しあわせな禍
 腕の中には最愛の人が、にこにこしながらおとなしく納まっている。
 お互いいつものいかつい防具も外して身軽な恰好だ。
 そのやさしい体温もやわらかさも、堪能し放題だというのに。なのに甘んじて溺れることだけは絶対にできないから、結局のところ彼の口から漏れ出るのは吐息ばかりだった。
 それにまたいっそう楽しそうな顔をしてみせるのだから腹立たしい。
 どう留飲を下げてやろうかなんて、ついそればかり考えてしまうのだ。


「え。個室ないのか?」
 予想外だったせいで、素っ頓狂に大きい声が出た。
 幸い目の前の相手以外、誰に聞きとがめられることもなかったらしい。外は寒風吹きすさぶ荒れ模様だし、中は中でそれなりの人数が肩を寄せ合って、そこここに立っていたり座っていたりする。
 彼の戸惑いはざわめきに紛れて誰の注意も引かなかった。届いたのは今話している、宿の亭主だけだった。
「なんだ、ロウから聞いてないのか?」
 強面な亭主は意外そうに瞬きをした。
 ここはシスロディアの外れ、数あるメザイのひとつである。目立った特産品もなく、地元の人間が細々と手工業を生業に暮らしていた。あまりの実入りの少なさに、レナによる統治時代でさえ最低限の平穏を保っていたと聞く。
 蛇の目からは逃れられるはずがなく、なおかつ時折労働力目当ての人狩りのようなことは行われていたそうなので、ここにいれば安心というわけでもなかったようだけれど。
「あいつは特に何も……ただこの辺りで宿をとるなら、ここにしておけと言われたんだ」
「ああ。……他所はまあ、ちょっとな」
 仲間の一人であるロウは、故郷を出奔して数年の間にその身の置き所を転々と変えていた。家族のことで自暴自棄になっていた頃だったけれど、それでもあの少年は生来快活で面倒見がいい。その気質は殺しきれぬまま、間諜として働きながらも利害だけではない、相応の人間関係もちゃんと築いてきていた。
 宿の亭主は顔のつくり自体はやたら怖そうだが、瞳の奥の光は澄んでまっすぐだ。困ったように言葉を濁すところを見るに、助言に従ったこと自体は間違いではなかったらしい。もちろんロウの人を見る目は信頼しているので、他の選択肢などはなから存在しなかった。きっとほかに看板を掲げていた宿は、安心して休むこともできないような環境なのだろう。
「ま、うちを信用してくれるのは有難いし、それにはちゃんと応えるつもりでいるさ。だがなあ……見ての通り、この村はちいさすぎて物資の融通も後回しにされてた。増築したくても追いつかない状況でな」
「その辺は聞いちゃいるが……」
 そもそも彼らがここに来たのだって、つきあいのあるかつての抵抗組織に情報を提供されたからだ。
 双世界がひとつになってから、もうそれなりの時間が過ぎている。各地の混乱は未だ治まっているとは言い難いが、それでも人々は少しずつ現実を呑み込もうとしていた。
 世界のつくりが変わろうとも、ひとは生きていかなければならない。新たに何かを始めるもの、今までどおりの生活を望むもの。種々様々な思惑が混じり合いうねりとなって、静かにだが確実に、色々なものが変化の兆しを見せている。
 この周辺の村々もそうだ。特に産業がなかったところに、レナとの融合の影響か近場に大きな鉱脈が見つかった。採掘できるものはまだすべて把握されていない――希少な宝石類が多いのではないかと期待されている。どこから噂が広まったやら、一獲千金を狙う人々とその懐目当ての商い人たちが集まってきて、山奥の寒村には似つかわしくないほどの活気にあふれていた。
 今まで要衝でなかったゆえに、銀の剣の影響力もあまり及んでいない。ロウが宿の亭主に渡りをつけておいてくれなければ、今夜の寝床を確保できるかどうかも怪しかった。だからそこは素直に感謝しているのだが。
 ――おそらく、知ってはいたけれど、たいした問題ではないと思って言わなかったのだろう。
 彼はそういうところがある。自分が同じ状況に放り込まれれば絶対狼狽するに違いないくせに、友人兼兄貴分であるアルフェンに対しては、ある種夢を見ているというのか妙に信用しているというのか。もちろんそう見せかけている部分がおおいにあることは自覚しているので、ロウに文句を言うのは筋違いだ。アルフェンはごくちいさくため息をついた。
「アルフェン。何か問題でもあるの?」
 カウンターに向かったまま戻ってこないことを不審に思ったのだろう。少し離れたところで我関せずを貫いていた連れが、隣にやってきて腕組みした。
「シオン……ああ、いや。問題というかだな……個室がないんだそうだ。空いてない、じゃなくて、そもそもない」
「そうなの? べつに贅沢は言わないわ、私は雑魚寝でもかまわないわよ」
 屋根と壁があるだけましでしょう。
 そうこともなげに言いきる物わかりの良さはありがたくはある。けれど釈然としない気分で、アルフェンはむにゅむにゅと唇を変な風に引き結んだ。確かにこの悪天候の中で、備えもなく野宿するなど自殺行為だ。だから彼女の反応自体は至極まっとうなもの。何も間違ってはいない。
 ただ。
 雑魚寝。雑魚寝。まあ、仲間たちと天幕の中でそうするぶんにはちっともかまわないのだ。知り合ってまだ何年も経ったわけではないけれど、尊敬できるところも信頼できるところも、弱いところも汚いところさえ曝け出しあって、支え合って歩いてきた。なんだかんだで皆が互いを、家族同然に思うようになっている。いまさら身体が触れ合おうが寝顔を眺めようが、日常すぎて神経に引っかかるようなこともない。
 だがここは違った。人が少ないならばまだしもひしめき合っていて、しかも知らない顔ばかり。鉱山で働こうという体力に自信のありそうな荒くれが大半を占め、女性や子どもの姿はほとんど見えない――皆無ではないからこの場にいないだけなのか、そもそも村にいないのかはわからないが。
 そんな中ですらりと麗しいシオンの立ち姿は、先ほどから静かに注目を集めていた。声を発したことでその存在に気づいたものがさらに増えて、道連れであるアルフェンともども値踏みの視線が殺到する。これは大変よろしくない。
 彼は華奢な背に手を添えて、心持ち自分のほうにその身体を引き寄せた。
「あー……連れがいるのか……しかも若いお嬢さんか……そりゃあ……」
 一目でレナと察せられる服装の彼女を視界に入れてなお、亭主は忌避する態度は見せなかった。それどころか単純な気遣いの色をたたえる様子に、確かに好人物なのだろうなと確信を深くする。ただしこの場面では特に役立つわけではなかった。
「えーと、な。この宿、部屋じゃなくてベッドごとの料金になってる。んだよな?」
 確認と説明を兼ねて問いを投げかければ、即座にうなずきが返ってくる。
「そういうこった。正確には人数ごと。ここで金をもらって、引き換えに枕と毛布を渡す。そんで好きなトコで寝てもらうって寸法だな。荷物は預かるが、貴重品は自分で管理してくれよ」
 今いる宿のロビーから、亭主の横を抜ければ大きな広いひとつの寝室があるきりだ。ほとんど隙間もない状態で寝台がたくさん並べられ、それぞれが思い思いの場所で休んでいる。八割がた埋まっているだろうか。
 ここで果たしてシオンを寝かせられるのかと言えば、無理の一言だった。彼女が平気だと言い張ってもアルフェンのほうが気が気ではない。
 まったく知らないわけではないにしても、おそらく思考が及んでいないのだろう。なにせかつての彼女はそういったこととは無縁でいられた。ただ、今はそうはいかない。
 ちらりと一度だけ目を合わせてみれば、シオンは何が問題なのかと言いたそうに指先で二の腕をとんとん叩いていた。屋根があり壁があり、寝床もある。そうだよな、そこまでしか考えていないに決まってる。やっぱり曖昧な物言いではだめか。アルフェンは往生際悪く肩を落とした。
「あんまり言いたくないんだが……こういう形式の宿だと、女性や子どもが寝てるベッドに勝手に潜り込んでくる奴がいる」
「……それは」
 顔色は変わらなかった。が、天色の瞳にわずかに嫌悪が過ぎるのが見えた。さすがにはっきり言葉にすれば意味は伝わったか。もっともすぐに首を振って、その気配は霧散してしまったが。
「そうね、そういうことをする人もいるんでしょうね。でも私なら」
「今は駄目だろ」
 被せるように言い放つと、ひそめた眉をぴくりと跳ね上げる。きょろきょろと視線が床を彷徨い、彼女はやがて複雑な表情で息をついた。
「……そうだったわ」
 かつてシオンを覆っていた、荊と名付けられた現象。触れるものは彼我の意図にかかわらず、誰であっても激痛にのたうちまわることとなる。それは彼女を当たり前に得られるはずだった数々のぬくもりから遠ざけ、けれど同時に守ってもきた。
 射撃の腕が立とうが、星霊術が使えようが、彼女自身は非力な娘だ。もう荊はない。確実に身を守れる最後の砦が存在しない。もっともアルフェンは、痛みがあろうとなかろうと、害意をもってシオンに触れようとするものがあれば即座に遠ざけるつもりでいるけれど。
 あのころのような頑なさは発揮されなかった。細い指に外套の端をつままれて、ひとまず危惧は正しく受け取られているらしいと胸をなでおろす。
「一応俺と倅が交代で寝ずの番はしてるぞ」
 言い訳するように亭主が両手をひらひらさせたが、当然気休めになどなるはずはなかった。それは彼も理解しているのだろう。苦虫を噛み潰したような顔で続ける。
「……だが、何せ暗いし人数も多いからな。常連の中には止めに入るお人好しもいるっちゃいるが、だいたいは人のことなんざほっとくもんだ」
 人目があるから、おそらく本当にひどいことにはならないのだろう。そういう無体を働く輩に言わせれば、せいぜい湯たんぽ代わりにするかちょっと触るかくらいなのだからいちいち目くじら立てずとも、といったところなのかもしれないが。弱いものからしてみたら命の危機さえ感じる脅威だ。冗談ではない。
 ただ単純に無事ならいいという話ではないのだ。指一本触れさせたくない。シオンには不快な思いも恐ろしい思いもしてほしくない。つまりは諸々を未然に防ぎたい。
「あとは――そうだな、女部屋の連中に頼んでお嬢さんだけ受け入れてもらうか? 兄さんのほうは入れてやれんし、乳飲み子を抱えた母親ばかりで居心地は良くないかもしれんが。それでも男ばっかの中にいるよりはなんぼかマシだろう」
「ああ、そういう場所は別に用意してあるんだな」
 アルフェンはほっと頬を緩めた。良心的だ。ロウがここ、と勧めるのもうなずける。
 道理で女性や幼い子どもの姿がほとんど見えないわけだった。いたとしても、そういう目で改めて周囲を見まわしてみれば、おおかたはそばに家族らしき男性も一緒に付き添っている。
「じゃあそれで頼めるか? シオン、明日までの辛抱だから」
 彼女が子どもの泣き声やぐずるさまに苛立ちを示したことはなかったと思う。だからそこは問題ないだろう。積極的に人に近寄っていくたちでないにしても、買い物などの際には用件だけでなくとつとつ雑談を交わす姿も見られるようになっていることだし。一晩くらいならきっと大丈夫だ。
 今回は事情があって、アルフェンとシオンだけで先行してこの村を訪れる形になった。けれどほかの仲間たちもちゃんと後を追ってきているから、明日の昼には合流できるはず。
 分かれる人数を考慮して、本格的な野営のための道具はすべてもうひとりのレナであるテュオハリムに預けてあった。彼の虚空に沈められているそれらが使えるなら、無理に宿に逗留する必要もない。シスロディアの吹雪からも、ミハグサールの強風からも、ガナスハロスのスコールからも守ってくれた頑丈な天幕の中で、皆でかたまって眠ればいい。
 すべてが解決した気分で肩を押したが、シオンはその力に逆らって両足を踏ん張った。
 首を傾げたところを見上げてくる。なんだかきっと睨まれているようで、アルフェンは目をぱちくりさせた。なんだろう。なにか、機嫌を損ねるようなことを言っただろうか。
 ひとまず肩に添えた手を下ろすと、彼女はわざわざこちらに向きなおり、彼の腕を両手で取った。それから今度は視線だけをロビーにさっと巡らせ、次に宿の亭主に顔を向ける。
「……ちょっと訊きたいのだけど」
「な、なんだ?」
 美人の笑顔は破壊力が高いが、同様に怒った顔もまたえらく迫力があるものだ。
 そう、なぜかシオンはまなじりを吊り上げていた。小娘に気圧されていることを自覚しているだろうに、それを恥じる様子もない。彼のほうも若干後ずさりながら律儀に返事をしている。
「今の、勝手にベッドに潜りこんでくる人がいるって話。……逆もあるのかしら?」
 逆って何かな。素直に疑問に思うアルフェンをよそに、彼女はまるで尋問するかの如き姿勢で宿の亭主に詰め寄っている。
「へあ? あ、ああ、たまーになら」
 間にカウンターを挟んでいるというのに亭主はあからさまに逃げ腰だった。体格からして腕っぷしもそれなりに強そうなのにだ。もしかして女性や子どもには居丈高に出られない性格なのかなとのんびり観察する。そういうところはロウと同質かもしれない。
 まあもちろんアルフェンとて、同じ視線を向けられれば似たような反応をしてしまうだろう。気持ちはよくわかる。
「まあないこともない。……かな……?」
「……そう。そうなのね……」
 シオンはどちらかといえば落ち着いた喋り方をするほうだ。動揺したときを除けば声を高くすることもあまりない。しかしそれを差し引いても、発したのは普段より数段低いひくい声音だった。まるで地の底を這っているかのような、どこかおどろおどろしさも感じる響きだ。
 微妙に失礼なことを考えつつ、彼はちょいちょいシオンをつついた。そろそろ口出しして矛先を逸らしてやらねばなるまい。落ち度があるわけでもないのに威嚇され続けるのではさすがに亭主が気の毒だ。
「シオン、声がめちゃくちゃ低くなってるぞ」
「なによ、悪い? 怖いとでもいうの」
 きつい視線とともに返された言葉の方向性は少し意外だった。
「いや、まず怖いと思ったことがないけどさ」
 一応真面目に否定しておく。それだけは本当だ。嫌われるとか怯えられるとか、遠ざけられるとか。その類のことは恐ろしくても、シオン本人に恐怖を抱くなどあるはずがない。強いなあとか迫力あるなあとかそういう感想が出てきたことはあるけれど。ちょっと違うのだろうし。
 いやだから、どうしてそんなに目を据わらせているのか。手がかりが少なすぎて思考が読めない。言葉にしてくれなければわからない。
 とりあえずじっとしていると、逃げる素振りなど見せていないのに逃がさないとばかりにがっしと改めて両手を捕まえられた。
「アルフェン、一緒に寝ましょう」
「なんでだ!?」
 そうして花のような唇から飛び出したのは爆弾発言である。間髪入れずに突っ込み返した。
 なんでだ。どういう経緯でそうなった。というか、宿の亭主とはそういえば意思疎通ができていたようだった。俺を差し置いて、とやきもちを妬く暇もない。ぐいぐい迫って来て背中が壁に接する。
 ちょっとこれ以上密着されるとまずい気がするのだが。もちろんシオンはそんなこと酌量してくれなくて、やわらかな感触とともに甘い匂いが鼻先を掠めた。
「あなたひとりで寝て、誰かが潜りこんできたらどうするのよ」
「いやないだろ……え、ないだろさすがに」
「そういうことをするのは男性ばかりとは限らないわ。女性が来るかもしれないじゃない」
「ええ? どっちにしても同じだよ。そんなことになったらすぐ追っ払うぞ俺。お前以外に興味はない」
「知ってるわよ、いまさら疑ってなんかないわ。でも嫌なの、私が。アルフェンのここは、私の場所なんだから」
「シオン、だが」
「……ちょっといいか?」
 いつのまにか言い争いの体になってしまっていたらしい。わざわざカウンターから出てきた亭主が、呆れ顔でアルフェンの肩を叩いた。カウンターの奥からはもう一人、よく似た顔立ちの青年が何事かと目を丸くして半身をのり出してきている。
「あ……ええと、すまない。何だ?」
「おまえさんたち、夫婦者なら最初からそう言え」
 中途半端な時間帯だ。他に手続きの順番待ちをしている客もおらず、だからこう長々と相手してくれているのだろうということもわかっていた。
 いい加減めんどくさくなってきたのかもしれない。彼は半分瞼を落として、親指で奥を指し示した。
「気をもんで損した……べつに同じベッドで寝るのはかまわんから。そうしてくれたらこっちもありがたい。そのぶん人数詰め込めるしな」
 一応人目はあるから節度は保ってくれよ。
 続けられた言葉にかっと頭に血が昇った。
「い、いや、夫婦じゃない」
「じゃあ何なんだよ」
「えー、と。……婚約者、かな」
「そうかいそうかい」
 どうでもいいと言いたげな態度である。その救いようのないものを見るような目つきはなんとかならないか。侮蔑でもないし不快かと言えばべつにそんなことはないのだけれど、彼のそれは何かを思い出す――そうだ、ウルベゼクの紅の鴉の連中がシオンと一緒にいるとよくこういう目線を寄越すことがあったような。
「こんやくしゃ……」
 ちいさな呟きにふと意識を戻すと、未だアルフェンにすがったままだったシオンが瞳をぼんやりさせていた。
 頬が少し上気している。こんやくしゃ、と覚束なさげに繰り返すので、なんだか心配になって前髪を掻き上げ顔を近づけた。
「違うか? だって結婚の約束をした相手は婚約者だろ。いやそりゃ口約束だけだが……え、有効だよなあれ?」
 咄嗟に出てきた単語だった。でもこれ以上的確な表現はないのではとも思う。
 それは確かに、地方によって求婚の作法や贈り物は多少の差異があって然るべきものだけれども。もしかしてあれだけだとレネギスでは確約できたことにならないのだろうか。とにかく約束が欲しくて急いでしまったけれど、テュオハリムあたりにちゃんと確認しておくべきだったのだろうか。
 にわかに不安になってくる。勢い肩を掴んだら、潤んだ目がアルフェンの心臓を射抜いた。
 やばい、かわいい。
 反射的に瞼を閉じて天を仰ぐ。
「あ、当たり前じゃない。有効よ……! なかったことになんてさせないわよ、私、本当に嬉しかったんだから……!」
「……よかった……」
 はーっと肺の中に溜めていた塊を吐き出す。肩口にちいさな頭が押しつけられたので、ひと撫でした。
「びっくりしただけなの……その、私には、一生縁がない言葉だと思っていたから」
「シオン……」
 かわいい。そしていじらしい。胸が締めつけられるような感覚を覚えて、今すぐ抱きしめたくなる。
 代わりに頬に手を添えると、恥ずかしそうにしながらも顔を上げてくれた。唇に親指の腹を滑らせる。中途半端に開かれたそこから白い歯が少しだけのぞいていて、濡れた赤さとの対比が妙に色っぽくて惹きつけられ――
「いい加減にしてくれや」
 ぼっふん、と音をたててそれぞれの頭の上に毛布が載せられた。
 そのまま手を離されるので、取り落とさないようにふたり慌てて頭上から滑り落ちてくる羊毛を受け止める。
「あ……えーと?」
「続きはあっちでな。……重ねて念押ししとくが、節度は保てよ」
 やたら疲れたような後ろ姿が、カウンターの向こうにのっそり帰っていく。抱えた毛布に顔を埋めつつも、髪の間から見えるシオンの耳は真っ赤に染まっていた。
「とりあえず……行くか」
 こうなれば、今夜は寝不足を覚悟するしかない。
 アルフェンは自分の外套を脱いで、シオンの頭からすっぽりかぶせた。こんな、はにかんで愛らしい顔を他の誰にも見せられるものか。自分も赤面しているのだろうがこの際それは仕方がない。
 手を引いて部屋を横切る間にも、いくつもの視線が突き刺さったけれど、いちいち気にしていられる余裕ももうなかった。





 そして冒頭に戻る。
 うまいこと最奥、壁際が空いていたのでそこに陣取ることにした。
 そのあたりは人もまばらだ。やはり人気があって早々に埋め尽くされていたのは暖炉やストーブ近くの寝台だった。意識して比べると確かにかなり寒い。部屋の角だから、壁の向こう側はもう外なのだろう。石造りの分厚いそれすら通して冷気が伝わってくる。毛織のタペストリーが複数吊るされていなければ、さらに凍えるほどだったに違いない。
 もっとも、アルフェンにとってはそのようなことたいして問題ではなかった。周囲に人が少なければ少ないほどいい。シオンの寝顔を見ていいのは彼と、ともに旅をした仲間たちだけなのだ。そこらで寝ていた有象無象が、若い娘を伴っているらしいと見て取ってアルフェンのほうを振り返ってくるが、それには目だけで威嚇しておく。冗談じゃない。近づいてくるな。
 剣は念のためそばから離さないことにしたが、防具の類はシオンが虚空の中に納めてくれた。鎧下だけだと身軽でありつつ寒い。毛布は二枚あるので、うち一枚で彼女の髪も含め全部を覆う。顔だけ出して蓑虫のようにさせたところでその身体を抱え込み、ふたり一緒にもう一枚の毛布にくるまった。その上からさらに外套も広げる。
 シオンはもちろん壁側に寝かせている。これだけ厳重に囲い込んでいれば寒さに震えることもないだろう。
 ここまではいい。……いい、の、だが。
 いや、わかっている。これが一番いい解決法なのだ。ロウだってたぶん、こうなることを想定の上で、でも問題ないだろうと軽く考えていたに違いない。アルフェンとシオンだし、くらいに思っているのだ。きっとそうだ。
 ただ、人並みの良心や倫理観を持ち合わせているとはいえ、アルフェンは聖人ではない。若く健康な青年である。純情な――アルフェンから見ればロウなど純情そのものだ――少年が想像するよりもはるかに重苦しくどろどろした欲をその腹の底に溜め込んでいるのだ。それは出口を探して常に蠢いている。
 幸い彼が愛する恋人は、その涼やかな佇まいからは意外なほどの熱量でもって想いを返してくれている。抱きしめても口づけても嫌がらない。それどころか嬉しそうに応えてくれる。
 普段はそれでいい。多少行き過ぎた戯れがあっても所詮戯れだ。屋外やソファの上など、いや寝台の上であったとしても、踏みとどまれるだけの意思はちゃんと持っている。そもそもそれらは時間にすればほんの瞬きほどの刹那にすぎないから、欲よりも理性を優先させることはわりに容易い。
 同じ部屋で眠ることには慣れた。野営の雑魚寝で、隣に横たわることも問題ない。ただ、こうしてシオンを抱きしめて寝台に入るのはさすがに初めてだった。一瞬ならともかく夜が明けるまでこれとか。半分拷問ではないのか。かといって並んで眠るだけでは命知らずの誰ぞがちょっかいを出してくるやもしれないし、だからこうして身体全部を使ってしっかり捕まえておくしかない。
「……ふふ」
 胸元でさやかな笑い声が零れて、アルフェンは顎を少し下げた。
 頭を抱えるような形になっているために胸元の肌に息が当たってくすぐったい。心臓のあたりをついと繊細な指先がなぞって、大きくひとつ鼓動が跳ねた。
「おい……」
 さすがにこの行動は看過できない気がする。楽しそうにくすくす笑うその表情は至極無邪気で、誘っているつもりもあるまい。なのに変に仕種が色っぽいものだからどぎまぎして困ってしまう。
「全然寒くないわ、びっくり。くっついて寝るってほんとうにあたたかいのね」
 そして出てくる感想がこれである。もう無意識なんだかすっとぼけているんだかわからない。アルフェンは嘆息して小声で答えた。
「暖を取るには人肌が一番とは言うからな……でもシオン、リンウェルやキサラとはよくくっついて眠ってるじゃないか」
 彼らの使っている天幕は上等だが、朝方はやはり冷える。女性陣三人は夜明け頃にはぴったりくっつきあっていて、しかしキサラだけは特に早起きなので、すがりつく少女たちを起こさないように四苦八苦しながら引き剥がしていた。そんな光景がもう日常になりつつある。ちなみに、彼女が抜けると残った二人がもぞもぞくっついてまた寝る。
「そうなんだけど……たぶんあなた、体温が高いのよ。熱いくらいなのに、どうしてかちょうどいいの。不思議ね」
「わからない……」
 アルフェンは正直にぼやいた。そういうシオンはそれでは冷えて感じられるのかというと、そうでもない。なんだかほわほわしている。陽だまりのような、小動物を抱いているような、彼女を腕の中に閉じ込めるといつもそういうふんわりしたあたたかさが伝わってくる。
 彼の体温が高めなのは、まあ本当のことなのだろう。けれどシオンが熱いくらいだというのなら、それはきっとアルフェンが彼女に触れるとき身の内に熱を滾らせているからだ。
 いつもならこの熱はシオンに受け止めてもらえる。でも、今はそういうわけにはいかない。
 やわらかいしあったかいし、なんだかいい匂いもするし。そう、常ならず色々、色々と刺激される状況なのにもかかわらず、まったく手を出せないというのはどういうことだろう。
 キスひとつできない。できるはずがない。だって人の目がある、人の耳がある。先ほどのアルフェンの射殺さんばかりの視線に恐れをなしたか、今のところ不用意に近づいてくるものはいないが。それでも隔てる壁のないこの場所で、口づけなど交わした日にはシオンの最高にかわいい顔が衆目にさらされてしまうではないか。
 誰に触れようとも言葉を交わそうとも、それはシオンの自由だ。やきもちを妬いてしまうのだけはどうしようもないけれど、それを抑えつけるだけの分別はアルフェンにだってある。
 でも絶対にほかには許さないことももちろんある。彼と恋人として触れ合っている時の彼女は、彼だけのものだ。抱きしめて、唇を奪う。危うい均衡を保ちながら戯れて、そのうち熱に浮かされてそれを持て余して。今にも零れ落ちそうなくらいに雫をたたえる、天色の瞳を見つめることを許されるのはアルフェンだけだ。
 いつも凛と背筋を伸ばしているのに、抱きしめて撫でさすればぐずぐずに蕩ける。芯を失ってぐにゃぐにゃしなだれかかってくる肢体を受け止めるのも、その心地よい重みを知るのもアルフェンだけだ。
 交わす吐息の熱さ、名を呼ぶ声の甘さ。あかく腫れぼったくなった唇がやわく潤むさまを思い出すだけで頭の中が煮えそうになる。
 ――なのに、今はそれらが得られない。これを生殺しと言わずしてなんというのだろう。
「アルフェン……怒ってるの?」
 眉根を寄せていたからだろうか、様子を窺うような囁きが届いて、彼ははっと物思いから立ち返った。いや物思いというよりは妄想か。そういう類のことを考えているときの男というものは、得てしてやたら生真面目な表情になってしまうものだから不安にさせたのかもしれない。
「いや、」
「違うわね。緊張してる?」
 続く言葉を考えていたわけではなかった。ただ腹をたてているかどうかという一点においてのみ、否定はしておこうと声を出しただけだった。遮られるまでもなく図星を突かれた気がして、つと息を呑む。
 やわらかな手のひらが心臓のある位置に押し当てられていた。次いで鼓動を聞くように擦り寄ってくる薄い耳殻。せっかく落ち着き始めていた心臓がいったんぎゅうと収縮して、待ってましたとばかりにまた走り出す。
「心音がすごいわ」
 言い差してシオンは楽しげにくすくすと笑った。寝台の中で横たわり、男に抱きしめられているというのに随分と余裕の態度だ。怒っていないとは言おうとしたが、腹立たしいのは事実かもしれない。アルフェンはかすかに唇を尖らせた。
「……そういうシオンはずいぶん楽しそうだな。緊張しないのか」
 この状況で。言外に匂わせてみてもその瞳から悪戯っぽい光は消えていかなかった。
 暗いからよく見えないが、頬はうっすら染まっている気がする。ただこういうときに発する匂いたつような何かは微塵もなくて、彼女は単純に幸せそうに微笑んだ。
「こういうの、なかなかないもの。どうせなら楽しまなくちゃ損だと思わない?」
「俺は楽しくない……」
 幸せでは、あるけれども。とにかく足りない。キスしたい。触りたい。もっとぎゅうぎゅうに密着したい。シオンの体温とやわらかさを、思う存分堪能したい。
「あら、お気の毒ね」
 切実な呻きに対して返されるのが、揶揄うような軽やかな声と来ている。
 アルフェンはいよいよもって確信してしまって、喉の奥を低く鳴らした。
 シオンは理解している。彼が今まさに欲を滾らせていることも、それを彼女にぶつけられずに必死で耐えていることも。深く触れ合うことはできずとも、気を散らすための方法ならいくらでもある。でもこの場ではそれさえ許されない。
 わかっていて、でもそれすら楽しんで強かに笑う女だ。最初からかなうわけがなかった。
「……覚えてろよ」
 人目さえなければ、彼が主導権を握ることだって容易い。唸っても堪えた様子はなかった。
「楽しみにしてるわ」
 なんてすまし顔で嘯いてみせるものだから、抱える腕に力を込めてやる。
 覚えてろよ、と再度の呟きは吐息に溶けて、きっと聞こえなかっただろう。“次の機会”に思いを馳せた彼の表情が、それはもう凶悪だったことにも、きっと気づいていないに違いなかった。







(蛇足)


 数日後。
 仲間たちと合流し、諸々を片づけ、彼らは現在主な拠点としているヴィスキントはアウテリーナ宮殿に戻って来ていた。
 未だテュオハリムを主と仰ぐ宮の面々は、彼らが滞在するとなると気合を入れた食事を提供してくれる。たまの贅沢としてそれらに舌鼓を打ち、食後のデザートまでぺろりと平らげて。皆で談笑しながら優雅に茶を飲んでいたそのとき、アルフェンは唐突に、切れていた回路がつながったような錯覚を覚えた。
 きっかけは些細なことだ。リンウェルに街歩きで目的地にしたいという店の特徴をあげられて、シオンが弾んだ声で楽しみだと相槌を打った。それが数日前に彼女と交わしたやりとりの中に含まれていたのと同じ台詞だったから。記憶を呼び起こされたのだろう。
 結局あの日、アルフェンは一睡もできなかった。目を閉じて横たわっていたから体力はある程度回復したが、意識はずっとあったのだった。うっかり何度かはうつらうつらしかけたものの、そのたびシオンが身じろぎしてそれはもう色々と思い知らせてくれたのである。
 当の彼女はこれ以上なく安眠できたとのことで、それってどうなんだと突っ込んでも機嫌よく笑うだけだった。信頼してくれるのは嬉しい。シオンがあまり緊張せずにいられたのも結局のところ状況のせいで、もしもほんとうにふたりきりだったのならアルフェンと同じように翌日寝不足の顔をさらしていたのだろうことも頭では理解している。
 その話を蒸し返したところで、何の脈絡もないとつれない反応をされてしまうのが関の山だろうか。だが、思い立ったが吉日だというのもまた事実。今思い出したのだから、今行動してしまおう。言葉だけでなく動いて巻き込んでしまえばそうそう逃げ出すこともできまい。
 リンウェルの声がふと途切れたのを見計らって、アルフェンは隣に座っていたロウに手ぶりだけで詫びを入れて立ち上がった。気を悪くした様子はない。不思議そうに首を傾げる弟分ににこりと微笑んでみせてから、大股で目標の人物の背後に回り込んだ。
「シオン」
 がっしりと。重しにするように両肩に手を置くと、一度だけびくりと跳ねる。
 そうして彼女は振り返り、やっぱり不思議そうに瞬きした。
 給仕もすでに下がっている。なんだなんだと注目してくるのは家族同然の仲間たちだけだ。急に動き出したアルフェンを黙って眺めて――いや、観察している。
 手のひらを上向きにして差し伸べれば、繊細な指先がそっと乗せられた。それは反射のようなものだったろう。何をするにもされるにも、シオンはアルフェンに対してはやたらに無防備だ。そのままつかんで引っ張って、強引にならない程度の力加減で立ち上がらせた。
「アルフェン? どうしたの」
「なあ、シオン。こないだ“楽しみにしてる”って言ってたよな?」
「? なんの話……。……っ!」
 完全に腰を捕らえられてからようやく思い出したらしい。シオンはさっと頬を染め、次には器用に青くなった。口をぱくぱくさせて、おろおろと視線を彷徨わせる。何を言ったものか考えているのかもしれない。
 しかしここにいるのは少数の仲間たちだけだった。言い訳に使うにはやりにくいし、そうでなくとも、皆いつも基本的にはアルフェンとシオンのあれこれには静観の構えである。旗色の悪さを察したシオンはぱっと顔を逸らした。顔だけ。もちろん腕は緩めない、取り逃がすわけもない。
「そういえば私、用事を思い出して……」
「却下」
「ひゃあっ!」
 一方的に言い捨てて、アルフェンはその細腰を抱えあげた。
 横抱きではない、縦に、子どもを抱き上げるような格好だ。落とすようなへまはしないが、均衡が崩れる不安があったのだろう。咄嗟に頭を抱えられていい感触が来る。けれどすぐにその手も離されて、結局シオンは上体を倒してアルフェンの背中をぽかぽか叩いた。
「お、降ろして!」
「んー、後でな」
「や、ちょっと……」
「頭、下げてないとぶつけるぞ。気をつけて」
 会食の間の入り口に向かえば、心得顔のテュオハリムがさっと扉を押さえてくれる。彼はまるで何事でもないかのように無言でとことことついてきて、アルフェンにあてがわれている個室の扉まで甲斐甲斐しく開けてくれた。目顔で礼を伝えてそのまま中に入った。
 呆気にとられたロウとリンウェルは置き去りにされたようだ。けれどキサラは追ってきていたらしく、何やってるんですかあなたという声は聞こえた。アルフェンにではない、あくまでテュオハリムに対してのもの。物理的に遮られてあらゆる音はすぐに遠くなる。
 部屋に人が増えることはなく、静けさは揺らがなかった。つまりは全員不介入を決め込んだらしかった。
「え……誰も助けてくれないの……?」
「そりゃ、べつに危険がないからだろ」
 どこか呆然とした呟きに素っ気なく返して、そのまま歩を進める。目指すは壁際の長椅子だ。いっそ寝台でもよかったのだが、さすがに気の毒かと思ったのでそこは手心を加えることにした。
 座面にゆっくり、やさしくその身体を下ろし横たえる――そのまま覆いかぶさる。
「さて。二人きりだな、シオン」
「……あ、アルフェン……あの」
 仰向けに転がされたシオンは、すでに頬を上気させていた。
 声が震えているが、怯えているわけではない。そのあたりの機微は彼にもとっくに判別がつくようになっていた。逃げ腰でずり上がろうとしても、背後は背もたれと壁。追い詰められるようなかたちになって縮こまっている。
 アルフェンは目を細めた。その表情に何かを察したか、うく、と唸ってますます身を硬くする。握りしめられたこぶしに手をかけ丁寧に、一本ずつ指を開く。そうしてまっすぐになった爪の先をいくらかまとめ軽く口に含んで、彼はうっそり口角を上げた。
「あれだけ挑発してくれたんだ。まさか何事もなく流されるとは思ってなかっただろう?」
「ちょ……う、はつなんか、してないわ。ただ、私」
「ただ、なに?」
 問うてもいらえはなかった。天色の瞳が光を弾いて潤む。
 まあ、答えられはしないだろう。今は何を言ったとてアルフェンの行動をとどめられるわけではない。むしろ下手なことをすれば余計に恥ずかしい事態になるだけだ。散々経験して理解しているがゆえの戸惑いと羞恥と焦燥。めまぐるしく躍るそれらの中に、けれどほんの少しの期待もちらつく。
 それが瞬いた刹那。慄いたちいさな唇を、喰らいつくように塞いだ。角度を変えて何度も食む。そうしているうちにかたく閉じあわされていた歯列が綻び、隙間が広がってくる。
 舌をねじ込めば、組み敷いた肢体はいっそうその温度を上げた。
「んっ……んんっ」
 直前まで口にしていた甘味のせいもあるだろうか、甘い。逃げる舌を追いかけて絡め、吸い上げた。巻きつけて、根元から扱いて、飲み下す。飲ませる。ざらざらした表面をすり合わせて押し戻すと追いかけてきた。迎えてまた絡めあう。
「ふ、あ……っ、ある、ふぇ、あっ」
 貪るような口づけの最中も、名前を呼んでいたのかもしれない。肩を支えながら引き起こし、座面に向かい合って座った。首のうしろにしなやかな腕が回る。ほら、もう逃げる気をすっかりなくしている。背筋をやわくなぞれば、びくびくと大げさなほど腰を跳ねさせた。
 耳朶に軽く歯をたてる。舌を這わせながら荒い息をかまわず吹き込むと、感じ入ってシオンは仔猫のようにか細く啼いた。
「シオン……シオン」
 アルフェンの声もまた、自身のものとは信じられないほどどろどろに甘い。意識して出しているわけではないのだ、勝手にこうなってしまう。ん、ん、とひたすら気持ちよさそうに喘いでくれるから、互いが互いを駆り立てて熱がどんどん上がっていく。
 抱いてしまいたい。その白い肌を隠すすべてを取り払って、輪郭をなぞって形を確かめて、口づけて、痕を残して。しなやかな肢体の中心、胎の内に入り込んで穿って暴いて、熱情のすべてを叩きつけたい。刻みつけたい。
 でも今はまだ駄目だ。だから。
 伝えきれない想いを熱を、それでもどうにかすべてに込める。名を呼ぶ声に、触れる指先に、滑る唇に。きれいな青はひたむきに、アルフェンだけを見つめてくれる。同じように見つめ返して、燻るものが宥められていくのをふたりしてじりじり待つ。それがいつもの習い。
 しなる背を掻き抱いて、薄紅色の陰に顔を埋めた。くふんと鼻を鳴らすのに少し笑った。
 なんだかんだで思う存分、こうやってくっつけるのは幸せだ。触れることすら躊躇っていたあのころを思えば天と地ほどの差異がある。
 もういいと思うところまで行ったなら、あとはじっと鼓動がゆるくなるのを待つだけだった。寄り添ったまま、相手の呼吸を聞けばいい。いつのまにかかいていた汗が冷えて乾いていく。アルフェンはぶるっとひとつ身震いしてから、ぬくもりを確かめるように再度シオンの背中を撫でた。
 彼女は脱力してそのままもたれかかってきた。肩口に乗せられた頭が近い。淡く染まった目尻を懸命に吊り上げて怒った顔を作ろうとしているが、もちろんちっとも怖くない。
 拗ねたような、それでいて甘さの抜けきらない声が鼓膜を揺らした。
「…………話の途中だったのに。リンウェルに叱られるわよ……」
「はは、かもなあ」
 お前だって乗り気だったじゃないか、とは言わない。アルフェンはあっさり肯定して、腕は解かないまま長椅子の背もたれに体重を預けた。見上げた天井は精緻な細工が施されていて、こんなとこまで凝ってるんだなあとちらと思う。
 たった今までの激しさが嘘のように、ふたりは気だるい空気にゆるりと身を浸した。シオンももう開き直ることにしたのか、されるがままアルフェンにくっついている。
「一緒に叱られるよ。俺もロウを半分置き去りにしたようなもんだし」
「ロウはそれほど怒らないでしょうけど……ああでも、呆れられるのは覚悟しておくことね」
 頻繁に二人だけの世界に入り込んでしまうアルフェンとシオンを、仲間たちはもう半ば悟りの境地でもって許容してくれている。
 仲が良いのはいいことだとあっけらかんと笑うロウ、アルフェンばっかりずるいと最初のころが嘘のようにシオンにかまいたがるリンウェル。度が過ぎればたしなめるようなことも口にするキサラ、なんでもない顔をしながらやたら煽るような行動をとるテュオハリム。
 ときどきこちら側に誰かを引き込むこともあったりして、まあそれは大抵男性陣であることが多いのだけれども。
 アルフェンはちいさく笑った。
 親しくもない人間にあれこれ口出しされるのはごめんだ。でもそれが、家族同然の面々相手になると途端に煩わしさが消えてしまう。馬鹿をやって説教されるのもそれはそれで楽しい。
 そういうあたたかさもずいぶん長いこと忘れていたんだなと今更ながら自覚する。取り戻せたのだから、これもまた幸せなことだろう。
「呆れられてもいいんだ。……シオン、もう少しだけ」
「あなたって、本当」
 寄せた唇は拒まれなかった。穏やかに触れるそのやわらかさとぬくもりに、酔いしれる。
 さらさら流れる薄紅色の中に指を差し入れて、何度も梳いた。お返しとばかりに短い髪をかき混ぜられるのがなんとも心地いい。上がってくる息をそれ以上乱さないように気をつけながら、でも離れてしまうのも嫌で腰を抱き寄せる。
 続く言葉が何だったのかは、終ぞ聞き取ることができなかった。
--END.
アルフェンが悶々としてる話でした。
ていうかこんなんばっかですまん。
いやあ、前半だけで終わらせて良かったんですけどアルフェンが不完全燃焼だって訴えてくるもんで…ワンパターン承知で続けた。てか蛇足と言いつつこの長さなんなん…ふつうに一本分の長さあるってどういうこと…ちゅーさせるだけでこんだけ尺取るとかアホなの? 楽しいなあとても楽しい。
一部表現がアレですが元ネタCERO的にはセーフかなと思ったので制限はつけなかったよ。
私の脳内に棲息しているアルシオは、この生殺しなんだか満たされてるんだかわからない状態で数か月〜一年? 二年はさすがに行かないと思うけどそのくらいの時間を過ごします。ごめんな。一線は越えないままに軽率に濃ゆくひたすらぐだぐだいちゃつく。ごめんな。
ちなみに宿でのシオンは曇りなくこの状況を楽しんでいました。まあアルフェンを信頼しているからこそなんだけど…人目のある状況で絶対に手を出してこないとわかりきっているから余計安心して眠っていたようです。この夜はシオンだけは大満足でした。
アルフェンは待てのできる男なのでちゃんと待つんですけど、まあ、うん。


作中の宿は産業革命期の出稼ぎ労働者宿イメージです。本当に寝るためだけの宿。
映画とかだと宿代払いたくないがためにほんとは二人いるのに一人だと偽って子どもと保護者でひとつのベッドに入ったりしてましたが。アルシオはふつうに二人分宿代払ってます。まあ大人二人じゃ人数ごまかせるわけはないよね…だから毛布も二枚もろてる。
がっつり文献調べたりしたわけじゃないので、実際どうだったんかは知らないですけど、本文中でアルフェンが言ってるみたいな事態もあったんじゃないかなあと思って…あの時分はそもそも女性と子どもの立場が弱すぎて保護者なしで遠出とか滅多にしないだろうけど。
男性に限らず商売をしている女性がどうこうってのもあっただろうし、人の好さそうな相手に単純に一晩だけ守ってもらいたくて寄ってくる人もいただろうし。シオンが神経尖らせてたのはその辺です。浮気の心配はなくても独占欲はある。アルフェンと同じとまではいかなくてもそういう意味で近寄ってくるなとは思ってる。
言うて作中で二人に視線が集中してたのは、最初は「美人来た」だったんだけど途中から「なんだカップルか、よしいちゃつきだしたら観察したろ」に変わったと想定して書いていたりする。アルフェンさんシオン過激派すぎて逆にさっぱり手出ししなかった。
(2021.12.12)