足音を忍ばせて分け入った部屋は、極限まで灯りを絞ってあった。
長く影が伸びる。それを見て取ったか気配で察したか、ノックもなしに入ったことに特に思うところはなかったらしい。室内にいた娘はゆっくり振り返り、彼を見て結い上げた髪をわずかに揺らした。
「ああ、ロクロウですか。ベルベットの様子を見に来たんですか?」
「応。どうだ、まだ目を覚ましそうにないか?」
「そうですね……まだ。無理もありません、あれだけのことがあったんですから」
伏し目がちに向けた視線の先には、白いシーツに包まれたベルベットと、その左手を握りしめてベッドに突っ伏する少年の後ろ姿がある。二人とも深く寝入っているようだ。
「最初のうちは魘されていたんですけど。少し、安定したみたいです。ライフィセットが手を繋いでいるからでしょうか」
「そうだろうな、たぶん」
そばにしゃがみこんでみたが、ライフィセットの表情に最後に見た必死さは今はない。無邪気な寝顔があるだけだ。ベルベットが意識を失ってから、もう丸一日が経つ。その間、この少年は片時も彼女の傍らを離れようとはしなかった。どうしても疲れは出てくるだろう。
淡い想いを抱えて、一生懸命背中を追いかけて、いつか対等に隣に並べるように。もう充分ではないかと思わないこともないけれど、まだ足りないと焦るライフィセットの気持ちは同じ男としても想像に難くない。だから海賊たちの休めだの食事しろだのとの声を頑なに拒む彼に対して、ロクロウもアイゼンも何も言わずに放っておいた。
心配はない。ベルベットは必ず目覚める。そしてまた前に走り始めるだろう。魔女との賭けに乗るまでもない、不思議な確信は彼の心の奥底に深く根を張って動かない。
「ライフィセットは……まあ、好きにさせてやるのが一番だよな。とりあえず、エレノア。おまえは飯に行ってこいよ」
「……でも……」
エレノアはいかにも心残りだといった体で、眠るベルベットとロクロウを交互に見た。
ベルベットの額に置いてある手ぬぐいは彼女の処置だろうか。具合が悪い人間に対して為される一般的なそれが、業魔に果たしてどれほどの効果があるのかはわからない。ただ何もせずにはいられなかったのだろう。
血も涙もない悪魔めと、眉を吊り上げて罵っていた姿が遠い過去のようだ。ベルベットにも故郷があり、愛する家族や友人があり、幸せな日々があった。その欠片を取り戻して笑うあたたかさに、それらを失った後悔と慟哭に、すっかり同調し絆されてしまったらしい。感情を失ったロクロウでさえ思うところはあったのだから、人間と聖隷はなおさらだ。
「いいから行って来いよ、二人は俺が見ててやるから。だいたいまだタイタニアに着いてないんだぞ、途中で襲撃されたときに戦力がへろへろだったらどうする。俺たちはまだしも、人間は食わなきゃほんとに動けんだろう」
「……そうですね。ベルベットが起きたときに皮肉を言われたくはありませんし」
「ああそうだ、わかりにくーく心配されるぞ。そういうの気持ち悪いんだろう」
「はい、気持ち悪いです」
言葉とは裏腹に笑顔になって、エレノアはうなずいた。立ち上がって深々と頭を下げる。
「それでは、二人をお願いします」
「応、まかされた。窓から化け物が飛び込んできても撃退してやるよ」
「そんなことはそうそうないと思いますけど!」
声を張り上げかけ、慌てて肩をすくめる。もう、とため息をついてから、赤毛の娘は軽い足取りで扉の向こうに消えた。
パタン、という音を境に、船室には静かな波の音が満ちる。手をかけた椅子がかすかに鳴いた。
話し相手がいないとなれば、しゃべるのが嫌いでないロクロウとて黙るしかない。口を開く代わりに視線を巡らせる。見下ろした娘の唇は明かりが乏しいことを差し引いても、血の気を失い、少しだけ、ほんの少しだけ苦しげに開いていた。
「……もしかしてわりと効いてるのか? これ」
独りごちて額の手ぬぐいを持ち上げる。熱いとまではいかないが、ぬるくはなっていた。桶の水に突っ込んで絞る。こちらはまだ冷たい。
業魔も熱を出すのだろうか。どれくらいだろうか。額に手のひらを当ててみる。体温と称するには、少し熱い気もする。どちらにせよ、眉を寄せていたからにはうだる熱に不快な思いをしていたことは間違いない。
部屋の灯りはひとつだけ。扉近くに据えつけられた燭台の炎がゆらゆら揺れる。炎の紅と海を渡る月明かりの蒼。両側から相反する色の光に照らされて、黒髪はいつにもましてつやつやして見える。なんとなく興が乗って、ロクロウは前髪をさらさらと指で梳いてみた。
そういえば。触れることに躊躇を感じずにすむのは同じく業に染まった彼女だけだ。わかっていたことを、今更反芻する。
あまり気にされてはいないだろうが、非常時はともかく、彼は普段は仲間たちに無暗に触れないよう心掛けている。聖隷であるライフィセットやアイゼンは穢れに特に弱く、言わずもがな。人間だって、自分で生み出すものはまだしも業魔の業に長く触れて無事でいられるものはそうないだろう。
べつに仲間たちが変質するなら、それはそれで受け入れるのだと思う。どう変わろうと、その命が命である限り根底に流れるものは変わらないとロクロウ自身が信じているからだ。けれど穢れることで失われるものも必ずある。
ライフィセットのひたむきさ、アイゼンの意志の強さ。エレノアの清廉さ、マギルゥ……は、正直訳が分からないが。仲間たちの気質は好ましい。失われるものはないほうがいい。仲間と呼べるほど気を許しあってはいないのかもしれないけれど。背中を命を預けられると素直に思えるのだから、それでいいのだ。
喰魔に堕ちたベルベットが失ったものは何だったろう。慣れ親しんだ人々に囲まれて戻ってきたあれやこれは、失ったとはいえない。忘れていただけ。口では気にしないと言いながら何もかもに執着しているように見える矛盾。確かなのは、彼女はどこまでも彼女だということだけ。
なんとなく指先を動かし続ける。黒髪もわずかに汗ばんだ額も、触り心地はやけに良かった。自身のぴんぴん跳ねる針金のような黒髪とは大違いだ。しなやかでやわらかく、動きに合わせて自在に形を変える。かと思えば意外に毅くて思い通りにならないこともある。
「…………ん」
ベルベットがもごもごと何事か唸って身じろぎした。遊びすぎたか、と手を引っ込めようとして、けれどやめた。
それなりに長いこと触っていた気はするのだが、未だロクロウの手のひらのほうが冷たいのだろう。擦り寄るような動きとともに、さらに何か。
「ん? なんだ?」
耳を近づけてみる。
「……ちゃ……」
「ん?」
「おね……ちゃ……」
「おいおい」
ロクロウは苦笑した。
青ざめた頬をすっと涙が一筋流れていく。甘えるようにごりごりと額を押し付けてくるのは、いや、甘えるようにではなく真実甘えているのだ。姉の夢を見ているらしい。
幸せだったころの夢。姉の代わりに役目を果たさねばと気負う必要もなく、ただただ“妹”として大好きな大人に、無条件で守ってくれる相手に甘えていられたころの夢。
「性別からして違うぞ、おい。せめてお父さんとかだな……」
手の大きさだとか指先の硬さだとか、かなりいろいろ違うだろうに。義兄さんだの言われるよりははるかにマシだが。彼のツッコミに反応してくれる人もいない。
「まあいいさ、もう少しだけだぞ」
目が覚めれば過酷な現実が待っている。無防備な泣き顔も仕種も今だけだ。ベルベットは比較的わかりやすい娘だが、弱音は吐かない。折れずに走り続ける――ただひたすらに、激情を燃やして。
かつてアイゼンに語った“その強さに興味がある”という言葉に嘘は全くない。でも言わなかったこともある。初めて会った時に惹かれたのは、彼女の中にあった炎そのものだった。抑えた声音で、それでいて瞳は燃え盛っていた。ロクロウと同じものに成り下がりながら、同じものを失ってはいなかった。
彼自身は業魔になったことに悔いはない。一番大切な望みだけが純粋化された今、かつてより遥かに、生きることが楽しくて仕方がないからだ。
人間だったころ。特に最後の数年、あの頃は世の何もかもが不条理に思えた。当主の地位や名誉、號嵐が欲しくてたまらなかった。なんのためにそれらを欲しているのかも考えが及ばないままただ求めて求めて、周りなんて見えなかった。人の長所も見えなかった。善意も見えなかった。手段を選ばず、いろいろなものを踏みにじって生きていた。
何に執着するのか、何は切り捨ててもかまわないのか。はっきり自覚しすぎたことで行動は極端になり、しょっちゅう狂っていると称されるけれども。狂っているのは元からだ、どうせランゲツなのだから。それより重要なのは、自身を捕らえるものが減ったおかげで見えるものが劇的に増えたことだった。好ましいものが増えたことだった。視界が開けた思いだった。
今感情を取り戻せばどうなるか。もっと楽しいのか、再び目を塞がれてしまうのか。わからないから、とりあえず、自分は今のままでいい。
失ったものへの郷愁はある。だからこそ眺め続けていたいなんて柄にもない気持ちが出てくるのかもしれない。眩しくて熱くて、ときどき火傷しそうになる。腹の底からぞくぞくと得も言われぬ快感がせり上がってくる。
走り続ける彼女の近くで、彼女が行き着く場所に行くまで、ときに隣でときに後ろでともに戦い続ける。それが恩返しであり、夜叉として以外に抱いた強い望みでもある。
「ん……」
少年の唸り声に、ロクロウはふと手を止めた。
気づけば手のひらの温度は、すっかり同じになっている。いかんいかんと呟いて、今度こそ手ぬぐいを置きなおしてやる。ついでに跡が残らないよう涙も拭ってやった。寝乱れたシーツを直して、幼子にする要領で腹のあたりをぽんぽんと軽くたたく。ライフィセットの肩からずり落ちかけている毛布も形よく直してやって。
ごそごそやっても、二人とも目を覚ます気配さえなかった。本当によく寝ている。寝られるならいい。まだ戦える。戦うために身体を心をやすませる、その意思がちゃんと働いている。
「……今はとにかくよく休め」
ロクロウはふたりから少し距離をとり、椅子に深く腰掛けた。揺れる影が三人分重なる。
「それで、起きたらまたがんばれよ」
自分でも驚くほどやさしげな声音になったそれは、聞くものもなく月明かりに吸い込まれて消えていった。
ロクベル。なつもり。つもり。あとフィーベルとベルエレも混じってるけどもー。
特典小説とか読めてないしサブイベもまだあんまり見られてないし設定的なものも敢えて検索してないので、この中に含まれるのは本編やスキットから得た情報を交えて妄想したあれこれになりますはい。
個人的にロクロウは恋愛感情死んでる派です。なのでロク→ベルは興味と執着。執着。執着(しつこい)
で、ベル→ロクは同類感。と、狂人だけどなんとなく裏切られる心配は全然してない的な信用。取り繕わなくてもええかっこしてみせなくても態度は変わらないんでしょ的な信用。
心置きなく触れるの業魔同士だけじゃんって思ったのは、最後のほうベルベットから黒いモヤ出始めた時で、その時はほんと「あっ…」てなったよね。みんな思うよね。ライフィセットが比較的大丈夫なのはまだ穢れに触れ始めてそう時間が経ってないってのとエレノアが器だからある程度影響を抑えられてるってのがあるんだろうけど。
以下ついったにとりとめもなく投げたロクロウ考察コピペ。これもだいぶ下地になってます。たぶんなー、人間のころのロクロウは業魔以上に始末に負えないあんちゃんだったんじゃないかなあ。
↓
ロクロウがなんで感情失ってるのに飄々として気のいいあんちゃんなのかって話だけど
人間だったころの話ちょろっと聞くに昔は自分の感情に捕らわれすぎて振り回されすぎて全然周囲の見えない余裕のない子だったんじゃないかなって
そんな自分を自覚してて、でもどうしようもなかったのかなって
業魔になって感情を失ったからこそ、心の振れ幅が少なくなって(全くなくなってはないと思うけど)気分が楽になれて、逆に人のことを冷静に観察して、人の気持ちをちゃんと想像して(記憶と人格はそのままだから)、フォロー役に回れるようになったのかなって
シグレに対して憎しみだけじゃなくて憧れも抱いていたことを素直に認められるようになったのも感情が薄くなっていろいろ客観的に考えられるようになったからかな
兄弟似てるよなって思うけど、たぶん人間だったころのロクロウのメンタルは兄に似ていなかったんじゃないかな
あ、もともと伸び伸びしてたら似てるだろうけど感情があったが故の強すぎる諸々に抑え込まれて表には出せなかったんじゃないかなって話だけど>メンタル
「これが俺だ」って自分で言って、それは心底真実なんだろうけど、EDで業魔のままで人間に戻らなかったのは本人がそれを望んでたのもあるのかもしれない
でも自分が失ったものに対する郷愁みたいなのも残ってて、だから激情を燃やして進み続けるベルベットや日に日に感情を開花させていくライフィセット、他仲間たちの鮮やかな姿に見とれて尊く眩しいものだとも感じてて、恩返し言いながらついてくるのってその辺もあるのかなって