石造りの壁が、ひそやかな笑い声を幾重にも反響させている。
決して不快なわけではない。むしろ心地いい。ひとつひとつの音が漣のように連なって、がらんとした空間をやさしく揺らしている。
かつてはもっとたくさんの人間がいて、もっと賑やかだった。隠れ潜むために選んだ場所なのだろうに、それでいいのかとは問わない。ここは緑濃い密林の奥深くだ。たとえどれだけ大声で叫んだところで、人々の暮らす街まで届くことなどなかっただろう。
金砂の猫のアジトは今や、その役割をほとんど成していなかった。もともとが、共存を謳う陰で進む企みを暴くために身を隠さざるを得なかっただけの彼らだ。はぐれズーグルの闊歩する森を抜けてまで頻繁に訪れ、管理する必要などないと言えばない。
ないのだが、組織の面々はわりと頻繁に訪れているらしい。
つらつら考えていたアルフェンは、そこで一度思考の海から意識を引き上げた。首の後ろでずり落ちかけたやわらかくあたたかな物体を手のひらで受け止め、上に押し上げるようにしてやる。折よく差し伸べられた援けの手に気をよくしたか、みいと甘えるような鳴き声が聞こえると同時にふかふかの毛並みが頭のてっぺんまで到達した。
我も我もとまとわりついてくる猫たちに敢えて視線は向けず、感覚だけで数を推し量る。三匹。さばききれないことはない。許容範囲ではある。
彼の頭はひとつしかないから、てっぺんは当然一か所だけだ。そしてそこにはもうすでに一匹が陣取っている。だというのに二匹が両方の肩まで来て一番上を狙っている風だった。膝あたりでおとなしくしていてくれればいいものを、何故上に行きたがるのか。爪はきつくたてられていないから痛くはないけれども、両頬がふかふかしている。むやみにふかふかである。まあ、獣と子どもは高いところに登りたがるものだから仕方がないのだろう。自分を棚に上げて内心だけでうなずく。
傍らで寝そべる少年などはさらにやりにくそうな有様だった。最初はアルフェンと同じように石床にあぐらをかいていたのだが、次から次へと群がってくる猫を前に屈服した――要はあきらめたのだ。腕だの胸だの腹だの脚だの、あらゆる場所に乗っかられてふみふみされて、ふんふんと匂いを嗅がれている。顔は見えない。毛皮で。息ができているのか心配になって引っぺがしてみたが、問題なさそうなのでそっと戻した。
「ちょ、戻すなって」
「ん? だって、大丈夫だろ?」
動く唇がくすぐったかったのかもしれない。今度は何をするでもなくするりと顔から離れていってくれたおかげで、諦観の滲む表情がよく見えた。
「大人気だな、ロウ」
「人気っつーか……なんなんだこれ。動物は好きだしいいけどよ、なんかこう、こいつら俺の扱いぞんざいじゃね?」
「ぞんざいかどうかは……相手を見てやり方を変えてるってのは確かなんだろうが」
やり取りしながらふたりが視線を向けた先では、やはり仲間たちが猫と戯れていた。
長身のテュオハリムは、いつもはまっすぐに伸ばしている背を丸めて一心にねこじゃらしを振っている。棍を己が身の一部のごとく操る彼らしく、飾り紐も先端の謎のげじげじも華麗な動きを見せていた。これは釣られるだろう。二匹を同時に相手にしながら、軽やかにかわし、たまに捕まえさせてやって、すぐ逃げ出して。一言も発していないが、ものすごく楽しそうな雰囲気だけは伝わってくる。彼に登ろうとしている猫はいない。
リンウェルは笑顔で一匹の白猫をかまいながら、しかしフルルのことも気になって仕方がないようだった。指で首をかくとごろごろ喉を鳴らす。鳴らしながらどこか油断ならない目つきで彼女の弟分のことをちらちら見ているので、かまうことで多少牽制の意味も含んでいるのかもしれなかった。フクロウは定位置に戻れず……どころかときおり休む程度でほとんど飛んでいる。ここに来ると決めた時点で予想しえた未来ではあるが、少々気の毒にもなる。
「ひゃっ! あはは、ちょっとくすぐったいよ」
ぺろりと指先を舐められ、リンウェルがはしゃいだ声をあげた。フルルの目尻がきゅっと吊り上がる。
次の瞬間、白いかたまりは弾丸のごとくロウの腹のあたりに飛び込んできた。
「ぐえっ!?」
「うお!?」
まったく身構えていなかったからだろう、みぞおちにもろに一撃喰らって少年が潰されたかのような悲鳴をあげる。アルフェンも思わずびっくりして肩を跳ねさせた。その拍子に乗っかっていた猫がぽろぽろと落ちた。
「フルッ! フルゥ!」
リンウェルに主張しに行くか、彼女にかまわれている猫を威嚇しに行くか。そのどちらかだと思っていたのに、選んだのは八つ当たりだった。何匹もの猫にまとわりつかれていたロウに突撃してくるとはなかなかの度胸をしている。猫たちにできたのは、ぶわりと尻尾をふくらませて飛び去るフクロウを見送ることだけだった。
「なんで俺ぇ……」
涙目になっているロウを慰めるように頬を舐めるものもいるが、そこがまたフルルの気に障る要因を作り出しているらしい。誰にも手の届かない高い位置で飛び回りながら「フルッ! フリャアアアア!」と騒いでいる。
「……。好かれてはいるんじゃないか? うん、好かれてはいる」
「わかりにくい! もっと優しい表現にしてほしいです!」
その主張はもっともだが、なかなかに難しい要求にも思えて仕方がなかった。苦笑しながら今度は膝に乗ってきた一匹の背を軽く撫でる。登りたがるのはもう放置だ。どうせ彼にできるのは、こうして時間を潰すくらいのことでしかないのだし。
改めて見まわすと、思い思いに猫をかまっている金砂の猫の団員たちの姿も目に入った。人数は多くないが、交代で通っているのだという。組織名に名が入っているだけのことはあって、構成員たちには猫好きが多い。もうあまり用のない施設にこうして定期的に人が訪れるのは、思い入れもあるがなによりここを気に入って離れようとしない一部の猫たちのためでもあった。
数日であれば籠れるだけの設備も備えている。仲間の一人であるキサラと、その幼馴染ラギルは他数名とともに今は厨房だ。ちなみにアルフェンの最愛は、食事の支度に混じるのか猫をかまうのか迷いに迷った末、いいから任せておけとこちらに放り出されてきた。今は少し離れた柱のそばで、滅多に触れあえない小動物の愛らしさに蕩けるような笑顔を浮かべている。
アルフェンは動物はもちろん嫌いではないが、特別好きでもない。そんな彼でさえちいさないきものがみゃあみゃあと鳴いて寄ってくれば頬が緩むし、かまってやりたいという気持ちになる。今まで望んでもかなえられなかった彼女にしてみれば、そういう思いはひとしおだろう。
あのきれいな青が、ひたむきに自分だけに向けられる恍惚は知っている。
けれど彼女は今、日を過ごすにつれ、好きなものや楽しいことをどんどん増やしていっている最中なのだから。アルフェンの存在を頭の隅に追いやる瞬間があったっていい。
唇を綻ばせ、目を細めて語りかけるその横顔。やさしげな声の切れ端程度は届くけれど、何を言っているのかまではわからない。仔猫はさらさらと垂れ下がる毛先に気を取られじゃれつきかけた。そこですかさず、たおやかな指が繊細な力加減で短い毛の中に埋められる。ちいさな獣は液体のようにぐんにゃりとして、全身の力を抜く。彼女がまた微笑む――完全無欠なる至福の光景だ。
見惚れていたと気づいたのは、顔を毛皮が滑っていったからだった。
いつのまにかまた登っていた頭のてっぺんから、膝の上に猫が落っこちたのだ。咄嗟に爪をたてられることもなく、おかげで顔に縦筋が残るなどという悲劇は避けられた。避けられたが、人間への気遣いが猫には仇となったようだ。もともと膝にいた別の一匹が、いきなり降ってきた相手にみぎゃあと濁った声で抗議している。
「こ、こら喧嘩は……」
「みんな! 食事だぞ!」
その声は、石壁の反響などものともせずまっすぐに全員に届いた。
見れば壁の向こうから、手に手に浅い皿を持ったキサラたちがやってくる。口々に猫の鳴き真似を始めるところも見るに、持ってきたのは猫たちの餌なのだろう。
一触即発はどこへやら。膝の上でにらみ合っていたもの、ねこじゃらしを追いかけていたもの、フルルに狙いを定めていたもの。人にまとわりついてもっと撫でろと鳴いてみせていたものも、さらには我関せずとばかりに人から距離を取り、何もかもに知らんぷりを決め込んでいたものまで。一様にざわりと纏う空気を変化させ、一目散に走っていく。変わり身の早さに、宙をひらひら舞っていた飾り紐とげじげじが寂しげに地に落ちた。
「なるほど、食欲には勝てまい」
もっともらしいことを言ってテュオハリムが首を回す。ぱきぺきと音が聞こえた気がしたが、よほど集中して同じ姿勢で居続けたのか。
「はー、やっと解放されたぜ」
ロウがやれやれといった体で立ち上がって、服についた獣毛を払いはじめた。あまり取れていそうにないので、あとでキサラに対処法を聞いておいたほうがよさそうだ。
「フルル、行こ」
「フルゥ」
リンウェルが差し伸べた手にはフルルは止まらなかった。うしろに回ってフードの中に入り込んだのは、たぶん手についた猫の匂いを避けてのことなのだろう。彼女も心得たもので、特段気にした様子はなく歩き始める。
「このまま猫たちの食事を見てるわ。みんなの分もできてるからあっちでどうぞ」
「ラギルは食べないの?」
「私たちは一足先にいただいたのよ。人が見てないと、他の子の分を取っちゃうのもいるからね」
確かに厨房から出てきたうち数人は、夢中で餌をほおばる猫たちのそばに腰を落ち着けている。ときどき手を伸ばしているのは、隣の皿に突っ込んだ首根っこを引っこ抜くためか。
そうなの、とうなずいて皆の背に続こうとした薄紅色がふと足を止めた。何事かと思いながらも近づいていく。振り返り、さらに距離を詰めてくるから瞬きする。
「シオン?」
「じっとして」
右側の、首筋から鎖骨にかけてじんわりとあたたかなものが滲みた。
もう馴染み深い、治癒術をかけられているとき特有の感覚だ。長い睫毛の陰から青い光が零れるのを眺める。傷など負った覚えはとんとないのに、何故わざわざ。
しかし試しにその場所を擦ってみれば、手のひらに赤いものがついていた。
「いつの間に……」
何しろ痛くなかったのだ。むしろ気を遣われてるなあ、動物もやさしいんだなあとやたらにほんわかした気分でいた。
「遊びに夢中になりすぎて、うっかり爪を立ててしまったんでしょうね。自分では見えないし、気がつかなくても不思議じゃないわ」
「ああ、ありがとう」
さすがに経緯が経緯だからか、シオンの口調に咎める色はなかった。声の調子も穏やかだ。内容は普通なのに声量を抑えるものだから、自然内緒話のように顔を寄せ合うことになる。
「けどさ、腹減ってるだろ。べつに後でもよかったのに」
そこで絶妙な間を挟んでぐうう、となかなかに豪快な音がした。これに関して慣れきったふたりに、羞恥は薄い。彼女は思案気に進行方向を見やった。
「そうね、後でもう一度ちゃんと確認させてちょうだい。リンウェルとテュオハリムは必要ないかしら……でもロウには声をかけておかなきゃ」
獣の爪は侮れない。普段接し慣れていないものならなおのこと、放置すれば感染症を招く恐れすらある。ただ今回は特に緊急性はない。細かく検分するにしても街に戻ってから、宿の部屋など落ち着いた状況で行うほうがいいに決まっている。
実際、ロウのことは気に留めながらも今引き止めたりはしなかった。
「…………なに」
「あ、いや」
しきりに首を傾げる彼に対し、若干鋭さを増した視線が投げられる。
あとでもう一度って、じゃあなんでさっきは、とか。たまたま目について気になったからだろうけど、やけに急いでたなあ、とか。他意はないが、思ったことを脈絡もなく垂れ流しにしても伝わらない気がする。
言葉に迷うアルフェンを、シオンはわずかに眉を顰めて見上げてきた。――前触れなく首筋を滑った指に、そのやわらかさにひとつ心臓が跳ねた。
「あのね。……あなたに爪痕を残していいのは私だけなの」
「へっ」
意味を問い返す前に、距離は一歩も二歩も離れていた。
「ちょ、待っ、シオン?」
翻る薄紅色はもう手の届く距離にない。
「早く来なさい。ぼやぼやして、食いっぱぐれても知らないわよ」
「ええ、さすがにそりゃないだろ……ってああもう!」
華奢な背中は角を曲がって、すぐに消えてしまった。ちらりと振り返った薄青の瞳の中には、一瞬過ぎった熱のようなものはもう見えなかった。
なんということはないやり取りだ、たぶん。
けれど一気に上がった体温を持て余して、逃がすように深く息をつく。繰り返すうちには心音も徐々に落ち着いていって、どっと吹きだしたような気がした汗は、やはり気のせいだったのだときちんと自覚する。
「時々ああいうこと言うからなあ……」
ぼやき声は我ながら弱りきっていた。真っ赤とはいかないまでも、頬はうっすら染まっているだろう。ある程度冷ましてから皆の前に姿を現すべきなのか、いやそもそもここにも普通に人がいた。
いろいろな事実に気づいてしまったアルフェンは、かぶりを振ってそそくさとその場を後にしたのだった。
byシオンちゃん
…的な何か。
一応にゃんにゃんの日2023のつもりだよ!
EDからそれほど時間は経ってないんだと思います。なのでいちゃつき具合が控えめです(直後設定であんなん書いた人が何か言っている)
アルシオちゃんは男女全開の瞬間と慈愛全開の瞬間が矛盾なく混じり合う感じでその加減が好きなんだけど、それはあれかやっぱり相思相愛を確信しているが故の余裕ってやつか? わからん。
ちなみにシオンに最後のほうの台詞を言って欲しかっただけなんですが、なんか長くなった…
御猫様と暮らしたことがないので猫の解像度は低いです。すまない。ただ他の人から聞く話とか世界ネコ歩きとかあのへんからなんとなく想像した。あとまああれだ、種の傾向はあれどいきものなのでなんだかんだ個体差で片づければOKでは? みたいな甘え。
一から文章ひねり出したのが何しろ久々だったもんでなんかこう…なんかこう、頭を抱えたくなる瞬間があったんですけど、ぼちぼちペースを取り戻していきたいです。しんどいけど書き出すと楽しいんよな〜〜〜
それにしてもロウとフルルの絡みはめちゃくちゃ進む。