そよ風は空を渡る
 この部屋は、外に比べれば少しだけ薄暗い。
 人々の抑えた囁き声は梢を渡る風の音にも似て、土と植物の匂いがしないことをのぞけば、まるで森のようでもある。
 だからフルルは、窓はなくともここが嫌いではなかった。いやむしろ、好ましいとさえ思っている。
 この部屋だけじゃない、本がたくさんあるところは好きだ。なんだか静かで、それからあまたの智慧の匂いがするから。
 そんな中で目を輝かせる大好きな家族を眺めるのもまた、フルルのもついろんな幸せの中のひとつだった。


「ご所望のものは、だいたいこのあたりだと見える」
 その声は、そのひとが奏でる弦楽器の音によく似ている。騒々しいことを良しとしないこの図書の間のすみっこで、本棚の森に囲まれて鮮やかな赤毛がふわふわと揺れた。
「そうだね……うわ、え? え、こんなのまであるんだ……ほんと、全部読破するのにどれだけかかるんだろ……!」
「ちなみに常に蔵書は増えている。いずれレネギスの禁領にあった資料も移してくるつもりだ……当然そちらの書庫は別にして閲覧制限もかけるがね。ただ君に対しては、秘匿しなければならない情報もそうあるとは思えない。つまり追いつくには相当の速度がなければ」
「むむ……負けないよ、負けないんだから!」
 なにを張りあっているのかよくわからないけれど。
 もと領将と魔法使いは、並んだ背表紙を見つめ――いや、睨みながらひそひそと会話を交わしていた。
 黒髪の少女はリンウェル。フルルの最初にして最愛の家族である。赤毛の男性はテュオハリム。彼もまたフルルの愛すべき友だちであり家族であり、そして未だによくつかめない相手でもある。つかめないながら信じている(ある意味では信じていないが)のも大好きなのも間違いはないので、フルルは穏やかな気持ちで二人の気安いやりとりを眺めていた。
「ダナの風俗がレナの文献に残されてるなんて、昔は想像もしてなかったよ」
 シスロデンもそうだったけど、あるところにはあるものなんだね。
 嬉しそうに言うリンウェルに、テュオハリムは苦笑ぎみでうなずいている。
「侵略と支配のために蓄えられた知識ではあるがね……君たちには皮肉でもあるかもしれないが、今後さまざまな面で役に立てそうだ。なれば意味もあったというものだろう」
「うん、まあね。腹が立つときもあるけど。でもそれはそれ、これはこれ。助かるのは本当だもん!」
 一時期とは比べるべくもない。すっきりした顔で笑って、リンウェルはさっそく本棚から一冊を抜きとった。そして開いた。
「三百年前にどんなふうだったかなら、アルフェンに聞けばけっこうわかりそうだけど……根掘り葉掘り訊くのもなんだし、身近なことしか覚えてないだろうしなあ」
「すり合わせすれば共通の習慣はいくつもありそうだ。どうせならそういったものを中心に取り入れたいところだが」
「そう、そこなの。みんなで最高に素敵なお式にしようね」
「全力を尽くすとしよう」
 文章を追う二対の瞳は、それぞれに真剣だった。けっこうな速さで動いている。
 なぜ今回このような組み合わせでここにやってきたのかといえば、発端はここにはいないべつの家族たちだった。
 アルフェンとシオン。リンウェルが身を寄せた銀の剣以外で、初めて長い時間をともにした相手である。
 フルルを含む六人と一羽は、長いながい旅をした――大変な道行きだった。何年もかかったわけじゃない。あとから思い返せばきっと一瞬にも感じる駆け抜けた時間。でも世界中を巡って、たくさんの人に会って、知恵を絞って力を合わせた。
 そうしてなんとか得た戦い以外の生活で、このたびめでたくアルフェンとシオンは“けっこんしき”をすることと相成ったのだ。その段取りをどうするかで、リンウェルは今血眼で片っ端から知識と情報を集めまくっている。もちろんいちばんに優先するのは主役ふたりの希望だけれど、いろいろなひとたちが口と手を出したがるのを、アルフェンもシオンも少しの驚きと大きな喜びをもって受け入れてくれている。
 あのふたりはすでに番だ。フルルは旅の途中からいつかそうなると思っていたし、ほかのみんなも同じだろう。予想どおりに番って、もうそれなりの時間が経っているのに。わざわざ“おひろめ”なるものをして、いろんな人にそれをお知らせするという。
 聞いたとき、フルルは内心だけでなく首を傾げた。だって事実は事実。知らせるまでもないのじゃないかと。獣は見ただけで、そのものに相手がいるかどうかをなんとなく判断できる。匂い、みたいなものだろうか。人間だって鳥獣よりは鈍いけれど、アルフェンとシオンはいつでもどこでもくっつきたがるしお互いばっかり見ているし。あれでわからない人間がいるというなら、それはもう生き物として心配になるくらいだと思う。
 だけどフクロウと人間はちがう。それもフルルは理解していた。
 人間は毛皮がない。羽毛もない。服を着なければ暑さにも寒さにも耐えられず、肌には傷がついてしまう。食べものだってそのまま食べない。フルルならなにもせず啄める麦は熱を入れないとお腹を壊してしまうし、シオンなんてあんなに食いしん坊なのに虫を見たら悲鳴をあげて逃げ惑う。おいしいのに、と思いながら捕獲して助けてあげたことは、実は一度や二度ではない。
 つまり、同じところもあるけれど、違うところもたくさんあるいきものだった。それなら考えることも習慣も、フルルにはよくわからないことがあっても仕方がない。幸いリンウェルは、フルルがわからない顔をしていたらどうにか説明してくれようとする。他のひとたちもそうだ。本当のほんとうにはわからなくても、そういうものなのだと受け入れられる地ならしをしてくれようとする。毎日フルルの好奇心は満たされっぱなしで、森の賢者と称されるフクロウとして、とても充実した生活を送っている。
 と、いっても。フルルは頭が良いが、さすがに人間の文字は読めない。本の内容に集中されてしまえば、出る幕はないのだ。おまけにリンウェルのフードの中は高さも揺れも程よくて、居心地がとても良い。ああでもないこうでもないと議論をはじめた二人を尻目にうとうとし始めたところで、聴覚が憶えのある調子の足音をとらえた。
「リンウェル、テュオハリムを見なかったか……って、一緒でしたか」
「あ、キサラ」
「む。もう時間かね」
「ええ、時間ですよ」
 キサラはやわらかくうなずくだけだった。テュオハリムはなんだかんだ言いながら、今でも指導者としての地位にあり続けている。キサラは常ではないもののその補佐を務め――元どおり、いわゆる上司と部下の関係に表面上ではおさまっているはずだったが。記憶にあるような直立不動の礼はとらなかった。
 ほかに見るものがいるわけでもなし。対等な友だちとしてつきあっている、普段の姿を出しても問題ないと判断したうえでの振る舞いだろう。なにせテュオハリムは、仲よしの相手から距離感のある態度をとられると拗ねる。そうするととにかく後がめんどくさい。
「案内ありがとう、テュオハリム。私はもう少しここで本を読んでるから」
「あいわかった。仕方がない、仕事に戻るとするか……」
「次は侍従の間のほうですから、お願いします。リンウェル、私ももう一刻ほどしたら休憩なんだ」
 キサラは長身をやんわり曲げて、リンウェルの耳もとに口を近づけた。親密な距離でささやく姿は姉妹のようでもあり、母子のようでもある。――母と子というには見た目の差は開いていないが。それだけの仕種にも嬉しそうに笑うリンウェルをあたたかい目で見つめ、キサラは言葉を続けた。
「美味しいプディングを出す露店を見つけた。一緒に行かないか?」
「えっ、本当!? 行く行く!」
「……私は……」
 ぱあっと顔を輝かせるリンウェルとは対照的に、テュオハリムはしょんぼり肩を落とした。一刻程度では終わらない仕事なのだろう。キサラが宥めるように背中を叩いてやっている。
「持ち帰りができるんですよ。お土産に買ってきますから、がんばって早くきり上げてください、テュオ。そうすればお茶の時間にはご一緒できるのではないですか」
「なるほど」
 途端にしゃっきり背筋が伸びるのだから現金なものだ。鼻歌さえ歌いそうな上機嫌で遠ざかっていく、もと領将の後ろ姿を眺めて、ふたりは笑いをかみ殺した。
「キサラ、テュオハリムの操縦の仕方がうまくなったよね」
「まあ……素を知ってからのつきあいも、いい加減長くなってきたからな」
 さて、と獅子のたてがみのような見事な髪が翻る。後で迎えに来るよと踵を返したキサラの肩の上、フルルは少し羽ばたいて飛び乗った。
「フルッ」
「ん? どうしたフルル」
「キサラと一緒に行くの?」
 瞬いて尋ねてくるリンウェルに向けて、フルルは心持ち胸を張った。ばさっと翼を広げて、「フルゥ!」と囀る。……迷惑にならない程度の大きさで。
「え、里帰り? もしかしてフクロウの杜?」
「フルル……フリャ、フリル、ルルゥ」
「ああ、アルフェンとシオンの結婚報告……そっか、杜のみんなにも知らせたいよね。ひとりで大丈夫なの?」
「フルルゥ!」
「……お前たち……相変わらずさすがだな……」
 さっぱりだ、とばかりにキサラが目を丸くする。フルルにしてみれば、リンウェルがフルルの意思を全部とはいかずとも読みとってくれるのはいつものことだ。なので、なんの不思議もないのだけれど。
「つまり私の役目は、フルルが外に出られるところまで連れて行くということかな?」
「フルッ」
「お天気はしばらく大丈夫そうだし……くれぐれも気をつけてね、フルル。無理しちゃだめだからね」
「フロゥ」
「私は当分ヴィスキントにいるつもりだけど、もしかしたらフルルより先にシスロデンに戻ることもあるかも。どっちにしろ天窓の掛け金は開けておくから」
 心配そうな顔をしたのは一瞬だけで、リンウェルはすぐにフルルの希望を受け入れてくれた。以前ならこうはいかなかった。フルルが一人前に近づきつつあるのだと認めてくれているのが誇らしい。黒髪のまわりを一周して、もう一度キサラの腕に戻る。
 そういえばひとりで何日も飛ぶのは初めてかもしれない。今更ながら気づいて、やる気じゅうぶん、ぱさぱさと翼の先を震わせる。
 本棚を回り込んで姿が見えなくなるまで。リンウェルは本に意識を奪われることなく、手を振ってフルルをちゃんと見送ってくれた。







 少し離れているはずなのに、生臭い息がここまで届く。
 フルルは枝葉の間にじっと身をひそめ、ふんふんとあたりの匂いを嗅ぎまわるはぐれズーグルをやり過ごしていた。
 大丈夫、この位置取りならフルルの匂いがあの鼻に届くことはない。シスロディアに群生する針葉樹は寒くても暗くても青々と葉を茂らせて、爽やかな香りを振りまいている。葉陰と香り、それらに邪魔されてフルルを見つけることはできないはずだ、絶対に。
 ここで慌てて飛び出せば、今度は空を舞うズーグルに見つかりかねない。フルルもだいぶ飛ぶのが速くうまくなったけれど、まずなにしろ体格が違えば競争は不利だ。ときどきやつらはこうして協力して狩りをすることがある。フルル一羽食べたところで到底腹の足しになるとは思えないのに、まったく昔からしつこさには頭が下がる思いである。
 昔。そんな表現が頭に浮かんだことに、まるで人間みたいだとちょっと楽しくなる。そういえばリンウェルと初めて会ったのも、ズーグルから隠れていたときだった。

 卵から孵って、そう経たないうちに親鳥とはぐれた。
 まだ生きるすべを教えられないうちに放り出されてしまって、何もわからないながら必死で逃げて、食べて、命からがら生きのびていた。まだ翼に力が入らなくて、だから高い枝にもそうそう登れなくて。背の低い木立のなかで、今と同じように息をひそめてじっとしていたのだ。
 仲間を呼ぶ声が聞こえた。そう思った。
 高く細く引き絞るようなそれは泣き声で、そのころのフルルはもうそういう声を出して獲物を誘う獣がいることは知ってはいたけれど、それらともなんだか違う気がした。どうしようもなく気にかかってうっかり姿をあらわしたところで、人間のおんなのこを見つけたのだった。
 ぱちぱちと音がしていた。今思えばそれは炎で、フルルは本能的に恐れなければならなかったはずなのに。目の前のいきものに気を取られて忘れてしまっていた。
 あかい光。なにかがいっぱい壊れて、なにかがいっぱい死んでいた。フルルを追い回していたズーグルの成れの果てだろうか。ちがうものも混じっていた気はするけれど、よくわからなかった。
 あかい光。常闇が照らされて、シスロディアの雪みたいに真っ白なほっぺたの上、きらきらしたものがふたつあった。それはそぞろ飛んでいた時に見つけた、湖の波打ち際に落ちていたきらきらしたものによく似ていた。あれの中には虫が入っていて、お腹がすいていたフルルは食べられないかなと思ってつついてみたけれど、結局かたくてだめだったのだ。
 あとで同じ場所でそれを見つけたとき、リンウェルは琥珀だと言って喜んで拾った。きれいだねと言って笑っていた。教えてもらって、知らなかったことに名前がついて、ことばを識る。そうしてやっとフルルは記憶――思い出を、後からでもはっきりと思い出せるようになったのだ。そう、初めて見たリンウェルの目は、涙に濡れていたけれど、琥珀みたいでとってもとってもきれいだった。
「……フクロウ……? どうしてこんなところに」
 黒い毛並みの人間は、戸惑いもあらわに手を伸ばしてきた。人間はきらいだ。フルルを追い回して、石を投げて、捕まえようとしてくる。中には善意もあったのかもしれないけれど、フルルにとってはただただ怖いばかりだった。
 うっかり見惚れていたために、逃げるのが遅れた。身をすくめたフルルの羽毛を、梳くように細い指先が通る。
 その力加減はやさしかった。フルルを痛めつけようとか、捕まえようとか、そういう意図は感じられなかった。ただただ羽のながれを整えるように通って滑るだけ――忘れかけていた親鳥の羽繕いに似ていて、知らずさえずり声が漏れた。それを耳ざとく拾って、まん丸に見開かれていた瞳がやわらかく細くなる。笑った。たまっていた雫がそのこのほっぺたを次々流れ落ちていったけれど、あたらしく生まれそうにはない。
「かわいい。……親とはぐれたの? あなたもひとり?」
「フル……」
 どうしてか、相手の言っていることはわかる。でもフルルのことばを伝えるすべはたぶん、ない。どうしていいのかわからなくて、翼を少しだけ揺らした。フルルは“かわいい”らしい。そのおんなのこの囀りにはいやな響きはなかったから、きっと悪い意味じゃないのだろう。そうか、フルルはかわいいのか。
 はじめて聞くことばだった。ちいさいとか、弱そうとか。かわいそう、と言われたこともたぶんあった。同じフクロウの仲間をみつければ、もっといろんなことを早くに教えてもらえたのかもしれないけれど。もう少しちいさい鳥としかお喋りしたことはない。生憎フルルは、今こうやってきらきらした目を見上げるまでは、親鳥以外のほかの生き物とはろくに視線も合わせたことがなかったのだった。
 こわくない。そっと差し伸べられた手のひらにちょんと飛び乗る。そのこは唇を綻ばせて、顔の近くにフルルのからだを持っていった。濡れたほっぺたがかさついて、冷えて痛そう。ほとんど本能的に白い綿毛をすりつける。今度こそ楽しそうな笑い声があがった。仲間うちでじゃれあいながら飛んでいくほかの鳥たちを、うらやましく眺めていたときに聞こえる声。だけどちょっとだけ悲しそうな色も混じっているから、間違えたのかなと思って動きをとめた。
「慰めてくれるの? やさしいね」
 なぐさめて。やさしい。新しいことばがいっぱいで、目が回りそうになる。このおんなのこだってきっとまだ子どもなのだろうに、フルルよりもはるかにたくさんのことを知っていそうだった。
 頭のてっぺんから首にかけてなでられて、そこは直接いのちに関わる場所なのに、触られてもこわくないし痛くない。不思議な気分でされるがまま、またきらきらした目が真正面に来て、そのこはフクロウがするようにこてんと首を傾げた。
「お互いひとりなら……一緒に来る?」
 返事をしようとしたとき。すうと瞳の真ん中、光彩が猛禽のように細くなる。
「……!」
 やわらかそうな眉がつり上がって、そのこはフルルには聞きとれないほどの早さと強さで何かを叫んだ。
 周りの風が熱を含んでぐわりと膨れあがる。それはぱちぱちと未だ音をたてるあかい光の助けも借りて、瞬く間に収束し矢になって、フルルの背後に迫り来ていた獣を貫いた。
「フリャッ!?」
「あ、びっくりした? ごめんね」
 どう、と重たい身体が地面に崩れ落ちる音。そっちには目もくれずに、またやさしく瞳をまるくして羽毛を梳いてくれる。
 かと思えば再び鋭いものをまとって、そのこはぽつりとつぶやいた。
「……そうだ。私には、力がある。このままじゃおかない」
 やさしい、はずなのに。フルルを載せた手のひらも、首のあたりをくすぐってくれる指先も。気遣いにあふれていて、あたたかい生きものなのだと迷いなく確信させてくれているのに。
「許さない……絶対に許さない。そう、目に物みせてやるんだから……!」
 きらきら輝いていた目は今は、どこかうつろで昏かった。とまっていた水がまたあふれ出して、流れ出した。遠くを眺め、低く唸って。こわいようでどこか物悲しくて、フルルはそのとき決めたのだった。
 ひとりぼっち同士なら、いっしょにいればいい。このこのそばにいたい。そう決めて、リンウェルと一緒に生まれた森から初めて外へ出た。

 フルルの気配を探っていたはぐれは、あきらめて姿を消している。それでも油断はせずに、葉陰から葉陰へ渡りながら空へ地へ注意深く視線を配る。このあたりは何度か行き来したから安全な道筋はある程度わかっている。この枝からあの岩陰目指して飛べば一瞬。あの岩の後ろ側は鼠の巣があって通り道にもしていて、鼠は今のフルルより体がちいさいので襲われる心配もない。むしろこちらが捕食する側だ。抜ければ茂みの中に出るから、そこから丈のある草の間に潜る。シスロデンまでたどり着けば、フクロウの縄張りはすぐそこに。今はダナフクロウの存在も認知されてきて、人間に追い回されることもめったになくなった。
 リンウェルと会ってから、いろいろなことがあった。ふたりぼっちから一気に友だちが――いや、家族が増えた。片時も離れたくないと頑なだったふたりとも、もう、いつもいつもお互いの姿が見えなくても平気な顔をしていられるまでになっている。リンウェルもフルルも、おとなになりつつあるのだ、きっと。
 羽ばたいて、首府の開かれた門を堂々と潜る。ちいさなおとこのこが「昼なのにフクロウがいるよ!」と叫んで指さしてきたけれど。一瞥して鳴き返してやるくらいの余裕はあった。昼であっても夜であっても、フルルは動きたいときに動くのだ。







 シスロデンは、首府というだけあってけっこうな広さがある。
 高いところを飛んでいけばひとが作った屋根も壁も関係ないけれど、あんまり無防備に飛んでいたら他の大きい鳥に目をつけられる恐れもある。そうなったらなったでどうとでもできるけれど、“面倒ごとは避ける”のが賢いやりかたというものだ。
 人の手が簡単に届かない、だけど鳥が飛ぶには低いところ。勝手知ったる庭のようなもので、建物の間を縫うように楽しく飛んでいたら広場に見覚えのある姿を見つけた。
 見つけたからには声をかけてやらねばなるまい。いちおう友だちで家族だと認めている相手なのだから、義理を欠いてはいけないのだ。フクロウは礼儀正しい鳥なのである。たぶん。
「フルゥ!」
 一声囀れば、そのひと――ロウは弾かれたようにこっちを見上げた。ぱっと明るくなるその顔は素直そのもので、初めて見たときよりもちょっとおとなっぽくなった。でもほかの家族のおとこのひとたちに比べればまだまだなので、人間の寿命も成長速度もよくわからないけれど、ロウはやっぱりまだ子ども、なんだろう。自分を棚に上げてそんなことを考える。
「フルルじゃねえか!」
 親しみのこもった声で名前を呼んで、ロウは籠手をつけた右腕を高く掲げてみせた。
 ここに止まれということなのだろうけど、なんだろう、そのまま言うことを聞いてあげる気になれる機会は何故か少ないのだ。直前ですいと軌道を変える。空中で華麗に宙返りを決めて、フルルはわしゃわしゃと逆立つ黒髪のてっぺんにその脚を落ち着けた。
「……。……まあ、いいけどよ」
 爪は立てていないので大目に見てほしい。そばにいたロウの弟分がおもしろそうな色を隠しもせずに眺め上げてくる。そういえばこのパドヴォも、それなりに馴染みのある相手だった。リンウェルやロウたちほどではないけれど、少なくともフルルを害することはない。それはとうに理解している。
「なんだよ、お前ひとりか? リンウェルはしばらくメナンシアだっつってたし一緒にはいないよな?」
「フルッ」
 フルルはロウの頭上にいる。だから具体的にどういう行動をとっているのか視認はできないだろう。わかっていて、フルルは翼を大きく広げて胸を張った。解釈の仕方によっては威嚇のポーズである。
「ははっ」
 なんだよ、あの子に会いたかったのか?
「ばっ!」
 ちっげーし! フルルだけとか珍しいから心配になっただけだし!
「ええ〜?」
 本当かよ? そわそわ周り見ただろ、気づいてるぞ。
「あのな……」
 いつでもどこでもそればっかり考えてるみたいな言い方やめろっつの。
 相変わらず出す声だけを聞いていれば、いったいなにを喋っているのかさっぱりである。でもフルルには、ふたりの息遣いや目線、仕種の中に隠されたことばをなんとなく読み取ることができた。
 この子たちはわりとわかりやすいと思う。リンウェルたちはしきりに首を傾げていたけれど、何のことはない、だってリンウェルだってフルルの気持ちを囀りだけでだいたいわかってくれるのに。ほかのひとのこととなると感度が鈍るのか、それとも無意識に目をそらしているのか。人間はそもそもことばを駆使して意思疎通する生き物なので、このふたりのほうが珍しい部類なのかもしれないという可能性も捨てきれないけれど。
 そういえばアルフェンとシオンはことばもとても多いなあと、今ここにいない家族たちへと思いを馳せた。あっちは、多すぎるくらいだ。目も顔も声も手も、相手がだいすきだと雄弁に語りすぎているくらいなのに、さらにことばを重ねようというのだから。ほかのみんながときどき胸焼けしてしまうのも無理はないのかもしれない。
 というか、仲がいいのはけっこうだがフルルを無視するとは何事なのか、ロウ。
「フリリャ! ピギ! ルルリフゥ!」
「うわ痛!」
 腹がたったのでちょっとだけ嘴でつついた。ほぼ八つ当たりである。まあロウが悪いのも事実なので仕方がない。
 反射的に伸ばされた手を避けて舞い上がる。後ろに回り込んでから肩の狼に止まり、意識が向く前に今度は左肘。服の裾を咥えてめくりあげ、顔の前まで持ち上げてぱっと離した。フルルを捕まえようとするその手が、ぎりぎり届かない高さに滞空して見下ろす。
「フッ」
「おっ前、俺で遊んでるだろ!?」
 ぎゃいぎゃい騒ぐロウをせせら笑ってやれば、案の定両腕を振り上げて怒っていた。
 とはいっても、本気ではない。いや怒っているのは嘘ではないだろうが、ロウがフルルを攻撃してくることは絶対にない。ちゃんとわかっていた。
 ロウがその気になれば、本当はフルルなんてひとたまりもないのだ。跳躍すればその手はやすやすここまで届くし、掴まれて石畳に叩きつけられでもすれば、フクロウ一羽程度、命を奪うなど造作もないだろう。
 でも、絶対にしない。フルルがどれだけ神経を逆なでするような行動をとっても、爪で引っ掻いても、嘴でつついても。ロウは悲鳴をあげて逃げ腰になるだけで、反撃してきたことはなかった。これから先もないだろう。
 何かを深く考えているわけではないのだ、きっと、これでも。ただこのロウは、やさしくて善良な生き物だというだけ。だからどれだけリンウェルやフルルに失礼なことを言ってもしても、本当の意味では嫌いになれない。むしろ好きだし、心底信じてもいる。
 腹立たしいことに、リンウェルもフルルと同じなのだろう。それどころかフルルは旅の途中から、ちょっとだけ疑っている。もしかして、リンウェルの番はロウなのかもしれない、と。
 ロウはフルルの考える最高の雄ではない。アルフェンやテュオハリムと比べればまだまだだし――もちろんあのふたりも最高の雄なのかと問われると、こてんと首をかしげてしまうけれど。
 でもロウはあのとき、リンウェルをもとのリンウェルに戻してくれた。初めて会ったとき、憎しみに駆られて怖いこわい顔を垣間見せたフルルの最初の家族。とてもやさしい子なのに、他人を傷つけるのなんてまったく向いていないのに。フルルを守ってくれた力を今度は刃に変えて、怒りと悲しみに支配されてそのまま、きれいなものもやさしいものもぜんぶ捨てて走っていってしまいそうだった。ロウはそこに立ちふさがって、身体を張って、リンウェルをフルルたちのそばに留めてくれた。だから。
 リンウェルがロウがいいと言うのなら、ロウがリンウェルがいいと言うのなら、フルルはちゃんと認めてやる気でいるのである。
 そうはいっても、ふたりともにいまいち伝わっていないのだろうなあ。考えながら、ひょいひょい伸ばされる手を適当にかわす。理解されてしまうのも癪だし、べつにこのままでいいのだけれど。もしかしたらほかの家族には薄々感づかれているかもしれない。
「フル〜」
 飽きた。
 と、いうより、フルルは目的地があってシスロデンの街中を飛んでいただけだ。ロウにはあいさつしたかっただけで、一緒に遊んでもらおうと思っていたわけではなかった。
 ふと思い出してそのまま高く舞い上がる。明らかに目指す方向を定めたフルルに、ロウも遅れて察したようだった。
「あー……ああ、フクロウの杜に行くのか」
「フッ」
「いやフッじゃねえって……まあいいか。気ぃつけて行けよ!」
 ついさっきまでむきになっていたくせに、もう面倒見のいい兄貴のような声を出している。
 悪い気はしなかったので、二、三度頭上を旋回した。振り返ればやっぱりリンウェルと同じように、角を曲がって見えなくなるまでロウは律儀に手を振っていた。







 そしてフクロウの杜。無事、到着である。
 光を奪われ、夜に支配されていたはずのシスロディアにおいて、なぜかきらめく陽光が差しこみ広葉樹が豊かに茂る森があった。
 この杜にはダナフクロウか、フクロウに導かれた生き物しか足を踏み入れることはできない。本当はちがうのかもしれないけれど、今のところはそうである。ズーグルにも、ダナにもレナにも見つかっていないから。
 杜の端っこで見張りを兼ねて枝に止まっていた数羽とひとしきり戯れ、そのままぱたぱたと広場の真ん中まで飛んでいく。いちおうのこと王さまと女王さまはまとめ役で敬うべき存在だという認識だけれど、人間みたいにめんどくさい作法はないのである。低く飛ぶことも頭を下げることもなく、フルルは二羽の正面までまっすぐ飛んで、ぱさ、と一度翼を揺らした。
「フル」
「ホッホウ、ホーウ」
「フォロ、フォロルゥ」
 すべてのダナフクロウの父と母。の、ような顔をしてあいさつに応えてくれる。
 近況報告をひととおり済ませたあとで来訪の一番の目的を告げれば、女王フクロウはしたり顔でくるくると瞳を回した。
“ああ、あの。わたしたちにかこつけてじゃれていた子どもたち”
 やっぱりアルフェンとシオンは王と女王のやり取りにかこつけていちゃついていたのだ。そういう認識をされていた。というか周囲の止まり木のフクロウたちが、囀りこそないものの、さもありなんといっせいにうなずいている。どれだけ色々と公開状態だったのだろうか。
 もちろんあのふたりにしてみれば大真面目だったに違いないし、そばで両方のことばを同時進行で聞いていたフルルも、かけ離れたことを言ったなという印象は抱かなかった。まあ途中から微妙に暴走し始めて、二羽を置き去りに会話を展開するに至っては、その場のフクロウ誰もかれも呆れを隠そうとはしていなかったのだけれど。知らぬは本人(たち)ばかりなり、である。ちなみに実は口調も若干だが違う。
“番となったか。なんにせよめでたい”
“フルルがいてくれるなら、それでいいのだろうけれどねえ。この杜からも、だれかもうひとりくらい顔をだしたいものだわ”
 やっぱり王さまと女王さまは、いちいち説明しなくても人間の習慣も知っていた。そして一部のフクロウ以外はざわざわもしていない。フルルよりも長く生きているフクロウが多いから、やっぱりもの知りなのだ。“けっこんしき”のひとことですべてを察して、さっそくさわさわ相談を始めている。
 お祝いに来てくれるの?
 尋ねれば、やはりいっせいに当然だと言わんばかりの視線を注がれた。いつだったか圧巻だとシオンが零していたけれど、フルルはフクロウなので特別威圧感のようなものは感じない。つきあって瞳を動かすと目が回る恐れがあるのでそこは我慢する。くいくいと首を左右にかしげるにとどめ、思案する王と女王を眺める。
 と。
“わたし! わたしが行きたい!”
 ぴょこん、と止まり木の茂みから一羽の雛が顔を出した。
 まだうまく飛べないのか、枝から飛び降りたあとはひょこひょこと跳ねながら前のほうに出てくる。舞い降りて並んでみれば、当然フルルよりも体はちいさかった。卵から孵ってそう時間は経っていなさそうな、ふわふわの綿毛に包まれた愛らしい雛である。羽の色は少しだけ灰色がかっていて――自分よりもちいさな子どもを見るのが初めてのフルルは、まだ硬くなっていない嘴を興味深く見つめた。
 このこが来てくれたら、リンウェルやシオンは喜びそうだ。だけど。
 果たしてその日までに、じょうずに飛べるようになっているのだろうか。フルルひとりなら、シスロディアからメナンシアまで飛ぶことはそう難しくない。実際危なげなくここまでやってこられたのだし。でも非力な雛を守りながらの道行きとなると、どうにも自信はなかった。
 素直に懸念を伝えると、王は口ひげの先っちょ――人間みたいだけどどうなっているんだろう――を自分の嘴で器用に整えながら、瞬きをしてみせた。今のはもしかしてウインクのつもりだろうか。テュオハリムがやっているのは見たことがある。ただ王は嘴はともかくまぶたは不器用らしく、両目とも閉じたので、残念ながらただの瞬きとして終わってしまった。
“問題なかろう。それくらいは人間に頼ってもいいのじゃないかな”
“その子はねえ、この杜で孵ったのよ。外の世界を見せてあげてくれないものかしら”
 なるほど。
 そう言われてしまえば、フルルに否やはない。確かに、なにもフルルひとりですべてを負う必要はないのだ。どうせ“おひろめ”に行くときはリンウェルかロウと一緒に移動することになる。なら事前にお願いしておけば、快く引き受けてくれることだろう。
 フルルにとってこの杜は故郷のひとつだ。けれど、そのまま戻って来て落ち着く気分になれない程度には、外の世界を気に入っていた。
 危ないことも、こわいことも、かなしいことも、たくさんあるけれど。同じくらいきれいなものがあって、楽しいことがあって、どれだけ時間を過ごしても飽きない。毎日たくさんの発見があって、好奇心も探求心も満たされる。フクロウ冥利に尽きるとはこのことである。
 この雛を皮切りに、いずれダナフクロウの姿が世界のあちらこちらに見られるようになればいい。いっぱい杜ができて、それぞれに王さまと女王さまがいるようになって、ここが唯一の存在じゃなくなったなら。きっと、もっともっと楽しい。
 了承を得てはしゃぐ雛を見守る、あたたかい視線。フルルの親鳥もこんな目で卵を眺めていてくれたのかなと思ったら、余計にちゃんとお兄さん役をしなければという気持ちがこみ上げてきた。こういうのは、順番だ。フルルを守ってくれたどこかのだれかに恩返しするために、フルルもやっぱりちいさい子のためにがんばるのだ。
 さてそれでは、用事も無事果たせたことだし。
 以前よりもはるかに軽々と、高くふんわり舞い上がったフルルを雛が眩しそうに見上げてくる。一声鳴いて、さらに高く。追いかけてくるフクロウはいなかった。皆、おとなは気が向けば好きなときに外に遊びに行く。アルフェンたちがみつけてくれたフクロウは、実はいつもいつも全員が杜に留まっているわけではない。
 もしかしたら、お客さんはもっと増えるのかも。
 ちゃんと伝えておかなければと、やる気じゅうぶんで空の彼方を見やる。杜を出ればすでに日は暮れていたけれど、フルルは夜目が利くのでもちろん何の問題もなかった。


 早く帰ろう。そして、リンウェルにおかえりなさいと笑ってもらうのだ。
--END.
前に書いた、アルシオ結婚式するよ! な話の裏、みたいになりました。
ダナフクロウの寿命とか成長速度とか知能指数とかさっぱりですけど。現実のフクロウとほぼ同じ、は無理があるし。まあそもそも群れないですよね…え、群れないよねフクロウって?
なので細かいことは考慮してない。使用語彙はともかくとして考えてることは年齢一桁の子ども、くらいのイメージで行ってみた。あくまでイメージです。
フルルとリンウェルの出会いは当然捏造しました。場面が浮かんでしまったので書きたかった。

エグい話すると、たぶんリンウェルの一族のご遺体は大半連れ去られたんじゃないかなって気が…するんだよな…フルルの見た残骸はズーグルとレナの装甲兵…かな…当然抵抗はしただろうし。
アウメドラは自身の力を増すために隠れ里を襲ってるので、本やら受け継いだ事物やらも根こそぎ持っていってそうで。無人島に船の残骸漂着してたみたいだし、少しくらいはリンウェルが後で見つけて取り戻せたかもしれない。
ただまあ、そういう経緯もあったら、生き残り一人だし、リンウェルとしてはなおさら隠れ里に残ろうとも戻ろうとも思えないんじゃないかなっていう…ED後に彼女がどこに拠点を置くのかっていったらシスロデンとヴィスキントを行き来、ってのが妥当な気はするんですけど。隠れ里にもやっぱり時々は戻ったりするのかな。ひとりで行かなければ大丈夫かな。たぶん。
結婚式に一緒に来てたフクロウは、フルルの番って線もあるけど(RのザピィはEDではっきりお相手いたしね)とりあえずこっちで行ってみました〜。なんかブーケばらばらにしちゃってるの、わざとじゃないんじゃないかなって、ふと思ったら…うまく飛べないのかなって…まだ子どもなのねウフフみたいな気持ちが湧き上がってしまった。

あとこれ関係ないけど、何年か前にラピード視点のユリエス書きたいなあと思っていたのが頓挫してたので。今回別の形だけどフルル視点のやつ書けてそっちの意味でも満足です。
(2021.11.19)