手出し不要のお二人様
 あちこちに、柱と屋根だけの簡素な天幕が張ってある。
 錆びて朽ちかけ使い物にならなくなった鉄骨。色褪せた麻布や穴の開いた筵。それらを組み合わせ、扉どころか壁に当たる部分もない。もっともこのあたりは雨も少ないし、夜になってもそうそう気温が下がることはないのだ。以前に比べれば数も勢いも減ったものの、維持の手間もかけていないのにそこここで燃え盛る炎は相変わらずも健在だった。星霊力は自然な状態であっても人や物、土地ごとに多少異なる。この光景が完全に消えることはおそらくないのではと推論を聞かされて、安堵したようなうんざりしたような気分になったことは記憶に新しい。
 住居ではない、日差しを遮る目的さえ果たせればいい。天幕の下で思い思いに座ったり寝転がったりしている人々の間を避け抜けながら、彼は視線を忙しなく行き来させた。
 カラグリアの食料供給率は未だ安定していない。ちいさな集落であればともかく、ある程度の規模の村や町では食事は個人ごとでなく世話役による配給制となっていた。交易や環境の改善、灌漑技術の発達により潤沢に食べ物が手に入るようになればいずれはその仕組みも消えてはいくのだろうが。よそと比べるとそこのところはどうにも遅れがちになってしまうと、馴染みの青年が難しい顔でこぼしていた。その代わり凍え死ぬ心配はしなくていいのだから、まあ、土地ならではの悩みというものはそれぞれにあるのだろう。
 そういうわけでもしかしてと当たった炊き出し場は外れだった。ならば次に可能性が高いのは、急ごしらえの救護所として負傷者が次々運ばれてきては転がされ手当てを受けているこの一帯だ。
 視界の端に薄紅色が過ぎる。足を止めた彼の少し先、探し人がこちらに背を向けて誰かと話しているのが見えた。
「シオン!」
 呼ばれた名に反応して、白い顔がぱっと振り向く。
「ロウ。何かあったの?」
「うん、何かっつーか」
 大股で近寄ると、シオンはごくゆるやかに首を傾げた。動きに合わせて結い上げた髪がさらりと肩口を零れ流れ落ちていく。美しいけれども見慣れた光景には特に何も感想を抱かず、ロウはまっすぐにその天色の瞳を見つめた。
 光ってはいない。術の残滓は感じられない。となれば、一段落ついたと判断して間違いないだろう。集中力に影響するような情報を今すぐ伝えても問題ないはずだ。
「アルフェンがちょっとふらついててさ」
「アルフェンが」
 鸚鵡返しに繰り返し、表情が不安と心配で曇る。軽くかぶりを振って深刻な話ではないと前置きし、ロウは半身をひねって自分の来た方向を指し示した。
「熱中症になりかけてるんじゃねえかな。ほら、ゆうべ寝苦しかったしよ……たぶん睡眠時間が足りてない」
「ああ……」
 ロウ自身は未熟な年齢だからなのかそれとも慣れか、暑さ寒さが骨身に染みるなどという感覚はあまりよくわからないのだけれど。話題のアルフェンはおそらく長いこと感覚を失っていたせいなのだろう、気温や湿度など環境の変化におのが身を慣れさせるということがまだ不得手なようだ。体力や持久力はあるのに、寒いところに行くとすぐくしゃみをするし、暑いところでは他の誰よりもだらだらと滝のように汗を流している。
 今朝もその兆候はあった。朝に弱くもないはずがわりと長いことぐずぐず起きられずにいたので、本人は口にしなかったがきっと熟睡できなかったに違いない。戦力に数えられていたから寝ていたいとも涼んでいたいとも言い出せず、一仕事終えて気が抜けてから不調が噴き出してきた形だ。
「俺湯冷ましと塩もらってくるからさ、シオンは先に行ってアルフェンについててやってくれないか」
「ええ。場所は?」
「元からある居住区の裏に枯れ川があったろ? こないだ水が戻ってきたって」
 長いこと川底のひび割ればかり眺めていたのが、双世界がひとつになった途端にどこからか水がやってきて少しずつ嵩を増し、今では背の低い木立まで生えてきているそうだ。
 井戸もいくつか増えてひとまず飲み水には困らなくなったおかげもあり、憩いの場としても重宝しているのだとドクが言っていた。
「あそこね。知ってる、すぐ行くわ」
「ココルが一緒にいるから……あいつが言うには下流は物干し場にもなっててあんまり、っておい、最後まで聞けって」
 あっという間に身を翻して駆けだそうとするものだから、ロウは慌ててシオンの腕を取った。
「んな焦らなくても大丈夫だから! 川ってだけじゃわからないだろ、広いじゃんか!」
「べつに焦ってなんか……」
 ばつが悪そうな顔で目を逸らすのにちいさくため息をつく。掴んでいた手を解放してやり、そのまま東を指さした。
「川に突き当たったら東。上流な。遡っていけばそこら辺にいるはずだぜ……下流には行くなよ。逆方向だから」
「そ、そんなへましないってば。もう行くわよ!」
「おー」
 言葉は強かったが、うっすら頬を染めていては迫力も何もあったものではない。気の抜けた声で返事をしてから、ロウは肩をぐるぐる回して一度伸びをした。さて今度はドクか紅の鴉の知己を探して必要なものを分けてもらわなければならない。涼しいところに行けば身体はそれなりに楽になるだろうが、ちゃんと処置をしなければ良くなるものもならないのだから。必要以上に焦ることはないが、かといって悠長にしていられるわけでもない。
「……えっと……」
「ん?」
 今まで陰に隠れて見えなかったが、敷かれた筵の上には青年がひとりぽつんと座っていた。
「あ、悪ぃ。話の途中だったか」
「い、いや……治療はもう終わってたからいいんだ。いいんだけど」
 揺れて遠ざかる後ろ姿への視線になんとなく察するものがあった。
 あったけれど、ロウにはどうしてやることもできない。ご愁傷様。ぽんと肩に手を置けば、彼は未だ訳がわからないといった風情で曖昧な笑みを浮かべた。







 速足で歩いていたら、同じ調子の足音が重なった。
 音がなかったとしても太陽側につかれて視界が微妙に翳ったのでわかる。彼はロウよりも背が高い。
「ガナル」
「おう」
 見上げて足を止めないまま呼びかければ、短く応答があった。
 ロウがどこを目指しているのかわかっているのだろうか。手に持っているものがものなので目的だけは察するだろうが、同行しようとする気配を見るに誰かに何かしら聞いてきたのかもしれない。ガナルは大きな手にレモンをひとつだけ握っていて、わざわざ掲げて見せつけてきた。
「差し入れだとさ」
「アルフェンにか?」
「そうだよ」
 もう広まったのか。確かにあのとき周囲には他にも人間がいた。しかしふらついたアルフェンをココルに託し、ロウがシオンを呼びに行ってからまだ四半刻も経っていないはずだ。それだけ彼に対する人々の関心が高いという証左だろうが、それにしても早すぎる。居心地悪そうに身じろぎするアルフェンの顔が目に浮かぶようだった。
 だとさ、ということはガナル自身が用立てたものではないのだろう。彼にとってもアルフェンは友人だ。体調を崩したと聞けば心配はするし、できることがあるならば動いてくれる。
 ただべつに瀕死というわけでない、状況的に手も足りているのだからいちいちついてこなくても良かろうと思うのだが。レモンを渡してくるでもなし、ロウの隣につけて離れていこうとしないのでやはりそのまま一緒に来るつもりなのだと思われる。
「具合が悪い人間のとこにあんまり大人数で押しかけても迷惑だろ。だっつうのにまあ女どもも男どもも騒ぐこと騒ぐこと。さすがに直接あいつらを知ってる奴は何も言わなかったけどよ」
「お、おう……?」
 微妙に話が見えない。というかガナルの声色に何か怨念めいたものが滲んでいるのは気のせいか。
「自分が介抱したいだの、もっと話がしたかっただの、あいつらどういう関係なんだだの、根堀葉堀聞きまくってくる癖して俺の言うこと本当の意味では信じてやがらないっていうな! いや信じたくないだけなんじゃねえかな現実は見るべきだろ現実は!」
「わりぃ、さっぱりわからねえ……」
 大音声ではない。地の底から響くような唸り声がぶつぶつとロウの耳朶を揺らす。正直それだけの台詞で察しろというのも無理な話だった。なにせ前後の脈絡がない。
 じとっとした目で睨まれたってできるのは首を振るだけだ。べつに怖くもないし。ガナルはふんと鼻を鳴らした。
「アルフェン目当ての奴らと、シオンにちょっかい出したい奴らが、俺にばっかり突撃してくる」
「…………」
 双世界がひとつになってから。未だひとつところに落ち着くことができず、世界中を飛びまわるロウたちが今モスガルに滞在しているのは、はぐれズーグルの対処に手が追いつかないと知らせを受けて急行したからだった。
 世界がどう変化していくにせよ、まずは生活を安定させなければ話は始まらない。このカラグリアにおける急務は、何を置いても十分な量の食糧の確保だった。以前よりは降雨量も増え、過酷な環境はやわらいできている。それでもたとえばメナンシアやガナスハロスなどとの農業生産効率は比べ物にならないほど低いし、であれば手段としては交易が一番手っ取り早いのだ。
 幸いカラグリアはその大地に燃料となる鉱物が豊富に眠っている。隣のシスロディアにそれらを運ぶだけでけっこうな稼ぎになるというわけで、もともと鉱山町だったモスガルには周辺の集落から人が流入し、また新しく鉱脈も開かれつつあった。
 中には闇雲に掘り進むものたちもどうしても出てきてしまう――そうしてどこをどう間違えたのかそれとも必然だったのか、はぐれズーグルの繁殖地らしき空洞に坑道を繋げてしまったということだった。
 一体一体はそれほど強力ではなく、出くわしたのも鉱夫ばかり。そのおかげもあって幸い死者は出さずに済んだそうだが、はぐれたちが集落までやってくるようになってしまっては当然怪我だけで終わるはずもない。
 紅の鴉が中心となって急遽岩と土で出口を塞いだ。彼らと合流したロウとアルフェンはここ数日はぐれの掃討に出ずっぱりである。リンウェルとテュオハリムは山師と少数のレナとともに地の星霊術で諸々を破壊したり、補強したり。シオンは怪我人の救護に回り、キサラは集落に近づく撃ち漏らしを警戒する。なんとも働きずくめの日々だった。アルフェンが調子を崩したのも、ようやく事態が落ち着いてきたからという安堵感が大きいのかもしれない。
 もともとモスガルやウルベゼクに住んでいた人々は“炎の剣”としてもてはやされる前の、記憶をなくしてあれこれ覚束なかったころのアルフェンを知っている。彼が巷で言われているほど英雄然とした人物ではないこともちゃんと理解している。
 ただ新しく流れてきた人々はそうはいかないのだろう。アルフェンの腕が立つことは揺るぎない事実だし、力強く戦う姿にあこがれる気持ち自体はロウにだってうなずける。そしてシオンもレナ人ではあるものの、ぱっと見は武装もしておらずほっそりとうつくしいただの娘だ。もともと意外に表情豊かだったけれど、最近は虚勢を張る必要もなくなったからかやわらかな雰囲気がわかりやすくなってきた。痛みと苦痛で意識が朦朧としているところでふと楽になって、目を開けた瞬間にあの容貌が安堵して微笑んでいたら――まあ、若い男なら落ちても仕方がないといえばない。
 ここ数日はそれぞれに忙しくてあまり二人きりにもしてやれなかった気がするし――あわよくばと考える層が男女ともに出てくるのも自然なことなのかもしれなかった。黙っていればともかく、非常事態においてはなにせあのふたりは無駄に目立つ。
「……ええと、状況はわかったけどよ。それでなんでそいつらがガナルに行くんだ?」
「アルフェンはのらくら逃げ回るし、シオンは救護班の奴らががっちり周りを固めてるからな」
「あー……納得」
 ロウは呻いた。
 基本的に長距離の移動は六人と一羽で固まってするよう心掛けているが、特別治安の悪い集落でもなければ周辺に限っては単独行動も別行動も珍しいことではない。アルフェンが通りすがりの女性に粉をかけられてはするりと躱すさまは、ああまたかと思うくらいには見慣れた光景だった。なにしろあの兄貴分、シオン以外にはさっぱり興味を示さないのだ。そういう方向の情熱が全部ただならぬ量でひとりきりに向かうさまはいっそ恐ろしいほどだったが、シオンにはそれくらい重い男のほうが合っているだろう。彼女の愛もおそらく負けず劣らず重さがあるので、釣り合いのとれる精神性の相手でなければ話にならない。
 シオンはシオンで荊は消えたものの、不躾に近づいてくる人間は相変わらず好まない。それでも拒絶の言葉や仕種がかつてほど強くはないものだから、どうにも心配になってしまうことがあるのだ。頑なで手負いの獣もかくや、といったかつての姿を知るものたちからすれば、その老婆心は大げさでも何でもない。だから主に接する機会の多い救護担当の連中が、彼女に近づくものにさりげなく目を光らせているらしい。実際誰かしらがしつこい患者を追い払ったという話も、人づてに何度か聞かされた。
 つまり、お近づきになりたくとも本人たちには容易に近づけない。
 もともとの顔見知りや親しいものたちでなければ個人的なことなど話すわけもなく、となれば、情報を求めていきつく先は調整役を担う顔の広い人間ということになる。
「ネアズからはそういう話聞いてねえけど」
「あいつはすぱっと切るからなー……取り付く島もないんだよ。真顔で『あいつらは熱愛中だ』つってたぞ」
「うへえ」
 真顔で。でもそれくらい平然とできなければまとわりつく人間を追っ払うなどできないのかもしれない。
「俺も同じように言ってみたんだけどなあ……何故か信じようとしやがらねえ。そして俺に仲介を求めてくる……訳がわからねえ……」
「ああ、それで現実を見ろってか」
 ここまで来てようやく、ロウにも最初にガナルの口からああいう台詞が出てきた経緯がちゃんと理解できた。
「いやだから、マジで感謝してほしいくらいなんだって。これを口実に何人か押しかけようとしてたのを止めてやったんだぞ。褒めろ。たたえろ」
 言ってレモンを振り回す。
「嫌になってきたからもうあいつらがどんなふうにいちゃついてたか、全員に詳しく聞かせてやろうかと思ってな。俺の話を聞け。そして爆ぜろ。絶望に震えろ……!」
 そんな大仰な話でもないと思うが。絶望も何も大半は普通にあきらめるだろう。
 くくく、と何やら似つかわしくない黒い笑みを浮かべているガナルから微妙に目をそらし、ロウは空を見上げた。青い。いい天気だ。その戦略は諸刃の剣ではないかという突っ込みはしないでいてあげようと思う。
 あの戦いに勝利し皆で生き延び、シオンの荊は跡形もなく消え去った。そうでなくとも痛みなどなんのその、といった顔でアルフェンは心身ともに彼女のいちばん近くをひたすらに陣取り続けたのだ。今ふたりの間を隔てるものは物理的にも精神的にも皆無で、つまり、まあ、色々と。
 ガナルの知るかつてのふたりよりもさらにアレなことになっているのだが、まあいいか。事前に教えてやったところで何か変わるでもなし、そのうち慣れるだろうし。
 そう、あれは免疫をつける以外に対処方法はないのだ。







 さくさくと、足元では青々とした草が小気味よい音をたてている。
 からからの枯れ川だったそこは、ささやかながら尽きそうにもない豊かなせせらぎへと変貌していた。
 頬を撫でる風にちゃんと湿り気が含まれていて、しかも涼しい。ここまで歩いてきて汗ばんだ首筋が、心地よく冷やされていく。
 川べりを遡り始めて数分、やがてぴょんぴょんと飛び跳ねる少年が見えてきた。跳ねながら両手を振って、ここだここだと一生懸命に示している。流れにちょっとした落差がある場所で、飛沫が周囲に散っている。その恩恵を求めてか草ばかりの他と違い、あたりには大人の背丈ほどの木立がいくつかあった。いくら水が戻ってきたとはいえ種から芽吹くには成長が速すぎるから、これも世界が変化した際につくりかえられた何かのうちのひとつということだろうか。ともあれ暑い土地で木陰の存在はこのうえなくありがたいものである。
 木漏れ日の中に隠れるようにして、探していたふたりの姿もちゃんとあった。
「……なんだあれ」
 ガナルが思わず、といった風で漏らすが無視する。
 駆け寄ってきたココルに笑みを向け、それからロウは改めて兄貴分と姉貴分の顔を順繰りに眺めた。
 アルフェンの顔色はだいぶ良くなっている。ロウが最後に見たときは茹って真っ赤になっていたが、今はうっすら程度だ。目を閉じて寝ているのかと思ったら、気配が増えたことを察してか瞼はあっさり開かれた。たおやかな指が銀色の前髪を掻き分け、浮かんだ汗を手巾で拭う。
「アルフェン。ちっとは楽になったか?」
「ああ……うん、随分ましだ。すまないなロウ」
 灰青の瞳を見るに、意識ははっきりしていそうだった。シオンの膝枕に頭を載せたまま、ちいさくうめく。天色と灰青、一瞬だけ交わされた視線に甘さが含まれていたことには気づかないふりで、持ってきた茶瓶と杯を示す。
「とりあえず水と塩。塩は塊だけどな。あとガナルがレモンも持ってきてくれたぞ」
「あら助かるわ、ありがとう二人とも。酸っぱいものは疲労回復にいいのよね」
「あ、おう?」
 皆があまりに平然としているせいで、ガナルはたじろいだ自分のほうがおかしいのかと無理やり思いなおすことにしたようだった。小刀でレモンを半分に切ってくれたので、盃に湯冷ましを注いで絞る。流れに手巾を浸しに行っていたココルが、果皮の油にまみれたロウの手を見て拭こうとする素振りをした。
「あーいいよ、川で手ゆすぐから。俺よりアルフェンの汗拭くのが先」
「そうなの? わかった」
「汗くらい後回しでもかまわないぞ」
「いや、どう考えても優先順位そっちだろ。汗だって垂れ流しより蒸発しやすくしてやるほうがいいんじゃねえかな」
「垂れ流し……」
 表現がお気に召さなかったらしく彼は微妙な表情をしたが、文句を言うほどの気力もまだ戻っていないのだろう。一瞬助けを求めるようにシオンに一瞥をくれたが、彼女は涼しい顔で沈黙を貫いている。
 ちいさな手が絞った手巾を一度広げ、たたみなおした。
「はい、シオン」
「ええ、ありがとう」
「あーきもちいいなこれ……ありがとうココル……」
 気温は高くとも、流れ動いている川の水は冷たい。冷やした布で首筋を撫でられ、眇められていた目許がほっと緩む。
「どういたしまして!」
 ココルはあからさまにシオンを恐れるようなことはしなかったが、それでもやっぱりはじめのうちは、どう接していいのか態度を決めかねているふしがあった。だが今ではすっかり警戒を解いていて、それどころか明らかに“おねえちゃん”扱いで慕っている。
 目の前にはごろごろと喉を鳴らす猫かというような勢いで恋人の膝に懐いているアルフェンもいるが、ふたりのべたべた具合に関しては特に疑問も異論もないらしい。大好きな兄貴分と姉貴分に続けて礼を言われて、満面の笑みを浮かべるだけだ。
 ロウにしてみても、だいたいこんな感じになっているのだろうと予想していたので驚きはなかった。呆気に取られて口を半開きにまでしたのはガナルだけだ。この程度で怯んでいるようではまだまだ。彼らの引き出しは途方もなく多彩で、無限にあるのだから。……あくまで彼らの、であってロウの引き出しではないが。
 ロウはべたついていないほうの手でシオンに杯を手渡した。
「ほらアルフェン、そろそろ起きてちょうだい。寝たままじゃ気管に水が入るかもしれないでしょう」
「んー……」
「え? なに?」
 アルフェンは何事かを呟いたものの、一度で聞き取れなかったのだろう。シオンは背を丸め、彼の口許に耳を寄せた。薄紅色の髪がさらさらと重力に従い落ちてきて影をつくるが、アルフェンの顔までは隠れない。ひそやかな囁きを拾った途端にぱっと頬に朱を散らし、シオンは取り落としかけた杯を慌てて両手で支えた。
「うへえ……」
 よくもまあ。
 瞬間ロウの腹の底から出てきた本音を誰かに知られたとて、否定するものは誰もいなかっただろう。声は聞こえなくても唇の動きは見える。何を言っていたのかわかってしまって、彼はちいさく肩をすくめた。
 幸いというべきなのかなんなのか、アルフェンの浮かれた要求を認識したのはシオンとロウだけのようだった。
 ぺちっと白い手が分厚い肩をはたく。手加減していない。
「いてっ」
「何言ってるのよっ。ほらそれだけ馬鹿なこと言えるのならもう元気でしょう、起きなさい、さっさと起きなさい!」
「わ、ちょ、揺らさないでくれシオン」
 確かにアルフェンはだいぶ調子を取り戻していた。腹筋で起き上がり、ぐらぐらと不安定なシオンの手から杯を奪い取る。
 一気にあおって突き出してきたので、水を注ぐ代わりに岩塩をぽとっと落とし入れてやった。
「先にこっちな」
「あ、そうか」
 ふつうはちびちび舐めては水を飲み、というのが正しい姿のはずなのだが、そこはさすがの辛党である。しょっぱすぎるものもいけるのか。口の中に含んでまるで飴玉のように転がし始めたので、「喉つまらせるなよ」とだけは釘を刺しておいた。もごもご言いながらうなずいている。
「そんじゃ、俺らもう行くから。元気になってからゆっくり戻ってきな」
「ああ、助かったよ」
 一度茶瓶をたぷん、と揺らして、まだたっぷり中に入っていることだけは伝えておく。
 シオンもついている、もう心配ない。このぶんなら半刻程度休めばアルフェンは元気になってくれるだろう。今は急ぎの用事もないことだし、べつに夕食の時間くらいまでは戻ってこなくても大丈夫だが。
 最近はちっとも二人きりになれる機会を作ってやれなかったので、ここぞとばかりにいちゃついてくれればいい。そうしておけば周囲の目がある状況でいきなり二人の世界に突入する確率も少しは減る――減る、のか?
 まあそこのところはロウが操作できるようなことでもない。変に固まったままのガナルを引っ張ると、彼は我に返ったかのように足を動かし始めた。
 少し離れたところでココルが追いついてきて、手を振って、追い越していった。
 あの子はあの子でずっと遊んでいるわけではない。子どもといえど、あの年頃になればもう貴重な労働力だ。かつてのような過酷な労役はもちろん課されないにしても、ちょっとした掃除だとか食事の支度だとか、ちいさな手でも役に立てることはいくらでもある。
 土地によって慣習は異なるけれど、カラグリアの子どもはずっとそうやって、働きながら大きくなってきた。ロウと同じ。
「で、話の種はできたか?」
 ココルの駆け去る姿にロウと同じ感慨を抱いていたらしい。ガナルは「へあ?」と変な声を出して、ロウを凝視した。
 徐々に。徐々に、その瞳の中に疲労のような諦観のようななんともいえない何かが滲み出てくる。彼は肩を落として長いため息をついた。
「どう説明すればいいのかわからん……」
「そのまんま言えばいいんじゃね? 膝枕で昼寝してたとか」
「うーん……」
 とはいえ、ガナルひとりががんばらなくても済みそうだが。
 ロウは顔の向きはそのままに、視線だけをぐるりと巡らせた。
 昼下がり、川のほとり。もう洗濯をするには時刻が遅いし、ここは仕事に関係する場所ではないから人気はあまりない。
 それでも無人ではないのだ。単純に水遊びに来たもの、涼みに来ているもの、井戸よりも近いからと水を調達に来たもの。もしかしたらあちこちからの牽制を無視してアルフェンやシオンに会おうと、ここまで足を延ばしたものもいるのかもしれない。全部ではないけれど、少なくはない目が今あのふたりに注がれていた。
 振り返れば遠目に見える、アルフェンはちゃっかり再びシオンの脚を枕にしていた。片手のひらは白い膝頭を包み込んでいるものの、動く様子が見えないのでたぶん寝入ったのだ。彼女は穏やかに彼の前髪あたりに指先を遊ばせている。
 いつものことといえばそう。ロウは前に向き直った。
 明日にはあの光景が、噂としてモスガル中に広まっていることだろう。当人たちの耳にも入ってしまうかもしれないが、どうせ恥ずかしがるのは一瞬だけ。すぐに忘れてまたいちゃつきだすに決まっているのだから気を揉むだけ無駄だ。
「ま、鬱陶しいのはすぐにいなくなるだろ」
 ロウは半信半疑な顔のガナルににやりとしてみせた。
『口移しで飲ませてくれたら、すぐに元気になれるような気がする』
 そんな浮かれたことを言う男も、言われて嫌がるでもなくただはにかむ女も、誰が割り込んで奪い取るなどという真似ができるものか。
 早晩みんなが思い知るだろう。待っていればいいだけ、なのだ。
--END.
仲間たちはED後はもう、アルシオのいちゃつきにだいぶ慣れているに一票。
「またか」くらいの反応でおそらくほっとく。あくまでほっとく。間に入りたくはない。
よっぽど濃ゆくいちゃつき出したら止めに入りそうだけど、いや止めに入るのはロウとキサラかな。ツッコミ。リンウェルは照れて目をそらして止めるどころじゃなくなりそうだし、テュオハリムは普通に観察しそう。フルルも観察してそう…首をくいくい傾げながら。
言うまでもなくネタ元(?)は本編中の熱中症スキットですん。
あのときはまだシオンに荊があったから、そばについていることしかできなかったけど(いちゃついてるだけでだいぶ回復したのではと睨んでいるけど)、触れられるなら絶対膝枕してるでしょこの人ら…! と思っていたんですよいたんですよ。熱中症は寝っ転がってるのが一番楽なのよね…あと寝不足が覿面に来る。
あのとき居たたまれなくなっていたロウ氏に今回も出張っていただきました。ただしもうだいぶ慣れているので動じなくなってしまったが少年。
目の逸らし方とか席の外し方とかの対処方法も学んでいくものなのだ…

レナへの恐怖はそう簡単に消えるものではないと思うんですが、まあそれはそれとして本文中にも書いてたように痛くて苦しくてたまらなかったのが急に楽になって、しかも目を開けた瞬間にシオンが(患者の意識が戻った安堵で)微笑んでいたら、ころっといっちゃう人はわりと多いんじゃないかなって気はするんですよね…人間って現金だからね。
何も恋愛だけに限った話じゃないので、アルシオ二人ともが男性にも女性にも人気はありそうだと思っている。半面嫉妬の対象にもなりやすそうだけどそこのところは目立つ子の宿命なのでどうしようもないね。
ネアズやティルザはこう、すぱっと切るべきとこは切るってのができそうなので、紅の鴉の主要な若人メンバーで一番絡まれまとわりつかれるのはガナルじゃないかなって勝手に予想してます。なのでこうなった。立ち位置がちょっとロウと似通っているというか…
ロウは蛇の目時代のあれこれがあるので読唇術も余裕。だよね? たぶんね。


以下関係ない話。
慈愛の女神称号ですが経緯はいいとして“女神”の単語に首を傾げた私氏がいる…女神って概念あるんだ…ダナの宗教どうなってるん? アニミズムっぽいとは何度も言ってるけどアレか? 何かしらを神に見立てて祀る文化自体は廃れてないってこと? でも称号以外で神って単語出てきたっけ覚えてない。このあたりふわっとしてるよなアライズくん。
あともひとつ。アルフェンはシオンにそんな仮面かぶっててよくつま弾きにされなかったな的なこと言われて「みんなそれどころじゃなかったし…」て答えてましたが。本編中の台詞でも否定的な言葉向けてくる奴隷仲間はべつにいませんでしたが。ぶっちゃけ仮面を異質に感じて彼を遠巻きにしてたダナ人も皆無ではなかっただろうなと思う。
最初から親切だったのはドクを始めとしたごく少数だったんじゃないかなあ。徐々に人柄が知れてくるにつれて警戒心を解いた人のほうが大半ではなかろかと。人間関係構築の経緯としてはそのほうが自然かな。それに周囲の近しい人が親切ならアルフェンもそれ以上のことは気にしないよなとか。仮面のせいで痛覚だけじゃなくていろんな感覚が鈍ってただろうし、そもそも近づいてこない人間のことは認識しないし。
炎の剣になってから手のひら返ししたのも実はそこそこ人数いると思っている…もしかしたら「知らない奴が前からの知り合いみたいに親しげに話しかけてくる」の中には一部モスガルの人も含まれていたかもしれん。
アルフェンにとっての第二の故郷なので単純かつあたたかいものだけで満たされてる、ってことでいいよなと思いつつこんなことも考えてしまっていた。すまないモスガル。
(2022.02.06)