幸が彩る
 紙とインクの匂いは、決して嫌いじゃない。
 蔵書が傷んでしまわないようにとの配慮なのか、アウテリーナ宮の図書室は広いわりに窓の類がない。入ってまず目につくのは見渡す限りにそびえたつ背の高い本棚、本棚、本棚――次いでゆったりと配置された机やソファ。落ち着いた色の天井から下がる照明は視力に影響を与えない程度に絞り気味にしてあって、抑えた人々の囁き声に混じり、時折しわぶきが聞こえる。
 明るくはない。でも、暗くもない。喧しくはない。でも、しんと静かでもない。
 なんとも“ちょうどいい”空気の中、シオンは目的の棚をみつけてわずかに唇を綻ばせた。案内してくれたレナ人に礼を言い、適当に一冊取って目次を検める。
 友人の少女は言っていた、ダナの文化は意図的に消されてきたのだと。だが何もかもが棄てられてしまったわけではないのだ。人々が細々と守り続けてきたもの、有用だと判断されたが故に存続を許容されたもの。古い本と新しい本が入り混じるこの部屋で、今回探していたのは各所領とも比較的力を入れていたのだろう分野だった。すなわち、農業である。
 ただ、ダナに知恵をつけることも良しとしていたメナンシアとは違い、他の地域では体系的に知識を伝えることはしてこなかった。まず都市部以外は圧倒的に識字率が低い。抵抗組織に属していた人間は別としても、集落によっては読み書きのできるものなど取りまとめ役くらいだ。そんな状況では情報伝達の手段は限られる。口伝と経験からの勘ももちろん侮れるものではないのだが、効率の面からはどうしても劣ってしまうのは否めない。
 まあ、シオンとて農業だけを終の生業とする気はさらさらないのだが。それでも旅の途中親しくなった牧場の主を手伝って、それなりの知識と経験は身についたと思う。これまでもこれからも、彼女個人に限ってはそれなりでかまわなかったものをもう一歩踏み込んでみようと思いたったのは、最近牧場にやってきた少年のためだった。
 土づくりとか。灌漑設備とか。それこそ友人たち――テュオハリムかリンウェルあたりに頼んで地の星霊力を活性化してもらえば、収量は簡単に跳ね上がるだろう。いや、コツさえ掴めばきっとシオン自身にだって可能だ。未だ完全に我が家だけに落ち着くことのできていない彼女らが片手間に手入れしている家庭菜園なら、それで充分なのだけれど。規模が大きくなれば、当然そういうわけにはいかない。
「星霊術にばかり頼っていてはいられないし……やっぱり基本は大切よね」
 件の少年はまだ読み書きも習い始めたばかりで、専門書を読破するには覚束ない。かといって彼女にも即時内容を理解し解説できるほどの器用さはない。これは難しい、もっと簡単な入門書でもあればと顔を上げたところで、シオンはそばに立っていた青年に気づいた。
「ええと……? もう大丈夫よ。後は自分で探せますから、おかまいなく」
 言って軽く首を傾ければ、この棚まで案内してくれたレナ人の男性は微笑を浮かべた。宮殿のお仕着せではない、レネギスの伝統的なチュニカ・レネをすっきりと着こなし、色素の濃い髪を後ろに撫でつけている。今ここメナンシアでは、もともとダナに住んでいたレナ人とレネギスから降りてきて間もないレナ人が混在している。この人は服装からしておそらく後者だろう。図書室で何度か見かけたことがある顔だったし、だから恰好など今まであまり注意を払わず、宮殿で働いている人だとだけ思っていた。農業と自然科学の棚を探していたら当然のように声を掛けられ当然のようにすぐに案内してくれたので、推測は間違っていなかったと思うのだが。自分の仕事があるのではないだろうか。
「いえ、前回は鉱物学の棚をお探しでしたよね。それが今回は農業だったので、勉強熱心な方だなと思って」
「……はあ。勉強というほどでも……そのとき必要な知識を探しているというだけのことなのだけど」
 ちなみに前回鉱物学の本を探していたのは、同居人が武器やら農具やらの素材について鍛冶屋と話を弾ませていたからだ。得意分野は人それぞれ。だからべつに対抗することなど何もないのだが、彼のやけに嬉しそうな表情と声がまっすぐ相手に向けられていて――まあ、髭面のおじさんだったわけだが――なんだかそれが悔しいようなうらやましいような気分になってしまっただけのことである。ちなみにもともと装飾品の細工の類には興味があったシオンだったので、それなりに楽しめた。
「あの、もしよろしければ今度……」
「ああ、ここに居たのか」
 覚えのある声を聞きつけて、シオンは手に持っていた本を閉じた。
「アバキール」
 ひょいと顔をのぞかせた知己は彼女と目を合わせるとほっとしたように息をつき、本棚の陰から全身をこちら側に持ってくる。そばにいたレナ人の司書(たぶん)に軽く目礼してからシオンに向き直った。
「探していたんだ、シオン。テュオが禁断症状を起こしかけていてね、急遽広場で何曲か演奏することになったから、君もどうかと思って」
「あら、そうなの。タイミングが合ったのは久しぶりかもしれないわ」
 かつてメナンシアの領将だったテュオハリムは、今ではメナンシアどころかダナとレネギスの調整のため星の海さえ越えて世界中どこでもを頻繁に渡り歩いている。
 世界そのものがつくり変えられた後。彼は宮殿に戻ると早速美しいバイオリンを手に取った。私室で強固なガラスケースに封印されていたそれに触れたのは実に七年ぶりで、指がうまく動かないと苦笑していたのを覚えている。
 もともと自由人気質の強かったテュオハリムは、もうすっかりその本質を取り戻していた。そして旅の空の下、自分の面倒もある程度自分で見られるようになったがゆえにお目付け役も基本必要としない。ふらりと郊外へ出てみたり、かと思えば誰も来ない図書室の隅で本を読みふけっていたり。市場で買い食いをしていたとの目撃情報もある。というかそのときは実はシオンがつきあっていた。
 ただ、いくつもの事柄の中でことさらに音楽を愛していた彼である。一番に好むのはやはり楽器に触れること。仕事に忙殺されてそれがかなわない日々が続くと、普段に輪をかけて解釈に困る詩を吟じだす。それをキサラや親しい面々は禁断症状(本人は納得いかなさそうな顔をしていた)と勝手に名付け、ちいさな演奏会を開くのだ。
 大仰なものではない。人数だって揃ったり揃わなかったり。あるときは領将私室で、あるときは宮殿の中庭で。他領の市街地の路地裏だったこともあるし、レネギスの公園でももちろんある。誰しもが生きるに精一杯な状況だからいつもいつも歓迎の声ばかりではなかったけれど、少なくとも身近な人々からはやめようという言葉は出なかった。
「今回はあなたと二人なの?」
 楽器を持って飛び入り参加など、物理的にも技術的にもできる人間は限られる。テュオハリムは他人の技巧にけちなどつけないが、聴衆はどうしてもより良い演奏を期待してしまうものだ。たまに、宮殿で歌を習っている子どもたちが愛らしく混ざるくらいか。
 アバキールは楽しげだった。
「今日はフィアリエもいるよ。ほら、お披露目の時に君が着るドレスを見たてたいと言っていただろう。覚えているかい」
「そういえば言っていたわね。レース職人と連絡を取るとか……」
「やる気満々で、見本帳を何冊も持ってきていた」
「えっ、もう?」
 驚いて少し大きな声が出てしまう。慌てて周囲を見回したが、特に問題はなさそうだった。安堵して意味もなく本の背表紙を撫でる。
 お披露目とは、シオンと同居人――いや、もういっそ夫と表現してしまうほうが正確か――アルフェンの婚姻の式のことである。
 シオンはなんとなく、ダナ人の婚姻は事実婚が多いのだろうと思っていた。レネギスで学ばされるダナの知識は、あくまでその星霊力やダナ人への支配体制の仕組み、そして差別意識を強めるためのものばかりでしかなかった。文化風俗に関しては今思えば失礼極まりないの一言で、“ただレナより劣る”とだけで粗雑に片づけられていたのだ。
 実際ダナに降り立って、奴隷としての劣悪な環境を知ればさもありなんだった。文化がどうこうではない、それ以前に状況がひどすぎる。身内が死んでもまともな弔いなどできないと、そればかり聞かされていたから儀式そのものを無暗に話題にすることを避けるべきと思い込んでしまっていたのもあるかもしれない。誰だって、やわらかい部分を無遠慮につつかれるのは厭うものだ。
 アルフェンは明確な言葉をくれて、シオンからも同じものを返した。ふたりで決めた区切りも一度はちゃんとつけたから。何より、単純に毎日が幸せで仕方がなかったから、お披露目のことまではあまり気が回らなかったのだった。
 しかし。家こそ構えたものの各地を回る日々の中、それまでの認識は少しずつ覆っていった。
 ダナは長らく被支配者層にあったため、レナはその死者に対しては、確かにほとんど注意を払っていなかったという。だが婚姻のほうは違った。本人たちにとっては縁を結ぶ行為、けれど支配者にとっては新たな道具が作り出される可能性。生まれた赤子には例外なく霊石を埋め込まなければならない、そのためには死傷率はともかく出生率は把握しておかなければ。故に彼我の思惑は違えども、ダナにおける婚姻制度も儀礼も決して廃れていなかったのだ。レネギスの上位層が行うような示威を含んだ荘厳なそれではなくとも、ささやかな祝い事は皆の心を掬い上げる。
 レナとダナの習俗の違いと、類似性。それらについてのアルフェンの知識は当然三百年前のもののほうが詳細ではあったが、すり合わせるにつれ、シオンは皮肉に胸を痛め無知を恥じた。アルフェンはアルフェンで、何かしら記念か節目をとは思っていたものの、目まぐるしく動く周囲に遠慮してどうにも言い出せなかったらしい。
 それでもやっぱり、可能ならば。
 ふたりで出した希望に諸手を挙げて賛成してくれたのは、今まで関わった人たちだった。
 やたらおおごとにしたがるテュオハリムをキサラが宥めて、気後れせずにすむような一日にすると請け負ってくれた。リンウェルは今に伝わる風習ばかりか、各地の遺跡に残された痕跡から推測できる諸々までもをものすごい勢いで披露してきたし、ロウはかつての抵抗組織の面々に大喜びで触れ回った。
 そうして今目の前にいるアバキールと、話題に出たフィアリエである。
 テュオハリムを含めた三人はやはり何かしら演奏してくれるとのことだったが、それに加えてフィアリエが俄然張りきり出したのだ。曰く、シオンを飾りたてたいと。
 装いに対する情熱というのは、年齢も性別も、人種すら簡単に跳び越える。彼女とてレナの同胞のために割り振られた仕事はあって、決して暇を持て余しているわけではないのに。レナもダナも関係なく知人友人巻き込んで、随分色々考えてくれているらしい。
「僕も毎日会っているわけではないが、最近のフィアリエはいつも楽しそうだよ。豪奢にはできなくても、絶対にアルフェンを君に見惚れさせてみせるって豪語していた」
「え、いえ、あの……」
 上気した頬を自覚して、シオンは視線を彷徨わせる。結局分厚い本を掲げて本棚との間に顔を隠した。
「……からかわないで」
「ははは、すまない」
 これはちっとも悪いと思っていない声だ。でも悪意は感じない。目を瞑って呼吸を整え、意識して全身の血をゆっくり巡らせるようにする。そうしていればだんだんと上がった体温も落ち着いてきた。もう頬の赤みも引いたことだろう。
 おすまし顔で、本を棚に戻す。
「とにかく行きましょうか。今更だけど、あなたが探しに来てくれたのね」
「アルフェンはココルを連れてくるって飛び出していったよ。馬を借りていったし、それほど時間はかからないんじゃないか」
「ああ、それで」
 カラグリアでアルフェンを兄のように慕っていたココルは今、一時的にボグデルの牧場で世話になっている。保護者代わりのドクの勧めで送り出されてきたのだ。そもそもシオンが今日宮殿の図書室に来た理由の一端も、あの少年にある。
 贔屓と誹られても反論できないが、人脈は利用するに越したことはないというのもまた本当のことだ。一気にすべては無理なのだから、まずは手の届くところから。ヴィスキントはダナであっても素質に合った教育を受けられる環境が整っている。いずれはカラグリアに戻って自分の農場を持ちたいと語る少年が、将来本当にどうするのかはまだ未知数だけれども。本人が嫌がらない限りはありとあらゆる経験をさせてやりたいのだと笑うアルフェンは、兄というよりまるで父のような表情をしていた。
 未だ傍らにいた司書に、軽く辞去の言葉だけを伝えて。
 次の瞬間にはシオンの意識から、彼のことはきれいさっぱり消え失せていた。







 れっきとした建造物の中にいるというのに、水と緑の匂いが濃い。
 どういう仕組みか知らないが、外と水路を繋げて清浄な流れを常に引き込んでいるそうだ。まあここは一階だから、階段を上っても上っても上から流れてくる水が途切れなかったガナスハロスの城に比べれば不可思議さはそれほどでもないのだけれど。
 美しく整えられた中庭を抜ければ、目的の部屋はすぐ。扉を開ければ今度は乾いた空気が身を包む。図書室に入ると、さして離れていない庭園との湿気が違いすぎていつも驚くのだ。ここにも何かしらレネギスの技術が流用されているのだろう。本を黴だらけにするなどという愚行、本好きたちが許すはずはない。
 アルフェンは、迷いのない足取りで進む華奢な背中を追いかけた。
 途中司書らしきレナ人の男性が、彼女――シオンの姿を見て腰を浮かせるが、他ならぬ彼女自身がはっきりと案内を断る。
「ありがとう、けっこうよ。さっきの棚に行くだけですから、場所は覚えているわ」
 口ぶりからしてそれなりには馴染み深い相手なのだろう。図書室に来るたびに顔を見る、くらいの頻度かもしれない。ここに務めているなら当然のことではあるが。
 知らない人間の視線が、さっと頭からつま先までを撫でたのがわかった。
 値踏みされている。そう感じて、反射的にそちらを振り返りそうになったのを我慢する。
 カラグリアで奴隷をしていたころには縁がなかったが、炎の剣の関係で無駄に名が売れてしまって以来は、数多曝されてきた類の視線だった。この世に生を受けてから過ぎた実際の時間はともかくとして、アルフェンの身体は成熟しきるぎりぎり一歩手前、あくまで若者のそれだ。ジルファや抵抗組織を率いていた男たちのような堂々たる体躯の偉丈夫には到底及ばなかった。
 ただ、だからといってみすぼらしいなどとも思ってはいない。あくまで年相応。値踏みはたくさんされたけれど、大抵の人間は見てくるだけで特に何も言わない。馬鹿にしてくるでもなく感嘆されるでもなく。それこそ、「なるほどこういうもんか」と言わんばかりの、単純に事実を受け入れるだけの瞳。
 今回もそんなところだろうと流すつもりが、ちりりと首筋が逆立って眉を寄せる。不快というほどでもないが、少し気にはなった。意識が追いかけてくる感覚があるのだ。本棚を回り込んで薄紅色の髪がなびく。想像していたよりも手前で立ち止まっていたシオンにあわやぶつかりそうになり、慌てて踏ん張った。
「このあたりよ。私も見てみたけど、ココルに読ませるにはちょっと専門的すぎるかと思うのよね……」
「読む以前に重そうじゃないか、このへんの本」
 べつに本を読むのに必ずしも手で支えていなければならない道理はないが。ぱらぱらと頁をめくってはみたものの、そもそも読者に豊富な語彙力とある程度の専門知識があることを前提にして書かれているものに見える。司書に尋ねてこの棚に辿りついたのだとシオンは言ったが、そりゃあ、彼女が目的を省いてただ分野だけを述べたなら、彼女自身が読むものと解釈するだろう。
「ココルの読めるような本なら、ほら、入り口あたりにちいさい子の勉強を見てやってる人がいるだろう? 子ども相手だし、午前中しか見かけたことはないが……あのひとに聞くほうがいいような気がする」
「確かにそのとおりね。前と同じような気分で探してしまったわ」
 あれこれ考える前に何を探しているのか聞かれたから、ついそのまま言ってしまったけど。
 並ぶ背表紙を眺めながら、花色の唇がちいさく呟いた。聞きとがめてアルフェンは低く囁き返した。
「…………聞かれた? シオンのほうから、尋ねたんじゃなくて?」
「? ええ」
 見返す天色の瞳は何の疑いも宿していなかった。
「この宮殿で働いている人は、みんな親切よね。少しでもまごついた様子を見せたら声をかけてくれるの。面倒をかけるのは悪いとは思うけど、それが仕事でもあるんでしょうし。遠慮なく甘えることにしてるわ」
「いや……えー……あー……そうか……」
 咄嗟にうまい言葉が出てこなかった。
 あー、とか、えー、とか呻きながら頭をがりがり掻いている彼を見上げて、シオンは不思議そうな顔をしている。あんまり掻くと傷になるわよ、と手を伸ばしてきたので素直に頭を低くした。旅をしていた頃の習いで、強い痛みや違和感がなくとも各所をさらすことには何の戸惑いもない。見せろとの仕種をされればなおさらだ。ふわりと鼻先を掠める彼女の香りを意識しながら、細い指先が短い髪をかきわけるに任せた。
「……赤くなっているだけね。ただこれ以上すると血が出そうよ。あなたは時々無意識に力が入りすぎることがあるんだから、――――」
 ふわふわと、長いスカートの裾が目の前で揺れる。
 実のところアルフェンは、テュオハリムの演奏会を聴いた後自身でまたココルを農場まで送っていくつもりだったのだ。
 だがアバキールが寄って来て控えめに耳打ちしていった内容が看過できず、こうして彼女にくっついて図書室までやってきた。アバキールは代わりにフィアリエも伴い、馬車を手配して少年を送り届けていってくれている。
 僕が出しゃばっていいものか迷うんだが、気になったものだから。
 そう前置きされて聞いた内容は、まあ確かに、気にするほどのことではないのかもしれなかった。でもやっぱり心配になってついてきてしまった。シオンは同年代の他の女性に比べると、どうにも無防備だ。それは彼女が長く荊に囲まれて人と触れ合うことがかなわなかったからで、同時にそういった方向での害を受けることがなかったからでもある。
 他人を傷つけることばかり恐れていたから、その心配がなくなった反動で、近づくことにはあまり頓着しなくなっている。たぶん友人の老婆心になどまったく気づいていないだろう。
 シオンは際立って美しい。ただそこに立っているだけで人目を惹きつける。もちろん彼女の一番の魅力はその内面にあるのだと彼は思っているが、人が人に興味を抱く入り口のひとつに見た目を据えることは別段不思議ではない。だというのに彼女は、おのれが他者にとってどういう存在になり得るのか、理屈では理解していても実感が伴っていないのだ。向けられる親切の奥底にあるものも、視線に含まれたなんらかの思惑も。敏感になれるのはまだ、身近なひとたちのそれに対してのみ。
 検分して満足したのか、頭は解放された。背筋を元通りに伸ばすといつもの角度になる。右手でシオンのこめかみあたりの編み込みをなぞれば、見上げる瞳はいっそう不思議そうに瞬いた。
「アルフェン? どうかしたの?」
「いや……」
 まとわりつく視線が正直、鬱陶しい。普通ならばすれ違う際に一瞬で離れていくそれは、今は確かな意図を持ってアルフェンの肩や背中あたりを行ったり来たりしている。ああそうか、彼の陰に隠れて彼女の姿が見えないからでもあるのか。
 べつに、周りに人が居ようと自分はかまいやしないが。よく知りもしない相手になんだってじろじろ見られ続けなきゃならないんだと思うと、自然唇はひん曲がった。
「ちょっと、アルフェン?」
「……シオン、こっちだ」
 棚から出しかけていた本を綺麗に全部押し戻し、アルフェンはシオンの手を引いて図書室から抜け出した。


 さすがに持ち場を離れてまでは追いかけて来なかったようだ。
 顔を動かさずに気配だけで探った視線の主は、やはりシオンに話しかけてこようとしていた司書だった。アバキールの危惧は正しかったと言えるだろう。
 君の名前を出しておいたが、牽制になったかどうかはわからない。神経質かもしれないが一応気をつけてやってくれ。
 アルフェンは引き結んでいた唇をようやく緩め、ちいさく息をついた。テュオハリムがいつか言っていたとおりだ、アバキールは出すぎた真似をしないようにと控えめに振舞いながら、的確にこちらに手を差し伸べてくれる。彼に限った話ではなく、仲間たちのうちでは若年のリンウェルやロウであってもそのあたりは察して対処してくれたのだろうが、ともかく今回は助けられた。
 半ば強引にシオンを引っ張るようにしてやってきたのは、図書室からそう距離のない、中庭の奥まった場所だった。
 そろそろ日が暮れる。時間帯のせいか人の姿はまばらだ。生い茂る植物と乏しくなった光源が、そこここに影を落として見通しが悪い。
 アルフェンは少しの間、神経を集中して周囲の様子を窺った。誰もこちらを見ていない、注意も払っていない。よほど意識して覗きに来なければ、誰かがいるのかどうかすら見えないことだろう。ようやく落ち着き、シオンを促して木製のベンチに並んで腰かける。
「ねえアルフェン、いったいどう……っ」
 どうしたの、と続けようとした声が上ずってそのまま掻き消えた。
 座ったまま肩に手をかけ、抱きしめる。後頭部を手のひらで覆いながら引き寄せると、宙に浮いていた細い腕がおずおずと背に回った。隙間がなくなる。
「……どうしたのよ」
 その声はやわらかく、いきなりの抱擁を責める響きはなかった。なんだかあやすように背中を撫でられているのが心地よいが納得はいかない。
 だが、実際聞き分けのない相手を宥めてでもいるような心づもりなのだろう。手つきにこもる愛情は疑いようがなく、アルフェンはなんだかおのれの行動が情けなくなってきた。
「シオン。シオンの心も身体も、シオンだけのものだ」
「? そうね」
 そばにいてほしいとか、自分だけを見ていてほしいとか。願うのも乞うのも勝手だが、相手が実際にどうするのかに至ってはもちろん相手の意思に委ねられる。
「俺がどうこう言えることじゃない……シオンは誰とどんなふうに触れ合ってもいいし、そうするべきだと思う。せっかく荊を気にしないでいられるようになったんだ、友だちだってもっとたくさん作ったらいい」
「…………」
 相槌はない。それをいいことに畳みかけるように続ける。
「シオンは優しいし、綺麗だ。そりゃいろんな奴に好かれるだろうさ、俺だってそんなことはわかってるしそれ自体は嬉しい。嘘じゃないぞ、本当だ。……ほんとう、なんだが……」
 幼い独占欲と言ってしまえばそうだ。けれど同時に腹の底に溜まるのは、きっと幼子では持ち得ない種類のどろどろしたもの。恋い慕う人の前だから、できるだけ恰好いいところは見せていたい。でもだからって、おおらかに笑ってやり過ごしてこの手の中からするりと抜け出す後ろ姿を見送るのも業腹だ。
 彼女自身が何かしらの意図を見せたわけではない。ただ花に誘われる蝶かなにかのように、向こうが勝手に寄ってきただけ。手を引いて歩いた短い距離の間にもそれなりの耳目を集めていたことは知っていた。老若男女、いろいろ。中にはアルフェンと同じような想いを持ってシオンを見つめるものだって、きっと混じっていただろう。
「アルフェン……」
 ぐるぐる、ぐらぐら。変にかき混ぜられ始めた思考は、どこか呆けたような声に遮られた。
 身じろぎするからすぐに力は緩める。それでも未練がましく細い肩から離れない両手を、気にする様子もなくシオンのほうから指先を伸ばしてきた。
 頬をすべる感触がくすぐったい。手のひらで包み込まれるようにして、むしろ顔同士近づいた。唇すら触れてしまいそうな危うい場所に来て、けれどやっぱり天色の瞳は声と同じ、呆気にとられて無垢に揺れている。
「話がよく見えないけど。あなたの口ぶりから察するに……」
 目を合わせたまま、数秒。やがてシオンは何の気負いもなく、一言で彼の内心を言い当てた。
「もしかして、やきもち?」
「…………!」
 アルフェンは絶句した。
 図星だ。
 いや、そもそも隠す気は最初からなかった。それらしいことだってはっきりと口走った。だから気づかれて当然だ、当然なのに激しく動揺して視線を逸らす。
 触れられているのだから全部伝わっているだろう。頬が急に熱を持ったことも、どっと変な汗が出てきたことも。なんだか口の中が渇いてきて一度奥歯を噛みしめる。
 変にごまかしたって無駄なのはわかっている。恥ずかしがる必要だってない、たぶん。今抱いているものは、日ごろ言葉も表情も仕種も、ありとあらゆる手段を使って彼女に伝えたいたくさんの感情の中のひとつに過ぎないのだから。
 冷静に、打算も込みでそう考えたはずだった。
「…………悪いか」
 なのに、喉から滑り出てきたのはなんとも子どもっぽい、拗ねたみたいな響きだった。
 声色に引きずられる形でむうと唇を尖らせて眉根を寄せる。ぱっと朱を散らせたシオンが「悪いなんて言ってないわよ、ただびっくりして、だって急なんだもの」とかなんとか言い訳じみた台詞を並べ立てるのを右から左に聞き流した。
 わかってる、わかっている。単純に驚いたのだろうから、そんなに慌ててくれなくたっていいのだ。だけどとりあえずそろそろ手は放してくれないだろうか。頬に風が当たらずに、冷やすことができないものだから熱い。というか暑い。
 自分は自分でがっちりとシオンの肩を抱きながら、アルフェンは半ば八つ当たり気味にそんなことを思った。少し首に力を入れてそっぽを向いてやろうと試みる。そこで予想外に指先を耳にひっかけられて、引き寄せられて、そして。
 唇をやわらかなものが掠めた。
「……え」
 何が起こったのかは疑う余地もない。シオンから唇を重ねてきたのだ。押し当てるだけのつたないもの、だけれどこんな場所でだ、精一杯の勇気だったに違いない。真っ赤になって、いっそ涙目になりながらも毅く視線をそらさず恋人は一生懸命に微笑んでくれた。
「ねえアルフェン。私がこんなことするのはあなただけよ」
「シオン」
「っん!?」
 瞬間頭が真っ白になった。名を呼びきる間も惜しんで目の前の花に喰らいつく。
 合わせるだけなど到底足らない、何か言おうとした唇をすかさず割って潜り込む。何度も角度を変えながら、奥深くを遠慮なく探って擦り合わせて吸い上げた。
 甘ったるい吐息の合間、彷徨うように宙に浮いた指先を取って導いてやれば、しなやかな腕が収まりどころを見つけたとでもいうように首の後ろで絡められる。
 体温を上げた肢体は、蕩けるようだった。芯を失いぐにゃぐにゃと、頼りなく頽れる腰を抱いて傾ける。ベンチに押しつけのしかかっても、控えめな喘ぎの中に恐怖は微塵も混ざっていなかった。後頭部の髪をかき混ぜる細い指。対して武骨な手のひらは、調子に乗ってやわらかいところを好きにまさぐる。
「あ、ちょっ、と、んんっ」
「っは」
 汗ばんだ首筋に唇を這わせ、ある一点に吸いつけば、組み敷いた身体がびくんと大きく跳ねた。
「まっ……て、まって、待って」
 吐息ばかりの中にひとつだけ、意味のある単語が混ざる。
 拾ってしまったからには聞き入れざるを得ない。アルフェンは断腸の思いで甘い肌から唇を剥がした。恐ろしいほどの速さで脈打つ心臓からも手を離し、乱れた薄紅色の前髪をそっと掻き上げる。
「足りない」
 端的に伝えてみたが、シオンはすぐには返事をしてくれなかった。はふはふと、腫れぼったくなった唇から荒い吐息を漏らすばかり。熱に浮かされ潤いを増した瞳に映るのは、他ならぬ彼の顔だ。喉を鳴らすアルフェンの思惑など素知らぬ風で瞬きして水分を散らす。少し理性の色が戻ってきた。アルフェンの袖をつかんで舌足らずに訴える。
「ば、しょ……場所を、考え、なさい」
「誰も見てない。いいだろ、キスくらいなら」
「あのね……」
 確かな意思を持って肩を押し返された。アルフェンは渋々起き上がり、伸ばされた手を掴んでシオンのことも引き起こす。
 ぺちっと二の腕を叩かれたがちっとも痛くなかった。かぶりを振ったものの、力が入らないと見える。今の今まで自分を翻弄していた男に躊躇なくもたれかかって息を整えようとするのだから、本当に、無防備なものだ。逆を言えばそれだけの信頼は得られているということでもあるのだろうが。
「いいわけがないでしょう。駄目よあんなの、……へ、変な気分に、なるじゃない……」
 あ、蒸し返すのか。喉元まで出かかったツッコミをどうにか呑み込んで、彼は改めて寄り添う恋人を見下ろした。ばちりと目が合って、慌てて逸らす。
 たったの一瞬だったのに、頬を染め上目遣いに睨んでこられるのはそれはもう、破壊力が高かった。
 いや駄目だ、ここでまた同じ轍を踏むわけにはいかない。つい箍が外れかけてしまったが、シオンの主張ももっともなのだ。いくら人目がないからと言ってもここは公共の場。触れ合い程度の口づけならともかく、さっきのは明らかに調子に乗りすぎた。
 肩口に押しつけられたちいさな頭を撫で、結い髪に指を通して絡まりを解す。
 手つきに他意を感じなかったからだろう。おとなしくされるがままだったシオンが安心しきったような笑みを浮かべて、それでまた、上がった体温を鎮めるのには少しだけ時間がかかりそうだった。







「でも、どうして急にあんなことを言い出したの?」
 ふたり手を繋いで辿る帰途。なにげなく投げた問いに、アルフェンは虚を突かれたように一度目を丸くして――それから、にこりと爽やかに笑んでみせた。
「ああ、悪い。何の話だったっけ?」
 シオンは胡乱に眉尻を跳ね上げた。
 いつもなら有耶無耶にされてやるところだが。なんだか胡散臭い気配がする。
「ちょっと。誤魔化そうとしてるでしょう、ちゃんと教えて」
「ああうん、そうか……簡単には見逃してくれないよな」
「当たり前よ」
 あれだけのことをしておいて知らんぷりを通そうなどと甘いのだ。べつにシオンは毛一筋ほども傷ついていない。嫌だとか怖いとか、そんなことも思わなかった。ただただ慌てただけだが、あのまま流されていたらそれはもう困ったことになっていたのは想像に難くない。
 何がアルフェンのスイッチを入れてしまったのか。それを把握しておかなければ、今後おちおち出かけることもできやしないではないか。いや、やきもち自体は嬉しいが。非常に、くすぐったいのは事実だが。
「私、妬かれるようなことをした覚えはないわよ」
 顎を上げてつんとしてやれば、甘さのにじんだ目尻がさらに下がる。
 カラグリアの友人たちには脂下がりやがって、などと揶揄されてしまうこともあるアルフェンの眼差しが、けれどシオンは嫌いではなかった。なんだかもじもじ落ち着かない気分にはなるけれど、想い人があふれんばかりの思慕を隠さず見つめてくれるのだから。尖らせようとした唇も意識して結んでおかなければふにゃふにゃ形が崩れてしまう。
「シオンは悪くない。それは言っただろ」
「そうだったわね」
 正確にはそのままではないが。切々と訴えられた言葉の中に、彼女を責めるものは何ひとつなかった。
「俺が勝手に嫉妬しただけなんだ。図書室にいた男の、司書……で良かったのかな、あれ」
「……。……場所を聞いただけよ?」
 シオンは首をひねった。何がいけなかったというのだろう。
 普段買い物をしている時も、売り子の性別はどちらかに偏るものではない。必然男性とも話はするし、世間話や値引き交渉で思いがけず盛り上がることはある。でもそういうときもアルフェンは基本的に快活に雑談に混じるだけで、あんなにぴりぴりした空気は滅多に出さないはずだ。
「べつに顔見知り程度のままでも、友だちになるのもいいんだよ。男とは喋るなってのも変だし。ただ、あいつ……あの人、シオンのこと見すぎだ」
「ええ?」
 そうだっただろうか。記憶を探ってみるが、とんと覚えがない。
 声を掛けられて、質問して、答えが返って来て。親切な人だな、くらいにしか思っていなかった。顔は朧気に覚えているが、図書室でなく雑踏ですれ違ったなら気づかないだろう。その程度の印象だ。
「図書室に入った時から、あの人はずっとシオンのことを見ていた。周りには他にも人がいたんだ。なのに呼ばれもしないうちからまっすぐこっちに近づいて来て」
「……言われてみれば、そんな気もするわ」
 双世界がひとつになる以前から、シオンたちは何度か宮殿の図書室には出入りしていた。それなりに親しい職員も何人かいる。今回も、最初のうちはツグリナを探して声をかけるつもりだったのだ。少々変人――失礼、変わった人ではあるが、推薦してくれる本の的確さには心からの信を置いている。
 それがたまたま、違う人が案内してくれたからそのまま甘えただけだった。最近よく見るな、くらいの認識でしかいなかった。
 ただ、それが繰り返されているとなると。そういえば今日一人で本を探していたときも、誘い文句のようなことを言いかけていなかったか。割って入ったアバキールに気を取られてすっかり忘れてしまっていたが。
 教えればまた余計な心配をかけかねない。口を噤んで、シオンは素直にうなずいた。
「そうね、疑いすぎるのは失礼でしょうけど。あまり近づかれすぎないように気をつけることにする」
「そうしてくれると嬉しい。……狭量ですまない」
「そんなことない」
 囁いて、絡めあった指にぎゅっと力を込める。側頭部を肩に擦りつければアルフェンは心得たように身を寄せてくれた。少々の歩きにくさはものともしない。さりさりと、耳元で髪と布のこすれあう音がする。
「私だって同じだから。みんながアルフェンを好きになってくれるのは嬉しいわ。でも、女性があなたをじっと見つめていたり……近づいて触ろうとしたら、やっぱりやめてって言いたくなるもの」
「心配しなくても、俺はそんなにモテないぞ」
「それは気づいてないだけね」
 もしくは、気づいていないふりをしているか。
 胸中で呟いて、シオンはさりげなく視線を巡らせた。
 夜闇に沈んだヴィスキントのメインストリートは薄暗い。とは言っても、足元に不安を感じずにすむだけの光源は確保されていて、だから周囲の人々の様子やざわめきだってそれなりに見てとれるのだ。
 ああ今、すれ違った女性二人組が振り返った。こちらを見ながらひそひそと、抑えきれないのか甲高さが混じる。声色からして悪いことを言われているわけではなかろうが、なんだか気になってしまう。それからほら、露店で元気に客引きをしていた少女は一瞬口上を途切れさせ、淡く頬を染めた。
 そんな彼女たちは、アルフェンを見た後に必ずさっと隣のシオンを一瞥していくのだ。そうして何を思うかまでは、こちらのあずかり知らぬところではあるけれど。
 気にし始めたらきりがない。アルフェンは自身の容姿にはとんと言及しないたちで、せいぜいが選んだ服の批評を求めてくるくらい。そして仲間たちを、特にシオンを何かにつけ真正面から褒めそやす。
 確かにシオンはそれなりに美しい――いや、美しくあれるよう振舞っているつもりだ。ロウとリンウェルは容貌から行動までそれはもう全部が愛らしいし、キサラは妙齢の女性らしいしなやかさと元軍人ゆえの凛々しさが矛盾なく同居していて人目を惹く。テュオハリムとて、その人柄や手腕によるところも大きかろうが、まずとにかくどこから見てとっても優美なその姿と物腰こそが絶大な支持の根拠のひとつとなっているのは間違いがない。
 そんな中にあって、アルフェンも溶け込んで浮かずにすんでいる。その時点で、実は相当なものなのだと判断していいのだろう。
 ぴんぴん跳ねるくせ、意外とやわらかい銀の髪が好きだ。敵と相対するときは厳しく吊り上がる灰青の瞳も、友人たちやシオンを前にすると途端にやさしくまるくなる。華やかではないが整った顔だちに、すんなり伸びた体躯、姿勢の良い背中。きちんと筋肉のついた手足は、シオンが思いきりぶつかっていっても小ゆるぎもしない。
 惚れた欲目は当然ある。あるが、恋情だけに気を取られて目を曇らせることもしていない。それくらいの自負はある。
 言葉を続けなかったものの、もの言いたげなシオンに気づいてはいるのだろう。アルフェンは頭頂部に頬擦りするように首を傾けてきた。顔だけは前を向いたまま。まあそれは仕方ない、中心部を離れれば街灯の数も減る。暗い中変にいちゃつきながら歩いていたのでは、うっかり転びかねない。
「そりゃ、さすがにあからさまに寄ってこられたらわかるさ。……でも興味がないものは仕方がない。俺は男だから、ある意味無頓着でいられるって面はあるんだろうが」
「そうね、その点ではうらやましいわね」
「俺はシオンが男だったとしても心配はするぞ。実際リンウェルやキサラだけじゃなくて、ロウも心配になることがある」
「それは別の心配じゃないのかしら……」
「いや、同じだ。たぶん」
 たぶんなのね、と合の手を入れることはせず、シオンはつないだ手をなんとなしに揺らした。拍子をつけて揺らすとその勢いでくっついた身体が離れ、近づき、また離れる。影法師も一緒になって追いかけてくる。通行人がいなくなってきたからこそできる、遊びのようなもの。
「ともかく、俺のことはそんなに心配してくれなくても大丈夫だ。……俺が、今何を考えているのかわかるか?」
「何を? 明日の朝ごはんの献立?」
「いや、そうじゃなくてだな……」
 がっくりと肩を落とすアルフェンに、シオンは瞬きを繰り返した。
 だって、夕食は友人たちに呼ばれて思う存分堪能した。だからこんなに暗くなるまで首府にいたわけだが、あとはもう帰って身づくろいして寝るだけで今日は終わりだと思えば気楽なものだ。
「違う」
 ぱっと指先が閃いた。手を放されて浮遊感を覚える暇もあらばこそ、力強い腕が腰に回ってぐいと抱き寄せられる。耳に吹き込まれた吐息がやけに熱かった。
「早く、続きがしたい」
「は? つづ……っ!」
 続き。
 理解した途端、ぼっと顔に火が付く。即物的な表現に頭の中まで煮えそうになってくるけれど、わずかに残った冷静な部分が、言外に込められた意味をも正確に拾ってくれた。
 ――余所見なんて、思いつきもしないのだと。
 咄嗟におしのけようとした手の動きを制し、代わりにスカートを握りしめた。下を向く。
「……あ、明日はフィアリエとラギルが家に来る約束になってるのよ。午前中よ」
「知ってる、というか俺も朝から別件で出ていくよ。でも早朝出発ってわけじゃないんだから」
 いいだろう、シオン?
 希う声がどろどろに甘い。目が回りそう。
 空気が余分に必要になる気がして、はしたなく口を開けたり閉めたり、でも鼓動はちっともその歩みを遅くしようとしてくれない。
 アルフェンのほうを見ないようにしていても、様子を窺われていることはわかる。逃がしてはくれない、わかってる。おそるおそる見上げてみれば案の定、欲に濡れた瞳にひたと見つめられていた。
「……手加減、して」
「努力する」
 間髪入れず返る声音の、なんと嬉しそうなことか。
 たった今まで垂れ流しにしていた色気を即座に引っ込めて、アルフェンはもう一度シオンと手を繋ぎなおした。
 町はずれになるといよいよもって人通りが少なくなる。闇に沈む街道に、点在する灯りはごくあえかなもの。自由なほうの手をすいと動かしてちいさな光球を生み出しておく。
 暗かろうがはぐれズーグルが潜んでいようが、もちろんちっとも怖くない。
「我が家が遠いな……」
 聞かせること前提のぼやきにちいさく笑う。
「仕方のないひとね」
 ゆらゆら揺れるふたつの影は、束の間ひとつに重なっていた。
--END.
掴みの次はめっちゃ長くなった。
やっぱりアルシオ最高です。
しかしなんだろな、この二人って基本素直なので、嫉妬とかしてもこじれまくる構図はあんま想像できなくて…いやある種ジェットコースター恋愛なのでつきあい長くなればそれなりに色々あるでしょうが。喧嘩っ早くはあるし。
おうちはやっぱメナンシアなのかなあという気がしている。でもあちこち飛び回っていそうな気もする。ココルとかその他周りは捏造した妄想。いや基本的に近くに住んでなきゃあの一枚絵状態にはならないだろうしって。
この話は、一緒に暮らし始めて1〜2か月くらい経ったころかなと想定しながら書いていました。

アルシオはあれだよね、顔がいいよね…正直二人で歩いていれば、ちょっかいを出そうなんて人はいないと思います。あっ好み〜と思っても、隣にラブラブぽい美形がいればそういう目的では近寄れんわなって…
ちなみに私個人はアルフェンさんわりと“そういうこと”考える人だと思っている。
でシオンもわりとそういう傾向あると思っている。
途中までは触れるのが当然だったわけで、たぶんお互いそんなに気にしてなかったし緊急時に助かるくらいの意識で欲もべつになかったでしょう。それよりも感情のほうが徐々に徐々に、折り合いつけつつ近づいてった感じ。
だた感情がね、ずばーんとどでかくなったタイミングで今度は気軽に触れなくなっちゃったわけで、そりゃ悶々とするわ! そういうこと考えちゃうわ!
わりと本編描写の外でも触れてはいたみたいですけどね、「荊がいつもより痛い!」とかいつもってなんだよいつもって。そう表現できる頻度なのかよって。
まあそういうわけで、今後書くものもたぶん濃ゆくいちゃつくやつが多いんだと思います。楽しい。
(2021.10.09)