすがに飽きてくる。
 さて夕食まではまだ時間もあることだし、どうしたものか。思案に暮れていた彼を置き去りに、隣に座っていた彼女は一人先に楽しみを見つけてしまったらしい。
 許可を求められて、手を差し出した。ちょっとした興味本位だろうと軽い気持ちでうなずいたはずが、もう小一時間は経つか。彼女は飽かず、彼の右手をいじり倒して遊んでいる。
 最初は大きさを比べることから始まった。手首と手のひらの境目から指の付け根まで、ぴったり重ねてみてももちろん丈が合う訳はない。指の長さだって同じことだ。関節と関節の距離も円周すら違って、その当然の事実は彼女の好奇心をおおいに刺激したらしかった。
 手のひらの皺をなぞられた。その形や深さは人によってさまざまに違うのだと講釈をたれながら、発見した剣だこは爪でこりこり削ろうとされた。削れるわけはないが。
 ひっくり返して今度は甲。指を動かすたびに表面に浮き上がる腱に静かな歓声をあげ、ぐりぐり押しつぶそうとされた。べつに痛くはなかった。爪の形を比べられとっくりと観察され、なぜか一枚ずつ磨くようにこすられた。
 ごくゆるい力で指を曲げたり伸ばしたりさせられて――ぎゅうと握りこんでは、何がそんなに不思議なのか眉を寄せて考え込んでいる。
 ただただくすぐったいばかりだった。思うさま玩具になってやろうと自分の中の鷹揚な部分が笑ってうなずいている。よくもまあ人の手ひとつでそこまで楽しそうに遊べるものだと、別の自分が首を傾げている。
 またべつの自分は――果たしてわかっているのだろうかと、いつ気づくだろうかと少しの皮肉と期待を混ぜた目で、彼女をじっと眺めている。
 だって。彼女は自分こそが触っているつもりでいるのだろうけれど、それは同時に彼に触らせているということでもあるのだ。
 引鉄を引き慣れた指は、それでも彼のそれよりははるかにやわらかい。白くてちいさくて、細くてすべすべしている。ティスビムでみつけた貝のようなきれいな爪が皮膚を引っ掻いて、適度な弾力の指先が追って詫びるようにさする。ちっとも痛くないのだけれど。
 天色の瞳に宿る色はめまぐるしくくるくると変わった。頬が緩んだり硬くなったり、花色の唇は綻ぶのと尖ることを繰り返している。彼女の視線は彼の手に固定されているから、その表情をどれだけ眺めても見咎められることはない。思いがけず与えられた至福の時だった。個人的には、負け続きの遊戯盤よりよほど楽しいと確信をもって言える。
 やがて彼女はひととおり満足したのか彼の手を持ち上げた。そっと甲を撫で、ゆっくり――ほんとうにゆっくり、おのれの頬にその手のひらをあてがった。はにかんだような、あたたかいため息を漏らしたのはきっとふたり同時だった。
 好奇心に彩られていた貌が花開くような艶やかさをまとっていく。安堵と少しの羞恥と――なによりもしあわせに満たされた笑顔が、そこにはあった。
「…………」
 吐息をひとつ。たぶん、聞こえなかったはずだった。
 ただ今までされるがままだった手のひらに意思が宿ったことをなんとなく察したのだろうか。伏し目がちだった視線がやんわり上がり、絡む。
 互いの顔は意外なほどに近くにあった。さらに近づけてみる。いや、近づいてきている? どちらなのかも判断しがたいままに吸い寄せられ、反射的に瞼を閉じる。
 唇にやわらかなものが触れたのは一瞬だった。
 驚いたような、それでいてはじめから予期していたような。彼女は何を、どこまで理解しているのだろう。
 彼としては彼女が望むのであれば手であっても唇であっても、もちろんこの身を差し出してもかまわないのだけれど。
 荊などに阻まれてたまるものかと思っていた。不承不承の協力関係から始まったはずが、意外といい奴なんだと思って、健啖家ぶりに妙に感心して、叱咤されて尊敬の念も覚えて。物言いはきついくせに、寂しげで儚げな気配からいつしか目が離せなくなっていた。ひとのことは率先して癒そうとするくせに、おのが身はことさらに粗末にしているように見えて苛立った。だんだん心配になってきた、死なせたくなかった。失えないと思った。できるなら傷ひとつ負わせたくなかった。
 それなのに。あのとき彼女を手酷く傷つけたのは、他ならぬ彼自身だった。重ねてきた言葉と行動の、すべてが一瞬で無に帰するほどの絶望を味わわせたに違いない、きっと。いつも凛と輝いていた瞳は呆然と彼を見つめ、涙をあふれさせて光を失った。求めるように差しのべられていた手がだらりと垂れ下がった、あのとき。すぐさま駆け寄れなかったことを今でも悔やんでいると言ったら、彼女は笑うのだろうか。
 独りぼっちだと背を丸め震えていた姿が、いつまでも脳裏を離れない。青ざめた頬を次々転がり落ちる雫を見たらもうたまらなくなった。
 あの瞬間だけは。知らぬ間に過ぎた膨大な時間も、望郷の念も、わずかに残っていた逡巡すら、どうでもよくなった。何もかもが吹っ飛んだ。ただ愛しかった。抱きしめてやりたかった。
 思えば彼女の寂しさをこそ、彼は愛したのかもしれなかった。
 彼女に影を落とす隙間を埋めるため、満たすために全力を注いできたつもりだった。愛したい。そして、愛したからには愛されたい。心がそう動くのは自然なことで、逆らうなど及びもつかないしその必要もない。努力は実を結びつつある、おそらくは――だが。
「足りない」
 嘯いて、左手も伸ばす。両の手で包み込んだ頬はなめらかで、あたたかくて、みずみずしかった。
 抵抗はなかった。未だぼんやりした空気をまとったまま、難なく引き寄せられた彼女の唇におのれのそれを重ねる。先ほどより長く、心持ち強めに押しつけた。少しだけ舌を差し出しあわいをちろりと舐める。びくっと肩が弾んだので、すぐにその頬を解放した。
「いっ……い、い、今、舐めっ」
「……嫌だったか?」
 声を押し殺し、慎重に尋ねる。ふわふわとどこか夢見るように霞んでいた瞳は、今では理性と意思を取り戻して忙しなく揺れている。目尻に朱を刷いて、口許を守るように覆った白い手も淡く染まっていた。
 動かない。近づかない。彼がただじっとしているだけなのを見て取って、徐々に落ち着いてきたのだろう。彼女はそろそろとおろした手を膝の上で握りあわせた。唇はまだ乾かない、しっとりと濡らされたままだ。喉が鳴ってしまわないよう、懸命に顎のあたりに力を込める。
 やがて彼女は、蚊の鳴くような声でちいさくちいさく答えてくれた。
「嫌じゃなかったわ。……嫌じゃないから、困るんじゃない……」
「どうして困る」
 厭う理由がないなら、困る理由だってないはずだ。
 当然の問いだった。彼女は今度は返事に困って、控えめに眉尻を下げている。
 怯えさせないようにゆっくり動いて、肩をさすった。華奢な肢体は簡単にふらついて傾いてくる、腕の中にすっぽりと納まる。背を撫でて髪を梳いて。細い指がおずおずと彼の胸元の服地を握りしめる。頑なに顔だけは上げてくれないまま、緊張と恍惚を混ぜ込んだような、奇妙な吐息を零している。
「まあ、困るよな」
 彼は努めてあっけらかんと呟いた。訊いておきながら何だが、彼にはなんとなく見当はついていた。反応して弾かれたように見上げてくる彼女の天色の瞳。
「ちが……」
 何を言えばいいのかわからないと、必死な形相が訴えている。困っている、だけど違う。
 嫌じゃない。嫌じゃないの。伝えたいことをかたちにできないまま、焦燥に駆られるさまが無性に愛しい。でも泣かせたいわけはない。いじめたいわけでもないのだ。
 やさしく笑えているだろうか。万が一にもこの目は欲でぎらついていたりしないか。薄紅色の前髪を掻きあげれば彼女がほっと頬を緩ませたから、思うとおりの表情ができていたのだろうと知った。
「順番が違っただろ、俺たち」
「順番。順番って……なんのかしら?」
 安堵はしたものの、本当にわかっていなさそうに首を傾げるからうっかり笑ってしまう。むっと尖らせた唇に吸いつきたくなるがそれは後回し。ぽんぽんと背中を叩いてから、ぎゅっと抱きしめる。耳に触れるか触れないかの距離でごくちいさく囁いた。
「俺はシオンが好きだ」
「……っ」
 ひゅっと息を呑みこむ音が聞こえた。咄嗟に距離を取ろうとされるかと思ったけれどそんなことはなかった。ないだろうなとは予想していた。そのまま続ける。
「シオンを愛してる……ちゃんと言ったことなかったよな、ごめん。なのに先にキスなんかしたら、そりゃなんていうのかな、混乱もするさ」
「それは、でもあなたのせいじゃないでしょう。むしろ私が」
 身を乗り出し迫ってきた白皙の美貌が、あっという間に真っ赤に染まる。
 確かにあのとき、彼が口にしようとしていた明確な言葉を遮ってくれたのは彼女だった。戦いの後も、触れ合っても痛みどころか闇色の火花さえ散らないことを確かめて、泣きそうな顔で笑って、唇を寄せてきたのも彼女のほうだった。彼は受け入れただけだ。
 それは決して悪いことではなかっただろう。視線で仕種で、ほかの言葉で。ふたりは感情をちゃんと伝えあってきたし、隠しもしなかった。旅の終わりのほうなんて、頻繁にお互いしか見えなくなっては、仲間たちに呆れられたり茶々を入れられたりしていたものだ。
 口にせずとも伝わるものはたくさんある。
 ただそれらが明確なかたちを為せるのは、やはり名前を与えられたときではないか。ふわふわと危うげな輪郭のままで、衝動のまま行動だけを重ねてきた。
 彼よりさらに不慣れな彼女だ、戸惑うのは道理ともいえる。嫌がられないのをいいことに追い詰め囲い込んだのはどちらかといえば彼のほうだった。そしてこれから畳みかけるのだ。もう逃がしはしない。だって足りない。満たされたと思ったそばからどんどん餓えが強くなっていって、たぶんこれはもう一生かけて手を伸ばし続けなければならないものだとわかってしまった。
「シオン」
 彼は彼女のちいさな手を取った。
 細い指だ。さんざんさすられても引っかかれさえしても、ちっとも痛くなかった。くすぐるようなやさしさのくせ、ほのかに伝わる温度は彼の中に燻る熾火をあっというまに掘り起こし、燃え上がらせ、鎮火できないまでに大きく育ててしまった。
 自分がされたように爪をこする。そうしてから指先に唇を寄せた。触れさせはしない。吐息がかかる程度の近さで、見上げる形になった天色の瞳が潤んで揺れている。
「俺はシオンが好きだ。だからこれからの時間を、ずっとお前と一緒に過ごしたい。シオンを独占したい。無暗に縛りつけたくはない、が、独り占めはしたい。嬉しいときも、悲しいときも、苦しいときも、楽しいときも。一人では泣かせない。隣で一緒に笑いたい」
「……アルフェン」
「俺の妻になってほしいんだ」
 ひくり、と白い喉が鳴った。震える唇の横を透明なしずくがいくつも転がり落ちていく。そのまま引き絞るような声をあげてすがりついてきた彼女を、彼はしっかりと受け止めた。背に回された指が、彼の服をぐしゃぐしゃに握りしめる。
「あ……る、ふぇ、わたしも。私も、好き。だいすき……」
 すすり泣きながら、胸元に頬をめちゃくちゃに擦りつけられた。冷たく重たく湿っていく布地とは裏腹に触れ合う肌は熱い。
 こんなときでさえ彼女は声を殺して泣くのだ。独りで、誰にも気づかれないように、哀しみを押し込めることに慣れきった人間の行動。いつか思いきり泣かせてやりたいとは思うものの、そんな状況にもしたくない。嬉し泣きならいいのかなと思いかけてひとまず考えることをやめた。
 触れることさえ忌避していたのが、力いっぱいすがりついてくれる。今はきっとこれだけで充分だ。
「い、一緒に、いたいの。アルフェンがいいの。これだけは……ほかのひとじゃ、なくて……」
「うん。……うん」
 彼はと言えば、泣きたいわけではない。でも引きずられたのか、彼の目頭まで熱くなってきた。唇を閉じられない。息が上がって、震える。ぜんぜん寒くないのに、ふたりしてぶるぶる震えながらぎゅうぎゅう抱きあった。
 誰かが寂しがっていたら。もちろん彼は肩を叩いて励ますくらいはするし、やさしい言葉のひとつもかけてみせるだろう。笑顔になってくれれば嬉しい。良かったなと、元気が出たかと笑って手を振ってそれでおしまい、解決する。
 他の誰かに対しては、それだけだ。
 でも彼女だけは違う。一度笑わせただけで満足などできるものか。どこかで幸せならばそれでいいと、そんな余裕のある気分ではいられない。明日も明後日もその先も、一番近くでずっと笑顔を見ていたい。笑った顔だけじゃない、泣いた顔も怒った顔も。顔には出さない秘められた心も。埋めてやれたならとか埋めてもらえたならとか、そんなことも放り捨てる。
 だって、足りていない。
「シオン」
 名前を呼べば、泣き濡れた双眸がちゃんと視線を合わせてくれた。
「シオン、好きだ。……キスして、いいか?」
 表面に張った水の膜、そこに映る彼の姿もゆらゆら揺れている。瞬きした拍子に少し水かさが減って、はっきり見えるようになった。……我ながら酷い顔だ。肌の浅黒さなどものともしないほどにとにかく真っ赤だし、なんだか目つきも怖いし。でも彼女は恐怖も嫌悪も欠片も見せず、ただ蕩けた目許を淡く染めて問うのだ。
「また舐めるの?」
「……嫌ならしない。普通のにする」
 普通のとはこれいかに。自分で口にしておきながらその言に疑問を抱いた彼と、彼女は同じことを考えたのだろう。
「そもそも普通ってどういうものかわからないけど」
 言い差してちょっとだけ首を傾げた。
「……アルフェンの思うとおりにしてくれたらいいんじゃないかしら」
「ああ……」
 返事なのか呻き声なのかわからなかった。喰らいつきそうになるのを我慢して至極ゆったり顔を寄せる。素直に目を閉じてくれたことに安堵して、その花びらをやわらかく食んだ。
 隙間から漏れ出る湿った息が、唇の脇をくすぐっていくのがたまらない。角度を変えて、感触を味わうように動かしていくうち引き結ばれていたそれは少しずつ緩んでいった。
 軽く歯が触れ合う。かちりと硬い音がしたような気がしたが、同時に聞こえてきた吐息とも喘ぎともつかぬあえかな声に意識を持っていかれる。望むまま熱い口腔に舌を差し入れても、もう彼女は応えてくれるだけだった。息継ぎがうまくできないから、時々は離れる。でもまたすぐにくっつく。だんだん、融けあってくる。
 胸元で拳の形をしていた手が、やがてほどかれおずおずと肩を滑って彼の首に絡んだ。おあつらえむきにふたりしてソファの上だ。いっそこのまま組み敷いてしまえと囁いてくる身の内の声には必死で耳を塞ぐ。代わりに腰を掴んで抱き上げた。膝に乗せてもさっぱり重くない。背もたれに沈む彼の上、しなやかな肢体が、ぐにゃぐにゃと芯を失ってのしかかってくるのがひたすらに心地よい。
 高低が入れ替わったせいで自然流れ込んできたものを嚥下すれば、こくりと喉が鳴った。
 ――これ以上はまずい。
 さすがにこれ以上続ければ止まらなくなる。急ぐ気持ちはあるものの、強引にことを進めて怖がらせるのも本意ではない。
 惜しみつつ唇を離せば、彼女は追いかけてはこなかった。まず空気が不足しすぎてそれどころではなかったのだろう。かろうじて彼にひっかかるような体勢を保ったまま、苦しげに荒い息をついている。
 どくどくと響く血潮の音は、もうどこから聞こえてくるのかもわからなかった。彼のこめかみか、心臓か。彼女の心臓だろうか。あるいはすべてなのかもしれなかった。
「……ふは……け、けっこう、大変な、ものなのね……」
 そうして最初に出てくる感想がそれだ。もうちょっとこう、何かないものか。思わず吹き出して、それが止められなくなる。痙攣するかのように笑いだした彼を見て、柳眉がわずかにひそめられた。
「……ちょっと。そこまで笑うこと、ないじゃない」
「す、すまない。俺も、同感だよ。同感なんだが」
 彼女は身体をころんと転がして、彼の上からソファに降りた。そうはいっても自身でまっすぐ座るほどの力は残っていないらしく、なんだかんだ肩にもたれてくる。気分を害したように頬を膨らませているのに、くっついてはくる。それがまた無性に嬉しくて、口角を上げたまま親指で彼女の唇を拭った。
「や、もう……」
「いや、見事に腫れちまったなあと」
「あなたもでしょうに」
 互いに言いあってみれば、確かにちょっとだけじんじんしているのかもしれなかった。今までになくあかく腫れぼったくなった唇は艶やかに濡れている。彼女がこうなのだから、彼もきっと似たようなものだろう。ほかの部分と違って唇だけは、誰しも皮膚の薄さにも繊細さにも大差がない。
「……呆れないでほしいのだけど」
 すり、と肩口に薄紅色の前髪が擦りつけられた。
「まだ足りない気はするの。もっと……って、思ってしまう私がいるのよ」
「シオン……」
 ふんわり握りあう手は熱い。おのれの口から絞り出す名前は、どろどろに甘い響きを伴っていた。よくもここまでと、彼女に対してでなく自分のほうに呆れた思いを抱いてしまう。
「でも……もう少しで夕食よね? 時間をおかないとこれ、もとに戻らないわよね……?」
「…………ああ〜……」
 急に現実に引き戻された気がして、彼は軽く頭を抱えた。
 ちらと見やった窓の外は、確かに日が暮れてこそいなかったが。夕方特有の斜めに傾いだ光が、その色を変えてきているのは見てとれた。この宮の主――もう主ではないと嘯くわりに本人も周囲もその采配に疑問を持っていない――も、暗くなる頃には会食の間に来たまえと言っていたことだし。姿を見せなければ逆に心配して誰かしらが様子を見に来ることだろう。
 そのときにふたりして唇を赤く腫らしていたら。……何をしていたかは一目瞭然である。
 感情は知られている。そのなかに存在する欲だって察されているだろう。でもほのかにそれらを感じ取られることと、実際に行為の名残を目撃されることはもちろん別の問題だ。恥ずかしすぎてしばらく仲間たちの顔を直視できなくなるに違いない。
 うん、とひとりうなずいて彼は彼女の右手を持ち上げた。
「じゃあ今度は俺がシオンの手を観察する番だ」
「か、観察? そんな、見て面白いものでもないわよ」
「シオンはすごく楽しそうだったぞ」
「っそれは」
 自覚はしっかりあったらしい。彼女は視線を斜め下、床のほうにそらして何やらぶつぶつと呟いた。内容は聞き取れないが言い訳の類だろう。それか不平か。敢えて無視して指先を握りこむ。
「それが嫌ならさっきの続きかな」
「さっ……きの」
 びくっと細い肩が跳ねた。垂れ下がる髪に隠れて仔細は見えないが。ちいさな耳が再び真っ赤に染まっていくのが見えて、彼は笑みを噛み殺した。かわいい。
 やがて意を決したのか、彼女は首の角度はそのままにきっと睨みあげてきた。まるで戦いに赴くかのような勇ましい視線だった。相変わらず頬が赤いし、天色の目もなんだか潤んでいるので迫力はないけれども。結局は上目遣いに愛らしく見つめられているだけの状況である。ただし本人はちっとも気づいていない。
「わかったわよ……手ぐらいいいわ、好きになさい。つねっても引っかいてもいいわよ!」
「……そういう趣味はないけどな……」
 だから戦いではないというに。苦笑して呟いたが、彼女の顎にはぎゅっと力が込められたままだった。それとも彼女はそういうつもりで彼の手をいじって遊んでいたのだろうか。困るだけだろうから、あえて尋ねることはしないでおいてやろう。
 どこか恩着せがましい思考を展開しながら、手始めに手のひらを合わせてみる。一生懸命に怖い顔をしていたつもりだろうに、途端にふわっと嬉しそうに唇を綻ばせるのだから。
 もう愛しくてたまらない。
 ふたりきりの時間はもう少しで終わる。ひとたび食事どきともなれば、彼女の関心は即座にそちらに奪われてしまう。それまではせめて徹底的に愛で倒してやろうと、決意新たに愛しいひとを見つめた。
--END.
ED後のアルシオは初っ端からアクセル全開フルスロットル。
まあ私の脳内のアルフェンもシオンもちゅーが好きなので…こうなってしまうのはもうしょうがないよ。いやでも私の手前勝手な妄想じゃないんだよだって公式でちゅーするもの、しかも感極まっていたとはいえシオンから行くもの。
ふたりとも戸惑いや羞恥を欲求がぶっちぎるタイプっぽいよなと常々。
荊が消えてからのシオンは近づかれることに警戒心が薄くなるのだろうなーと勝手に思ってますが、本当に警戒心ゼロなのは仲間に対してだけで、他人がパーソナルスペース(広め)詰めてきたら「なんだこいつ」って睨むくらいはする。だって人付き合い自体得意じゃない子だし。仲間たちが心配するほどには無防備じゃないと思うんですよね…でも仲間から見れば無防備このうえない、ってなってしまうよね…特に対アルフェンは周囲が驚くほど簡単に抱き寄せられたりくっつかれたり唇奪われたりしてそうな。
アルフェン本編後半わりとがっつり欲得ずくでいくけど、中盤までの鈍感シオンと違って後半シオンは彼のそっち系の欲望に全く気づいてないってことはないと思うんだよな…それでアルフェンに対して嫌悪感覚えてない、それどころか嬉しそうにさえしている時点ではい終了〜、とっととくっつけいちゃついとけ、としか。
本文中の「万が一にも〜思うとおりの表情が」のくだりも、ぶっちゃけアルフェンは自分で思うとおりの表情できてませんたぶん。けっこうギラギラしてたんじゃないかと思います。ただシオンもバッチコーイ状態だったから怖がらなかったってだけで。
少年と少女、でもなく。青年と少女、でもなく。男と女。って感じ。
あーあと、ときどき取り沙汰されるアルフェンとネウィリの間にあった感情ですが。私は紛うかたなき友情だったんだろうと解釈してます。同病相哀れむ的なある種特殊な絆はあったでしょうが、互いに最優先するものは違ったしそれをきちんと納得していた。すなわちアルフェンの望郷の念とネウィリの同胞への愛。
アルフェンはネウィリに助けられるばかりで力にはなれず、そこのところは悔やんでいるだろうけども。恋愛感情なんぞあったらあの男、それこそいくら混乱して怪我して弱ってても無抵抗で鉄仮面被せられたりそれで鎮静効果あってもおとなしく星舟乗せられたりしないんじゃないのっていう…(願望多分に込み)あと記憶を取り戻したときももっとネウィリの話ばっかり出しただろうし彼女に子孫がいる事実に少なからずショック受けたりとかもすると思う。でもすでにどうしようもない過ぎ去った時間とはいえ、彼女が伴侶を見出し子どもを授かり、色々あったにせよきっと幸せに生涯を閉じられたのだろうと穏やかに受け入れているので。
その時点で「俺が俺が俺が」ってなるシオンへの感情とはまったく別物だなってのがはっきりわかってしまうんだなあ…
シオンがきつい態度をとっても嫌いにはなりきれず、どころか心配して親切にしようとしたのにはネウィリの面影が作用していたのはもちろん間違いないけども。そのおかげとジルファの薫陶と自身の性分で、シオンから目をそらさずにいられたんだよな…痛みなく触れられるのが自分だけだからこそ自分が一番に助けなきゃってのももちろんあったんだろうけど、無自覚にどんどんドツボに嵌まっていく様があまりにもわかりやすくてねえ…いやわりと早い段階でガッツリ自覚まで行ったけど。早くね? って思いました正直。そしてあんな早々に積極的に攻勢に転じるとは思ってなかったのでこれもびびった。まる。
そんでその後に来るのがシオンがさらわれーの痛覚及び記憶が戻りーの。今まで当然のこととして、そしていつのまにか慣れて互いに内心喜んでいたであろう「触れる」ができなくなってしまって、あんなんなって。
あそこで互いに刻まれた心の傷は一生消えないんじゃないかなって思っている…それを忘れられないからこそ得られた奇跡に二人とも奢ることなく甘んじることなく一生かけて気持ちを伝えあっていくのかなって。
そのタイミングでネウィリのこと思い出したのも混乱に拍車をかけたとは思うんですよ。遠い友人の面影を追っていたからこそ生まれた恋心なのかってのは絶対悩んだと思う。助ける助けないはもちろん選ぶまでもないとして、その後も今までのように距離を詰めに行って良いものかは、まあ、迷いますねあの流れだと。彼の口にした「資格」って戦う資格だけじゃなくてさー、シオンを恋い慕い続ける資格、みたいなのも含まれてたんじゃないかなって思っている。そもそもおのれの気持ちの動きに資格なんてあったもんじゃないけど。キサラもわかってて戦いの話に混ぜてかこつけてアルフェンを励ましたのかなという解釈。
(後でアニメムービーとスキット見返したらそういえばアルフェンの暴走でレナ人もいっぱい死んでしまったんだった…戦う資格の話にしろシオンを愛する資格の話にしろネウィリよりむしろそっちの理由のほうが強いなこれいやアルフェン悪くないのでは? って思ってたのとあまり頻繁に話題にされないのとで見事に抜けてたダメ人間だ…)
(てか自分の罪云々を頻繁に話題にするのってテュオくらいか他の仲間もちょこちょこ自分の後悔や罪を口にするけどテュオほどじゃないよな)
んで、諸々吹っ飛んでいやシオンだからこそなんだって肚決めたのがサクリオ大聖堂のあれ。
そこからはもう迷いも手加減もする必要ないですわね。シオンが嫌がったり怖がったりしなければいくらでも行く。ということで後半フェン…
まあ解釈は色々あると思うんだけど。それこそどこで自覚したかとかさー、荊がなくなってもすぐに触れられるようになるかなかなか触れられないかとかさー、いろいろ。自分のとは違う、人のを読んでも「なるほどー!」て思うこと多いし(影響を受けやすい)
ただ、私はアルフェンのシオン愛がほんとのほんとに決定的になったのは大聖堂で泣くシオンを見た瞬間かなーって思ってるんですよ、という話だった、これは。
共依存とか傷のなめ合いとか、そういう後ろ向きな気配は感じないんだけど、二人ともがそれぞれ抱く埋めようのない寂しさが共鳴したっていうのはあるんじゃないかなと。
いやほんと、そういう話を書き始めたつもりだった、はずなんだけど…ひたすらいちゃついたな…そして長いなあとがき…
あと珍しく最後まで地の文に名前が入らなかったね。タイミング逃しましたフハハ。
(2021.10.31)