夜半
 ふと目が覚めた。夜はまだ明けてはいなかった。

 長いこと闇にさらされて慣れた目は、光がなくともある程度の景色を映しだすことができる。まず視界に入ったのは、最近とみに線の鋭さを増してきた印象の顎だった。
 ゆっくり瞬きする。
 顎。確かに、人の顎だ。念のため瞬きを繰り返してみても、見えるものは特に変わらない。次いで襟元に忍び込んできたわずかな夜気に、シオンは自分の眠りを妨げたものの正体を知った。身震いして、一度は身体を縮こませる。
 隣に横たわる男が寝返りでも打ったのだろう。寝入り端に額を押しつけていた背中は今は反対側で、まあ彼は、後ろからくっつかれるよりは自身で相手を腕いっぱいに抱えて眠るほうが好きなようだから。今夜は彼女の希望を容れて向こうを向いていたはずが、無意識に動いてしまったと見える。その拍子に毛布が乱れたのだ。
 シオンは保温のためすくめるような形になっていた肩を広げ、胸元で折り曲げていた腕をそろそろと動かして位置をずらした。ひんやりした空気が肌を撫でるが、覚醒した今は耐えられないほどではない。ついでに心持ち背筋も伸ばしてみれば、意識がないせいで常よりも幼げな男――アルフェンの相貌が、いっそう近くに寄ってきた。
 出会ってから、まだ何年も経ったわけではない。
 なのにシオンの瞳はその変化を克明に記憶している。旅の空の下、最初はほんの少しだけまろさを残していた頬が日に日に硬さを増すのに、わけもなくどぎまぎしていたりもした。当然本人は自覚などあろうはずはないし、説明してみたところで首を傾げてみせるのだろうけれど。
 こうして並んで眠り、目覚めるようになった夜と朝は、とうに両手の指では足りない。初めの頃はいちいち一瞬心臓が止まるくらいに驚いて全身を熱くして、お気楽に眠る彼を尻目に二度寝に入るのに苦労したものだった。すっかり慣れた今は、こうやって夜中に目を覚ましたら寝顔を観察する程度の余裕もあるが。
 シオンは腕から先、さらに指を上げた。爪をひそやかな寝息が掠め、その感覚を残したまま跳ねた毛先を軽くいじる。光を弾いて銀色に輝く髪は、今は闇の中ほの明るく浮かびあがる程度だった。ぴんぴん好きに遊んでいるから一見硬そうだけれど、触ると意外とやわらかいのだ。逆らわず流れる心地よい感触に知らず唇を綻ばせる。起こしてしまうのは忍びない。だから首筋には触れないように、襟足から耳にかけてももちろん肌には触れないように。慎重に、髪だけ。薄皮一枚挟んだ距離でもじんわり伝わる体温はある。いとしいものの輪郭をたどる指先に、確かにそれは感じ取れる。
 がっしりと手首を掴まれた。
「…………。シオン……?」
 悲鳴はあげなかった。まあ、そもそもそうする理由はなかった。
 刹那脈を締めつけた指はすぐにほどかれて、力を込めたことを詫びるかのようにゆるゆるとさすられる。
 うっかり睡眠を妨げてしまったかと息を詰めて見つめれば、その瞳はまだ紗がかかって揺れていた。
 舌をうまく動かせていないことがよくわかる声音で呻く。
「……もう、……朝……?」
「まだ夜中よ」
 シオンはごくちいさく囁いた。朝までもう少しあるわ、と続ければ緩慢な動作で首を上下させ――これはたぶんうなずいたつもりなのだ――ぎゅうと懐に抱き込まれる。
「そうか……じゃあねる……」
「……」
 見えない頭頂部にやわらかい感覚が落ちてきて、唇を押し当てられたのだと自覚した。かっと体温を上げたシオンとは裏腹に、また規則正しい呼吸が聞こえてくる。図らずもこちらも唇を押しつける恰好になってしまった首筋から肩にかけて、これまた正しく行儀よく流れる血潮の動き。鼓動も容易に聞こえるほどに隙間なく密着したこの状態で、なるほど、確かにアルフェンは寝ているのだとシオンは理解した。
 というかこの人、寝ていて、寝ぼけて、また寝た。
 いやだから、この体勢だと肩のあたりがどうにも固まってしまうのだからして。
 身じろぎすれば強固に巻きついていた腕は呆気ないほどに緩くなった。ただなぜか、抜け出すには至らない。決して窮屈ではないのに不思議だ。彼はいつも、どう計算しているのだろうと思わせるほどの繊細な力加減で彼女を囲い込む。限られた空間の中で動くのももう慣れたもので、腕を背中に回せば途端におさまりが良くなった。まるで合格だとでも言いたげな満足気な吐息が降る。寝ているはずなのに。
 もう、と唇を尖らせて悪態をついてみても、返るのは穏やかな寝息だけだった。動物どころか草木も眠りにつくしんとした夜の中、ただここは決して無音ではない。それがやけに心地よく感じられるのだから、慣れれば慣れるものだ。
 あのころとは、比べるべくもない。
 唐突にそんな言葉が胸に浮かんで、目を伏せる。
 それほど前のことではないのに、確実に記憶は遠ざかりつつある。消え去ることこそないものの、少なくともそれらはもう彼女を微塵も支配していない。
 ずっとつきあってきた呪いのような得体の知れない現象だった。物心ついたときにはもう、あの荊はシオンのすべてを苛んでいた。
 嗜好品は望んだものが用意されたし、家格に見合うと思しき様々な教育も受けられた。今思えば最低限ひととして扱ってもらえていたのだろうとは見えるが、幼子が同年代の子どもらと触れ合えず、それどころか家族とさえ引き離されるのはやはり異常な状態だろう。
 産まれたばかりの頃は親に抱かれて微睡んだこともあったのかもしれない。だけど覚えていない。同じ部屋で誰かが眠ることなど、増して同じ寝台に入るなど絶対にあり得なかった。情緒安定のためと称されて子守歌を聞かされた時期もあったが、冷たい機械から流れ出る肉声でないそれらは、寂しさをいたずらに助長するだけだった。
 真白な壁、天井。昼は黄色、夜は青。照明に照らされたシーツだけは上等の絹地ですべすべしていた。言われるがままに毎日毎日、決められた無機質な生活を送る。完璧に温度管理され暑いも寒いもない音もない、あのころのシオンは独りの空間こそを、一等安らぐ楽園だと定めていた。
 そう定めるしかなかった。だって独りが楽だった。わずらわしい視線も実験もごめんだ。関われば相手を傷つけ、自分も傷つけられる。ただそれだけで、成果なんかなにもない。わかりきっているのに繰り返す。終わりなど見えはしないのに、賢いはずの研究者たちは理解せず、どこまでも、いつまでも。
 厚い手のひらが、するりと背中を滑った。
 その熱さにはっとして視線を上げる。我知らず止めていた息を細く長く吐く。肺の中の空気を出しきると今度は自然慣れ親しんだ我が家の匂いがして、シオンは己を抱きしめる男の気配を窺った。
 起きた様子は、ない。何か夢を見ているふうでもない。反射のようなものなのだろうと雑に結論づけて瞼を閉じる。
 アルフェンはたぶん、シオンよりも普段から身体が熱い。単純な筋肉量の違いじゃないかと本人は軽く言っていたけれど――許可を得て触れた友人たちの腕も手のひらも、多少の差異こそあれどその温度は彼に及ばなかった。
 頬を擦るざらざらした感触は、洗いざらしの麻の寝巻だ。裕福でないひとたちが普段から着用するようなもので、当然絹のシーツとは違う。織目は荒いし糸の太さだって均一じゃない。肌ざわりだけならば、あのころとは比べるべくもない。
 ただそれらを透かして感じる人の肌は、あたたかくてやわらかくて。それこそ子どもでもあるまいに、わけもなく泣きたくなるような安心感をもたらしてくれるものだった。それらに包まれて全身委ねて眠るのは、夢想していたよりもずっと悪くなかった。
 いやむしろ、得難いほどのしあわせだった。単純で、だからこそなによりも甘いあまい、まさしく夢のようなもの。
 音がある、熱がある。自分以外のものが放つそれらは決して邪魔などではなく、ひたすらに慕わしい。
 シオンはもう一度瞼をあげてみようとして、あきらめた。睫毛の一本一本ですら重い。
 なにを、かんがえて、いたのだっけ。
 だんだんと考えるのが億劫になってきて――思考と呼べるもののかたちは曖昧に、ぼんやりと、薄れて、霧散していって。

 本当に、慣れれば慣れるものだ。
 最後に脳裏を過ぎったのは、たぶん、そんな感慨だった。
--END.
まずは掴みに一本〜。
アルシオ最高です。アルシオに限った話ではないが。
いくらでも幸せな妄想をするがいいと言わんばかりのEDだったので好きに暴走します。YATTA!

久々だったのでたったこれだけ書くのにけっこう苦労しましたが、おかげさまでなんか色々湧いてきました。とにかく書くと自分でも気づかず埋もれていた諸々がずるずる引きずり出されて認知できる感覚がある。
シオン、過去の自分のこと実験動物扱いだったって言ってるけども。
それでも最低限心を砕いてくれた人はいたんじゃないかなあという気はします。
だってまっとうに優しいし。倫理観もまともだし。本人のもともとの資質はもちろんあるでしょうが、自我や意思を育むには他人のそれにも相応に触れていなければ無理でしょう。
それにただ実験されていただけならそもそも読み書きそろばんできないでしょって。服にこだわるような美的感覚だって備わらないでしょって。
アルフェンが酷い仕打ちを受けながらもネウィリのおかげで腐らずレナすべてを憎まずにいられたのと同じような何かはあったんじゃないかと思っています。DLCプリーズ…

ちなみにアルシオちゃんの進展はいろんな意味で爆速っぽいと勝手に思っている…本編中盤にしてすでに心情的にはできあがってて「待て」状態が長かったので余計…
(2021.10.01)